竹林に香る

菜宮 雪

竹林に香る

「梅……梅はおらぬか」

 弱々しく呼ぶ声に応え、梅は障子をすぐに開いた。

「姫様、梅ならここにおります。お目覚めでございましたか。すぐにお薬湯をお持ちいたします」

「薬は後でよいから向こうを見てまいれ。戦況を知らせる早馬が来たであろう」

 病の床にある伊子姫(いこひめ)に、侍女の梅は、床の横に座り、姫の様子を確かめた。姫の顔色は黒ずんでおり、肌にも艶がない。

「姫様は夢をご覧になったのです。早馬は来ておりませぬ」

「人の声が聞こえたではないか」

「それはおそらく、寺に参じた人の話し声でありましょう」

 今年三十八になる梅は、伊子姫に仕えて二十年。姫が言い出したらなかなか納得しない性格であることはよくわかっている。梅はやさしく姫を諭した。

「姫様、殿からの知らせあらば、真っ先にここへ使者がまいりましょう」

「見て来るのじゃ。はよう」

「……かしこまりました」

 病人が出す精一杯の声に、梅は目を合わせず頭を下げると静かに立ち上がった。

 姫の部屋の障子を閉め、壁がない屋根だけの廊下を歩いて行く。竹林に囲まれたこの山寺の本堂からは、朝の勤めをする僧の、経をあげる声が聞こえてくる。


 梅は廊下を進む足を止め、寺の敷地の外に迫る竹林を見やった。

 読経の声に混じり、竹林がカラカラと音をたてて揺れる。春のやわらかな日射しが降りそそぎ、庭先にある木々や草花は春の喜びを告げるように、青い若葉を開いている。ただ、寺をとりかこむように生い茂る竹林だけは、竹の秋を迎え、寿命で白くなった葉が、はらり、はらり、と風に揺すられるたびに舞い落ちているのだった。

「姫様、おいたわしや……」

 梅は、少し歩いた先の廊下に座り込み、目がしらを押さえた。

「何と申しあげればよいのか」

 梅はしばらくの間、舞い落ちる竹の葉を見続けた。ウグイスの声がする。季節はよくなっても、伊子姫の命は日に日に減っている。姫の頬は落ちくぼみ、唇はひび割れ、肌はかさかさ。まだ二十二歳になったばかりだというのに、枕に広がった長い髪は、老婆のように白髪が混じり、かつての美しさはどこにもない。

 伊子姫がこの山寺へ追いやられてから、半年が過ぎようとしていた。


 姫は地方の小さな城の主、霜崎正則しもざきまさのりの正室として嫁いだ。三か月ほど前、霜崎の城は攻め落とされ炎上。現在は焼けただれた廃墟となっていると聞く。正則は討ち死にし、家臣たちおよび、伊子姫の輿入れにより同盟を結んでいた、姫の国元の人々も運命を共にしたという。

 戦乱を逃れるため、という名目の元、実際は治らぬ病が城内に広がることを避けるため、この山寺で密かに養生していた伊子姫に、寺の誰もがこの事実を告げることを拒んだ。すっかり体力を無くしている姫が、体調に支障をきたさずに現実を受け止められるとはとうてい思えなかった。

「どうか、どうか、この梅をお許しくださいませ」

 梅が袖で自分の口を押さえ、すすり泣いていると、後ろから声をかけられた。

 

「梅殿」

 振り返れば、いつの間にか、読経の声は止み、この寺の住職、世真せしんが来ていた。六十代に差しかかる世真は、大きな身をかがめて梅の顔を覗き込んだ。

「伊子様のご容態はいかがか」

 梅はあわてて涙をぬぐい、頭を下げた。

「あいかわらず夢をみておられるようです。今も、この寺へ使者が来たから見て参れと申されて。殿の遣いが来るはずがないというのに。すぐにでも殿のことをお伝えすべきですが、わたくしは、姫様が何もかも失ってしまわれたと……殿が逝ってしまわれたと、そのような残酷な現実を突きつける勇気がございません」

 世真は、すすり泣く梅の傍らに腰を下ろした。

「いつの間にやら、竹がすっかり黄色くなりましたな」

 ひとりごとのような世真の声に、梅は顔を上げた。

「ひと葉、またひと葉、と散るたびに、姫様のお命が減ってしまう気分になります。これから夏に向かうという時に、散ってしまうとは……なんとさみしいことでございましょう」

