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 久々に。といっても二日ぶりなんだが、とにかく訪れた我が校はなんだか大きく見えた。

 俺が小さくなったわけではあるまい。事実、正門を通る人々の肩の高さはいつもの景色と変わりがなかった。

 キャンパスが大きく見える原因は、むしろ逆。俺自身の精神が巨大化したため、相対的にそう魂が捉えているのだろう。

 得体の知れない女と出会い、肝を冷やし、恐れ、困る。この世に存在するほとんどの人間が経験しえないであろうことを経験した俺は、成長を実感していた。

 海外旅行。大学合格。恋人との初夜。

 こういったものを経験した人々は、往々にしてこのように語るのだ。


『空が……高えなぁ……』


 俺もある意味で、童貞を捨てたのだろう。辞書的な意味合いでの童貞バイバイは未達成だが、一皮も二皮もペロンと向けた俺は紛れもなくピンク色!

 ところで、いつまでもつっ立って感慨にふける俺は、事情を知らぬ人からすれば「なにアイツ」以外の何者でもないようで。

 だから、今日は肩を叩く手が強かった。


「よぅ、どうした坂本。不審者っぽいぞ」

「ほっとけ」


 俺の肩を叩いたのは鹿野崎だった。見つけて走ってきたのだろうか。ニヒルな表情をしてはいるが若干肩が上下している。

 こういうところがあるから、こいつのことは好きだ。


「まったく、今日は不審者が多いな。暑いからかね」

「多い?」

「知らねえの? すぐ近くの交差点で『ピンクのパンダが笹じゃなくてハヤシライスを食っているからロシア人が捕まえに来る! もう毛ガニと柔道をしたくない!』とかなんとかわけのわかんないことを喚きながら全裸でのたうち回ってる妙な三人組が出没したんだぜ。当然捕まった。ありゃキマッてるな。何にとは言わんけど」

「そ、そうかぁ……」


 俺は鹿野崎にバレないようにあふれ出る冷や汗を拭った。とりあえず、最大の懸念事項は突破したようだ。

 なんというか、俺はいくらなんでも余裕がなくなりすぎていたと思う。あのチンピラが『大学生が黒い化物を連れていた』と口走れば最後、いろいろと面倒な事態に発展しかねないことをすっかり失念していた。それこそバケモノさんの力をフル活用して魔王にでもなるしかなくなる。

 とにかく、最後に引っかかっていた肩の重荷がとれて身軽となったのは確かだ。小躍りしたいような気分になったし実際ちょっと踊った。鹿野崎が不審者を見る目をするが気にしない。


 常に破壊が付き纏う厄介な世間知らずは、現在俺の部屋で留守番をしているはずだから。




「それではご主人様をお守りできません」


 表情で感情を表すことができないためだろうか。彼女は案件の重要性に応じて顔を近づけて話すことを覚え始めていた。

 今、その白い肌がすぐ鼻先にある。冷たい吐息がかかる距離での物言いは、彼女にとってはそれが緊急的な事態だと語っていた。


「いや、大丈夫だって」

「でも……」

「大丈夫だって。すごく大丈夫。へっちゃら。安心安全」


 食い下がろうとする彼女を制して、講義の教科書が詰まったカバンを肩にかける。有無を言わさずにさっさと出ようとする裾を彼女が掴んだ。涙を流せれば目を潤ませているであろう状況で、無表情の瞳が見つめている。俺を守ることが生き甲斐とでも言いたげなその生き様が恐ろしい。

 俺の最終目的は彼女の封印であり、平穏な日常をこの手に取り戻すことだ。やたら外に連れまわしたりすることは極力避けたかった。


「いいか、これは命令だ。もう一度言うぞ、命令なんだ」


 あくまで命令という言葉を用いて、この怪物を制御していく。


「俺の帰るべきこの家を、俺のために守ってくれ」


 もの凄く乱暴な括りで分類すれば、これも俺を守るという任務の範囲に収まるだろう。家に置いておくことと連れまわすこと、天秤にかけて後者を選択する。大学をサボるという選択肢もあったが、出席日数の関係でサボったら即単位ボッシュートが確定した講義がいくつかあるのだ。

