一章 『眷属にした覚えはありません』

1



 大学二年生にコマを進めて三か月弱。七月に差し掛かり、キャンパスに降り注ぐ陽光は『恵み』だの『暖かみ』だのを忘れようとしていた。


 暑い。もうこの時点で暑い。間違っているのは人間の体か、それともこの世界か!?



 普段吸わないメンソールタバコを深く吸い込むと、肺の細胞がプチプチ潰れる代わりとばかりに多少涼しくなった。多少だけだ。すぐに汗が噴き出す。



「暑いな、オイ」



 俺と向かい合ってベンチに座り、マルボロをふかすのは親友の鹿野崎だ。金髪のロングヘアは根元が黒いプリンと化し、着ているのもジャージである。ビックリするくらいタバコがよく似合っていた。



「もうすぐ夏休みだな鹿野崎よ。お前さん、予定はあるのかい?」


「わかって聞いてるだろ。ないよ」



 ダウナーな雰囲気の彼は『ヤリ』な『チン』にしか見えないが、一皮剥けばモテないことが宿命づけられた性根をした童貞である。だからこそ気に入り、親友になった。



「夏休みなんかより、今は期末試験のこと考えないとダメだろ」



 たまにこうして正論の槍を刺してくることが玉に傷だが。



「いやそれよりもだな。この夏を快適にそしてヌルヌルした感じに過ごすことが一刻も早く一切合切を放置するに値する超最優先事項だろうよ鹿野崎! お前は牙を失っちまったのか!? 夏休みになっちまったらみんな海だの山だの帰省だので大学に来ないんだぞ。どこに新しい出会いが転がっているというのか!? わかるだろうこの深刻さが!」


「必修落とすような結果出したらよ、それこそ夏休みを心から楽しめないだろ」


「んぐぅっ」



 んぐぅっとは心の悲鳴である! さながら空いたガードにねじ込まれたボディブローのように、奴は的確に弱点を突いてくる。



「というか坂本、お前授業で起きてるの見たことないけどちゃんと試験突破できるのか?」


「へ? そんなの無理に決まってるじゃん。ノート貸してくれ。コピーするから」


「このダメ人間が。学生の本分は勉強だろ」



 くたびれたバンドマンみたいな風貌のヤツに説教された。学生の在り方について。


 悔しいので「学生の本分は勉強ではない!」と極論を大声で発して奴を威嚇してみたが、かわいそうな目をされるだけだった!



 畜生。なんでこんな目に。


 俺は高校時代に必死こいて勉強した。一年浪人するハメになったときも必死に勉強した!


 なんでそこまで頑張れたか。そう、俺はキツイ勉強……その先には『バラ色のキャンパスライフ』なる桃源郷がゴールテープを張って待っていると無邪気に信じていたからだ。



 ところがどっこい、なんだこれ。



 そもそも『生物は比較的得意だった』という煮込みすぎたハンペンの如くフワフワほろほろな理由で生物学部の門を叩いたのが間違いだった。


 そこに待っていたのは、座学と実験のワンツーパンチによる窮屈極まる日々なのである。


 タンパク質の細胞内挙動を丸暗記させられるだけならいざ知らず、妙ちくりんな器具を片手にやらされた実験では『寒天の中に浮かんだDNAの幽霊がどの位置にあるか』というどうでもいい結果を材料に大量のレポートを書かされる始末。トドメに『なぜ生物は生物たり得るのか』と哲学まで叩き込まれるのだ!


 そんな生活の中で出会いがどこにある!? 誰だ! 大学生はいっつも酒飲んで遊んでると最初に言った奴は!


