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 先ほどまでの酷暑とは打って変わり、涼やかな冷房が俺のお肌を癒した。俺の心もキンキンに冷やされていた。ドロっとした冷や汗が噴き出てくるし、そんな俺を四宮女史がわかばを吸いながら見下ろしてくるし、フローリングの床に正座をさせられて膝もだいぶ痛い。


 真っ黒と真っ白のコントラストが悪い意味で妖艶な得体の知れない美女は俺の背後に立って髪の毛をざわざわ動かしていた。『俺が全面的に悪いんだから何があってもこの婆さんには手を出すな』と忠告しておいたのに、苦しそうな顔で正座しているのが四宮女史の仕業であると断じているようだ。その顔は相変わらず無表情だが、彼女を血まみれの八つ裂きにするタイミングを見計らっている気配が伝わってくる。そして、濃厚な殺意にさらされているのに平然とわかばを吸う彼女も女傑を通り越して妖怪の域だ。二匹の妖怪に挟まれている。心臓が凍り付きそうだった。急遽閉店と相成った店内には、俺以外に頼れそうな人間はいない。



「はぁ……まさか、あの本を開いちまったとはねぇ」


「え……あれについて、何か知ってるんですか!?」



 その細い膝に縋り付こうとしたが、そのまま顎に膝を入れられて仰向けに倒れた。なんでだ。


 それと同時に黒いスカートと髪がバヒュンと伸び、女史の頸動脈にその断面が当てられる。勘弁してくれ。



「今、ご主人様に危害を加えましたね……」


「オー怖い。ツヅミちゃんなんとかしてくれよ」


「待て。ストップストップ。いいんだ、今のも俺が悪い。オーケー? 武器を下ろしてくれ頼むから!」


「かしこまりました」



 俺の懇願を聞き、シュルシュルと触手が戻っていく。「なかなか話が進まないねぇ」と鼻から煙を吹きだしていた。



「もう面倒だから単刀直入に言うわ。アンタが開いたのはね、アタシのご先祖様が化物を封印した、いわゆる『魔本』なんだよ」


「……! な、なんでそんなものが物置に」


「アタシの母ちゃんに聞いとくれ。アタシ自身、あんなところに封印されているとは知らなんだね」



 彼女の口ぶりを聞くに、その歴史は古そうであった。


 過去を思い出すように自分が吐いた煙を眺めて、ぽつぽつと語っていく。



「時は江戸……日本での歴史は徳川家光公が鎖国政策を敷いた時代に遡る。アタシのご先祖様は武士でね。だけど海外の珍品が好きだってんで、鎖国を潜り抜けてこっそり刀や鎧なんかといろんな珍品を交換していた。その中に紛れ込んでいたのが、その子なんだと」



 その子。と指さしたのは、白黒の化物女だった。



「私を指差すな下郎が」


「ちゃんと話を聞きなさい」


「はい」



 一応、俺の言うことは聞いてくれるらしい。



「続けるよ。んで、さっきのツヅミちゃんみたいに本を開いて封印を解いちゃったみたいでね。まったく、なんで紛れ込んだんだか。で、いろいろあったようで最終的に封印に成功して、もう二度と誰も召喚することがないように。と、アタシの家系が代々受け継いできたってわけなのさ」


「……四宮さん受け継げてなかったじゃないですか」


「迷信とか信じないガキだったからね。母ちゃんも嘆いてたよ。だから今日その子を見るまで、ご先祖様が残した日記のことをタチの悪い中二病ノート的なもんだと思ってたさ」



 しれっと吐いた情報は、かなり重要なものだった。



「え!? 日記があるんですか!? その中に封印の方法とかそういうの、書いてないんです!?」


「書いてあった気がするけど、忘れちまった」


「……ッ! じ、じゃあもう一度その日記を」


「なくしちまった」



 俺は唖然とした。本を商う商売をしていながら、先祖の日記をなくすという体たらくである。そういえば、あの物置の中身も掃除が行き届いている様子はあまり……いや全然なかったし。



「ま、アレを買った客がいた覚えもないし、万引きとかされてなけりゃこの家のどっかにはあるよ。探しといてあげるから今日のところは帰りな」


「帰りなって、コレと!?」



 指差したコレは、婆さんとばかり会話していて放置されたのが面白くなかったのだろうか。フワフワ浮かびながら俺の後ろを漂っていたようだ。空まで飛べるということで、可愛いとか思いはしなかった……。



