図書館暮らし。

青い向日葵

ある街の図書館にて

 真剣な表情でページを捲る彼女は、187項の深い折り目の跡を見つけると、

「あっ」

 小さく声を上げた。

「……間違いないわ」




 ふふ、その通り。沢山の人の手に渡り、この街で小さな旅を続ける私は、かつて貴女の私物だったけれど、引越しの際に大量に処分された古い本の山の中に埋もれていた。

 遂に捨てられる時が来たかと一度は覚悟したものの、どうしてもまだ生き続けたいと、誰かの心にそっと柔らかな棘を刺したいと、私は諦めずに強く願った。

 まもなく願いは叶えられた。思いもよらぬ形で、私は今もこうして日々密やかに多くの人々の心を揺らしている。


 貴女が初めて私を手に取り、夢中で文字を追いながら声もなく泣いていた日を忘れた時はなかった。普段は涙を見せない気丈な貴女の無防備な視線は言うならばなまめかしく、息を呑むほどに美しかったから。

 貴女は、時が経つのも忘れて私の中の文字を舐めるように、その濡れた眼で辿り何度も睫を震わせ、薄紅色の唇を噛んだ。


 私は多分、ここに並んだ文字の魔力によって、癒しなどという優しい言葉では括れない痛みを伴う強烈な感情を読む者に与えるのだと思う。

 私の中の文字を紡いだ作家は、どんな気持ちでこれを書いたのかわからないけれど、開けば押し寄せる言葉を受け取る側は生半可な気持ちで流すことなど不可能であり、一旦入り込んでしまえばもう永遠に胸を抉る感情の正体に目を逸らすことが出来なくなる。


「僕の本にはペンで線が引いてあったり細かく折り目が付いていたりするから、新品を買ってきた。こっちを君にあげるから、ゆっくり読んだらいいよ」

 貴女が慕っていたあの人は、駅前の書店で私をわざわざ取り寄せて、何でもない普通の日に包装もなしに貴女に贈った。

 だからこそ私は特別なものでも何でもない数多くの既読の書の中の一つとして、やがて不要品の山の中に埋もれ、後にリサイクルという名の流転の旅に出されることになったのだ。


「ああ、これ……やっと巡り会えたわ。手放してしまったことをずっと後悔していたの。また出会えてよかった」

 貴女は現在の私の住処であるこの図書館で、偶然に私を見つけると、興奮気味に手に取って静かに叫んだ。それは嘘のない純粋な気持ちであることがありありとわかったので、私は素直に喜んだ。

「お久しぶり。変わらないね、貴女は」

 私は、ちょっと嬉しくなって、貴女の心に話しかける。


 人間は、どんなに気に入ったものでもすぐに飽きてしまい、同じ状態を長く続けることが苦手な生きものだということも私は知っていた。

 貴女が私を捨てたことは、珍しくもない自然な事の成り行きで、まったく悪いことではない。

 それなのに、ちりちりと心を痛めていつまでも悔やんでいた貴女は、きっと私よりも私を贈り物として貴女に渡した彼のことを切なく胸の奥に想っていたのだろう。


 思い出とは時として非常に厄介なものだ。遠ざかるほどに純度と輝きを増してゆく。穢れなき宝物として化粧箱に入れられて、大切に育まれながら、温かいまま眠り続ける。

 そのからくりを知っていても尚焦がれるくらいには魅力的で、寂しさで幾重にも織られた衣を濡らしてずるずると不毛の湖に引き摺り込むのだから、本当に困ったものだ。


 貴女がここで再び出会ったものとは、どんな感情だろうか。懐かしさ、若さ、愉悦、切なさ、悲しみ、或いは憎しみ、恋、思い出、自分。

 いつの間にか何処かへ置き忘れたような思いを拾い上げるみたいに、愛おしむように手に取ってぱらぱらと捲る貴女の白い指が、私の中の扉を開けて見えるものは、光と闇の入り混じった複雑な色をした静謐。

 変わらぬ想いと、変わり果てた現実の下敷きになって呻く夢の欠片。掴めないけれど、確かに有るもの。


 貴女は、私をその手に大事そうに持って、迷わず受付カウンターへと進んで行った。


 ──ピッ。




 いつもの手続きを踏んで彼女の手に渡る私は、今は誰のものでもない一冊の図書館に置かれた古い本です。

 こんな日を楽しみに待っていました。私の日常は穏やかで、刺激に溢れているのです。

それは、お気に入りの運命、図書館暮らし。

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図書館暮らし。 青い向日葵 @harumatukyukon

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