 だがもっと悲惨なのは、俺と同じことをやりつつシレっと恋人をつくることに成功している奴がこの世界に実在していることだ。それってまるで俺が悪いみたいじゃないか。もっと俺に気を使ってくれ。もっと俺に優しくしてくれ。



「俺はさぁ……信じてたんだよ。女の子とお近づきになってヒャッホゥ! 乾く暇がねえぜ! みたいな人生を」


「奇遇だな。俺もだよ」



 俺と同類である鹿野崎はニヒルに言う。紫煙を野郎二人で吐くとますますもって毒ガスを吐いてるみたいな気分に苛まれた。


 お互いに浪人生であり、すでにハタチを超えている。で、始めたタバコであるが、毒ガス人間になった以外の利点は「ため息ってのは意外と遠くまで届く」といういらぬ知識を得たくらいだった。



「んじゃ、俺はそろそろ図書館で勉強するわ。じゃあな」



 鹿野崎は腕時計をちらりと見て、灰皿にタバコを落として立ち上がった。俺も奴に倣い腕時計を見ると、すでに午後の二時だった。



「いけねえバイトだ。俺も帰るわ」


「おう、試験勉強もきちんとしとけよ」



 片手をあげてクールに去る背中を見届け、俺もバイト先へと急いだ。


 校門を出ると、学生街であるためだろうか、平日昼間だというのにそこそこの賑わいを見せている。喫茶店の前を通り過ぎれば、窓越しにノートを広げた学生の姿が見えた。真剣に学業に立ち向かおうとしているその姿は俺には眩しすぎてつい早足になった。おかげでバイト先にたどり着いた頃にはすっかり全身が汗濡れになってしまった。



「汗かいてると婆さんがうるさいからなぁ」



 カバンからタオルを取り出して汗を綺麗にふき取っていると、唐突に脛を硬いものが打った。パシーンという綺麗な音と「もぎゃあ!」という汚い俺の悲鳴が初夏の空に響いていく。



「『婆さん』たぁいい度胸じゃないの鼓ちゃん。五分も遅刻しておいてさ」


「うぐぅ……四宮さん、ホウキの柄はやめてくださいよ……すげえ痛いから」


「若いんだから我慢しな」


「若者だろうとジジイだろうと今のは痛いんじゃないですかね?」


「男だろ。グズグズ言うんじゃないよ」



 俺のバイト先……学生街の片隅にある古本屋『四宮書房』の女傑こと四宮サクラ氏は、痴呆とは無縁そうな切れ長の瞳で俺を見据えながら、愛煙のわかばを根元まで一気に吸い込んではすべての紫煙を鼻から噴出するということを繰り返していた。暴走機関車のようだ。性格も暴走機関車のようなお人である。



「いいから入んな。今日はちょっと頼みたいことがあるんだから」



 四宮女史に促され、古い木枠の引き戸を開けると冷房が程よくきいていた。古書を扱うこの店にとって湿気と過剰な熱気は大敵なのである。


 頼み事ってなんだろう。俺はぼんやりとそのことを考えながら、涼しいクーラーの風を全身で味わった。





「あーすんません、もう一回言ってください」



 ダメ人間を拗らせすぎて耳がおかしくなっちゃったのか、それともこの婆さんがついにボケてしまったのか。


 判断を下すにはもう一度尋ねる必要がある。



「なんだい、聞こえなかったのかいツヅミちゃん」


「いえ、もう一度確認してみたいだけでして……あと、ツヅミちゃんって呼ぶのはやめてください」


「なんでさ。あんたの名前でしょ」


「女の子みたいであんまり好きじゃないんです」


「知らんわよ」



 ま、とにかく。と呟きながら、手元のタバコを灰皿でもみ消した。


 サスペンスドラマで悪党の後頭部を一撃するみたいなゴツイ灰皿には吸い殻がギッチギチに詰め込まれている。そんな生活をしておいて、彼女の気力体力はヘタレ大学生の権化たる俺を遥かに凌駕していた。


 そんなだから陰で妖怪ババアと呼んでいる。そして、妖怪というのは往々にして人間を害して喜ぶような存在である。



「もっかいだけわかりやすーく説明してあげるわ。うちの裏庭にある物置のクーラーが壊れちゃってね。そんで業者さんが来てくれんのが明日なわけよ。古本って熱気に晒されると傷んじゃうでしょ? だからツヅミちゃんに全部こっちへ運んでほしいと思ったのよ」


