3

 いつも通りの部屋が狭く見えた。

 もともと物がたくさんあるし、足の踏み場もギリギリ確保されているような部屋ではある。だが、今となってはなおさら息がつまりそうな閉塞感だ。

 テレビやソファーなんかを買い替えるとこんな気分になるが、今回のそれは身長190センチほどのバケモノだ。

 無表情の黒い瞳でキョロキョロ歩いている。自販機にすら反応を示していた彼女だ。まるで異世界に迷い込んでしまったように部屋中を見回していた。


 ところで、さっきのチンピラは路地裏に放置してきた。服は修復できなかったらしいので全裸で。せめてもの情けとして、うつぶせにしておいた。

 産まれたままの姿の男三人が一緒になって倒れているのを見た人はどう思うだろうか。だが、殴ってきたのは向こうであるので自業自得だと自分に言い聞かせた。とりあえず、無事を願うばかりである。


「そこ、座って」


 そう促しソファーに座らせる。柔らかい素材のはずのソファーはまったく沈んでいなかった。まるで宙に浮いているみたいだ。事実、髪や黒衣はその裾が安定せず、常にふよふよ揺れている。

 俺はそれを眺めながら、棚からコップをふたつ取り出し、買ってきたコーラを注ぐためにプルタブを開ける。

 バシュン!

 と実にいい音がしたと思いきや、コーラに黒い物がぶっ刺さって貫通していやがる。

 先ほども見た、彼女ご自慢の黒い触手めいた武器だった。その鋭さと速度故か、貫通しているのに隙間から一滴も中身が漏れていない。俺は戦慄した。


「ちょ、お、俺の話聞いてた!? さっき言ったべや、無暗にその変な触手出したり物を壊したりすんのやめろって!?」

「ご主人様の緊急事態であると解釈いたしましたので、行動いたしました。その金属器からは妙な音が致します。中身に何か仕掛けが」

「ない! ぜんっぜんねえから! 炭酸の出る音だからコレ!」

「そうですか。申し訳ございません」


 スルリと触手を引っこ抜き、思い出したかのようにジョロジョロと漏れるコーラの甘い香りが俺の心を蝕んでいく。黒い色彩は暗黒たる未来の比喩表現のようだ。

 なぁにが『ご主人様が悪党だったりしなけりゃ害はないから』だッ! ババア!

 ポケットからスマホを取り出し、婆さんの電話にかけようとして踏みとどまる。ソファーに座った巨体が前のめりになり、俺の手に持っている機械に興味津々のご様子であった。


「待て、いいか。俺がこれからすることはなんも危ないことはないから。頼むから何もしないでくれ。俺がいいって言うまで何もせずに大人しく座っててくれ!」

「了解いたしました」

「約束破ったら今度こそ怒るぞ! 怒って……ええと、とにかく怒る!」


 指を突き付けてそう告げて、俺は大急ぎで履歴に残った四宮女史の番号を押した。

 三度ほど待機音が鳴り、繋がって『もしもし』と聞こえる。彼女は夜に弱い。不機嫌そうな声色だがそれどころではなかった。


「四宮さぁん! アンタに押し付けられた例の魔物が厄介で困るんだけど!?」


 横目でちらちら確認しながら、電話先の老女に怒鳴り飛ばす。命令通りピクリとも動かないが、本当にトカゲみたいにまったく動かないのでむしろ怖かった。


「なに、人でも殺した?」

「え、あー……。殺しては、いない、かな」

「ふぅん。ならいいわ。頑張ってね」

「待て! 切るな!」

「断る。アタシゃ眠いのよ。日記はちゃんと探しといてやるからそっちでなんとかしな。そもそも、ツヅミちゃんが勝手に呼び出したのが悪いんでしょ」


 痛いところを突く婆さんだ。俺の回りにはそういう連中が多すぎる。だけど俺はただ本を開いただけだぞ!? と言いたい気持ちは飲み込む。俺にだってひと匙程度はプライドがあるのだ。


「それに、その子が本当に災厄なら日記にそう書くしだろうし、そもそもご先祖様だって生きちゃいないのよ。かといって警察とか読んで騒ぎを起こしてもどう転ぶかわかったもんじゃない。今打てる最善手がツヅミちゃんと同棲なんだから、ぐちぐち言わずに頑張るしかない。人生はそういうことの連続よ」

