瞳スイマー

真野てん

瞳スイマー

 のんびりとした夏の夕暮れ。


 うるさかった昼間の蝉時雨もちょっと明日まで一休みである。入れ替わりに町を包みこむのはノスタルジックな太鼓に篠笛。


 ――祭囃子が駅前の喧騒に溶けてゆく。


 いつもと同じ風景も、この日ばかりは華やいでいた。次第にひとであふれてくる天神様への道程を、彼は頬杖をつきながらただ何となく眺めている。


 デニムパンツにゴム底の雪駄履き。波をあしらった和柄のTシャツをラフに着こなす自然体。よく日に焼けた肌をしているが、目の周囲だけはやけに白い。


 バス停横のガードレールに腰掛けて、子供の頃から知っている町並みがオレンジ色に染まっていくのを感じている。


 そんな彼の前を一組のカップルが通り過ぎた。浴衣でそろえた若い男女。楽しそうにおしゃべりをしているが、女の子の手にはカキ氷とスマートフォン。彼氏の話に相槌をうちながらも、その手は器用にスマホを操っていた。


 どこかで誰かが言い争いをする声も聞いた。茜色した空に風船がのぼっていく。


「夏だな……」


 ぽつりと呟き、ふと腕時計に目を落とした。片眉をあげてすこしため息。固まった手足を放り出して、ぐーんと伸ばす。

 そして、また頬杖をついた。


 しばらくすると大通りを曲がってバスがやってきた。


 普段にはない臨時便。車内には外国人の姿もチラホラ見える。我が物顔で車道を練り歩く歩行者たちに苦戦しながらも、遠慮がちにバスは停まった。降車ドアが開き、ぞろぞろと乗客が降りてくる。すし詰めだった車内は、ほぼ空になったようだ。心なしか挙動の軽くなったバスがまたまた遠慮がちに発進する。


 一度ガードレールから腰をあげた彼だったが、その一部始終を確認するとまた元居たところで足を組んだ。携帯電話を取り出し画面を見るも、すぐにポケットへとしまいこむ。


「あのバカ、こういうとこ全然かわってねえ」


 悪態ともつかない独白とため息をひとつ。深くうなだれた首筋には大粒の汗が光る。


「だーれがバカだって?」


 不意をつかれたその一言に、彼の背筋がシャンと伸びる。

 声を頼りに後ろを振り向く。するとそこにはひとりの少女が立っていた。彼女、巾着をさげた片手を挙げて。


「よっ。ひさしぶり。ゴールデンウィーク以来?」と。


 藍をアサガオに染め抜いた古風な浴衣。いまどきの派手さがないため、若い女性がそでを通せば逆に目を引くもの。実際、すれ違う幾人もの男性が彼女へと振り返る。


「お、おう……」


「なに絶句してんのよ。むかしからわたしの浴衣姿なんかいくらでも見てんでしょうが」


 腰に手を当ていぶかる彼女。キリリとした眉根がかすかに寄った。


「あ。でも、今年は七夕も一緒じゃなかったしレアっちゃレアか?」


 などと。

 巾着ふりまわし、あははと笑った。健康的な白い歯がならぶ。


「それって……むかしおばさんが着てたヤツ?」


 彼がそういうとお日様のような笑顔に拍車がかかった。


「そ。ひいおばあちゃまから続く我が家伝来の品よ。よく覚えてたね?」


「おまえがいってたんじゃないか。いつか自分も着たいって。でもなんでまた急にそんな大事なモンを……って違ぇよ。なんでおまえバス乗ってねんだよ。どうやって来た? あと純粋に遅ぇ」


「あー、ごめんごめん」


 さして悪びれた風でもなく合わされた眼前の手のひらに、やるかたない彼の気持ちなど受け流されていった。過去何千回と繰り返されてきたやりとりを思い出し、自然と表情も緩んだ。その横顔にはまだ赤々と頬杖の跡が残っている。


 とりあえず歩くか――どちらからともなく駅を離れた。スローペースに沈む夕日を追いかけてのぼる坂道に、また一組のカップルが生まれる。


 沿道を埋め尽くした縁日の屋台からは、いい匂いが漂ってくる。町中に掲げられた提灯越しには古めかしいやぐらがのぞく。祭囃子がよりいっそう賑やかさを増している。


「せっかくの浴衣でしょ? バスで揉みくちゃもイヤだわって話してたら、お母さんが車で送ってくれるってなって」


「ああ……」


「それで仕度が遅れるわ、道も混んでるわ、お母さん運転下手だわで」


「最後のはいらん」


「というわけなのよ」


 語尾を強調して力説する彼女をまっすぐ見ると、おもむろに彼が口を開いた。


「要約すると休みボケでギリギリまで寝てたと」


 アップされた黒髪の襟足部分を指差して彼が毒づいた。飛び跳ねた後れ毛を両手で押さえて彼女が「あぅ」と小さくうめく。


「こ、細かいことはどうでもいいのよっ」


「細かくねぇし、いつものことだし、ひとのせいにすんなし」


「やだもう、そんなことより前髪とか大丈夫? 変じゃない?」


 そういって慌てて手ぐしをかける彼女だった。粗忽な仕草に襟もとがたるむ。


 あらためて見下ろす白いうなじに、今度は彼が慌てた。はぐらかした視線は渾身の自由形で泳いで、チョコバナナの看板にゴールタッチ。

 軽く胃のうえあたりをまさぐって、


「ちょっとなんか食わん? 部活やってきてるからさすがに腹減ったわ」


「チョコバナナ? わたしトッピング、ナッツとココアでいい」


「『で』ってなんだ。おれがパシんの前提か」


「だって人ごみイヤなんだもん。……はい」


 と出された二百円を「いらねぇよ」とつき返し、彼が雑踏へと消えていった。人ごみのなかでも頭ひとつ高い後姿を彼女に見送られる。夕日も最後のひとあがきにと町を真っ赤に染めていた。そろそろ屋台の電飾照明が目を焼く時間帯に差し掛かる。