「俺一人で?」


「この年寄りに力仕事をさせる気なのかい、あんたは」


「太陽さんが張り切りやがったおかげでサウナかってくらい馬鹿暑いのはおわかりですよね? 密閉空間で力仕事したらすさまじい負担がかかりますよ!?」


「そりゃ大変だね。頑張ってね」


「特別給は!?」


「あんた、普段店番と掃除だけでそこそこの給料もらってるでしょ。これが正当な労働よ」


「ああ、なるほどぉ」




「こ、このババアアアアアア!」




 と本当は叫びたかったのに、つい「はいっ! わかりました!」と答えちゃう俺。


 首根っこを掴まれているのはこっちだ。仕送りを生活費に充てれば中学生の小遣い程度しか残らない。言い方は悪いが、遊ぶ金はここで稼ぐしか方法がない。



「はい、あんがと。じゃあサッサと行ってきな」



 放り投げられた鍵を握りしめ、がっくりと頭を垂れながら、裏庭へと通じる廊下を歩いていく。積み重なった古本たちがカビっぽい香りを漂わせ、俺をげんなりさせた。いつもは好きな香りなのだが、これから向かう場所で一生分嗅がされるのだから。



 裏口のドアを開けると、四宮女史が洗濯を干すための物干しざおの奥に果たして物置はあった。


 周囲を取り囲む建物の群れの合間を抜けて、太陽の光がスポットライトのように物干しざおを照らしている。


 森田がここにいれば『これはインスタに映えますぞっ!』などと言って写真をパシャパシャ撮るだろう。ついでに片づけを手伝わせられるだろうが、残念ながら奴は鹿野崎と同じタイプなのでどうせ悪あがきに勉強をしている。


 もう一人いる友人……潮のことを一瞬考え、かぶりを振る。いくら元気が服を着たような人間性でも、女性に『俺のためにクソ暑い中重労働してくれ』なんて言えるわけがない。俺はモテないが、紳士でもある!



 導き出した結論は、『やはり自分で全部やらなきゃいけない』ということなのであった……。



 くだんの物置はそこそこに大きかった。造りは木製で、窓もついている。ただしカーテンが引かれて有害な太陽光線が入り込まないようになっているが。


 借りた鍵で引き戸を開けると、除湿器のうなるような音が聞こえてくる。カビの香りもかすかなもので、純粋に古本臭が詰まった箱という風情だ。ただし、壁の木材を通して伝わった熱だけは避けようがないようで、カラッと乾いているのに汗ばむというどうも奇妙な環境ができあがっていた。


 そんな感じの、物置以上、蔵未満な大きさの建物。


 その体積の実に六割が雑多な本で埋まってやがる。中を歩き回ることすら困難だった。



「まずは入り口片づけないとな……」



 持ち込んだ段ボール箱を置き、適当に一冊拾い上げて表面の埃を払った。相当古い本だろう。わら半紙をちょっとレベルアップしたみたいな紙のそこかしこに油染みが浮かんでいて、ペラペラめくるたびに変な臭いがする。


 その本の表紙は、ちょんまげ姿のマッチョな男の絵がこちらに白い歯を見せつけながら笑っているというストレスがかかりそうなシロモノだった。タイトルがかすれているが、なんとか読めそう。



『きんにく侍のよくわかる一刀両断!』



 足元の段ボール箱に放り込んだ。



 これらの蔵書は……サクラさんは『蔵書』と言い張っているが、その実は『ゴミ』である。


 ボロボロすぎたり内容がマニアックすぎたり、単純に面白くなかったり。そんな物品を放り込んで保管する『本の墓場』。


 まあ、供養のためだろう。あるいは稀に現れる『こういう本こそほしい!』って奇特者のためか。物置はクーラーと除湿器がフル稼働され、ベトコンのブービートラップよろしく虫よけグッズが詰め込まれている。


 だが、今日はそのクーラーがぶっ壊れてるし、隙間に放置された年代物のゴキホイホイは俺の右手をしっかり捉えていた。中指がなにか盛り上がっているものに触れる。優しい笑顔で引き抜くと、オーバースローで物置の壁に叩きつけた。滲んだ汗に埃がへばりつき、腕が真っ黒に染めあげられていた。



 二時間ほど頑張って、ようやく床が見えるようになる。三分の一はやっつけただろう。持ってきておいたお茶を飲むと、喉を伝って胃に、そして全身に染み込んでいく水分の感覚が心地よい。作業の間にすっかりぬるくなっていたけど。



「さて、続きだ続き」



 物置の中ほどまで踏み込めるようになったので入っていく。すると、床がギシリと頼りない悲鳴をあげ、己の歴史を物語った。


 ……ん?