「意外と愛嬌がありそうだし、いいんじゃないかい?」


「いや、よくないですよ!?」


「アタシがいいって言うんだからいいんだよ。それに、日記の内容はざっくりとしか覚えてないけど、ご主人様が悪党だったりしなけりゃ害はないから。ツヅミちゃんは悪いことしない……というか、ヘタレてできないタイプだし大丈夫でしょ。日記を見つけるまで面倒見てやんな」


「……!?」



 腹の底から罵詈雑言めいた言葉を吐きそうになったが、すんでの理性がそれを抑え込んだ。


 掃除をサボって勝手に床下収納を開けたのも、勝手に本を開いたのも、この女をなんとかできる可能性があるのも、俺しかいないからだ。それは事実であり、揺らぐことがない。



「ついでに、その本の中身でも読んでみたらどうだい? 有益なことが書いてあるかもしんないよ」


「……あっ! そうだった!」



 この女とファーストコンタクトを思い出す。


 開いたページには癖の強いアルファベットが書きなぐられ、困惑する俺に反してコイツはそれを見事に解読したじゃないか。


 自分で自分を封印する手がかりを探させられるのは少し可哀そうな気がしなくもなかったが、俺の平穏な日常のためだ。仕方がない。持ってきていた分厚い本をひっつかみ、ページを広げた。



「……え?」



 開いたページは一ページ目だ。一節目に『当魔物の使用法及び使用上の注意点』と書かれていたはずだった。


 そこには、一面の雪景色めいた白紙が広がっていたのである……。



「ありゃ。なんも書かれてないじゃないか」


「そ、そんなはずは……!」



 めくる。めくる。怒涛の勢いで最後のページまでめくり、驚愕した。


 すべてのページが真っ新の白紙なのである。これは悪い夢か!? 頬をつねってみたがちゃんと痛いし、白黒女は心配そうな無表情で首をかしげているし、四宮女史は「夢かどうか確かめるために頬っぺたつねる人初めて見たわ」とか言ってる。



「な、なんで!?」


「んー、よくわかんないけど、この子が出てきたら消えちゃうんじゃない? スパイ映画とかに出てくる、電話掛けたら壊れちゃうケータイみたいな感じで」


「えぇ!? そうなのか!?」


「……私自身には自覚がありませんが、恐らくはそこの虫の正解であるかと思われます」


「だとさ」



 新たな情報は、俺にとって絶望以外の何物でもなかった。


 勝手に商品を押し付けられてクーリングオフしようとしても電話が繋がらないようなものである。うっかり召喚してしまえば、それを封印する手立ては探すことができないわけだ。


 と、すると。この白黒女の処遇はどうすればいいというのだろう。



「いやだから、ツヅミちゃんのとこで世話しなって」



 心を読んだみたいに四宮女史が言う。



「それに、こういうのは当人の希望に沿うのが当然だろう? その子に聞いてみなよ、どこに行きたいか」



 ゆっくりと振り向けば、相変わらず闇の底みたいな目で俺を見つめていた。


 唾を飲み込み、深呼吸し、祈るように質問する。



「え、えーと……これから君は、俺なんかと一緒に過ごすことになるらしいんだけど、嫌だよね? ね?」


「なにをおっしゃいますか。ご主人様のお傍にいる。それが私の喜びでございます」


「……部屋汚いぞ!? 酒臭いし、変な染みがついてるし、隣の住人のくしゃみの音が聞こえてくるし、嫌だろ!? 女の子として。この妖怪ババアと一緒に過ごした方がずっとマシだとご主人様思う! 同類だし!」


