流星と春の嵐
@yoll
春の嵐
-1-
後悔と言う言葉がある。
後悔とは、してしまったことについて、後から悔やむことである。当たり前のことではあるが、逆説的には何かしらの悔やむべき何かが過去において起こってしまったということにもなる。
少年、霧島望は電気もつけず真っ暗になった部屋でベッドに表現の出来ないような顔をして、身体を投出すようにして寝転がっていた。
詩的表現力の欠片もない私がごく一般的な表現を使い、あえてその表情を表させて頂くとすれば、酷い後悔と、深い悲しみと、どうしようもない悔しさと、突然の戸惑いと、自分に向けられた怒りと、僅かばかり残った幸福感をごちゃ混ぜにして作り上げた、そんな表情だろうか。
良く晴れた夜空からはうっすらとした優しい月の光が、カーテンもかけられていない窓から誰も座っていない学習机をぼんやりと照らしている。
学習机は綺麗に整頓されていた。教科書や参考書などは種類や大きさごとに一つのずれもなくきちんと並び、ペンやハサミ、定規などと言った小物類などはやけに可愛い入れ物などに収まっている。そんな学習机の天板には似つかわしくない、伏せられたままの写真立てが真ん中にぽつんと置かれていた。
-2-
その日は朝から風の強い日だった。
朝の天気予報では春の嵐となりそうだと気象予報士が全国の天気図を見ながら言っていた。
霧島望は駅前に置かれている木製のベンチに座りながら曇天模様の空を見上げ、今日のデートに心を躍らせていた。もう何度目になるか数えることも面倒臭いほどの回数を重ねても、何時も新鮮な発見や驚き、愛しさを見出すこの時間は霧島にとってきらきらと光る宝物といってもいいだろう。そしてあの日に約束をした今日はその中でもきっと特別な一日になる予定だ。
その相手である松原美里は待ち合わせの時間に遅れることが多いため、こうして待ち時間を使って一人スケジュールの確認を行うのが常となっている。そんな時間を過ごすことも露ほどに苦とも思わず、霧島は自然早くなる鼓動が収まるようにと深呼吸を繰り返していた。
そんな霧島の視界にこちらに向けて小走りで駆け寄ってくる少女の姿が映った。少し小柄な体格で、肩まで伸びる黒髪が綺麗なその少女の顔には学校では他に見ることもないような古いデザインの銀縁の眼鏡を掛けている。霧島が見間違えようもない。松原美里だ。あの古めかしい可愛さの欠片も見られない眼鏡は、確か松原の大好きだった祖母の形見だと言っていた。
思わずベンチから腰を上げた霧島を見つけたのか、松原はややはにかんだような表情で暖かそうなコートの裾を上げると手を振る。
僅か数秒待てば埋まる距離も待ちきれないとばかりに霧島は思わず駆け出し、それを見かけた幾らかの通行人が微笑ましい2人の時間に幸あれとばかりに口元に笑みを浮かべていた。
「望ちゃん、ごめんね。お待たせー」
「何時ものことだから気にしなくても良いよ」
「何というか、何時ものことながらごめんね」
「もう慣れてるから」
「意地悪。フォローして欲しいって言ってるんだけど」
「それももう慣れてるから」
もういつもの挨拶となったやり取りを終えると、何時もの通り少しむくれ顔をする松原の手を霧島がそっと包み込むように握る。冷たい風に吹かれたせいだろうか、その手はすっかりと冷え切っていた。
松原は少し汗ばんだ、その自分よりも大きな霧島の手をぎゅっと、何時もよりも少し強い力で握り返す。あっという間にその顔には花が咲いたような笑顔が浮かんでいた。
自分に向けられた笑顔に霧島は少し顔を赤くしていたが、こほんと一つ咳払いとすると口を開く。
「とりあえず間に合いそうだから予定通りに映画館でも行こうか」
時々松原の遅刻で観れないこともある映画鑑賞は2人の共通の趣味の一つだった。今日は待ち合わせの時間から15分程度の遅れのため、それを見込んだ霧島の予定通りの流れだった。
すると松原は霧島の手を更にぎゅう、と強く握り締めると顔を地面に向ける。
「……今日はもう望ちゃんの家に行きたい」
雑踏に紛れて消えそうな声で松原がそう言った。冷え切っていた手は何時の間にかじっとりと汗ばんでいる。俯いたその顔を伺うことは出来ないが、黒髪からぴょこんとはみ出している両耳は真っ赤に染まっていた。
雑踏に紛れ込み、消えてしまう前のその言葉を霧島の耳はしっかりと捕らえていた。急激に心拍数が上がり、飲み込んだつばが周りの他人に聞かれるのではないかというようにごくりと大きな音を立てる。
「それって、そういうこと?」