 俺の言葉を正しく解釈してくれたのかどうか、その心中は読めない。

 だけど彼女は確かに、


「かしこまりました」


 そう言った。


「よし、じゃあ俺は大学に……い、いや。念のためもう少し話を詰めよう。来客は基本無視してくれ。インターフォン……ってわからんよな多分。ピンポーンって鳴る音は何も怖くないから大丈夫だ。それと、もしかしたら大家さんが俺から家賃の徴収に来るかもしれないが殺しちゃダメだ。ドアをブッ叩いても開けちゃいけないんだいいな、いいな? お前が何かしていいのは、部屋とか窓とかにかけたカギを破壊するなりして、俺以外の人間が中に侵入したときだけだ。それ以外の時はピクリとも動かないでくれ。本当に頼む。頼むぞ、信じてるからな!」

「かしこまりました」


 うん、大丈夫のはずだ。

 そう思わないとやってられない。




「ああ、なんて寝心地のいい机なんだろう」

「お前ずっと寝てなかった?」


 なんとなくで選んだ『古生物学』は、教科書の資料写真の茶色率トップクラスといった味気なさを誇っていた。その退屈さたるやおぞましく、そんな狂気の講義を夢の世界に逃避することで無事回避を果たした。

 他の学生はちゃんと起きてたらしいしノートも取っていたようで、もしかしたら俺がダメ人間でなおかつ生物学に向いていないのではないかという疑念が一瞬持ち上がったが無視した。

 呆れ顔の鹿野崎はきちんとノートを取っていた。あとでコピーさせてもらう約束を取りつけて時計を見ると昼だった。腹が鳴り始める。

 鹿野崎を連れ立って学食へ赴き、混んでいたが運よく空いていた席を確保する。券売機に並び、たぬき蕎麦の食券を片手に列に並ぶ。学生食堂特有の流動の速さを体感しながら愛想のよくないババアもとい栄養管理のマダム氏に食券を渡した。天かすがトッピングされた蕎麦を受け取って席に戻る。一足早くカレーを受け取っていた鹿野崎は、席で水を飲んでいた。

 その隣、鹿野崎の陰に隠れるようにして、なにやら小動物のような人間あるいは人間っぽい小動物がいるのに気づき、声をかける。


「よう潮。今日もその……すごいな」

「んあー? しゃかもとじゃん。なんか久々ー」


 身長140センチほどの小柄な彼女……女子大生という肩書が嘘になるような幼い見た目を誇る友人『潮』が俺に向かって人懐っこい笑みを浮かべる。


「久々って、二日三日程度だろ。てか、口の中の物飲み込むか食い尽くしてから話してくれ」

「ふおー」


 俺の指摘を受け、ショートカットに童顔の女子大生が目の前に並んだ大量の料理(カツカレー、天ぷらそば、から揚げ定食、から揚げ単品)に猛然と立ち向かっていった。その有様は掃除機のごとくであり、大食いで鳴らす男子大学生どもを木っ端のように蹴散らす風格を放っている。周りの視線が痛いが、当の本人は気にも留めていない。

 潮は加盟人数五名という既定人数ギリギリの少数精鋭を誇る我がテニスサークル『えがお』の紅一点である。

 自分と異なり、物理学を学んでいる。その小柄な腹の中へと大量の食糧が流し込まれているのは、恐らくは胃袋の中にブラックホールが形成されているのだろう。そして、ブラックホールから放出される……確か『ホーキング放射』といったっけか、そんな名前の巨大なエネルギーは全身を駆け巡っている。小柄な体躯に似合わぬ怪力っぷりに翻弄されたことも数知れない。


