Monster


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 もう4度目になる北海道での春を迎え、霧島はすっかり見慣れたポプラ並木の前で一息ついていた。その傍らにはもう型落ちになったCannondale CAAD10 105が並んでいる。

 霧島はこの時期になると毎年あの日の春の嵐を思い出す。今の自分はあの頃の霧島望にとって望んだ道を歩めているのか。そう、自分に問いかける。

 随分と遠回りをしたような気もするし、必死に走りすぎてあっという間のことだった気もする。どちらにしても言えることは、一歩ずつあの日描いた夢に向かって前に進んできたと言うことだった。ただ、その過程では何度も美里の気持ちに甘えてしまったり、泣かしてしまうこともあった訳だが。

 柔らかな朝の陽光がポプラの大きな葉に一度遮られ、幾筋もの細い光の矢となって地面に向かって降り注いでいる。その光景に霧島は思わず目を奪われた。だが、せわしなく霧島を避けて通るビジネスマン達の目には、それはまるで映っていないようだった。




-2-


 札幌市白石区のあるアパートの台所では、随分と大人びた雰囲気に成長をした松原美里が上機嫌で鼻歌を歌いながら夕食を作っていた。いや、今の説明には一つ間違いが含まれていたので正しく言い直すことにしよう。

 アパートの台所では松原美里改め霧島美里が夕食を作っていた。

 彼に初めて抱かれたあの日からもう5年が経った。今思い出しても思わず顔が赤くなる。正直なところ、如何してあれほど大胆な行動に出れたのか自分でも分からない。きっと両親から引越しの話を聞かされたその時から一人で悲劇のヒロインになりきっていたのだろう。付き合い始めてから随分と待たせてしまったが約束通りに彼に抱かれ、その思い出をひっそりと胸に秘め、一人で生きていくのだろうと思っていたあの日の自分に呆れ果てる一方で、我ながら良くやってくれたとサムズアップを送りたい。

 とんとんとんとん、とリズム良くキャベツを刻みながらふと札幌に引っ越して来たばかりのことを思い出す。

 今では自分の夫である霧島望はあの日決めた約束、つまり1カ月に2度以上逢いに来るという約束を、高校3年生でいる間のおよそ1年の間しっかりと守り抜いた。その1年と言う時間の中では痴話喧嘩から別れの危機へと発展しかける大喧嘩までいろいろあった訳だが、それを無事乗り越えお互い札幌の大学へと進学を果たした。その時に美里の両親に土下座をしてまで望が同棲を許してもらったのも今となっては良い思い出だろう。

 大学に入学し立ての頃に望が真っ先にサイクリングクラブに入部をして、いきなり先輩の女性部員に告白をされたと聞いた時には、暫くの間お弁当の提供を拒否したのも今となっては良い思い出だ。はっきりと自分のことを言えばよかったのにと美里はきれいな眉毛をへの字に曲げる。少しだけ包丁を握る手に力が入り、暫くの間太目のキャベツの千切りが量産されていた。

 それに気付いた美里は一度手を止め、包丁をまな板の上に置くと太めに刻まれた千切りを指で摘むと口に運んでいく。証拠は隠滅するに限る。

 味付けをしない生のキャベツは少しだけ青臭く、何度か噛み締めると野菜本来の優しい甘味が口の中に広がった。

 美里は口の中で咀嚼されたキャベツの塊をゆっくりと飲み込んだ。




-3-


 美里は望に1つ隠していることがあった。

 正直なところ、結婚をした今ならば時々2人で飲むウィスキーの肴にでもと話せる内容だと思うが、何とは無しに今まで話すことが出来ないでいた。きっと多分、これからもそうなのだろう。

 ことの始まりは大学3年生の夏の頃だった。今思えば結婚資金を貯めるためだったのだと分かるのだが、望はその生活の時間のほぼ全てをバイトに費やし始めた。美里は結果的に1人で過ごすことが多くなり、疲れ果てて帰ってきた望と顔を合わせれば喧嘩をしていた。

 溜息を1つ吐き、美里は当時のことを思い出しながら大きな皿にキャベツの千切りを盛り付ける。その時に一言でも自分に説明をしてくれたなら良かったのに、と。

 それから暫くすれ違いの日々が続いていた時に、大学の先輩が美里に声を掛けた。

「そんな顔して何してるの?暇ならサークルにでも入らない?」

 思えば単純にサークルの勧誘だったのだろう。3年生になるまではほぼ毎日のように望と一緒に帰ることも多く、そんな機会も無かったことを思い出す。きっとその時にしていた表情は太目の千切りを刻んでいた時のように眉がへの字に曲がっていたに違いない。

「お話だけでしたら」

 突然出来た一人の時間を持て余していた美里はそう答えた。

 学校の食堂に場所を移して美里は先輩のサークルへの勧誘の話を聞いていた。何やら熱心に話していたことは憶えてはいるが、今ではそのサークルの名前も思い出せない。

 結局のところ、その先輩が勧誘してくれたサークルに美里が入部することはなかった。もしも入部をしたくなったらとLINEの連絡先を交換したが、その画面を開くこともなかった。

 美里は大きな皿に盛り付けられたキャベツの千切りの上にトンカツを手ごろな大きさに包丁で切り分けると菜箸を使って盛り付ける。壁にかけられた100円ショップの時計を見ると短い針は数字の7を指している。予定通りならそろそろ望がバイトから帰ってくる時間だろう。

 美里は両手で大きな皿を両手で持つと、居間においてある小さな食卓テーブルまで慎重に歩くと静かにそれを置いた。そしてその大きな皿の隣にある自分のスマホを手に取った。

 電源ボタンを押すとロック画面に重なって綺麗な夜景の壁紙が表示された。それは生涯忘れることはないだろう、望が美里にプロポーズをしたホテルのレストランから撮った写真だ。よくよく見ると、ガラスに映りこんだ2人の姿もうっすらと見ることが出来た。実はあのサークルの勧誘を受けた次の日だということを勿論望は知らない。

 そしてその後、美里の両親に学生結婚の許しを請うために二度目の土下座をしたのも記憶に新しい。

 美里はロック画面を解除するとそっとLINEのアプリを起動した。直ぐに望とのトークの画面が表示をされるが今のところ新しいメッセージは無い様だ。

 次にバックキーを指で触れ画面が切り替わると右に向かって指をスライドさせる。友達の一覧が表示をされると何度か画面を下にスクロールさせ、目的の名前を見つけ出す。その名前を人差し指で長押しするとポップした画面のブロックの文字を押した。最後に確認の文字がもう一度ポップしたが、それをもう一度人差し指で押す。これでもう証拠隠滅だ。

 別に浮気をしたわけでも無く、気持ちをときめかせることも無く、後ろめたいことも何一つ無かったのだが、今まで何となく消すことが出来なかったその名前を消した美里は満足そうに微笑むと、夫である望の帰宅を食卓テーブルの椅子に座り待つことに決めた。今夜はあの日のように自分から誘ってみようかな、と思いながら。

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