第11話 夢の世界
黒板に書かれていることが分からない、授業中。休み時間になっても教科書とにらめっこ。消される文字を必死に書きとめ、話の種にされる休み時間。
落ち着かない家。
僕はその場所から逃げようとする。だけど、そのたびに何かにつかまる。
「裏口入学だ。金さえありゃあいいんだ。私立だもんな」
「病気で入院してたなんて。運動神経学年一じゃないか」
「バカなのに、ここにいる。なんで?」
見知った顔がいくつも浮かぶ。ちがう、デマだ。つじつまあわせの嘘だ。言いたいけれど口が渇いて声にならない。
「あなたを引き取らなければよかった」
「お前、学校こなくていいよ」
一番嫌いな二つの顔が僕を見てつぶやき、言葉を投げつける。まわりで多くの人が嘲笑っている。その次にくる言葉は分かっている。覚えている。
「お姉さんのほうにすればよかった」
「だって、いらないから」
逃げたい。でも出口が無い。どこだ――。
柔らかな光が差し込む森で、風無は目を覚ました。
五月。緑増すこの月。この世界での生活に慣れてきた今日この頃。風無はさっき聞いた言葉が信じられないでいた。
「戻った……ほうがいい?」
「そう、心配してる人、いるでしょう?だから――」
「さっきからなんなのいったい!」
僕は立ち上がり、三人を見回した。今更なんなんだ。最初に言うのならまだしも、一月も経ってから言うなんて。追い出したいのか?
「心配してる人なんていない。……食料の横流しがまずい?だったら一日一食でもいい。草食べて暮らすよ!そんな変な理由今更言われて納得できるわけがない!――それとも何?部族に引き入れようとしてここにおいていたけど、僕が風の民になれる資格がないから、役に立たないから追い出そうって?」
台詞がなくても三人の顔に書いてあった。……この三人も結局は打算か。
「……この前渡してくれた笛は、仕事用の笛で、どこかで吹けるかどうか聞いてたのかな?」
一番表情を曇らせている風満は、そうよ、と小さくつぶやいた。
若葉がうつむき、科戸はいつもの屈託を消した。
「……確かに俺たちは、風無が力を持っているか調べたよ。うん、即戦力はほしい状態にあるけど、山羊の世話や食事の支度、やるべきことはたくさんある。猫の手も借りたいくらい忙しいからな。力がなくても、俺は風無を迎え入れたい」
「だったらどうして――!」
「だからだよ」
風満と若葉も、科戸の思いを初めて聞いたのか、戸惑っている。風無はいつになく真剣な科戸を見つめた。
「俺たちは友達だと思ってる。思ってるから風無、俺はお前が戻るべきだと思ってる。ここはお前が思っているような世界じゃない」
「でも、僕は――」
「戻し方はもう分かってるの。……帰ろう?」
風満の声。限界だった。
……お節介。姿を見せないと思ったら、そんなことを隠れて探していたのか。
「いいかげんにしてよ!僕は戻りたくないって言ってるんだよ。戻るくらいなら死んだほうがましだ!!」
そう叫んだ瞬間、科戸が飛び出し風無を突き飛ばした。風満が目を見開き、若葉が小さく悲鳴を上げる。すぐ後ろは崖。風無はよろよろと二三歩あとずさる。ついてきた体力で踏ん張り、なんとか転落は免れた。科戸は悪びれる様子もなく、険しくにらみながら一歩一歩近づいてきた。
「死んだほうがマシ?ああ?おまえ何言ってるか分かってるか?おまえが何を経験してきたって言うんだよ。こっちなんか逃げたくても逃げられないし、死にたくても死ねねえんだ!」
以前までの自分なら、うつむいているだけだった。でも違う。僕は負けじと科戸をにらみかえした。
「科戸こそなにが分かるんだよ!僕の過去のことなんか、なんにも知らないくせに!」
風無は本当の両親を知らない。それどころか、十歳より前のことは覚えていなかった。また、その影響なのか日常的に使うものや生活知識、小学生レベルの勉強も偏りが出ていた。血のつながりがあった姉がいたが、一人だけ有名な会社の社長に引き取られ、半強制的に英才教育を受けさせられた。だが並みの人間よりはるかに学力差があることを知った継母、咲良由子は、二年間で追いつくことを言い放ったあと、風無に見切りをつけた。