「まさに諸行無常。常なるものは何ひとつ存在せず、この世に生きる者全て、いつかは旅立つさだめ。竹林同様、この世真も、梅殿も、例外ではありませぬ」

 あまりにも淡々とした世真の語り口に、梅は再びうつむいた。世真の言うことは間違ってはいないが、さりげなく残酷なことを言われている気がした。

「嫁いでからの姫様は、苦労ばかりでございました。御子に恵まれず、殿の御渡りもなく、心身ともどもたいそうお苦しみだと傍から見ていてわかるのに、毅然として愚痴ひとつおっしゃらず、今日まで……」

「まこと、この世は苦で満ち溢れておりまする。それが悲しき世の常」

「おかわいそうな姫様。治らぬ病のことだけでなく、殿のことも希望すらない。はかなすぎます」

 すっかりやつれた姫の苦しみようを間近で見ていれば、それは世の常だからと割り切ることなどできない。幼いころから仏門一筋だというこの住職は、よくできた御方だと思うが、現実を嘆く梅の気持ちがわかるはずもなかった。



『風が冷たい』

 城内に響く幼子の声を聞くたび、伊子姫はいつもそう言って障子を閉めさせた。真夏でもそうだった。夫の側室が産んだ幼子が甲高い声ではしゃげば、どうしても伊子姫の部屋まで聞こえてきてしまう。正則と側室たちの笑い声も時おりそれに混じる。そんな時、伊子姫は閉め切った蒸し暑い部屋の中で、ぼんやりと扇を仰いでいた。



 梅は目をこすって無理に笑って見せた。

「お世話になっているのに、はばかりもせず、見苦しいところをお見せしてしまいました」

「つらい時は遠慮なさらず本堂の方へお越しなされ。必ずや、御仏のご慈悲に触れることができましょうぞ」

 世真は「諸法無我なり」とつぶやくと、梅から離れて行った。

 

 梅は溜息をついた。そろそろ姫のところへ戻らないといけない。

 重い足取りで姫の部屋へ入ると、姫は目を閉じていた。

 上掛けから出ている肉のない痩せた手。

「姫様?」

 静かすぎた。思わず枕元へ走り寄り、呼吸を確かめる。

 かすかな寝息。

 まだ、逝ってはいなかった。細い手を上掛けの下にしまい、姫のやつれた顔をそっと撫でた。



 暑くも寒くもない、その日の深夜。

 姫は何度も咳き込む込み、梅はずっと添い寝していた。姫の口元を押さえていた布には、赤く大きなしみが付いた。

 梅は、せまり来る姫の死の予感を胸の内に押しやった。

「お湯をお持ちしますから、温めた布でお顔を拭きましょう」

「梅……」

「ここにおります」

「……が――」

 姫の唇が空気の言葉を紡いだ。声が小さすぎてよく聞こえない。

「はい? 何と仰せですか」

 梅は、横たわる姫の口元に自分の耳を持っていった。

「殿がお呼びじゃ。わたくしを外へ連れて行け。はよう……」

 殿、と言われると心を針で刺された気になるが、できるだけ明るく返事をした。

「おやまあ、外とはまた、何をおおせになるやら。今はまだ、外は暗い刻なれば、危のうございます。明日、お天気が良ろしければ散歩いたしましょう」

「殿が寺の門外に」

 ふと、背筋が冷たく感じた。

 ――まさか。

 殿の御霊がお迎えに来られたのか? そんなはずは。


「梅、何をしておるか。殿が、門のすぐ横にある竹林の中で、供も連れずお一人で待っておられる」

 姫がかすれた声で訴える。

「お一人で……ですか」

 ――これはきっと姫様のご希望。殿は本当はご無事で、姫様を密かに迎えに来てくださったのだとしたら。戦乱から逃れてお二人でひっそりと暮らせるなら。もしも本当にそうならば、どれほど喜ばしいことか。