 ギシリ。ギシッ。ギシリ。



 ……そのとき抱いた違和感は小さいものだったが、確かなものでもあった。


 足の裏……接地する感覚でしか拾うことのできないその違和感を解決するために、その場で何度か足踏みをする。ギッギッギッと軋む音のする中に、ある一点……物置のほんの一角だが、その音に『軽さ』を覚えていた。芯の抜けたような、頼りない音色。本当に芯が抜けているかも。



「なんだこれ」



 違和感を感じて床を注視しなければ気づくことはできなかっただろう。うっすらと積もっていた埃が足踏み作業でいくらか掃けて、本来の木材の色が露になる。


 その板木の一枚に、くぼみがあった。虫に食われたとか、何か物を落としたとか、そういった風情ではないと察することができた。なぜならそのくぼみは金属で加工されていて、引き戸の『引き手』にしか見えなかったから。



「……床下倉庫か何かか?」



 俺は単純な好奇心で、そのくぼみに指をかけ、力を籠めてみる。



「こうかな」



 そのジョイントは元々なのだろうか、めちゃくちゃに固い。だけど、ほんの少しだけ床板が浮いていた。無理やり剥がれたというわけではなさそうだ。引き手のある床板だけでなく、他の板木も巻き込んで扉のように持ち上がっているし。


 俺は掃除をいったん中止して床の扉に注力した。


 四宮女史にバレたときの折檻は恐ろしいが、それ以上の感情が俺の中に渦巻いていたから。


 俺はそれを『オトコノコ』と呼んでいる。


 まあ、単なる床下収納だろうが、そういった『隠し扉』が嫌いな男などいやしないからだ。



「あの婆さんのラブレターとか出てきたりして」



 そんなことを考えながら渾身の力で少しずつ床を剥がしていく。


 結局、全部開ききるのに十分の時間を要した。


 ぽっかりと口を開けた扉に収まるスペースは、縦横30センチほど、高さも10センチほどくらい。地下室への階段も自爆スイッチそこにはなかった。少し拍子抜け。


 でもその代わりに、一冊の本が収まっていた。装丁は革製のハードカバー。分厚く、500ページほどはあるかもしれない。海外小説かなにかだろうか。


 だが、それどころではない、目を見張るに値する異常な特徴が二点あった。



 ひとつ。その本を拾い上げて手の中で弄んでみる。ウラ・オモテ。背表紙。クルクルと何度も見回してもやはりそうだった。



 タイトルがない。



 ワインレッド色をしたツルツルの肌は、印字した名前が剥がれてしまったという風でもなく、最初っから名前自体が存在していないような。そんな気配を漂わせる。今までずっとこの物置で作業し、脳に負担がかかるほどに本の表紙と向き合った。だが、そもそものタイトルが書かれていない本など一冊もなかった。



 何度も撫でまわし、二つ目の異常に気付いたのはその時が初めてだった。撫でた自分の手のひらを見て、背骨が丸ごと氷になってしまったような悪寒が爪先まで走る。



「埃が……ついてない?」



 こいつを隠していた床には、たっぷりの埃が積み重なっていた。


 なのに、この本自体には一切の埃がついていない。自分の腕を再度見ると、相変わらず糸状になった埃がこびりついている。その出所は、物置の本たちだった。


 確かに床板でカバーされていはいたけれど……その程度のことが、どこから出ているのかわけわからない埃というものを全てカバーする理由になるか?


 サクラさんが時折取り出して読んでいた……? いや、あり得ない。そもそもこの床板自体が溢れる本に隠されていたのだから。床の埃にも細工の痕跡は見られなかった。ずっとここで保存されていたのは、間違いない。