中学までには学力は努力してなんとかなったが、進んだ私立で因縁をつけられまわり全てが敵になった。そして隙を見て家出、咲良家に引き取られる前にいた孤児院へ向かう途中にここにきた――。
僕が噛み砕いて話し終わるまで、三人は口を挟むことなく聞いていた。しかし話し終えると風満はゆっくりと近づいてきて、僕は唐突に頭を殴られた。
「痛……。なにすんだ――っ!」
風満は無表情で僕の服の襟をつかんで乱暴に引っ張った。
「あんたが今までどんな目にあってたかは分かった。逃げたいと思ったのも分かった。でも勘違いしないで。ここは、あんたの思い描いているような夢の世界じゃない。あんたのいた世界のほうがまだ生きやすいし、生き方だって選べるはずよ。だから戻りな」
そっちがそうなら、こっちだって抵抗してやる。
「……嫌だ」
「戻りな!」
「嫌だ!!」
風無は風満の手を振り払った。風満は瞳につめたい炎を宿らせ、言い放った。
「三日待つ。帰りたいんならあたしたちが帰すよ。死にたいんなら死ねばいい。別に止めないよ?それでもまだ残りたいなんて言うなら――」
そこで風満は小刀を取り出し、首元につきつける。
冷たい刃先とべたつく嫌な汗。
風満の、本気。
「そのときはあたしが殺す」
刃先が触れるか触れないか。十分近づいたあと、風満は小刀をしまうと背を向ける。一度も振り返らず、僕との距離を広げていく。
「風無」
ややきつい声音は、若葉だ。
「四年前、はやり病でたくさんの人が死んだの。私と科戸は家族全員を亡くした。一家全員で家が滅んだのも珍しくないの。――もちろん風満も例外じゃなくて、お母様を亡くしたわ。だから風無、死ぬって軽々しく言わないで。風満も殺すなんて本心じゃないはず。でもそれだけ怒ってるって事よ。…………よく考えて」
若葉も小走りで去っていく。
最後に残った科戸は、まだ大きく息をしている。
「―――風無、お前の話聞いてたら、逃げたいって思うの分かるよ。風無が嘘ついてるとも思えねえし。……だけどよく思い出せ。本当にそれだけだったのか?――覚えてることだけが全てじゃない。都合のいいことばっかりの記憶だってある。……記憶だけが現実に起こったこと全てじゃない」
科戸もそう言い残して、二人のあとを追っていく。
僕はまた一人になった。
友達と、思った人たち。離れていったのは、先に離れていったのは、僕か?
風満は草原に立ち尽くしていた。誰かが青嵐を吹かせているのか、ほどよくのびた草がさわさわと音をたてる。そこに、がさがさと草を掻き分ける音が響いた。
これは、誰かな。科戸か……若葉かな。
私は力をなくして座り込んだ。
「風満!」
あいつが来るなんてありえない。傷ついたのはあいつのほうだもの。若葉が私の様子に驚いて派手に音を立てて近づいてくる。
「風満、しっかり!」
ああ、あいつは今頃一人なんだろうか。そうさせた原因は私にあるか。
私は若葉のひざに顔をうずめた。
――科戸が二人の姿を草原に見つけ、草の海を駆け抜ける。表情が克明に分かる位置まで来て、近づくことをためらった。
風満が泣いているときにそばにいるのは、若葉だけでいいだろう。
僕は科戸の言葉を思い返した。
覚えていることだけが現実に起こったことすべてじゃない。考えてみたら、忘れていることも昔現実に起こったことだ。
風無は目を閉じ、曖昧な記憶をたどった。
――故郷にいたころから記憶は始まっている。そこから学校に行くまでの出来事。そして学校に言ってからのこと。
思い出すと連鎖的にひっついてくる記憶。痛みがどこからくるのかは分からない。でも痛い。少しはましになっているけど、退くことなんかないんだ。もうやめようと思ったときだった。
記憶と記憶の間に、忘れかけていたものが挟まっている。
風無は丁寧に記憶をたどっていった。
風の音 香枝ゆき @yukan-yuki
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