霧島がからからに渇いた口を開いて何とか言葉を紡ぎ出すと、松原が小さくこくりと頷くのが見えた。赤い耳は突然発火でもしてしまうのではないかと心配になるほどだ。
今まで松原は霧島が決めた予定に対して口を出すことは無かった。これは言わばスケジュールを重視する霧島にとっての予定外の非常事態だ。
その非常事態の中で何とか霧島は心を落ち着かせるために目を瞑り、深呼吸を一度するとゆっくりと瞼を開けた。明るさを取り戻したその視界に、林檎のように真っ赤になった松原の顔が自分を見上げており結局努力は無駄になってしまったが。
「……良いよ。今日も父さん帰ってこないから」
霧島はそれだけ言うと松原の顔を直視することが出来ず、同じように真っ赤になった顔をふい、と空に向けた。曇天模様の空からはついに雨粒が零れ落ち、霧島の火照った顔を打った。
ほんの僅かな時間を置いて、2人は真っ赤な顔を見合わせないように細心の注意をしながら霧島の家に向かい歩き出した。その手をしっかりと握り締めながら。
-3-
2人が2階の霧島の自室に入った頃、外は本格的に嵐になっていた。
ごうごうと強い風が窓ガラスに叩きつけるようして吹き付けている。雨は家の玄関をくぐった直後にスコールのように激しく降りだし、今では窓ガラスから見える生活道路に幾つもの大きな水溜りを作っていた。
部屋の中で今も無言のまま松原は霧島のベッドの端に座り、小雨で濡れた髪の毛の先を落ち着かない様子で弄っていた。霧島は学習机の椅子に座り心ここにあらずといった表情でその様子を眺めていたが、ふと思い出したように椅子から立ち上がった。
がん、と勢い良く動いた椅子が机の足に当たり大きな音を立てると、松島がベッドの端で身体を浮かせるほどに驚きその顔を霧島に向ける。
「か、髪、濡れてるよな。下からタオル取ってくるから少し待ってて」
そう言って、ぎこちない動きで部屋から出て行こうとする霧島の手を松原の手が掴んだ。
「……体が冷えちゃったから、シャワー借りても良い?」
霧島の手を掴む松原の手はまるで風邪でもひいているのかの様に熱く火照っていたが、それを正直に言うほど霧島は馬鹿ではなかったし、これから起こるだろうことが分からないほど子供でもなかった。
その返事の代わりに握られた松原の手を軽く引いてベッドから立たせた。
「望……のバスタオル借りるね。どんな奴なの?」
「あ、ああ。熊の絵のやつ。観たら直ぐ分かるから使っていいよ」
「熊のバスタオルか。ふふっ。可愛いの使ってるんだね」
そう言ってするりと霧島の手から自分の手を解くと松原は素早く部屋から出て行った。可愛いのを使っているなどと言われたことについて、何時もなら直ぐに軽口の一つでも出るはずなのだが、初めて名前を呼び捨てにされたことと、今まで見たことがない妖艶な表情の前には呆然と立ち尽くすことしか出来なかった。
霧島は暫く部屋で1人立ち尽くしていたが、1階から聞こえてくる少し古い灯油ボイラーが動き出した音で我に返ると慌てて机の中を弄りだした。
目的のブツは所謂アレだ。松原と付き合うことになったと伝えた際に悪友から渡されたシリコン製の高性能コンドーム。早めに使えると良いなと言われて早半年。周りからは奥手過ぎると言われていたが、気にすることなく自分達のペースで歩いてきたつもりだ。いや、正直に話すと霧島は2人で約束をしたこの日が来ることを毎晩のように待ち望んでいたのだが。
果たして目的のブツは直ぐに見つかった。何時でも使えるようにと時々チェックを欠かさないでいたのが功を奏したのだろう。銀色に包装されたそれを手にすると、何時も使っている枕の下に隠すようにして置く。
それだけで大仕事をやり遂げたかのように大きく息を吐くと、さっきまで松島が腰掛けていたベッドの端に腰を下ろした。自分では平静を保っているつもりだったが、表情は誰が見ても分かるほどにやけていた。頭の中はこれからの妄想で一杯だ。
霧島が妄想を膨らませていると不意に部屋のドアが開いた。どうやら妄想に集中をしすぎていたらしく、階段を登ってくる足音にも気が付かなかったらしい。
「望……ちゃんも、早めにシャワー浴びてきてね」
熊の絵がプリントされたバスタオルを身体に巻きつけただけの松原が真っ赤な顔で部屋に滑り込むと、素早く霧島を迂回してベッドへ飛び込み頭まで布団の中へと潜り込んだ。それからはピクリとも動かない。
「ちょ、一寸だけ待ってて」
そう言うだけで霧島は精一杯だった。
-4-
それからの時間を説明するのは野暮と言うものであろう。