 俺の手は、震えていた。これは恐怖なのか高揚なのか。


 正解は高揚だったらしい。吸い込まれるように、無意識に、俺の手は本のページを一枚掴み、ぺラリと捲っていた。心が好奇心に支配されていた。


 だから、本を読んだその瞬間に、身が縮むような冷たい風が吹いてきたことにまだ気づかなかった。



 めくられた1ページ……。


 目次は、無い。いきなり目に飛び込んできたのは、まるでミミズがダンスしているような謎の文字。いや、注視してみるとそれはアルファベットだった。


 かなりの年代物だろう。そもそもが手書きで、くせ字が強い。ただでさえ英語の成績がスッテンテンだった俺には読めるわけもなかった。



「なんて書いてあるんだこれ。読めねえ」


「……当ページの一節目を現代の日本国言語に翻訳した場合、『当魔物の使用法及び使用上の注意点』と成ります」


「へえー」



 なんだか大袈裟なことが書かれている。タイトルが書かれていないあたり、大昔の外国人が書いた中二病ノートみたいなものだろうか。



「うーん、どうすっかな。これ」


「お手に取り開いていただいた時点で、私はご主人様の眷属でございます。なんなりとお申し付けくださいませ」


「はは、そうか。ありがと……」



 ご主人様?



 確かに、さっきまでこの物置の周辺には誰もいなかった。


 だというのに、なにかの声が聞こえる。それは、俺の右隣からだ。


 眠っている虎の鼻を触るような速度で、ゆっくり、ゆっくりと右を向く。



 無表情でこちらを見つめる女がいた。



「うおおおおっ!」



 腰を抜かし、這いずるように後ずさる。背中に本の山が当たってバラバラと崩れた。



「お前、誰!?」


「先ほども申し上げました通り、ご主人様の眷属でございます」



 唐突な謎の女の出現。


 俺の心中を塗りつぶしていたのは、暴走トラックだとか巨大サメだとか、そんなものに対する感情ではない。もっと黒くて重いものが支配していた。



 見上げるほどに背が高いその女は、肌にあたる部分だけが真っ白で、それ以外の部分は艶のない完全な漆黒だった。


 ワンピースに似た衣服、スラリと伸びた腕はお嬢様がつけるみたいなレースの手袋をしている。それらは妙に輪郭がぼやけ、歪んでいるように見えた。


 髪は長く、190センチは軽くあるその身長でありながらかかとまで伸びていた。紐で括ってもいないそのままの髪は、なぜか空気を泳ぐようにうねっている。


 腰を抜かした俺を見つめる顔は、身震いするほどに美しいが、代わりに無表情だった。氷のように冷たい瞳は黒目が妙に大きくて、光を一切反射していない。もしかしたら、白い目に穴が空いているのかもしれなかった。そう思えた。



 昔、『天狗』という名前がつけられるよりも前、人々が台風に感じていたであろう感情……。


 ワケのわかんないナニカに対する根源的な恐怖。


 それがこの場を支配していた。



「どうなされました? お腹でも痛いのですか?」



 状況を見ずに素っ頓狂なことを尋ねるもんだ! どう考えても急に現れたあんたがおっかないんだよ!


 と言えるほど肝も据わってないんだな、俺はさ!



「ご主人様……?」



 返事がないことをどう解釈したのか、その高い身長を折り曲げて、しゃがんだ状態で俺の顔を至近距離で眺める形となった。漏れる吐息は吹雪のように冷たい。


 人間の体とは不思議なものだ。


 こいつが現れてから、すでに全身が寒気に覆われていたというのに少しだけ意識が手元に近づいていた。吐かれた冷気のおかげだろう。眠たいときに氷を齧って気付けするようなものかもしれない。


 震える心臓をなんとか沈め、最大の疑問をぶつける。



「もう一度聞くよ。おま……貴方は、何者ですか?」



 念のため言葉遣いを丁寧にしてみる。


 普通の女性であれば腹を立てるような質問に、そいつは顔色一つ変えなかった。無表情のまま。もしかしたら、表情を変えることができないのかもしれない。ふと、そんなことを思った。



「眷属の身である私に対してそんなお言葉遣い、恐縮してしまいます故。お控えください」


「け、眷属? 眷属っつった?」



 今時ではヴァンパイア小説くらいでしか出ないような、そんな言葉を臆面もなく吐いた。



「ご主人様が私の封印を解いてくださったその瞬間から契約が成立いたしました。以後、よろしくお願いいたします」


「はいぃ?」



 なんだこいつは、わけがわからない。確かなことは、頭のネジがすっ飛んじまったタイプの人間がコスプレをしているわけじゃあなさそうだってことだ。


 こんな得体の知れない空気を人間が発せるか? ンなわけがない。つまりこいつは人間ではないのだ。なんで人間じゃないやつがここにいるんだ。



「ご命令を」



 自己紹介を終えたそいつは、しゃがみをさらに崩し、俺に跪く形になった。目線が合う。視線を『刺す』と表現することがあるが、こいつのは本当に質量があって、鋭利に尖っているような気がした。