「年長者っぽいこと言って煙に撒くのやめてくださいよ! それと同棲とか言うな!」

「実際私は年長者だし実際男女の同棲でしょうが。それにさ」


 一呼吸置いて、呟くように二の句を継いだ。


「ご先祖様がなんでその子を封印している本を手元に置こうとしたのか。それを考えると、意外とまんざらじゃないのかもしれないわよ」


 まあ単に、性根の腐った別の誰かの手に渡るのを恐れただけかもしれないけどさ。

 そう捨て台詞の後にプチンと軽い音がした。あっさりと通話が切れた。

 その後三回ほどかけ直してみたのだが、もう繋がることはなかった。




 黒い液体がパチパチと音を立て、氷に薄まり琥珀色の素顔を覗かせる。人間の舌を喜ばせるその姿を、彼女はどう思うのだろう。冷蔵庫を漁ってみるとコーラのペットボトルがあったので、飲むことにした。一息つきたいし、さっき台無しにされた分を取り返したくもあった。

 台所から居間を見返すと、ソファーから身を起こし、軽い前傾姿勢でこちらを睨みつけている。炭酸が弾けて音を鳴らす原理を何度も説明したのだが。


「大丈夫。安全だから」


 どうにも危なっかしくてたまらなかった。


 二人分のコップ。一個にはストローを刺し、そのまま手で持って彼女の元へ戻る。

 ソファーに隣り合うように座り、目の前にコップを置くとカランと氷が音を立てた。


「これは……」

「さっき君がブッ貫いた『コーラ』って飲み物だ。飲んでみな」


 飲ませても大丈夫だろうかという疑念はあったが、飲まず食わずで放置することもできるわけじゃない。酒に酔った人間三人を吸収してグチャグチャにできるあたり、コーラで酔っ払って暴れたり爆発したりはしないだろう。

 未知の液体を前にたじろいぐ彼女に見せつけるように、自分のコーラを半分飲んだ。爽やかな冷たさが喉粘膜を通る感覚が心地よい。強めの炭酸が全身を叩き、血流が活性化して元気になるような気がした。


「あの……私如きがいただいてよろしいのですか?」

「え、いいよ?」


 私如きがという言葉に、少し厭な気分になる。

 本当に彼女は、『そういう存在』らしい。


「……いただきます」


 今度は触手ではなく手でコップを持った。せっかく刺したストローを無視して、淵に口をつけて流し込んでいる。

 そのまま、息継ぎをせずに中身を全部飲み干した。それどころか、氷までも口の中に入り込んで飲んでいく。

 口を離してコップを机に置くと、すっかり中身は空になっていた。


「……どう?」

「内容物は水と砂糖、それとまだ私の知識にはない未知な物質が」

「いや、成分調査を頼んだわけじゃないから。味、味をどう思ったか」

「味……ですか。これは、美味であると思われます」


 飲む前も後も、変わることのない無表情からはその感情を読み取ることはできない。


「いや思われますじゃなくて。自分でどう思ったのか聞きたいんだけど」

「美味です」

「そ、そうか。炭酸は、まあ平気なんだな……」

「そのようです、これが炭酸というものだったのですか。私が封印されていた場所に置かれたとある書に記されていて名前だけは存じております」

「なんだその本」

「『三本のヤサイダー』という書です」

「駄洒落じゃねえか」

「農民一揆戦隊ヤサイダーなる怪傑が黒色火薬を詰めた大根を爆発させて戦う物語だったと記憶しております」

「クソ本じゃねえか」


 あの物置にぶち込まれているのは、そういえば変な本ばっかだったことを思い出す。


「ご主人様、美味です。この……」

「コーラ」

「……はい」

「おかわりいる?」

「私ごときがご主人様に我儘など」

「いんだよ。いくらでも言え。これからも自分の要望があったら遠慮なく言ってくれ」


 俺に気を使っているのか、本当に気に入ったのかはわからない。だが、悪い気分ではなかった。

 餌付けで制御できるのなら万々歳だ。食費が少々削れることなど、街を壊されたりチンピラを壊されたりするよりもずっといい。やはりというか、この女は現代の蜜に耐性がないようだった。