何時しか窓から見える空は夕暮れに変わっていた。窓にレースカーテンを閉めていなかったことを本気で怒り出した松原をなだめるために随分と苦労をすることになったのだが、霧島は更に愛おしくなった腕の中の自分の彼女に本日何度目か分からないキスをする。
ベッドの上で壁に背中を預けた格好の自分に絡みつき、甘えるように頬を擦り付ける松原をきつく抱きしめながらぼんやりとこれからのことを考えていた。
高校を卒業して、大学に入り、大学を卒業して、会社に入る。そしてその隣には少しずつ大人になる松原の姿。少年は当たり前のようにその光景を頭の中に描き出す。
「ねぇ、望ちゃん」
「なに?」
結局松原が霧島のことを呼び捨てで呼んだのは行為の最中も含め、あの時の一度だけだった。それがずっと近くなったはずの距離の分、一寸だけ歯がゆかった。
「好きだよ」
「俺も好き」
霧島は即答する。
「少し暗くなってきたから電気つけようか」
そして身体を起こし、ベッドから立ち上がろうとする霧島を松原は抱きしめて許さなかった。
「聞いてほしいことが、あるんだ」
-5-
要約すると、別れ話だった。
どうやら松原は両親の事情で来月には北海道へと引っ越してしまうらしい。高校生である霧島にとって海を越えた北の大地は海外と同じ位未知の土地だった。
まだ未成年である霧島にとって松原の両親が決めた引っ越しというそれは絶対的で、そして絶望的な出来事で。酷く混乱する頭ではどうすればいいのかなど、決められるはずも無かった。
どうすることも出来なかったがゆえに、その絶望を大好きな松原にぶつけてしまった。にこにこと、涙を流しながらの笑顔のままで何度も自分の言葉に静かに首を横に振る松原が、閉じたままの瞼に焼き付いたように離れなかった。
はっきりとは覚えていないが随分と酷いことを言ってしまったと思う。それでも松原は何一つ文句を言うことなく笑顔で泣いていた。そして霧島の口から言葉が無くなるとゆっくりと身体を引き離し、松原は永遠にも思えるくらいの長い長いキスをした。霧島は情けないことにそのキスをただ受け取ることしか出来なかった。
キスの後、松原は「またね」とだけ言って帰っていった。霧島はベッドから起き上がることも出来ず、玄関のドアが閉まる音をおぼろげながらに聞いたような気がした。
それからどうしていたかは殆ど覚えていなかった。ただ、ベッドに倒れこんでいたような気もするし、渇ききった喉を潤すために台所へ行ったような気もする。初詣の時に2人で撮った写真が飾られている写真立てを倒したような気がする。
ゆっくりと霧島はベッドから身体を起こすと部屋の電気をつけるために、のろのろと気だるい体を動かした。部屋の入り口のスイッチを手探りで探し当てると指で弾いた。
途端に部屋は真っ白い蛍光灯の光に包まれた。ついでに結局閉めることが無かったレースのカーテンをブルーの遮光カーテンと一緒に一気に閉め切った。
少しだけ、落ち着いた気分の中で霧島はずっと見ていなかったスマホを学習机の上から手に取った。幾つかの着信を知らせる小さな光が点滅を繰り返していた。
スマホの電源ボタンを押すと、ロック画面に重なって先ほどまで部屋にいた松原の恥ずかしそうな笑顔が浮かび上がる。浴衣を着ている姿は、夏祭りに嫌がる松原を何とかなだめすかして撮った写真で、霧島のお気に入りの一枚だった。学校ではバカップルだと冷やかされているが、壁紙を変えるつもりは全く無い。
時刻はデジタル表示で00:07。どうやら思っていた以上に長い時間呆けていたようだと霧島は溜息を吐く。すばやくロックを解除すると松原からのLINEに目を通した。
その場では伝えることが出来なかったのだろう感情がそこには溢れていた。読み進める内に霧島の目には涙が盛り上がり、直ぐに零れていった。
ああ、何て馬鹿なことをしていたのだろう。傷ついたのは自分だけじゃなく、彼女も一緒なのだ。悲劇のヒロインのような顔をしてもいいのは自分じゃなく松原だ。どうにかして霧島望はそれを救うヒーローにならなければならない。ハッピーエンドに辿り着けるかは分からないが、それを望む心が無ければ決められたバッドエンドへ一直線だ。
霧島はLINEで松原に「これから行く」とだけ返信をする。浮かび上がった噴出しの左下には同時に既読の文字が浮かび上がる。数秒もしないうちに「待ってる」と返信がきた。
霧島はジャンバーを羽織ると、すっかり収まった春の嵐に感謝をして家を飛び出した。
-6-
松原の家の前には僅か10分ほどで着いた。霧島は、はぁはぁと喘ぐように荒く呼吸をしている。その度に白い息が寒空に上がっては消えていった。