「ご主人様の命令でも、ご主人様と離れるなど考えられません。常にお傍に寄り添い、守り続けるのが私の使命です」


「主人の命令守らないで主人を守るってなんか矛盾してねえかなぁ……」


「はっはっは、モテモテだねツヅミちゃん。あと誰が妖怪ババアだって?」


「今のは口が滑りましたっ! 忘れてください!」


「よしわかった。しっかり覚えておく」


「ご主人様。この豚肉から記憶を抹消したいのであれば私が」


「大丈夫大丈夫マジで」


「おっかないねえ」



 と、こんな問答を続けても水掛け論になりそうな雰囲気だった。


 それを察したとたん、全身に鉛のような疲れがのしかかるのを感じた。



「……帰ります」



 帰ってベッドにダイブして寝てしまいたい。いや、今晩は眠れそうもないだろう。無理だ。絶対無理。



「ん、まぁ気をつけるんだよ。あ、そうそう」



 ドアを開けて去ろうとする俺に、女史が声をかけた。親指で廊下の奥、物置のある方向を指している。



「忘れるところだった。物置の本、こっちに運んで」


「……はぁ? この非常時に!?」


「どこが非常時なもんかい。流星群が振って来てるわけでもゾンビが大量発生してるわけでもないでしょ。いいから早くやってもらいな」


「……え、やってもらうって」


「自分に利益がある。そう考えてもみれば、多少は頑張れるでしょ?」



 四宮女史を拘束して持ち上げたあの黒い触手。


 恐ろしいものだが、便利……。確かに、別の視点から見てみれば、そう言えるかもしれなかった。


 ちらりと横目に見れば、目が合った。ずっと俺の顔を見つめていたらしい。



「……あの婆さんの話聞いてた?」


「申し訳ございません。どうしてもあの腐った鯖の鳴き声が聞くに堪えなかったもので、私の術で位相をずらして完全に封殺してしまおりました」


「……人の話はちゃんと聞きなさい。これから君にお願いをするから」


「了解いたしました。なんなりとお申し付けください」



 ずいと腰を折り、目の前まで顔を近づけてきた。冷たい吐息が鼻を撫でる。無臭の、まるで冬のような呼吸だった。



「じゃ、じゃあ……俺がさっきまでいたあそこ、物置。いっぱい本があっただろ。それを全部こっちに持ってきてもらうなんてこと、できる?」


「かしこまりました」



 アッサリとそう答えると、髪が軟体動物のように蠢き始めた。漂う冷気の強さが増していく。


 緊張をぶち破って、黒い触手が伸びた。川にすら見えるその流れは俺と四宮女史の目の前をカーブしていき、殺到したのは裏庭だった。バキィン! というデカい音がする。



「ドアを開けることを覚えさせないとね」



 四宮女史がため息をついた。



 ふと、髪をベルトコンベアに見立てたように、大量の本の波がドカドカと雪崩れ込んでくる。人間の力では三十分はかかりそうな量を運んでくるのに、十秒もかからなかった。


 そういうところは妙に几帳面なのだろうか。本を雑に積みあげるなんてことはせず、物置でしていたように、どんどん別の触手で拾い上げて積んでいく。小高いタワーが店の中にいくつもいくつも建っていく。



「やるねぇ」



 四宮女史は呑気に言っている。


 確かに、便利……といえば、便利だ。だが少々派手で、少々細かいところの融通が利かないようだ。本と一緒に流れてきた裏庭へ通じるドアが神に飲み込まれてグシャグシャと音を立てる。中でどうなってるのか、あまり想像したくない。



「これが最後です」



 本の波の最後尾、拾い上げられたそれが一つの山のてっぺんに乗った。


 そのタイトルは、『48人のサムライvs狂い飛脚! 江戸滅亡を食い止めろ!』だった。





「あ、そうそう。絶対にその子を封印するって腹積もりなら、その子に名前をつけるのはよしな」



 戸を開いて出ようとする俺の背中に、タバコの煙を漏らしながら四宮女史が語る。



「理由はわかるかい?」


「……情が移らないため、ですか」


「まあそうなんだね。名前を付けた瞬間、それはペットになり、家族になる。その子みたいな手合いは特にね。これは私の息子……アンタの大学で民俗学なんて研究をしてる息子からの受け売りなんだけど」



