第2話 パタリロとマクベス
魔夜峰央『パタリロ!』にこんなシーンがある。
齢10歳の国王パタリロが、部下のタマネギ部隊の隊員に、「池のピラニアに餌をやっておけ」と命じる。
池に落ちたタマネギは慌てるが、寄ってきたのは鯉の群れであることに気付く。
パタリロはうそぶく。
「自分の鯉にピラニアという名前をつけるのは僕の勝手だ」
早い話が、タマネギはパタリロにおちょくられたわけである。
だが、この「遊び」が理解できない人は、「ああ、あるものを別の名前で呼んだっていいんだ」と考えて、そこだけを真似する。
ところで、シェイクスピア劇と歌舞伎には通じるものがある。
たとえば『マクベス』。
主君を殺して王となった暴君マクベスは、生きた女の腹から生まれた者には殺されることがない。
だが、その前に立ちはだかる憂国の勇者マクダフは、死んだ母親の腹から引きずり出されて生まれてきた。
それを知ったマクベスは戦意を喪失するが、マクダフに「手を突いて亡君の王子に許しを乞え」と罵られて態度を変える。
「誰があの青二才に! 俺は最後まで戦う。かかってこい! 先に負けを認めた方が地獄に落ちるのだ」
この辺の豹変は歌舞伎での「ぶっ返り」にあたるが、これは素人がそう言われて初めて気付くものであって、思いついた人はおそらく意識もしていなかっただろう。
なぜなら、もとは「遊び」の集大成だった歌舞伎も、現在では300年余りを経て洗練されているからである。
選ばれた家系の人たちが伝承する「それでなくてはならない」所作は、幼い頃からの鍛錬によって無意識レベルにまで叩きこまれるまでになった。
そうした人たちが『マクベス』なり『ONE PIECE』なりに触れたとき、それらは「歌舞伎」のスタイルを取ったアイデアとなって立ち上がってくる。
『進撃の巨人』ですら、一見子供だましのような仕掛けで堂々とやってみせるだろう。
井上ひさし曰く、「芝居とは、一にも趣向、二にも趣向である」。
歌舞伎もまた、本来、そういうものであった。
桃太郎と金太郎と一寸法師が「かぐや姫」の世界で大活躍するような。
「時代や流行」に合わせて「歌舞伎」が変わっていくと言える役者たちは、幼い頃から感得してきた「趣向」の伝統を、意識することなく語っているのだろう。
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