 例えば、『えがお』加入当初の頃だった。

 二年生一名と三年生四名という歪な構成に嫌な予感を感じた新入生はぞろぞろと消えていき、残ったのはアホ面の俺。まだ目が死んでいなかった鹿野崎。最近会っていないが変態野郎の森田。それと、潮だった。

 三年生四名は挨拶もそこそこに消えていき、当時二年生……現三年の緑川先輩が『ごめんね。うちこんな感じなの』と一言。

 ここが「テニスサークルに入ると恋人ができる」……そんな感じの無邪気な夢物語を信じた誰かが立ち上げ、夢破れて。そして新たに入り、また夢破れて……。を繰り返した結果、どうにも扱いに困る空虚な存在に変貌してしまった。そんな哀しいサークルなのだと知るのはもう少し後の話である。実際にはその時点で薄々察していたが。


『まあいいじゃん! とにかくテニスしよっ。えーと、坂本君。楽しく遊んでいればきっと人も来てくれるって!』


 と、部室に放り投げられていたボロクソ同然のラケットを片手に、小柄な潮譲のサーブを受け止めんとした。

 彼女のラケットがボールをとらえた瞬間、確かに玉が消え、そして俺は世界がひっくり返って、ついでに意識を焼失した。

 そう、潮の馬鹿力で打たれたテニスボールは殺人凶器と化し、俺のみぞおちに綺麗に食い込んでいたのだった……。



 それ以来、『えがお組』と称してちょくちょく交流を深めている。

 潮は他にスポーツ系のサークルにいくつか入っているようだが、たまに校内に救急車が入ってきて、だいたい運ばれるのがコイツのいるサークルのメンバーだったりして。

 聞いた話だと『ありえない……奴は人間じゃない……』『助けてくれ……もうボクシングなんかしないから……誰か、アイツを止めてくれ……』『うわあああああ! く、来るなアアアアアア!!!』と、運び込まれた面々はうなされていたのだという。おっかねえ。


「どしたの坂本じっと見て。もしかして私に惚れた? キャー!」

「冗談をぬかすのはよしてくれないか人型最終兵器」

「潮はあれだよな、ゴリラ.ZIPって感じだよな。圧縮されてる。解凍したら本物のゴリラになるんじゃない?」

「ぶっ飛ばすわよ」


 潮がおしぼりで口を拭いながら怖い顔をするので俺たちは目を逸らした。

 ところで、俺がまだたぬき蕎麦にロクに手をつけていないというのに彼女はすっかり料理を平らげていた。「あとオムライスも食べようかな」とすらぬかしている。顔はまあ、可愛い。うん、可愛いのだが、いろんなところの次元が俺と……というか人間とズレている女である。底抜けに明るく、底抜けに強い。体力が有り余っている。