 コーラの残りを全部コップに注いでしまうと、ペコリと頭を下げてコップを受け取り、また中身を全部空けた。飲む、というよりも吸収が近いかもしれない。


「ご馳走様でした」


 中の炭酸はどこへ行くのだろう。げっぷをする気配もない。彼女の細い腹の中が異次元に繋がっている妄想をした。

 だが、俺の方は素直に胃袋に繋がっているのだ。

 そして、昼から何も食べていない。


「……カレーでいいか」


 レトルトが二つあったよな。

 ニヤリと笑う。化物め、人類の叡智の味をとくと味わわせてくれようか。




「これは……」


 妖怪顔の無表情が馨しい湯気を嗅いでいた。無条件に人の心を解きほぐすスパイスの魔法だ。俺には食いなれた安物のレトルトカレーでしかないが、日本の江戸時代からずっと封印されていたらしい彼女には過剰な刺激であろう。俺の腹も鳴っている。蛇口から水が出たりコンロから火が出たりする様にいちいち反応するコイツを抑えるのにだいぶ労力を要したからだ。苦労をすればその分だけ料理はうまい。

 何回言ってるのかわかんないが、相変わらず表情は変わらなかった。ただ、こちらを向いて「これはなんですか?」と呟くだけ。多少は慣れたが、やはり怯んでしまう。魔物の無表情はやはり心臓に悪い。これは早急になんとかしなくてはならないかもしれない。


「はい、スプーン」

「……この匙で掬うのですか?」

「そう。こんな感じで。うん、うまい」


 慣れ親しんだ味がした。やはりレトルトカレーは安定度が違う。どんなに料理が下手糞だろうと、これだけはマズく作ることはできないだろう。お湯で温めるだけでいい。人類の発明の中で、トップクラスに位置する至高の逸品である。

 彼女も、俺に倣って皿にスプーンを入れた。その端正な形の唇にスプーンが飲み込まれる。控えめに頬が動いているのは、確かめるように食べているようだった。

 と、ふわふわ揺れ動いていた髪がビビッと音を立て、雷のような形になった。昔のアニメのびっくりした描写のように。驚いた猫が毛を逆立てているようにも見えた。


「え、なんだなんだ!?」


 大丈夫か? と続けるつもりが、なにやら柔らかいものが口と鼻を塞いだ。

 視界いっぱいに広がっているのは、黒と白。白い部分は丘のように盛り上がっていて、恐ろしいほどにフワフワしている。それが口と鼻を覆い、俺の呼吸を妨げる。

 少ない供給量の酸素を脳味噌で燃やしようやくわかったのは、彼女が思いっきり俺に抱きついているということだった。


 今、俺の口を塞いでいるモノの正体に辿り着いたが、相手が相手だし状況が状況なので助けてくれ。としか思えなかった。

 そんな俺に気付かないのか、もしくはそれほどに感動的だったのか。ギリギリと俺を抱きしめながらしきりに語りかけてくる。


「ご主人様、私はもう感激でどうにかなってしまいそうです。これほどまでに美味なる味を私ごときに授けてくださるなんて……。ああ、ご主人様の眷属でよかったです」

「離せぇ」


 手加減しているのだろうが、素で力が強い。どんどん締め付けられる。自販機をぶん投げ、人間三人を瞬時に変わったオブジェに変えてしまうその肉体は、意外なほどに柔らかかったが何度も言うがそれどころではないしだいぶ頭がパチパチしてきた。


「てか、は・な・せ! お・い!」


 抱きしめられていない無事な右手でやけにでかいケツをタップしながら怒鳴ると、ようやく拘束が解かれて新鮮な空気を吸えるようになった。

 チアノーゼ一歩手前の血液に酸素を運ぶ。


「申し訳ございません。これほどの美味が……」


 無感動な声色。本当に落ち込んでいるのか、申し訳ないと思っているのか。

 俺に抱き着いているときも、きっと無表情だったのだろう。

 おっかないし、何より困る。

 封印することを目的としてはいても、同居するにあたってはコミュニケーションは必須となる。放置をかましてよくわからん暴走をされても困るので、俺が主人だというならばそう振舞うのが最も安全策と言えるはずだ。

