鴨せいろと銀髪の女性

吉岡梅

うつくしい髪

初めて誰かの髪を美しいと思ったのは大学生の時だった。艶めいた髪を見ても、似合うな、と思う事はあれど美しいとまでは思わなかった。


その髪の持ち主を初めて見たのは、富士山にほど近い1軒の蕎麦屋だった。夏山の富士山五合目まで行きたいという、当時付き合っていた彼女の気まぐれに付き合わされ、車を出すことになったのだ。


静岡市から海を右手に国道1号を抜け富士市街へと入り、大きくなった富士山を感じつつさらに進む。周りは木ばかりという道を走らせているあたりで、不意にその蕎麦屋が現れた。特に富士山にも興味は無く、運転と彼女のおしゃべりに疲れていた私は、そこで休憩することを提案した。


古民家を改装したかのような雰囲気の店舗に入って席に着く。すぐに頭にキッチン用のバンダナを巻いた女性が注文を取りに来て、私たちは鴨せいろと山菜そば、それにぜんざいを注文した。しばらくすると、厨房というか、台所の扉からひとりの女性が出てきた。


両手にお盆を持ち、すっと背筋を伸ばしてこちらの席へと歩いてくる。年のころは40を超えているだろうか。いや、もう少し上かもしれない。女性にしては背は高く、真っ白な七分袖のシャツにパンツスーツ、ダークモカのカフェエプロンを腰に巻いている。顔立ちはすっきりとしており、涼やかな目じりには皺が刻まれていた。


そしてベリーショートの短髪。その髪はほぼ真っ白だった。染めているわけではない、黒髪交じりの白髪だ。いや、白というよりは、銀色と言った方が良いだろうか。年齢を感じさせる目じりや顔立ちに髪の色。しかし、それとはそぐわない凛とした雰囲気。なにか生命力を感じるような、すらりとしたシルエット。その姿を目にした時に頭に浮かんだのは「うつくしい」という言葉だった。


女性は2つのお盆をひとつひとつ丁寧に私たちの席に置く。耳には青い石だけのピアスが2つ留まっていた。女性はにこやかに蕎麦の説明をしている。だが、ほとんどその説明は耳に入っていなかった。正直に言おう。見惚れてしまっていたのだ。


私は自分でも驚いていた。そのあまりにも強い感情の動きに戸惑っていた。彼女を愛おしいと思う気持ちとはベクトルは違うが、何か心の奥の自分では気づかなかった場所を掴まれているかのような強烈な感覚。


好きだとか、愛しているだとかいう感情は、とても大きいものだ。だが、それらは説明が付く。理由がわかる。だから、それほど戸惑いはしない。だが、この時感じた「うつくしい」という感情は、理由が説明できなかった。わからないものは怖い。怖いが私は現に、目の前の物に心を揺すぶられている。当時の私は、そのわからない状態をわからないなりに受け入れるという方法を知らなかった。


何か凄いものを見た、いや、見ているという気持ちのまま、鴨せいろを食べた。おいしいからと彼女に勧められるままに、ぜんざいも食べた。だが、味はほとんど覚えていない。覚えているのは、あの女性、あの銀髪だけだ。


私と彼女は蕎麦屋を後にし、富士山の五合目へと向かったのだが、終始私は上の空だった。


その後、その蕎麦屋には訪れなかった。わざわざ富士山方面へと出かける機会が少なかったという事もあるが、なにか怖かったというのが本当の所だ。


そして時は過ぎ、卒業して社会人となり、久しぶりに富士山方面へと足を延ばすことになった。ふと、私はあの蕎麦屋に行ってみる気になった。記憶をたどりつつ道を進むと、蕎麦屋はまだそこにあった。中へ入り、鴨せいろを注文する。すると、あの時と同じようにキッチンから一人の女性が現れた。


しかし、その女性はあの時の銀髪の女性ではなかった。ダークモカのカフェエプロンは同じだが、丸顔の、人のよさそうな女性だった。それはそうだろう。あれからもう10年以上は経っている。私は少し残念に思ったが、同時に、なにかホッとしていた。


鴨せいろを受けとり、「実は、以前ここで素敵な髪の女性に会ったんです」と思わず口に出した。すると、丸顔の女性は目を丸くし、そして、嬉しそうに頷いた。


丸顔の女性曰く、おそらくその女性は先代の主人だろうという事だった。丸顔の女性も、もとはこの店の常連客だったそうだ。先代の女性のたたずまいと蕎麦の味に惚れ込んで通っていたが、先代が店を畳むと聞いて、譲り受けて続けているそうだ。つまり、彼女は同士だ。私以外にも、あの銀髪に魅せられていた人がいたのだ。私は、妙に嬉しかった。


丸顔の女性に、味はまだまだなんですけどね、いかがですか? と聞かれた。だが、私は先代の味を覚えていない。ええ、おいしいですよ、と言うと、丸顔の女性は照れ臭そうに微笑んだ。


そして丸顔の女性は、サービスですといってコーヒーを持ってきてくれた。蕎麦にコーヒーはどうなんだろうと思ったが、同士の好意を無碍に断るのは野暮というものだ。


口に含んだコーヒーは、ほろ苦く、そしてとても美味しかった。それはまるで、懐かしい想い出のような味だった。

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