 彼がチョコバナナを両手に再び彼女のもとへ戻ろうかとしたときだった。目にした光景には見慣れない男の影が。


 年のころなら自分たちと同じか、あるいは雰囲気的にすこし大人びた印象も受ける。

 とにかくすぐには駆け寄りがたい状況で、彼はチョコバナナを手にすこし様子を見てしまった。


 彼女の表情には絶えず笑顔が浮かんでいる。とてもこなれた感じに軽口をかわしているようだ。ときおり彼女が、男の顔をじっと見つめては口元を隠して控えめに笑う。その仕草は彼の脳裏を探してみても見当たらないものだった。


 男が彼女のそばを離れる。去り際、手を振る相手に彼女も同じようにして応えた。

 すこし早足になる。

 男を見送る彼女の死角から、彼はそっとチョコバナナを突き出した。


「ほれ」


 言葉すくなに手渡したあと、乱暴に自分のヤツを胃の腑へと押し込んだ。味なんか分かるはずもない。


「ありがとう……なに怒ってんのよ」


「別に」


「ふーん……」


 耳に掛かる髪をかきあげて彼女がチョコバナナを口にする。黒々とテカり輝く反りたったその先端部分が、どこまでもやわらかそうなあの丸い唇に触れようかとした瞬間。


 彼はそっと天を仰いだ。こみ上げる衝動との負けられないバトルである。軽く頭を振って平静さを取り戻すように努めた。


「さっきのね」


「あん?」


「同じ委員会の先輩」


「……」


「気づいてないと思った?」


 彼女に歩幅を合わせながらゆっくりと歩く。ひと気も多くなり、すれ違うたび誰かと肩がぶつかる回数も増えてきた。そんなとき、ひとの切れ間に泣いている子供が見えた。風船を手にしゃがみこんだ婦人警官がなにやら話しかけている。


「やっぱ違う高校に進むと、お互い知らないことって増えるよね」


「お互い?」


 気になる一言に視線を戻した。チョコバナナはまだ半分残っている。


「またすこし背が伸びたんだね。すぐ分かったよ」


 彼女はちょっと背伸びをして、空いてるほうの手で彼の頭に触れた。ところどころ色の抜けたマダラの茶髪がぐしゃぐしゃにされる。しかしそれを嫌がるでもなく、されるがままに彼女の顔をじっと見た。


 彼女もまた彼のことをじっと見上げている。そして、


「もしかして妬いてるの?」


 見慣れた表情でいたずらっぽく笑う。


「ばっか。やいてねーし、ふざけんなし、調子のんなし」


 ぐしゃぐしゃにされた茶髪を手ぐしで梳いて、すこし歩調を速めた。ふたりの間に若干の距離が生まれる。すると彼女も負けじと追いすがった。浴衣のすそに動きを制限されながらもカラコロと下駄を鳴らす。


 いつしか彼女が前に出て、彼のほうへ振り返ろうと後向きに歩きだしたときだった。

 雑踏という名の壁にぶつかり、ペタンとその場に尻餅をつく。

 まるで糸の切れた人形のように。


「……すみません」


 すぐさま駆け寄った彼がぶつかった相手に頭をさげる。しゃがみ込んだままの彼女の肩に手を掛けて「大丈夫か?」とささやいた。


「ダメ……」


「あん?」


 不機嫌そうな彼女の声に眉根を寄せる。


「浴衣。汚しちゃった……」


 宵のはじまり。


 暗くなったばかりの町が提灯の迎え火に浮かんでいる。行き交う人の波がふたりを包んでいく。人垣からかすかにもれる電飾の明かりに照らされて彼女の目元がうっすらと光った。


「大事な日だから……この浴衣……」


 喧騒のなかでも聞き分けることができた。すすり泣くちいさな声と鼻のなる音。


「立てるか?」


 そういって彼は先に立ち上がる。雑踏から頭ひとつ抜きんでた彼の目に、とある家族の様子が飛び込んできた。自慢げに風船を握り締めた子供が、両親に手を引かれてとても幸せそうに。涙の跡などすっかり消えていた。


 はたして転んでも大事なものは離さない、なんて言葉はあったかと。

 悩むだけ無駄だと彼は思う。


 食べかけのチョコバナナを手に彼女がゆっくり立ち上がった。浴衣のすそを直しながら、低いテンションで目元をぬぐう。


 彼はその手をつかみ、代わりに頬を拭いてやるとこういった。


「離れるなよ」


 びっくりしたような顔で見上げてくる彼女の瞳をじっと見た。照れくさくても、もう視線を泳がすことはない。


 彼女は無言でうなずいた。見慣れた笑顔がそこにはあった――。


 この町のすべてを呑みこみ、夜のとばりが降りてくる。蝉の声、祭囃子にひとの波。オレンジ、赤、黒、藍に白。チョコの匂いと甘い言葉と。


 月にゆずった主役の座。日はまた昇る――つづいてく。

 真夏の夜空に大輪咲いて、その場にいた誰もが笑顔でうえを向いていた。


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瞳スイマー 真野てん @heberex

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