5 一章終

 暑い日差しの中を一人歩く。

 厳密には二人歩く。

 さらに厳密には、一人+一体で歩く。

 化物の単位が何かは知らないが、少なくとも人ではないだろうし、かといって匹でもなかろう。というわけで、体に落ち着いた。


 ジリジリと肌を焼く日の光がアスファルトに反射して、俺を両面焼きハムエッグのようにしている。快晴。昼の二時。地獄。

 昨日の土曜、丸一日を使って様々な特訓と実験を重ねた結果、いろいろなことがわかってきた。

 まず、俺の腹の中に今いるトンチキ女は、タバコの煙やアルコール、果てや梅干しや生セロリなどの劇物(人間の食い物じゃねえ)に耐性があるようで、俺の身に危険が及んだり俺が命じたりしなければ出ることはなさそうだ。今はこうして人のいない瞬間を見計らってだが真夏の酷暑に身をさらすことができる。汗だくだくの俺に反して彼女は平然としたものだ。腹の中で心配する余裕すらあるようだ。確かに俺の懐は涼しいが、内臓まで涼しいとは思いもしなかった。


『涼しくいたしますか』


と腹の中で声がするが、怖いので遠慮しておく。小さじ一杯ほどは安心だが、まだ確実とは言えない。キョロキョロ辺りを見回しつつ、極力人目を避けて歩く俺は傍から見たら不審者だが、そんなことを恥じている余裕はそんなになかった。

 バイトを休んでしまってもいい……どころか、俺にはその権利があるのだが、やはり生活費は欲しい。それに、バケモノさんをどうこうするための情報を収集している四宮女史……彼女に直接会いたかった。電話ではなく、顔を合わせて進捗を知りたかった。バケモノさんのことを知るのは、恐らくは世界に二人。俺と、四宮女史。それだけだ。


 古めかしいを通り越して、風雨に晒された『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家の如きなバイト先、『四宮書房』にたどり着いた頃には、盛んに動かした首と働かせた神経がすっかりくたびれていた。ヘロヘロで店の戸を開くと、果たして中は程よく冷えていた。客はいない。本ばかりの空間で、レジの椅子に腰を下ろした四宮女史はタバコをふかしている。


「あらお早うツヅミちゃん。あっついわねぇ今日も」

「おはようございます」


 軽く頭を下げて、短くなったタバコを吸い殻でギチギチになった灰皿に押し付ける彼女の隣を抜ける。休憩所を兼ねた四畳半のスペースではテレビがつけっぱなしにされ、記録的な猛暑について報道されていた。

 エプロンをつけ、冷蔵庫に入れておいたジンジャーエールを飲む。キンと腹の底から冷やされる感覚を楽しんでいると、俺の感情が伝播したのだろう。体内でグルグル言うようなバケモノさんの感覚を覚えた。コーラを気に入ったあたり、甘い炭酸が好きなようだ。

 店内に戻る。相変わらず客はいなく、四宮女史は新しいタバコに火をつけている。彼女の肺はタールなどものともしないようだ。俺には真似出来そうもない。火のついたタバコを指で挟み、紫煙を吐いたのち振り返って呟いた。


「電話で言ってたけど、今はアンタの体の中にいるんだってね」


 俺の目を見ながらの言葉は電話越しとは違って重みが感じられる。


「情を移さない方がいいと言ったじゃないか。いっそのこと本当につがいになっちまうかい」

「留守番か憑依か、どちらが良い選択か散々悩んだ末のことですよ。他意はどこにもありません」

「今はなくてもそのうち出てくるかもしれんでしょう。どんな関係だろうと、肌を突き合わせて生きてりゃ情ってのは湧くもんよ」

「まさか」

「……こりゃ、早めに日記見つけた方がいいかね」


 その口ぶりからして、日記探しは難航しているようだった。


『日記、ですか』

「ん、おお」

「あ? なんか言ったかいツヅミちゃん」

「あ、いや。四宮さんに言ったわけじゃないです。出てきな」


 右腕の袖をまくり、伸ばして肩の高さまで上げる。ちょうど、民衆を沈めようとする王様のようなポーズになった。

 その腕、表面がかすかに泡立ったと思うと、毛穴から染み出てくるように黒いものが滲み、それは急速に形を成していく。白い肌を持った怪物に。

 前腕に上半身が生えたような奇妙なルックスの彼女は、黒い髪を揺らしながら優雅な仕草で俺の方を振り向いた。重さも痛みも感じず、奇妙な感覚だった。


「へえ、本当に体の中に入ってるよ。こんな漫画読んだことあるねぇ。エジプトで吸血鬼とでも戦うのかい?」

「その予定はないです。ただでさえ暑いのにもっと暑いところに行きたきゃない」

「あっそ。ふん、客がいなくてよかったねぇ。こんなところ見られたら大騒ぎだ」


 遠回しに俺に警告を促している。バレたら面倒な目に遭うことは想像に難くない。


「結構頑張ったんですよ。危険な目に遭う以外に外に出てくてるなって、その際にどれをどう危険とみなすかも一つ一つ教えていって。鳥の糞が脳天に堕ちてきたらスルー。三輪車が突進してきてもスルー。トラックが突進してきたら出てきてもいいけどバレない程度に。みたいな感じで。面倒なので、俺がイエスと言うまで何があっても出てこない。という形で落ち着きました」