 彼女のお子さん……といっても俺よりずっと年上なんだろうが、教授をしているとは知らなかった。


 俺は生物学科である。ならば、あまり関わりがないかもしれない。そういうのは日本文学だとかの畑だから。



「昔、日本に流れ着いた西洋の白人のことを、日本人はなんと表現したかわかるかい?」


「……いえ」


「『鬼』だよ。金髪で、パーマがかかってて、赤かったり青かったりする。白人のそれと合致するって説が支配的なんだそうだ。そうして鬼ってキャラクターがつけられてから、『自分たちとは違う姿の見たこともない異国の恐ろしい人間』が、物語にも登場するような身近な存在に変化した。わかるかい? ワケのわからないものに、人は名前をつける。ガスで膨らんで内臓がすっぽ抜けた水死体を河童の仕業と噂したり、ペストの病状を吸血鬼に襲われただなんて言ったり。そうして定義付けられたものは、人間の人生に深く根差すことになる」


「…………」


「ただ『寂しい』で終わるか、『ふざけるな』と泣き叫んで、地獄の底の底みたいな空虚な心で残りの人生を歩むか、その分水嶺になる。『これ』『それ』『バケモノ』はまだしもね、名前ってのは……そういうことだ。忘れるんじゃないよ」



 その瞳は真剣だった。コロコロ顔つきが変わる婆さんだ。



「俺が、この魔物に情が移るって? そんなこと……」


「ない。って、本気でそう言えるのかい?」



 返す言葉が、俺の心臓に急に刺さった。


 圧倒的な圧力、説得力。それを人は『重み』と呼ぶ。人生の大先輩である彼女の言葉。その背後になにかがあるような気がしたが、それを悟るには俺は若すぎる気がした。



 名前をつけてはいけない。つけるのならば、覚悟が必要。


 その解釈を持ったまま、しばし彼女と話し合った結果、俺はこの白黒女のことを「バケモノさん」と呼ぶことに決定してしまった。


 四宮女史は適当なのか女傑なのか、たまにわからなくなる。だが、それはともかく世話になっているのは確かだ。「かわいいバイトのためよ」と、日記探しをしてくれるというのだから。


 厄介な婆さんではあるが、その心遣いは素直にありがたかった。


 お礼を告げて店を出ると、いつの間にか外はすっかり暗くなっていた。





 夜の学生街は人気が少なく、恐らく歩いているのは俺たちだけだった。


 24時間営業のコンビニなんかもたくさんある中、こうまで誰とも会わないのはどうやら不幸の揺り戻しで幸運が来ているらしい。ありがたい。


 バイト先から徒歩五分のところにあるマンションが俺の住まいだ。そこまで辿り着けばひとまずは大丈夫だろう。人目につかない密室で、今後のことをゆっくり考えればいい。



「おーい、ついてきて……るか……?」



 そんなことを考えながら、後ろをついて歩いてるはずのバケモノさんに振り向くと、俺から十メートルも離れて、彼女は周囲を見回しながらつっ立っていた。


 近づいてみても、相変わらず顔は無表情の極みみたいにピクリとも動いていない。


 だが、普段はハイライトのない漆黒の瞳にほんの少しの色と光が宿っている。機嫌がいいのだろうか。



「ご主人様ご主人様、これはなんですか?」



 髪の触手が蠢いて矢印のような形になり、指した先には自販機があった。知らないんだ。



「あー、これは自動販売機っていってな。お金を入れてボタンを押すと中の商品が出てくる無人販売機だ」


「……この透明な板の向こうにある、筒のような物体が商品ですか?」


「そう。缶とかペットボトルって名前でな」



 俺の説明に聞き入りながら、彼女は自販機をいじくったり撫でたりしている。自販機の電気で照らされているのは、相変わらず死人のように白い顔。だけどその奥にある知識はそれほど豊富ではないのかもしれない。


 彼女と初対面を果たしたとき、あの書物の文字を即座に翻訳した。そのせいで勘違いしていた。知識そのものがかなり歪な可能性がある。



「なあ、バケモノさん」


「ご主人様、私は眷属です。さんを付けるなど恐れ多く……」


「う、うん。まあそれはそのうち前向きに検討させていただくから」



 便利な日本語で追及をかわし、財布の中から電子マネーカードを取り出すと、自販機から適当に一本購入する。ガッゴォンとやけに派手な音がして、よく冷えたコーラが滑り落ちる。



