1400Km/h

-1-


 弁当箱に手早く料理を詰め込みながら、霧島望はあの頃から比べれば随分と手馴れた作業に我ながら感心していた。美里が何時も作ってくれていた弁当に比べると、色彩や品目が足りないのは仕方が無い所だろう。

 自分の弁当を完成させて蓋を閉め、次にその隣に並んでいるウサギのファンシーな絵がプリントされた小さいピンクの弁当箱の蓋を開ける。小さい弁当箱の中身に少し冷めた白米を3分の1ほど優しく盛ると、その上におかか味のふりかけを振りかける。白米に少しだけ残った熱がふりかけの中に混じっているつぶつぶした物をじんわりと溶かしていた。

 おかかの良い匂いが立ち上る中、仕切りを白米の横に置くとシリコン製の動物の形をしたバランで細かく仕切りながら少し茶色い卵焼きやミニトマト、鶏肉の照り焼きを載せていく。どれも一つずつであったが直ぐに空いていたスペースは埋まった。

 ピンクの弁当箱にも蓋をすると、随分と汚れが目立ってきたキルティング地の巾着袋へとしまい込んだ。

 ようやく終わった朝の台所での戦争に望はふう、と息を一つ吐いた。だが、本当の戦いはこれからだ。茶の間では何時もの死闘が待っているのだ。

「まーいー!」

 望は少し痛む腰を伸ばしながら自分の娘の名前を呼んだ。だが返事は聞こえない。何時も通りの反応だ。

 右手に自分の弁当箱、左手に巾着袋をぶら下げながら望が茶の間に行くと、そこには予想通り木製のチャイルドチェアに座ったまま、空になったウサギの絵が描かれたプラスチックの皿の前で、ピンクのプラスチックスプーンを握り締めて眠っている麻衣の姿が見えた。 

「ったく、美里に似なくていいところばっかり似るんだよな」

 食卓テーブルの上に両手の荷物を降ろすと望は随分と汚れている麻衣の口元をウェットティシュで優しく拭う。途中、イヤイヤをするように眠ったまま身体をよじらせるが、何とかしっかりと拭き上げることが出来た。ケチャップで赤く汚れたウェットティシュをゴミ箱に投げ入れると、望は麻衣の幸せそうな寝顔を暫く眺めていたが、突如けたたましくズボンのポケットから電子アラームの音が聞こえてくる。

 慌ててズボンのポケットに手を突っ込むと表示されたアラームを手早く切る。タイムリミットの7時の合図だった。

 アラームの音にぴくりともせずに眠りこける麻衣の両脇に自分の両手を差し込むと一気に上へと持ち上げる。学生の頃に比べると随分と筋肉が落ちた身体が悲鳴を上げるが、代わりに得た父親の力でまだ小さい麻衣の身体を抱き寄せると背中をぽんぽんと軽く叩いてやる。

 何度目かのチャレンジでようやく麻衣は目を覚ました。まさに、小さな紅葉というべきその手からスプーン落ち、からんとフローリングの床に転がると同時に自由になったその手を望の首元に巻きつける。

「ぱぱ、まだねむい」 

 ぺちゃ、と首元に巻きつけられた小さな手の先で湿った音が聞こえた。嫌な予感がした望は恐る恐る足元に落ちたスプーンに視線を向けると、握っていただろうその柄の部分にはべっちゃりとケチャップの痕が残っている。この分だとワイシャツの襟元も同じような惨劇に合っていると思われた。

「あー、パパもできればまいといっしょにねたくなってきた」

「じゃあねるー」

「だめ。パパ、おしごとあるからまいもがんばってほいくえんにいこう」

「えー」

「おべんとうにたまごやきいれたよ」

「じゃあいくー」

「よし。じゃあママにいってきますしてこようか」

「するー」

 望はゆっくりと麻衣を床に下ろす。麻衣はケチャップがまだついている手で目元をこすりながら寝室へと向かっていった。




-2-


「いってきます」

 望は片腕にまた眠ってしまった麻衣を抱きながらそう言ってアパートの玄関を閉めた後、鍵穴に鍵を差し込むとがちゃりと回した。そうした後、砂利を敷き詰めただけの駐車場に止めてある型落ちの軽自動車の前まで歩きながら、家の鍵と一緒に銀色のリングで繋がれている車のリモコンキーの開錠ボタンを押すと、ちか、ちかと2回、4つのオレンジ色の光が瞬いた。