 幸せそうに笑い合う二人を想像した梅は、姫の咳で現実に返り、すぐにその夢をもみ消した。

 正則は一族もろとも亡くなったのだ。

「姫様、また夢を見たのでございますよ。ささ、お休みなさいませ」

 梅が姫の上掛けを整えようとすると、姫は、細い手で拒絶した。

「梅、なぜ、わたくしを連れて行かぬ。聞こえぬか」

「申し訳ございません。まだ外は暗すぎるゆえ」

「もうよい。頼まぬ」

 姫は、呼吸も苦しげな様子にも関わらず、床から這い出ようとする。

「なりません」

「この伊子にはわかる。殿がお忍びでお越しじゃ」

 姫は折れそうな手を使い、全力で床から這い出ようとする。

 梅は見ていられなかった。急ぎ姫の体を抱きしめた。

「かしこまりました。お召し物と御髪をきちんと整えたら、少しだけ外へまいりましょう。そのような御姿では、殿がなんとお思いになることか」

 狂気じみた姫の表情が少しだけ柔らかくなった。

「この格好では殿に無礼と申すか。……梅の言うとおりじゃ」

「……御支度いたしましょう」

 部屋の隅に置かれた燭台ひとつでは室内は暗すぎる。もうひとつの燭台に火をつけると、闇はたちまち退き、細くなった姫の顔の輪郭が照らし出された。

 座っている力もない姫を部屋の角の柱にもたれさせ、長い垂れ髪に整髪油をつけて櫛を通した。長く床に伏していた髪は、べとりとして重みがあり、病人独特の臭いがする。こうして髪を整えることは、いつからやっていなかっただろう。

 梅はこみあげる感情に震える手を必死で動かし、姫の髪を整え終わると薄化粧を施した。

 張りを失った姫の頬に触れていると、涙で視界が曇る。

 もしかすると、姫が外へ出るのはこれが最後になってしまうかもしれない。病人を夜風に当てたくはなかったが、瀕死の姫の頼みをどうして拒むことができよう。


「御支度が整いました」

 久しぶりに唇に紅を差した姫は、いつもよりも元気そうに見えたが、自力で立ち上がることはできない。

「世真様のお手を借りますので、呼んでまいります。少々お待ちくださいませ」

「それはならぬ。住職の手にすがっていては、殿のご不興を買うことになろう」

「ですが姫様、この寺には輿はございませんし……」

「ないなら歩けばよい。梅」

「はい」

 有無を言わせぬ病人の気迫に押され、梅は手を差し出して姫を支え、どうにか立たせることに成功したが歩けそうにない。

「では、こちらに」

 梅は背中を見せて屈み、姫をおぶった。


 幸い月は出ている。闇に降る白い月光は、昼同様に明るいとは言い難いが、墨色の中に、月明りが当たっている部分はわずかに物の形を示し、空と木々の境目ぐらいはわかる。姫を背負えば燭台は持てないが、この明るさならば、灯りなしでも勝手がわかっている寺の門までなら歩けそうだ。

 

 数本ある大きなもみじの木の間を抜けると、寺の門へ続く石畳に出た。

 姫をおんだまま、堅い石畳の上をゆっくりと歩く。姫が幼い頃、こうしておぶって泣きやまぬ姫をあやしたことがあった。今の姫は大人になっているにもかかわらず、大柄でない自分が背負って歩けるとは。梅の肩に置かれた、姫の手の力は決して強くはない。まるで赤子をなだめているようだ。しかし、背にいるのは赤子ではなく大人の女性。背から伝わる高すぎる体温。

 梅は嗚咽で肩を震わせないよう気を付け、喉に流れる涙を飲み込んだ。


 山の上に建てられているこの寺の敷地は広くはなく、すぐに寺の門までたどり着いてしまった。

 門の手前で立ち止まると、姫は細い指先を門の外にある左側の竹林へ向けた。

 月は竹林の内部まで照らせるほど明るくはない。竹林内には細い小道はあるが灯りひとつなく、誰かがそこで待っているとは思えず、何が潜んでいるかもわからない危険もある。力ない女二人きり。ここで夜盗にでも襲われたらどうすればよいのか。

「気味が悪うございます。戻りましょう。それに、これ以上の外歩きはお身体に障ります」

「向こうじゃ、はよう。いつまでもお待たせするわけにはゆかぬ」

 力ない声で姫がせかしてくる。梅の話など全く聞いていない。覚悟を決めた梅は、溜息をつきたい気持ちを抑え、暗い中、転ばないように細心の注意を払いながら、寺の門の横から延びる、竹林への小道に歩を進めた。