「これ、知ってるか?」


「いえ。私の機能にはそもそも備わってない知識でございます。それに、あの場所には本しかございませんでしたので」


「……本は読めたのか」


「はい。でも、読むというよりは感じることができると表現する方が正しいです」


「……そうか。ずっとあの中だったもんな」



 彼女の語る声に悲壮感の色は一切ない。だがそれは、自分の境遇に疑問をまったく抱いていないことの証左に見えた。


 例えば、光というものが存在することを知らずにずっと地下室の暗闇で育てられた人間は幸せだろうか。


 答えはNoだ。



 人気のない夜の闇で俺は、目の前の怪物がなんだか……不器用な一人の少女に見え始め……なくもなかった。


 買ったばかりのコーラが手のひらを冷やしている。その中に詰められた液体が世界で一番売れている飲み物だと、彼女に教えてあげるのくらいはいいかもしれないと思った。



「飲んでみるか」


「いただいてよろしいのですか?」


「もちろん。よく冷えてて美味し……」



 よく見たら、差し出そうとした俺の腕に隠れて、なにやら夜の闇ではない黒いものが伸びている。


 それは自動販売機に深々と突き刺さっていた。俺の目の前で、中の基盤がついに悲鳴をあげてバチバチッと火花を散らし始める。



「なにしてんの!?」


「先ほど、この自販機というものからなにかが落ちる音がしまして。ご主人様への攻撃の可能性を考慮してその時点で反撃致しました」



 さっき感じた妙に派手な音は、この触手が自販機をブッ貫いた音だった。



「いや、買ったコーラが落ちた音だから! なんてことしてんの!?」


「ご主人様の安全が何よりも優先される事項でございます」


「ああもう!」



 言い合っているうちに火花の勢いを増した自販機が、なにやら煙を発したと思ったら、プスンとその巨体の割には呆気ない音を最後に完全に沈黙した。



 どーしよこれ。



「一応聞くけど……修理できる?」


「経験のない物ではありますがご期待に沿えるよう尽力を」


「やっぱいい」



 申し訳ございません某巨大清涼飲料水メーカーの方。ほんっとすいません。どうかお許しください。


 頭を抱えて人生最大級の懺悔をする。それをバケモノさんは何事なんだろうとでも言いたげに覗いてきた。罪の意識がないようである。こんな言い方はペットみたいで嫌だが、躾が必要だなこれは。



「いいかいバケモノさん! ずっと物置の中にいた君は慣れてないのかもしれないけど、そうやって無暗に物を破壊したりすると」



 と説教を開始した俺の背後、車がない道路を我が道と勘違いしたらしいイケイケのスポーツカーが凄まじい風を乗せて猛速で走り抜けていった。



「曲者!」



 と前時代的な言葉を吐きながら、バケモノさんの触手はぶっ壊れた自動販売機を高らかに持ち上げ、コーナーを曲がって消えていかんとするスポーツカーにぶん投げようとしやがった!



「ギャー! やめろおおおお!」



 やめなかった。


 実際はちゃんと最後まで言えればやめてくれたのだろうけど、『ギャー!』のあたりで自動販売機は猛速で宙を舞っていたし「やめ」の時点でコーナーのアスファルトに凄まじい音を立ててめり込んでいたのだから。


 マリカ気取りのスポーツカーは、すんでのところでコーナーを曲がり消えていたのがせめてもの幸いだった。



「ヒイイッ! こっち来い! 一旦隠れるから!」


「……? はい」



 流石にこれは大ごとすぎる。


 実際、爆音につられてか飲み屋やコンビニ等々から人が出てくる気配を感じた。にわかに人の叫び声などが聞こえてくる。ああ、なんてこった……。



 前言撤回。


 こいつは、不器用な一人の少女でもなんでもなく、俺の胃袋をレンコンみたいに穴だらけにするためにこの世に現れた呪われし危険物だ。



 俺は深すぎるため息をついた。もしもタバコを吸っていたなら、煙は月にまで届いたかもしれなかった。





「まず、俺と約束だ」


「はい。なんなりとお申し付けください」



 俺の命令に従ってちょこんと正座するバケモノさんに語りかける。なんとなくだが、反省していない気配を感じる。そもそも悪いことだってわかってねえのか。



「……まず約束のひとつ目。俺の命令を効くまであのニョロニョロを出すな。俺の身を案じてくれるのはありがたいけど、あんなバカバカ攻撃されたらいろいろと大変なことになるでしょ!? 見えなかったかあの人だかり! バレたら俺と一緒にいられなくなるし何より俺自身が悲惨な目に遭うから! 多分NASAとかJAXAとかのエージェントがごそっとやってきて俺はダクトテープでぐるぐる巻きにされるし君は最新の科学兵器と一世一代の大バトルさせられちゃうから!」