「命令ったって……」



 怒涛が過ぎる展開にまごついていた俺の耳に、日常の音が唐突に聞こえてきた。


 キンキンに声が高く、有無を言わせぬ音量の、女傑の声。



「ツヅミちゃん! あんたちゃんと掃除してんでしょうね!」


「ちょっ、四宮さん!?」



 本の運搬が滞っていたことに疑問を抱いたのだろう。ずんずん近づいてくるデカい足音は、立ち読みばかりで財布を出す気配すらない不届きな客と距離を詰めるときのそれだった。つまりキレてる。


 だけど、今はそれどころではないのだ!



「ちょ、待ってください! 今すっげえ立て込んでるんです!」


「ただの片づけに立て込むもなにもありますか! そんだけ元気なら熱中症で倒れてるわけでもなさそうね、つまりサボりでしょ!」


「違いますってえええええゑゑゑゑ!」



 俺の叫び声が途中から濁る。その理由は、例の女が唐突に俺の背中に回ったかと思うと、肩に顎を乗せて耳元で囁きやがったからである。彼女の長い髪が頬に触れる。意外とふわふわしていると知った。



「ご主人様、あの豚肉は敵ですか?」


「豚肉って、あれは人間だろ!?」


「私にとってご主人様以外の人間は全て豚肉です。それよりも、あの豚肉は敵ですね。ご主人様を害するとは……決して許せません」


「ちょ、待っ」



 俺の制止。


 それと同時に物置を覗き込んだ四宮女史の、「えっ」とでも言いたげな声。


 それに重なるように、四宮女史の顔に黒いものが殺到し、口を塞ぐ。体を縛る。足を縛る。それらが、一瞬のうちに起きた。



「んんっ、ん、んんんおおうあ!!」



 言葉が喋れたら『なんだってんだいこれは! どんなトンチキなことをやらかしたんだいツヅミちゃん!』とでも絶叫していたかもしれない。


 だが、その顔はどんどん高くなっていった。物理的に、である。彼女はほんの一瞬の間に、まるでクリスマスツリーの星飾りのように、黒いナニカで天高く持ち上げられていたのだ。



 彼女の全身を縛っていた黒い物。その正体は、本を開いて現れた謎の女。



 その髪と黒衣が影のように伸び、触手のようにサクラ婦人を絡めとっている。現実離れしすぎた光景に凍り付く俺の意識を取り戻させたのは、皮肉にもその女の一言だった。



「これより、この不届きな豚を捻り潰します」


「おいバカやめろ!」


「……やめて、よろしいのですか?」


「よろしすぎるわ! そもそも敵でもなんでもない、偏屈でめんどくさくてニコチンとアルコールの中毒のくせにいまだに元気な、ただの妖怪クソババアだからな!?」


「んんんんんんー!」



 数瞬。永遠のようにも感じたが、せいぜい五秒ほどだっただろう。黒い瞳が俺を見つめている。何を考えているかは読み取れなかった。だが、命令が功を奏した。



「かしこまりました」



 その一言で、サクラ婦人に伸びていた鞭のような髪が、煙のようにスッと薄れて消えていく。拘束が解けて『へ?』とでも言いたげな四宮女史の表情が地上四メートルくらいの高さに見えた。



 落ちた。



「ギャー! 受け止めろ!」


「はい」



 今度は迅速に命令を聞き、またも影が伸びていった。


 四宮女史が地面に激突せんその瞬間……キャッチに成功。だが、やったのは受け止めることだけであった。命令を果たした髪がまた消え、哀れ彼女は軽く落ち、地面に激突して「ぐえっ」と呻いた。



「…………」


「ほかに、ご命令はございますか? ご主人様」


「……いや、大丈夫」



 すっかりくたびれて立ちすくむ俺の耳に、土ぼこりを払いながら立ち上がる彼女の「なるほどね」という呟きが小さく聞こえていた。

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