「ねえ二人とも! 今日さぁ、金曜日だしお酒飲みにいかない? 森田君も誘ってさ!」


 いつものように、潮がキラキラした目で俺たちに語りかけた。暇なときは遊ぶことばかり考えている。その点、彼女は俺と同類だった。


「……いや、遠慮しとくよ」


 鹿野崎が両手のひらを出して拒絶のポーズをとる。


「えー、なんでよ」

「期末試験が近いからだよ。再来週の月曜日からだぞ。対策しないと」

「なによ、この真面目! 秀才! 見た目よりもいい男!」

「潮、それ褒めてる」

「じゃあ坂本君はどうなの? 遊べるでしょ?」

「え、俺……」


 いつもの俺なら、二つ返事で酒盛りを楽しんでいたはずだった。

 だけど今は、部屋で待っているバケモノさんの顔が思い浮かんだ。


「……今日のところは遠慮しとこうかな。テスト対策しないといけないし」

「はい?」

「なに?」


 二人一緒にハモっていた。なぜだ。


「……本当の理由は?」


 潮が小さな体を乗り出し、俺と目を合わせようとする。その妙な気迫に圧倒され、俺は目を逸らした。


「ほら! 今目を逸らした! 絶対なんか別の理由があるんでしょ!」


 大正解である。俺と同類で勉学意欲の低きことマリアナ海溝のごとしなくせに、妙に鋭い。


「いや……俺もそろそろ単位とかが危険だから……」

「絶対嘘。坂本この前『留年の危機が来た時のために土下座の練習してるんだ』とか言ってたじゃん! あっわかった、人を家に入れたくない事情があるんでしょ!」

「お前はエスパーかよ!? あっ」

「ほらやっぱり! 大丈夫だよ、坂本の趣味は私も知ってるから! メイドさんにご奉仕されるエッチな本とかDVDの隠し場所はテレビの裏ってことも」

「お前なんで知ってるんだよ! やっぱりエスパーか何かなんじゃねえの!?」

「そりゃ、何度も家行ってるし。その時ちょっと目を盗んで、ね☆」

「きっ、貴様……」


 潮は俺のアパートの隣の隣の部屋の住民である。そのため、交流はわりかし多かった。


「こ、このアマが……。いやそういうんじゃねえから。単に実家から親が来てるだけだ! 断じて!」

「ふぅーん。じゃあさ、なんで素直にそう言わなかったの?」

「その……なんかこっ恥ずかしくてさ」

「そう? へぇー。じゃあそういうコトにしてあげるわよ」


 その顔はまだ納得していないが、ひとまずは潮は引いてくれたらしい。

 仕方ないだろう。変なバケモノと同居していますなんて言えるわけがない。言ったら今街を賑わせている、全裸で舞い踊るチンピラと扱いが同列に堕ちる。


 このやり取りで得たのは、早急にアイツをなんとかしないと、休みに遊びに出かけたり……というかそもそも、迫る夏休みをエンジョイできないという事実の気づきだった。




「た、ただいま……」


 家に帰ってきた瞬間、どっと疲れが襲ってきた。ここ数日で判明したことだが、俺はどうやら勢いで行動を起こしがちで、先の見通しが激甘な性格をしているようだ。自販機をほん投げるような得体の知れない怪物を信じ、家に放置したことは確実にミスだ。映画を見せまくるよりも先に、なにか別の方法がないか探る必要があったはずだ。

 靴を脱ぎ、リビングのドアを開ける。


「はぁ……なぁ、ちょっと話があるんだけど」

「お帰りなさいませ」


 目の前には、真っ黒なメイド服を着たバケモノさんが突っ立っていた。

 やたらスカートが短く、胸部の主張も激しい。着ているワンピースが触手みたいにうねっていたことを考えると、ある程度は可変なのだろう。きっちり帽子もメイドプリムに変わっている。ホワイトプリムではなくブラックプリムだが。

 いや、なんだこれ。


「……それはなにを?」

「ご主人様が不在のうちに、少々勉強を致しました。主人の帰りを待つ者のことを『メイド』と呼ぶと知り、私もその文化に倣いましてこのよ」

「うんわかった了解した」


 本という本が引っ張り出されて机の上に積みあがっているのが見えた。読んだのだろう。生物学の教科書から漫画本に至るまで。

 そのてっぺんに、俺のお気に入りの……肌色面積が広い例の書物が据えられていた。


「……あの本のことは信じなくていいからね。いつも通りの君がいい」

「さようでございますか。了解いたしました」


 俺の股間あたりに跪き、ズボンを下ろそうとした彼女にそう告げた。




「姿を消したりできないか?」

「姿を……ですか」


 麦茶を一気飲みしている彼女に問うた。服は元に戻っている。やはり、あの服はある程度形を変えることができるらしい。目の前で見たが、ホラー映画の監督に作らせた魔法少女アニメの変身シーンはあんな感じかもしれなかった。肌寒いのは冷房のせいではなかろう。

