第5話

 幸福が続いていた毎日は、冬の日に訪れる奇妙な暑さのように日常に傷を付けていった。暖房で乾燥しきった部屋に、安いアルコールの匂いが充満している。鈍器で殴られたような酷い頭痛が、昨夜の乱れた飲酒と隣で眠る下着姿の彼女を説明していた。

 俺は、ふらつく足で冷蔵庫へ向かいペットボトルの水をがぶ飲みする。凍える空気と体へ流れ込む冷たい液体が、ゆっくりと覚醒させていき現状を理解する。部屋に殴り書きされた説明を一つずつ拾い集めた。

 脱ぎ捨てられた衣服。ビールやチューハイの空き缶。飲みかけのウィスキー。おつまみのゴミ……。

 昨夜で乱れた部屋をある程度整えてから、ベッドに腰かけて煙草へ火を付けた。ひとくち目をふかし、ふたくち目の煙を深く吸い込む。はっきりと覚醒しきっていない意識の中で、スマホの通知音が鳴る。

 今日が大学の講義がある平日であることも、寝すぎてしまっていることも、誰からスマホへメッセージが送られてきているかも知っているけれど、わざと気づかないふりをした。俺のせいで泣かなくてはいけない人に気づかないふりをしているんだ。

 昨夜、ズタズタに破り捨てられてしまった物語の作者は、俺なんだ。だから、登場人物が泣く理由も、傷つく理由も全て知っている。それから、それを登場人物に伝える義務がある。

 乾燥しきった部屋が気持ち悪くて、暖房を消す。すると、部屋の隙間から暖かい空気は逃げ出して、外界の冷たい空気が入り込む。ゆっくりと半裸の体へ冬の空気が指を這わせていく。

 ここ最近感じていた幸福的な感覚は、どうやら俺自身の意思で汚く上書きされてしまったらしい。冬の日に手の平に感じる暖かい感覚も、互いの「好き」を傷つけあわないように回りくどく確認する作業も、全てが馬鹿らしく思えてくる。

 馬鹿らしく思えてしまうことが、嫌と言うほど悲しかった。

「おはよう……って、もう昼過ぎが」

 夢を見ることもなく深く眠っていたベッドから、下着姿の彼女が目を覚ます。薄い唇で大きくあくびをして、うつらとしている目を擦る。背丈に合わせた小ぶりな体は、とても純粋で美しい。けれど、悪意のある棘をもっている。その棘は、俺を傷つける物なんかじゃなくて、俺の大切な物を傷つけていく。

 俺は、望まなくてもこの物語の作者であり続けてしまう。美しい物を汚すのも、醜い物を美しく磨き上げるのも好きにやれる。

 そんな中で、俺は、愛おしい物を否定する物語を選んだ。だから、昨夜、感じた生暖かさも、聞いた滑らかな声も、全てが否定のための道具なのだ。

「今日は、帰れよ」

 ペットボトルと口の隙間から水を溢しながら告げる。

 彼女は、起こした体をベッドに投げ、毛布に包まりながら答えた。

「機嫌悪いじゃん。 私、君のこと好きだよ」

 何度も聞いたことのあるセリフだ。

 その都度、俺は同じことを思う。

 ――これは、ピエロの道化に似た言葉でしかない。

 誰かを傷つける悪意も持たず、だからと言って幸せにする善意も持たない言葉。このピエロに一喜一憂しているのは、俺だけなのだ。

 サーカスに当事者はいらない。あくまで、ピエロの道化と客観的な視点のみでいい。それでいて作者であり続けるのならば、より当事者になってはならない。

 そんな中で、俺は、当事者になろうと思ってしまった。登場人物になろうと思ってしまった。

 丁重に扱う「好き」と晒しあげられた「好き」を登場人物として扱ってしまった。だから、全てを望んでしまうんだ。

 冬の寒さの中で感じる優しい温かさも、埃っぽい空間とアルコールの中で感じる生暖かさのどちらもを望んでしまった。

 スマホが甲高い着信音を鳴らす。手に取ると丁重な好きを扱う彼女からの電話だった。

『もしもし、体調大丈夫?』

「あぁ……大丈夫だよ。 ちょっと、あの後、友達に会って飲み過ぎただけだから」

『そっか。 よかった』

 張り詰めていた彼女の声は、俺の言葉を聞いてゆるりと緩む。

 これも、丁寧な好きの回りくどい表現だ。

 俺はそれを感じながら、ベッドの上で何も気づかないふりを続ける彼女の晒しあげられた好きを見つめる。

『私、今日受ける講義終わったから、何か買っていこうか?』

「いや、大丈夫。 それより、今日の夜会えるかな?」

 これは、丁寧な好きの表現でも、晒しあげられた好きを選んだ決意でもない。単なる質問に過ぎない。

『うん、いいよ。 駅前でいい?』

「あぁ、今日の22時くらいに駅まで」

『わかった。 22時に駅前で』

 電話はこれで終わった。

 俺は、丁寧な好きも晒しあげられた好きも、一度すべてを忘れて玄関の換気扇を回し、煙草に火を付けた。そして、思う。

 作者であり続けなければいけない俺が、一度、当事者であろうとしてしまったのだからこの物語に結末は訪れない。訪れてしまうのだとすれば、それは、物語ではなく作り話だ。

 だから、俺は、しばらくの間、どちらの好きにも上手く気づかないふりを続けようと思う。そうすることが、この物語を誇らしく語るための支えになると思うから。簡単に言えば、どちらも選ばないという続編を書き続けようと思う。

 それが、俺の知っている「好き」の説明なのだから。

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煙草 成瀬なる @naruse

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