 梅は小道に入って数歩も行かないうちに後悔した。

 無造作に乱立する太い竹は、昼間見るのとは違い、はらはら落ちる細い葉までがすべて黒。墨で描いた絵よりもさらに濃い暗黒の光景。倒れそうにしなっている竹もあり、なんとも言い難い重苦しさが漂う。

 昼間に見ればとても気持ちいい竹の林だが、闇が支配している今は、黒い棒に囲まれ、逃げる場所のない檻に閉じ込められている気分になる。戻りたくなり、来た方向を振り返れば、寺の敷地内中に植えられている大きな百日紅の木が、ここまで枝をのばして絡め捕ろうとしてくるように感じ、身震いした。


 しゃら、しゃら……

 

 竹林を抜ける風の音は衣擦れの音に似ていた。

 梅は目を細めて竹林の奥を見た。

「殿?」

 気のせいだ。やはり誰もいない。夜中にこのような場所に人はいない。普通ならば。


 さらさら、ざざざざ……


 竹のざわめきは、風が当たりやすい上の方からやってくる。上から順にしなり、軋み、竹の下部へ風の動きを伝えていく。梅のひきずるような足音で、藪で鳴いていた虫が警戒して鳴くのを止めてしまった。風が竹林を揺らす音だけは続いているが、虫の声がなくなると余計に不気味さが増す。

「姫様、殿はこちらには来ておられないようですから、戻りましょう。虫に刺されますし、蛇などがいてもこれでは見えませぬ」

 梅は、闇に心まで飲まれそうになりながらも、背中の姫の同意を促そうと軽く揺すった。

 抗議されるかと思ったが、姫は何も言わない。

「姫様?」

 肩にかかっていた姫の手の力が抜けている。足元ばかり気を付けていて気がつかなかった。

「姫様!」

 やはり外へ連れ出すべきではなかった。

「ひゃあっ!」


 すぐに部屋に連れ帰ろうとあせったあまり、梅はつまずいて転倒し、姫が背中からずり落ちて小道に転がってしまった。あわてて姫に取りすがった。

「お、お許しください。お怪我はございませんか。すぐにお部屋へお連れいたします」

 梅は姫の体を再び背に乗せようとした。

 刹那。

「……もう……よい」

 かすかな吐息と共に聞こえた小さな声に、梅は安堵の泣き声を上げていた。

「申し訳ございませんでした。姫様を放り出すとは、あってはならないことをしてしまい」

「……れ」

「えっ?」

「下がれ。殿が笑っておられる。梅はいくつになっても、あいかわらず慌て者じゃと。三十半を過ぎたおなごとも思えぬとな」

 暗い中、目を凝らすと、姫は竹の葉の上に横たわりながら、ほほ笑んでいるように見えた。


 ――姫様が。

 にこやかに笑っておられる……暗いからそう見えるのか? それとも本当に殿が? いや、自分が転んだからそれをお笑いに?


 今一度、月明かりがほとんど届かない竹林の中、顔を近づけて姫の表情を確かめたが、やはり姫は楽しそうな笑みを浮かべていた。

「下がれとおっしゃられますが……このような場所に姫様をおひとりで置いておくことなどできませぬ。殿へのご挨拶ならば、室内でもできましょう」

「下がってよい」

「ですから、ここには虫がおります。長居は無理でございます」

「かまわぬ。虫が怖いならば、そなただけ先に戻ればよいではないか」

「何をおおせですか。先ほども申しましたが、見ての通り、どなたもおられません」

 梅は姫を無理やり連れて、部屋へ戻ろうと、姫の肩に手をかけ――

 ひっ、と息を引いた。

「姫様……」

 痛みと共に、手の甲につけられた爪跡。

 心身を捧げて仕えてきた姫が、自分にこんな仕打ちをするとは。久しぶりだった姫の笑顔が自分のせいで消えてしまった。どうしようもない。涙をこぼしながら頭を下げた。

「申し訳ございません、そちらでお待ちしております」

 そう言うしかなかった。

 梅は涙をはらい、姫から離れて十歩ほど下がった。

 

 竹林内の小道に投げ出されたまま横たわっていた姫は、ゆっくりと上半身を動かした。驚くべきことに自力で座り、闇に向かって両手を膝の前で合わせ、深く頭を下げると、かすれた声で精一杯の挨拶を始めた。