 でも、表情がわからないというのはマズい。今後の制御に支障をきたすことだろう。

 だが、突破口はある。彼女は新しい刺激に耐性がないようだ。この方向性で攻めていくのが正解であるだろう。


「……勉強、するか」


 ベッドの上に放り投げられていたタブレットPCの電源を入れた。

 加入している月額見放題動画サービスのアプリケーションを開く様をまじまじと見つめられる。


「こんな薄っぺらな板の中に虫がいます……!」

「ベッタベタなリアクションだなおい。それと人のことを虫とか豚とか言わないの」


 いつからか、タイムスリップする侍や原始人の物語をあまり見なくなっている気がする。むしろ新鮮な気持ちだった。


「今から映画を一緒に見るぞ」

「……映画、ですか。知識としては知っております」

「それは何よりだ」


 俺の作戦は、映画を一緒に見ることだった。

 人間の感情を学ぶのならば、それを実際に見てもらうにこしたことはない。映画であれば、多少オーバーではあるが、プロの役者たちによる本物の感情を学ぶことができるはずだろう。

 鼻を鳴らしながら沢山の作品が並ぶライブラリを動かしていく。【感動! ベストセレクション】と銘打たれたコーナーには、雑多な感動映画が敷き詰められていた。サムネイルには夕日をバックにしたものや犬猫が映った物が妙に多い。


「さて、どれにすっかな。せっかくだし、俺も見たことがないのを……」


 スリスリと画面を撫で、いくつかスクロールしていく。

 その端っこ、レンタルビデオだったらパッケージに埃を被ってそうな映画を発見する。『不安ダースの犬』と題されている。宣材サムネイルにはうすら禿げたオッサンが俯きながら公園のブランコに乗っているという心が痛々しくなる写真が採用されていた。


「なんですか、この鼠色の衣服を身にまといながら頭を垂れて座り込むオスの豚肉は」

「豚肉言うなっての。ええと……このオッサンは映画の主人公のダース氏で、親父が酔っ払って役所に変な名前を提出したことを皮切りに、漠然とした人生の不安と常に戦い続ける物語……だと。なんだこれ、『全米が泣いた!』って書いてあるけどよく読んだら『ぜんべい』じゃなくて『ぜんこめ』だし。クソ映画……」

「ご主人様。差し支えなければ、この映画を見せていただけませんか」

「え? これがいいの?」


 俺が聞き返すと、無表情で俯いた。バツが悪いみたいに。


「はい。私の知る物語に形式が近いようなので……。申し訳ございません。出過ぎた真似を……」

「え、いやいや、ありがたい。君の見たい映画を見られるならそれに越したことはないから」


 さっき俺自身が言った『わがままは遠慮なく言え』を実行してくれているのだろうか。

 ずっとあの書庫に閉じ込められて……いや、封印されたのが江戸時代だ。あの古書店ができたのは確か昭和で、ならばそれまでは無の中に生きていたのかもしれない。倉庫に押し込められたりして。忘れられて。

 胸のどこかに痛みを感じた気がしたが、構わずに俺は映画を再生した。

 情を持つなとは四宮女史の警告が頭をリフレインする。わかってる。腹に力を込めて『コイツは化物』と二十回ほど呟いた。




『不安なんだよォ! なんだよ俺の仕事! コンベアの上流の職員さんらが刺身にタンポポ乗せるじゃん? これはいいよ。でもなんで下流の俺たちがそのタンポポを取るわけ!? その過程になんの意味があるの? わっけわかんねえ。機械を導入したり本社のオッサンどもが正気に戻ったらもう、即刻無職じゃん!?』

『ワンっ! ワンっ!』

『畜生……大家を心配させたくないからスーツで出かけてるけど限界だ……。てか最近妙に優しいしバレてる気がする。俺は社会の犬ですらないのか! ああ、金がない……金がなくなったら大家にすら優しくしてもらえなくなる』

『ワンっ! ワンっ!』

『……そういえば、犬ってその気になれば食えるよな』


「んぐっふ……えげふ……!」


 俺は滲む涙で前が見えなくなっていた!