 そうして、ワンピースをメイド服に変える。そんな芸当ができるなら普通の女子大生っぽい服に変えることもできるはずだ。

 だが、そもそもが異様な雰囲気がご自慢の身長190センチの真っ黒真っ白な美人だ。人目につくことこの上ない。

 ならば、姿を消したりとかして、文字通り背後霊のように俺の傍にいさせることが最善だろう。


「できるか?」

「可能です」

「え、マジで!?」

「少々力と時間を使いますが、ご主人様の行動範囲内にて出くわすであろう豚共の脳に不可逆性の認識異常を埋め込み、私の姿を認識不可能に」

「うん、却下。別の方法をお願い」

「……私はご主人様に嘘は申しません。なのでお答えしますが、残る方法はご主人様の肉体に少々の負荷がかかります」

「……どんな方法だ」

「ご主人様の肉体を少しお借りして、体内に潜伏いたします」


 しれっとそう言った。


「……つまり、とり憑かれるってことか?」

「肯定です」

「そうか……」


 俺は腕を組み、しばし考える。

 体に負荷がかかる……というのは確かだろう。この体の中にもう一人分(人間ではないが)が入り込む。俺には潮のような超人的な胃袋があるわけでもなく、破裂寸前の風船のイメージが頭の中に浮かんだ。

 だが、試す価値はあるかもしれない。一気に全部ではなく、ちょっとだけとか。


「よし、いいだろう。ほら」


 彼女の前に手を差し出した。


「ほんのちょっと、ほんのちょっとだけこの手の中にとり憑いてみてくれ。できるか?」

「可能です。しかし……」

「いいから。やってみないことには始まらないだろ。別にちょっととり憑いたからって俺が即死したりはしないだろう? というか早くしてくれ。決心が揺らぐ」

「……かしこまりました。失礼いたします」


 差し出した右手に、黒いレース手袋をした白い右手が重なる。そのままギュッと握られた。

 すると、見る間に彼女の手が、俺の手の中に沈みこんでいく。ずぶり、ずぶりと音を立てて、すっかり俺の中に埋まり込んだ。手の甲から彼女の手首が生えているような見た目だった。

 痛々しい光景だったが、不思議なことに血は出ず、痛みもなかった。いったいどこに入り込んでいるのだろう、感覚は触れられている手の表面だけで、その内側にまでは感覚が及んでいない。

 感じた感覚は、これだけだった。


「……おいおいなんだよ、言うほど大したこと……ん?」


 『なにか』が来る……! 手の甲の中、未知の感覚が襲ってくる。第六感が感じ取っていた。

 その変化が起きたのは次の瞬間だった!


「あ、あ……」

「ご主人様、ご気分はいかがですか?」


 彼女の声が遠い。


「ひ、ひ……」


 俺はついに我慢の限界を迎え、口を開いて叫んだ!


「ひゃははあははあっははははは!」


 めっちゃくすぐったい。


 埋まり込んでいる手の甲を、よく動く赤ちゃんの手が大量にくすぐっているような、そんな凄まじいくすぐったさが脊髄を通過して脳みそを沸騰させちゃうのぉおおおおお! わひゃ、ひゃひゃひゃひゃ!


「ご主人様、お気を確かに」


 そう気遣っているのだが、別にこれで死んだりはしないことは知っているのだろう。俺の命令がないと手を引っこ抜くつもりはないようだ。


「だ、だいじょぉおおおっ、ぶへへへへへはは!」


 狂ったような俺の笑い声のせいか、隣の部屋住民氏から壁ドンをいただいた。「うるっせーぞ!」と暴言まで吐かれた。くすぐったさの向こうから、バケモノさんの感情が伝わってくる。あ、これ殺意だ。隣の部屋住民氏に対する。「よせ! よせええええっへへへへへへ!」ともはや言葉にもならなかった!