「殿、この度のご戦勝、誠におめでとうございます。いまか、いまかと知らせを待ち望んでおりました」

 姫が顔を向けている先には闇しかない。

 たまらず声をかけようとすると、姫は、すべての力をふりしぼったかのように、しっかりとした声になった。

「殿に嫁いで早十年。殿が、この伊子を必要とされておられないことは重々承知しております。なれど」

 姫は急に咳込み、言葉は途切れ、その場に崩れた。梅は駆け寄り、姫の頭を膝で抱いた。

「すぐにお部屋へ」

 姫は、梅に抱かれながらかすれる声で続けた。

「殿……ご覧のとおり、わたくしは座ることすらうまくできず、長くは生きられぬ身」

 応えるように、風がかさかさと竹の枝を鳴らした。

「姫様、早く梅の背に」

 姫は梅の焦りなど気にも留めず、苦しげに言葉を出した。

「殿……今宵だけ……それ以上、何も望みはいたしませぬ。殿の御子を孕めず申し訳なく思いつつも、わたくしは殿と夫婦になれて幸せでございました。今宵は別れの盃をかわしとう存じます。あの世への思い出に、最期のひと夜を殿と……」


 また枯葉が数枚舞う。夜の湿気を含んだ微風が竹林を流れていく。

 梅はもう一度目を細めて闇を確かめた。おや、と思い、瞬きを繰り返した。

「ああ、姫様」

 梅は姫を抱いたまま闇に向かって頭を下げた。

「殿、差し出がましくも、梅からもお願い申し上げます。そこにお出ましならば、姫様の御願いを叶えてくださりませ。姫様はずっと殿をお待ちでした。姫様の御心をお察しください。姫様のおそばで……」

 ――姫様の最期の望みを。姫様は、もう……


 涙をこぼした梅をとりなすように、姫は梅の肩に軽く触れたが、再び闇に目をやり、風に吹き消されるような小さな声で呟いた。

「殿……あさましく、取るに足らぬ望みと知りつつも、この想い、止められませぬ。どうか」 

 姫は震える右手を闇に差しのべた。

「殿のひと夜を伊子に……」

 闇を掴もうとする姫の、細い指先がかすかに動く。

「と……の……」

「姫様……っ、姫様……もう、これ以上ここにいてはなりません。戻りましょう」

「……ください……殿を……」

 姫の伸ばされた手は、すぐに力なく地に落ち、唇からは音のない言葉がすり抜けた。


 梅の手に伝ってきた生暖かい水。梅の涙ではなく――


「姫様! 姫様あぁ!」

 梅の悲鳴に近い泣き声が、暗い中を突き抜けた。


 はらり。 

 

 枯れた竹の葉がまた枝を離れて転がっていった。



     ◇





 線香の煙が細く上がる。梅は、寺の裏に作られた真新しい墓に向かい、世真と共に手を合わせていた。

 寺を囲む竹林は、今日もさらさらそよぐ。全体が黄色になっていた竹林は、今は新たな葉が茂り、元の姿に戻りつつある。


 姫はあの夜、竹林の中で息をひきとった。

 梅は、四十九日の法要を済ませた今でもときどき思い出す。あの時、本当に殿の御霊が来ていたのかもしれないと。竹林を抜けてきた微風の中に、かすかな香のにおいを感じたのは、気のせいだったのだろうか。

 ――いいえ、あれは気のせいでなく、本当に殿があの場に。

 魔除け札だらけの寺の中へは入れず、竹林に姫を導いた。そんな気がする。


『……うれしゅうございます』

 ──あの時、姫様は涙を流し、うれしげにそう仰せになったのだから。

 

 竹林の中で手に感じた水は、姫の喜びの涙だった。


 梅は唇を噛んで顔を上げた。

 ――姫様は殿とご一緒になれて、きっとお幸せなはず。


 焼香の煙が、細く糸を引き、燃え尽きた灰が音もなく落ちた。

 ――姫様、まことによろしゅうございました。


 梅は、満足そうに笑っていた姫の死に顔を思い出し、もう一度目を閉じて祈りを捧げた。


 【了】

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竹林に香る 菜宮 雪 @yuki-namiya

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