「私は誰にも負けるつもりはございません。ご安心ください」


「話が噛み合わねぇ!」



 バケモノさんの倫理観は、どうにも現代社会と噛み合わないし、そもそもその生態が矛盾しているように感じた。人間をあからさまに見下しているのにその人間である俺に懐いているし。ただ変な本を読んだだけの俺に。


 そして、世界に対する知識が無さすぎる。現代の日本人である俺と会話ができているのは、その知識がそのまま存在しているだけ。というような印象を受けた。『俺』という現代社会人の眷属となるために、最低限の知識だけをインストールしましたというような、そんな感じだ。どういう現象なのかはわからないが、厄介なことだけは確かである。



「……それで、二つ目。なるべく、物を壊したりしちゃダメ。それで、最後の約束。もっと世の中のことを勉強すること!」



 約束は二つだけのつもりだったが、急遽三つ目を加えるに至った。



「……しかし、それではご主人様の安全が……」


「まあ、非常事態はその限りではないけど」


「非常事態?」


「そう、非常事態である場合は、まあ俺のために行動してくれるとありがたいけど」



 ドンッ。


 ふと、軽い衝撃が背中に走った。


 満員電車、ライブイベント、コミケなどで頻繁に体験するその衝撃は、明らかに『人がぶつかってきた』ときのものであった。



 恐るおそる後ろを振り向いてみる。



「あぁ? テメェどこに目つけてんだ! あ?」



 『自分からぶつかっておいて勝手に骨を折って治療費を請求するタイプの人』がそこにいた……。


 金髪メッシュ、スキンヘッド、エグザイルのグラサンの人みたいな剃り込み。の愉快な三人衆で、どっからどう見てもそういうコンセプトのコミックバンドには見えない。


 てか、ヤバイタイプのチンピラだ。俺の財布が目当てなのか、あるいは俺の陰に隠れて太ももしか見えていないのであろう、まさかバケモノさんが目当てだというのか。



 そーそー、こういうのが非常事態なんだよ。



 そんなことをぼんやり考えている俺の顔を、チンピラの一人、金髪メッシュがいきなりぶん殴ろうとするその腕に触手が絡みついて嫌な音がした。それに三人が気づくのよりも早く全身を黒い触手の束がぐるぐる巻きにしてゴキゴキゴキゴキって強烈な音。明らかに体積が人間ひとり分のサイズじゃねえよな。ってくらいに縮められて……。



 行動早いね。荒事に関しては、確かに頼もしい。



 もはや俺は、「どーでもいーや」の境地にすら達しようとしていた。



 ……しばらくグキゴキして、スイカの種を吐くみたいにポイっと放り出されたものは、ちょいとデカいバスケットボールくらいのサイズの肉の塊だった。


 ところどころに指や目玉などが配置され、なるほど、元が人間であることがこうして伺えるようになっている。



「ご主人様に危害が及ぶ。それを非常事態と解釈し、触手を開放いたしました。その代わり『物を壊すな』というご命令に従い生命は残っております」


「ナチュラルに物扱いだね……。てかすげえな人体。生きてるんだ、これ……」



 路地裏に俺たちは立っている。


 足元の球体は、よく見ると表面が小さく動いている。玉の一個、どこかに口があるのか、キーキーと小さな音を発している。


 助けてくれ。


 そう言ってるのかもしれなかった。



「……なあ、これ治せる?」


「それがご主人様のお考えであるのなら、すぐさま対応いたします。ただし、少々元のゴミとは異なる人格・記憶を持つことになるでしょう。それでもよろしければ」


「……うんまあ、いいよもう。それで」



 路地裏を出ていくと、夜の街が涼やかな風を運んできて、冷や汗を拭って消えていく。その中に混ざるカビっぽい臭いが、俺は結構好きだった。静かで、落ち着く。そんな街。


 俺の背後で、グッチャゴキュグリョメキメキメキニュルンって感じの音が聞こえ、鉄錆っぽい臭いも風に乗って漂ってきた。


 俺は気づかないフリをした。

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