 ロックが解除された後部座席のドアを開け、そこに見えるチャイルドシートに麻衣をしっかりと座らせると、今度は運転席のドアを開けその中に乗り込みアパートを後にした。




-3-


 急性硬膜下血腫。

 文字にすればたった7文字。そんな文字が死亡診断書に書かれていた。その他の文字には目がいかなかったことを望は今でも良く憶えている。

 買い物へと出かけた途中、突然飛び出してきた自転車を避けようとしたが間に合わなかったらしい。

 胸に抱いた麻衣をかばい、身体を捻ったところに衝突した自転車の勢いで運悪く歩道の縁石に頭を強く打ったらしい。

 警察署でことの顛末を聞いたはずなのだが、望には今もその程度でしか記憶が残っていない。それから数日後に霧島美里は亡くなった。

 5度目に見た春の色は灰色だった。

 だが、美里が文字通り命をかけて守りぬいた麻衣は、望にあの春の嵐が過ぎ去った日の夜に決めた夢に向かい、もう一度進む力を与えた。

 たどり着くことが出来たハッピーエンドは目の前で呆気なく砕け散ってしまったが、長い時間を掛けてその欠片を少しずつ拾い集めた。かき集めた欠片はもう決して元に戻ることは無いけれど、それに小さく灯った光だけを頼りに無様にでももう一度走り出した。次のハッピーエンドに向かって。

 また春の嵐が来たならあの日のことを鮮明に思い出すのだろう。

「麻衣」

「分かってるって」

 食卓テーブルを挟んで向かい側に居る麻衣に望が声を掛けると、残っていた朝食を素早く口の中に詰め込みコップの水を口に含み強引に流し込んだようだ。その光景に望は一つ溜息を吐いた。

「はい、ティシュ」

「ありがと」

 望が差し出した2枚のティシュを受け取ると麻衣は口元に残っていたトーストの残骸を乱暴に拭い捨てた。その光景にもう一度望は溜息を吐いた。

「ママがお前と同じ年の頃はもう少し可愛げがあったと思うんだけどなぁ」

「彼氏の前なら誰だってそうするでしょ」

「は!?お前彼氏居んの!?」

「あー、いないいない」

「今の言い方は怪しいなぁ」

「あ、うざ」

 麻衣はそう言うと綺麗な形の眉をへの字にまげて食卓テーブルの椅子から立ち上がる。その表情に望は懐かしさを感じて思わず微笑んだ。

「娘にうざがられて笑顔になるって父さん一寸変態なんじゃない?」

「今の顔ママに似てたもんだからさ、つい。……って言うか変態は無いだろ、親に向かって」

「あーうざいうざい。似てるのか似てないのかどっちなんだって話」

「似てるよ。ママにそっくりだ」

「何回言われても実感わかないわ」

「パパは分かるからなぁ」

「はいはい」

 2人は何時もの言い合いをしながら望の寝室へと向かっていく。

 望がドアを開けて先に寝室に入ると直ぐに麻衣も後に続いた。

 寝室の古びたセミダブルのベッドの横には小さな仏壇がある。その仏壇には少し色褪せた、あの頃机に飾っていた初詣の写真が飾られていた。今では写真の美里より麻衣の方が年を取ってしまったことに、望は不思議な感覚を憶える。

 2人は仏壇の前に膝を着いて手を合わせ目を閉じた。少し時間を置いてまず麻衣が目を開き、その後望が目を開く。

「ねぇ父さん。何度も言ってるけど2人が映ってる写真が仏壇にあると父さんまで死んでる気持ちになるから早く替えて欲しいんだけど」

 すっと立ち上がった麻衣は何時ものようにそう言った。

「ママ、可愛いだろ。パパのお気に入りの写真だからダメだな」

「ママのこと好き過ぎるでしょ……」

「勿論」

「はぁ。先行ってるよ。……遅刻するから早めにね」

 そう言って麻衣は望の横を抜けて茶の間へと戻って行った。毎朝父を1人にしてあげるための、何時もの優しい茶番はきっと美里に似たのだろう。自分には良く出来すぎた娘だと望は頬を緩ませた。

 そうして部屋に1人残った望は何時ものように色褪せた写真を手に取った。

 そこには記憶のままの美里が少し恥ずかしそうな表情で自分と並んでいた。

「愛してるよ。美里」

 そう、呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

流星と春の嵐 @yoll

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