「抜いて、抜いてええええ!」

「かしこまりました」


 命令に従い、ずるん。といい音がしてくすぐったさから解放された。


「……なるほど、確かに体に負担だな。想像と全然違うけど」


 なんかこう……頭が割れそうに痛むとか内なる邪悪な感情が呼び覚まされるとかを想像してたが、まさかこう来るとは思わなかった。ピッチャーがボールの代わりにタコ焼きを投げ、それがデッドボールになったような気分だった。


「なあ……これ以外に方法は?」

「ございません。申し訳ありません」

「…………」


 俺はガックリと肩を落とした。

 死ぬわけではない。ただ常軌を逸してくすぐったいだけだ。我慢できないわけではないのがむしろ厄介だった。スパっと諦められるならまだしも、死にはしないやり方である以上、俺はそれを選ばなくてはならないからだ。神様、俺がなにかしたか!? ガキの頃神社の賽銭箱に処分に困ったエロ本を流し込んだことまだ怒ってるのか!? オーマイゴッド!

 そんなことをまだグワングワンいう頭で考えていた矢先のことだった。


『ピンポーン』

「あん?」


 黙りこくった部屋を、唐突なインターフォンが切り裂いた。壁に据えられた受け機のランプが赤く灯り、真ん中の画面に玄関外の映像が映し出される。


「まさか隣の人かな……やべえな、壁じゃなくて俺を殴る気じゃなかろうな……」


 恐る恐る近づいて、受け機の画面を覗きこむ。だが、そこにいたのは朝のゴミ出しや買い物帰りにたまに顔を合わせる小太りの髭面ではなかった。

 小さな体。ショートカットの童顔。画面越しにこちらを覗いているようなくりくりした目。


「う、潮!? やべ……そういえば隣の隣の部屋だった! そこまで聞こえたのか!?」

『坂本ー? なんかすごい笑ってたみたいだけど、大丈夫?』


 潮の高い声が俺を心配している。ありがたいが帰ってくれ。と念を送りながら対応していく。


「だ、大丈夫! 大丈夫だから!」

『んー。あれ、鍵開いてる』

「あっ、しまった! おいコラドア開けんな!」

「敵ですか」

「違う違う!」


 ああもう、俺はなんでいろいろと詰めが甘いんだ! 俺はダメ人間でありつつ偉大だが、今日ばかりは自分のおちゃめな一面を呪う!


「坂本ー? ご家族が来てるっていうけど、坂本の靴しかないんだけどー」


 受け機からではなく、玄関から直接届いてくる声は訝し気だった。『小さな嘘がさらなる嘘を呼ぶ』というどっかの童話で聞いた教訓を今まさに実感させられている。


「く、靴箱の中だよ! ああ母さん気にしないで。彼女は大切なマイフレンドなのさ☆」

「坂本の玄関に靴箱なんかないでしょ。やっぱり何か隠してるな!」

「ちくしょおおおお!」


 ことごとく嘘がバレていく。相変わらず無駄に鋭い。潮のゲノムの半分はドーベルマンのそれと酷似するという学説が俺の中にあり、鼻が利くこと猟犬のごとしである。一度疑われたら骨まで食いついて離れない女だった。なので非常にまずい。抵抗も虚しく、ついには玄関の方から靴を脱ぐ音まで聞こえてきた。

 傍らには、どう見ても人間っぽくない異様な風貌の美女。


「……ああ、クソッ! まだ万事休すには早いがよぉ!」


 俺は唇を噛んで一大決心をした! 唇から血を流していればかっこよかったが、痛いのは嫌だからちょっと赤くなっただけだった。とにかく腹筋に力を込めて気合を入れ、バケモノさんの耳元に口を近づけ小声で語りかける。


「今すぐ、俺の全身に入り込んでくれ! さっきの技で!」

「よろしいのですか」

「すごくよろしい。後から文句言ったりしないから、一秒でも早くほんとマジで!」

「かしこまりました」


 と言うが早いか、彼女の豊満な体が俺の全身に覆いかぶさる。今この瞬間を見られたらそれこそいろいろとマズい。俺は神に祈った!