「出来の悪いコンピュータープログラムみたいな子だね」

「プログラム、ね……」

『ご主人様、プログラムとは何ですか?』

「ん、いや。何でもない」


 自分の腹を撫でながら呟く。我ながらどうも意味不明な絵面だ。

 四宮女史がため息をついている。「気遣ってるんじゃないか、その子を」と呟いたのを最後に、ほうきを取り出して床の埃を無言で掃き始める。それに合わせて俺は仕事を始めた。少しづつ来る客たちは、誰も俺の異変に気付くことがなく、時間が過ぎていった。


「もうちょっと探してみる。もし、ないのなら万引きか……あるいは」


 四宮女史が顎を撫でながら考え込んでいる。店を去ろうと戸に手をかけた間際、壁に掛けられたアンティークの振り子時計は午後の七時を指していた。


「あるいは?」

「……私の息子が、勝手に持ち出したか。だね」

「……俺の大学の、民俗学の教授でしたっけ」

「そう。もしもその説が正しいなら、少々不味いね。あの子は興味を持った対象に対して暴走気味だ。おまけに傍目からは気づけない。一応、あの子の住んでるマンションに顔を出してみるわ。素直に『そうだよ母ちゃん』なんて言いやしなかろうがねぇ」

「……日記のこと、教えていなかったのですか?」

「そうさね。その子が入っていた本があそこにあることすら知らなんだし、私の母親も告げる前に逝っちまった。日記も、私が昔に家探しして勝手に掘り出したものだしね。『決して本を開くな』という言い伝えだけが先行して、多分私の母親の時点でだいぶ半信半疑だったんじゃないかねぇ。私の代で途絶えていたかもしれない。そう考えると」


 腰に手を当て、俺の目をまっすぐ見据える。優しい顔だった。


「選ばれたのがアンタでよかったよ。その辺の引っ越し業者だとか、私の息子だとか、そういうのに引っかからなくてさ。ねえ、もう開き直っちゃったらどうだい?」

「はは、失礼しますよ」

「ん、まあいいさね」


 戸を開け、夜の街に出ると星が見えた。

 腹の中がグルグル言う。


『ご主人様、早く帰りましょう。そろそろ時間の限界が訪れます』

「大丈夫だろ。まだ同化してから六時間程度だ」


 昨日、同化から十時間が経過した瞬間、強制的に体外に彼女が排出された。そこが限界のラインらしい。完全無欠に見えるが、無表情の奥では結構無理をしているのだろうか。


「何か食べたいものとかあるか。我が儘とか気にしなくていいからさ」

『……コーラが欲しいです』

「おう」


 甘い炭酸が好きなことはわかっていた。

 昨日の一日で、だいぶいろいろなことを知ったが、俺はその一日でだいぶ心が揺り動いていることに心のどこかで気づいていたのかもしれなかった。







 暗い部屋。

 降ろされたブラインドは日の光も月の光も遮断され、唯一の光源は机に設置されたスタンド蛍光灯だけだった。部屋の電気をつければ、壁に沿って並んだ、天井に着くほどの高さの本棚すべてにギッシリと本が詰まっていることがわかるだろう。背表紙は茶色だったり黒だったりで、遊びのないデザインのそれは学術書である。日本語の文献が多いが、中には英語のものもある。諸外国の民俗学を収めたものが大半で、中には日本についての研究をわざわざ英語にしてあるものまであった。

 そんな部屋の机に座り、広げた本に噛り付く男がいた。パーマネントをかけた黒髪は肩まで延び、細めの輪郭を隠しているので、まるで針のように尖って見える。分厚い眼鏡の奥にある瞳も同様に鋭く、知性と探求心を感じさせるものだった。民俗学の研究者であるのに白衣を羽織っており、一見するとマッドサイエンティストに見える。最も、彼の本質はそれに近いのだが。

 広げている本は、ホチキスや糊ではなく紐でとじられており、使われている紙も漉き返しの簡素な手すき和紙だった。書かれている字はクセの強い旧字だったが、短編小説を読むようにすらすらと指で追っていく。


「……やはり気になるな。単なる忌憚の類にしては、疫病や自然現象と相関するものがない。完全なフィクションか? まさか悪ふざけか? 俺の祖先の……。ううむ」


 パタンと本を閉じる。その表紙には同じくクセ字の毛筆で『四宮滝座衛門の日記』と記されている。


「まあいい、覚えておこう。世の中何があるかわからんからな」


 パチンと音がして、それに半歩遅れて照明が薄れて完全に消える。

 真っ暗な闇の中で、フフ。と笑う声がした。

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勘弁してくれバケモノさん! タカザ @rabaso

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