相棒のCannondale CAAD10 105が頼もしかった。何度もこのロードバイクに跨り松原の家まで来ることもあったが、今回が最速ラップであることは間違いないだろう。
松原家は一軒家で、兄弟が居ない美里の部屋は霧島と同じ2階だ。両親の部屋は1階にあると聞いている。1階の明かりは消えているが、松原の部屋の窓はカーテンが半分だけ開けられ明かりが漏れていた。
そこにはパジャマ姿の松原の姿が見えたが直ぐに見えなくなる。
霧島がロードバイクのハンドルに固定したままのスマホに表示されたLINEのアイコンをタップしようとした時、がちゃりと玄関のドアが開く音が聞こえた。
「望!」
それと同時に真っ白いフリースのパジャマを着た松原が飛び出し、霧島に思い切り飛びついた。不意を付かれたため大きく体勢を崩したが、ロードバイクで鍛え上げた下半身の筋力を総動員して、何とか霧島は転ばずに松原を抱きしめることが出来た。
そのまま霧島は松原にキスをする。松原もそれを黙って受け入れた。
長いキスの後、2人はゆっくりと離れる。霧島を見つめる松原の目は腫れ上がり、酷く充血をしていた。
「こんな時間にごめんな。どうしても美里に謝りたくて」
「何時までたっても既読付かないからもう嫌われちゃったかと思ってた」
「そんなこと絶対に無い!俺、美里のこと愛してるから」
「……もう別れちゃうのに?」
「いや、俺は諦めないぞ。美里と結婚するって決めてるから」
「……気が早くない?私のこと抱いたから?」
そう言って松原は自分の身体を抱きしめる。夜の冷たい空気に晒されたその身体は少し震えていた。霧島は慌てて羽織っていたジャンバーを脱ぐとその肩に掛ける。
「いや、それも無いとは言い切れないけど、どう考えてもそれ以外の未来が思い浮かばなかった」
霧島はそう言うと長い溜息を吐いた。
「酷いことばかり言ったかもしれない。正直頭が真っ白で何言ったか憶えてない。忘れてくれとは言わない。多分それが俺の本心だったと思う。でも、良く考えてみれば最初から別れるなんて選択肢は俺には無い訳なんだよな。だから、改めて言わせてくれよ。俺とこれからも付き合って欲しい」
「逢えないよ?」
「高校卒業したら俺も北海道に行く」
「待てないかも」
「バイトした金は自転車に使わないで旅費にする。1ヶ月に2回以上は逢いに行く」
「……それだけじゃ足りない」
「じゃあ……」
そう言って続く言葉が見つからない。バイトの給料を考えてもギリギリ3回旅費を出すのが限度だろう。そこから先は貯金を切り崩すしかない。いや、松原に逢うために貯金を切り崩すのは構わないのだが、霧島が先程思い浮かべた人生設計のことを考えると出来れば回避したい。
そう考えながら口元に手を当ててうんうんと唸りだした霧島を眺めていた松原は、不意にその胸に飛び込んだ。
「私も逢いに行く」
その言葉に霧島は大きく目を見開いた。
「じゃあ……」
「約束通りに来てくれなかったら直ぐに忘れちゃうから」
「分かった。約束する」
そう言って霧島はもう一度松原を抱きしめた。
「ああ、何とか崖っぷちの状況から抜け出せたようで良かった」
寒空の下で2人は長いことお互いの存在を確かめ合っていたが、霧島のくしゃみで途切れることになった。
松原は肩に掛けていたジャンバーを霧島に返すと玄関のドアを開け、中にそそくさと戻って行く。玄関の電気は点いておらずその表情ははっきりとは見えないが、どのような表情をしているかどうかを想像するのは酷く簡単だった。
「明日からも、また宜しくな」
「うん。これからも宜しくね」
「じゃあ」
「じゃあね。望ちゃん」
きい、と静かな音を立てて松原を隠すように玄関のドアが閉められる。
霧島は塀に立てかけてあった相棒にゆっくりと跨ると2階を見上げた。そこには松原の姿があり、此方に向かって手を振っていた。
それに手を振り返すとゆっくり窓のカーテンが閉められた。そして明かりが消える。
それを見届けた後、霧島は相棒を走らせる。
今日は色々な事があり過ぎた。でもそれはこれから春の嵐に会う度に鮮明に思い出すことだろう。
霧島はまだ仄かに残る松原の体温を抱いたままペダルを踏む足に力を込めた。
ハンドルに固定されたスマホのホーム画面にLINEで「愛してる」の文字が短い間表示をされたが、しっかりと前を向いた霧島がそれに気付くことはなかった。
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