 この部分だけ切り取ったらすっげえクソ映画に見えるかもしれないが、前半の物語を経るとこのシーンは視聴者の心を突き刺すほどの威力を宿すのだ……! なるほど、全こめが泣いた映画という評は決して嘘ではないだろう。たとえ農作物だろうと見せれば泣いてしまうに違いない。ああ、ダース氏。犬は食べちゃダメだぞ。

 垂れてくる鼻をかみながらちらりと隣に目をやった。きっとコイツの氷点下の心も溶けているに違いないと思ったが無表情であった。畜生。


「……ねえ、面白い?」

「面白いと思われます」


 相変わらず、どこか視点が違う答えを返してきた。

 まあいい。ここからはクライマックスだろう。化物め、ハートブレイクしてその無表情を崩してしまうがいいさ。


『ヤバイ、死ぬ……。具体的に死ぬ……。やっぱり落ちてる酒なんか飲むんじゃなかったし多分あのキノコ食えないやつだった……。ああ、ものすごく眠い。あれは幻覚かな……? 天使が俺を迎えに来たようだ……。いや待て、せめて連れていく前にパソコンの中身を全部削除してからってちょ、引っ張るな、やめ、や……』


 俺はもう……涙があふれてもう前が見えなくなっていた!

 言葉を尽くす必要もない。誰がどう見ても感動のエンディングだ。異論が発生する余地などどこにもない。そんなことを言う奴はきっと血の色が赤くないことだろう!


「……なるほど、これが悲しいという感情を励起する一般的な映像作品ですか」


 ピクリとも表情筋を動かさず、そうのたまった。

 こいつは血の色が赤くないようだ。というか、多分血が流れていない。


 俺は、イラつきに似た感情を抱いていた。

 この野郎。なんとしてでも泣かせてやる。

 




「もう……限界……だ……」


 窓の外にあった漆黒の空はいつの間にやら切り裂かれ、うっすらと白んだ色をにじませている。壁の時計は午前四時を指していた。

 ムキになりすぎた。その後、雑多な感動作品ついでにコメディ作品を見せ続けたが、ついに彼女の感情を動かすことはかなわなかった。未来からきたシュワルツェネッガーが机の引き出しから這い出てくるシーンでは爆笑しすぎて隣から壁ドンまでいただいたし、隣の住民を亡き者にしようとするバケモノさんを抑え込むのに必死でなおさら疲れた。