 悪魔よ去れ!

 願いが通じたのか、ずりゅる。といった感覚が全身に行き渡っていく。バケモノさんのでかい体が俺の中にすべて飲み込まれたその瞬間、部屋のドアが開いて潮の小さな体がひょこんと現れた。丸い目が床に仰向けになった俺をとらえ、プスーといったニヤついた笑いを漏らす。


「なぁんだ、やっぱり一人じゃん坂も……」

「もひゃひゃひゃひゃひゃひゃひふぉいあhぴjdjぢあおひ」

「え」


 片手だけでも爆笑モノのくすぐったさが、全身を突き抜ける。発狂しそうだが発狂するわけにはいかなかった! なぜなら潮がすごい表情を浮かべてこっち見てるから!

 それもそのはず。鏡を見れば、俺はそれはそれは気持ち悪いご面相になっていることだろうし、親友がそんな面構えになっていたら恐ろしくてたまらないだろう。


「らいじょうあぶぼrぶおぼbbd」

「やだ、なに。怖い」

「怖くうううううう、ないっててえてt「えじp」

『ご主人様、奴は敵ですか』


 体の中から声がした。


「違う! 違うんだだだだあだじゃおえあ」

「え、なにが違うの」

「だからうるっせーってんだよ!!!」


 隣の部屋住民氏の、観測史上最大の壁ドンが響いた。もうなにがなんだかわからない。


「ごめんなざああああい! 許してくだぁぁじdpdじゃ」

「え、ヤダヤダ怖い! ほんと怖いんだけど!」

『ご主人様』

「だからちがががががえあんjしあp!」

「……」


 潮がのたうち回る俺を絶句しながら見下ろしている。俺は笑う。体中をかきむしる。笑いながらなんとか「違うんだ」「大丈夫だ」と言う。壁を殴られる。「ごめんなさい」という。もうなんだかわけがわからなくなってきた。


 これ聞いたことある。地獄ってやつだ。


「な、なにか悩みとかあるなら聞くから、遠慮なく言ってね? もしかしてその、なんか危ない薬とかに手を出したわけじゃないよね!?」

「ノー! ノーおオオオオオオ!!」

「そ、そっか。なら大丈夫。坂本がどんな性癖を抱えていたとしても、私は坂本のことが好き……じゃなかった、友達だからね!」

「ほf;えなえいjぽwかmpこmうぇuhf08he0ancpw」

「ば、バイバイ! お休み!」


 意識がかき混ぜられ、最後の方は何と言っていたのか聞こえなかった。

 だけど、俺の勇気ある行動が功を奏し、小走りで部屋を去って行っていく潮の背中を見送りながら笑い続けた……。




「ご主人様、お加減はどうですか」

「……とりあえず、くすぐったいのは治まった。こういう言い方が適切かどうかは知らんが『体が馴染めば』くすぐったさは消えるということか。わかった。理解した」

「それは何よりでございます」

「……これは、次に同じことをしてもこうなるのかな」

「ある程度は慣れていただくしかございません」

「そうか……。じゃあ、ずっと俺の体の中にいることってできるか」

「いえ。ご主人様の負担を考えますと、おおよそ10時間ほどが限度であるかと」

「……わかった。出ておいで」


 うつぶせのまま、体の中にいるバケモノさんに語りかけていた。

 幽体離脱のように、ムリムリと出てくる。そのときはくすぐったさはない。


「……訓練するか。土日を使って」

「申し訳ございません」

「いや、君は悪くないよ……。明後日バイトだし、とりあえず目標はそこかな……」


 先ほどまで大騒ぎしていたのがよほどトサカに来たのだろう。くたびれ果てた俺の耳に、ダメ押しの壁ドンが聞こえてきた。

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