 タブレットの画面をスリープさせ、俺はベッドに思い切り倒れこんだ。


「ご主人様、いかがなされました」

「……化物にはわかんないかもしれないけど、人間は睡眠をとらないと結構キツイし最悪死ぬんだ」


 だが、今日の講義は一限目に必修がある。寝る暇があるか? 否だ。

 朝飯を食べる気力すら湧かなかった。今胃袋になにか入れたら、それは全て睡眠導入剤に変貌するだろう。


「ふわぁ……」


 特大のあくびをかましながらなんとか立ち上がり、コーヒーを思いっきり濃く淹れるために台所へ向かう。

 その裾を、軽く掴まれた。


「……どしたの」

「眠いのですか?」

「まあ、そうだな」

「どうぞお眠りになってください。時間の指定をしていただければ、私が起こします」

「そ、そう……」


 こんな強力な化物を目覚まし代わりに使っていいのだろうか。というか、呑気に寝て目を離しちゃうのはまずいのではないか。

 駄目だ。もう眠すぎる。考える暇もない。

 立ち上がったその足をもう一度ベッドへ運び、思いっきり飛び込めば十ダース分くらいの睡魔が襲ってきた。


「私なんかに夜の時間をいただけたこと、決して忘れません。ありがとうございます、ご主人様」


 んな大げさな。と俺は突っ込もうとしたが、その寸前でついに意識を手放した。




 夢を見ていた。

 真っ暗な世界。その中に、俺は一人で立っている。

 地面はあるようだが、闇に包まれていてその全貌はわからない。もしかしたら、闇そのものが地面なのかもしれない。

 なんとなく頼りない感覚の世界を歩いてみると、それに合わせて地面の中に波紋が広がっていった。俺の足が投げる石となって、果てのない海の上を歩いているみたいだった。

 そのままどれほど歩いただろう。闇、俺、そして波紋だけが全ての世界に、俺はまだ立っている。

 でも、俺の心は不気味なほどに平穏だった。かすかに胸の奥にざわめいている雑多な感情が、造られた平静に蓋をされたみたいに。

 それしか許されていないような、心の機能が封印されているような。

 そして、それは自分が望んでいたような……。


 トン。


 無意識の一歩が今までと違う衝撃を伝える。

 足の裏、それが何に触ったのだろう。広がる波紋の中心から、たくさんの文字が溢れて出てくる。

 それが物語であると知った。

 だけど、それは何度も何度も何度も何度も何度も何度も読んだ、飽き捨てた物語だった。

 トン。

 トン。

 トン。

 どんどん掘る。新しい物語はない。どこまで歩いても、どこまで進んでも。

 胸が締め付けられるような、でもこれは知らない。今まで感受していない。感受する前に消していた。知らぬふりをしていた。閾値が膨れ上がりすぎたのか。巨大な水の流れがあらゆる全てを破壊するのに似ているかもしれなかった。

 その場に立ち止まる。

 最後の一歩が発した波紋は、とても大きかった。

 世界中に広がるみたいに消えていく波。でも、俺はそれよりももっと、気になるものがあった。

 波紋の中心に女がいた。

 艶のない長い黒髪が白い顔の半分を覆っている。

 それでも見えている顔は端正で、白い肌に目と髪は漆黒で、お嬢様のようなレース手袋を肘までつけている美女だった。こちらを覗き込みながら首を傾げている。

 知ってるようで、知らない。そんな波紋の中の女が、笑った。

 心臓が高鳴る。すさまじいほどに美しい笑みだった。

 胸の奥から湧き出てくる者が恐ろしかった。だけど、それを受け入れたくも思っていた。

 と、女の顔からヒビが入るように……闇が壊れて光に包まれて……。


 どれほど長く見ていたのかすら忘れた夢が、終わっていった。




「はっ!」


 飛び起きて時計を見る。時間の短針は七を指していた。なんだか長い夢を見ていたような気がするが、二時間しか寝ていな……。

 念のため、ベッドに座ったまま机のスマホに手を伸ばす。呼び起こした画面には【07:06】の表示。日時も、映画ラッシュでくたびれ果ててベッドに倒れ込んだのと同じ朝だ。よかった、午後七時まで寝てたとか丸一日寝てたとかってオチじゃなくて。


「おはようございます」

「ああ、おは……」


 さっきまで俺がぶっ倒れてたところの隣。添い寝をする形で、バケモノさんの姿があった。

 真っ黒けな瞳がこちらを見上げている。ここにきて気付いた。出会ってからというもの、彼女が一度も瞬きをしたことがないことに。


「……いつからそこに?」

「ご主人様がお眠りになったそのときから、片時も離れず見守っておりました」


 唖然とする。だが、その意識を振動が刈り取った。右手のスマホだ。メッセージアプリに一件の新着があって、開いてみるとニコチン中毒友達の鹿野崎からだった。


『よぉ。学内連絡は確認したか? 一限の分子生物学は教授が風邪ひいて休みだとさ』


 という文面がデフォルメのクマがため息を吐いているスタンプとともに踊っていた。

 一限の必修がお流れ。今まで頑張ってきた理由の消滅に、俺の魂がガクガク揺らされる。二限と三限にも講義はあったが、必修じゃないしもうこの際どうでもいい。どーでもいー。


「……大学行くのやめる。風呂入って寝る」

「かしこまりました」


 立ち上がって風呂場に向かい、脱衣所に入ろうとする彼女を制して軽くシャワーを浴びる。そういえばアイツは風呂に入らなくてもいいのだろうか。臭ったりはしないが。

 今日のところはやめておく。後で試す。

 脱衣所で体を拭き、寝間着に着替えてベッドに倒れ込んだ。


「お休みなさいませ。ご主人様」

「うん、お休み。ああその前に、俺が寝てる間何もするな。本当に何もするなよ? 物音がしても無視して、不法侵入者でもなけりゃ攻撃はしないで、たとえ攻撃をしたとしても殺したりはするな。いいな、いいな?」

「かしこまりました」


 毛布を頭からかぶり、三度ほどの深呼吸で俺は落ちた。

 今度は、夢を見なかった。その代わりにたっぷりと眠っていたようで、目を覚ましたのは午後の三時で、最初に見た光景はゼロ距離でこちらを見つめる真っ黒な目だった。

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