子供と大人の間の時間に

@yoll

子供と大人の時間の間に

 北海道の田舎にある高校の一つが、生徒数の減少により周辺の高校との合併が決定し、たった今卒業式を終えて残すところあと一週間で廃校となることが決まっていた。


 思い出の母校を背に卒業を終えた一人の男子生徒は、――いや、この場合は既に高校を卒業してしまったため、元男子生徒とでも呼べばいいのだろうか。ともあれ呼び方など些細な問題に過ぎないため、これからは元男子生徒と呼ぶことにするが――感慨深げに通いなれた校門の前に立つと、今時期の北海道では珍しい暖かさを運んできてくれた強い日差しに照らされている、卒業おめでとうと大きく書かれた大きな手作りの看板が立っている生徒玄関をぼんやりと眺めていた。


 その元男子生徒は、女手一人で育ててくれた母親の生活を少しでも楽にすることが出来ればと思い、三年生の中頃から就職活動を始めると、幸いなことに隣町にある小さな町工場で就職出来ることが決まっていた。無論、母親からは就職をせずに進学を勧められてはいたが、中学卒業を控えている妹のことを考えるとその選択肢を選ぶことはこの高校に入学をしたときから放棄をしていたのである。そしてそれは廃校が決まったことを切欠に確固たるものへと変わっていった。


 さて、この高校は残すところあと一週間で廃校となることが決まっていると話をしたが、ただこのまま廃校を待つだけでは味気が無いと在校生達は、廃校祭なる催しを企画していた。

 創立68年を誇り、規模は小さいながらもそれなり以上の歴史を持つこの高校を卒業した、数多くの地域の住民らもそれに大いに賛成をすると、何時の日にか小さな町を挙げての一大行事へをその姿を変えていった。


 就職や進学のためにこの町を離れる卒業生や、そして転校のためにこの町を離れることになる在校生を除き、その殆どの卒業生と生徒や教師は一週間後に迫ったささやかな廃校祭のために、まるで独楽鼠のようにあちこち走り回っていた。卒業式の余韻など何処吹く風というところである。


 この元男子生徒はと言うと、幸いなことに実家から電車で就職先へと通勤することが出来たため、在校中から廃校祭の手伝いをすることを幾人かの在校生にお願いされていた。

 その返事はこの元男子生徒にとっては、(大げさではあるが)人生を左右するような非常に悩ましい問題を含んでいたため暫く保留にしていたのだが、生徒会の役員を務めていたためか、それなりの信頼と好意を受けて楽しい学校生活を送ることが出来たその恩返しにでも、と卒業式の雰囲気にも流されたところもあり、呼び出された後輩の女子生徒に了解の旨を返してきたところであった。


 卒業証書しか入っていない随分と軽くなった愛用の鞄を握りなおすと、元男子生徒は再びその生徒玄関の中へと入っていった。直ぐに目に付く自分の靴箱には踵が潰れて随分と薄汚れた上靴が残っていた。察するに、上靴を持って帰る用意をしていなかったということは、心のどこかでこの廃校祭の準備を手伝うことを決めていたのだろう。

 そんな自分に苦笑いをしながら上靴に履き替えると生徒会室を目指して再び歩き始めた。廊下は見知った顔が幾つもあり、すれ違う度に頭を下げて挨拶をしてくる。改めて、自分は幸せ者だと元男子生徒は頬を緩ませていた。


 その後直ぐに生徒会室に着くと数回ノックをした後、何時ものようにその扉を開けて中へと入る。

 見慣れた机と椅子、黒板が何時もの通りに並んでいた。ただ、黒板には生徒会の後輩が書いたものだろうか妙に凝った美術的なセンスのある文字で、「先輩卒業おめでとう御座います」の文字が白や赤、青のチョークなどで大きく書かれており、その周りにも幾つかのコメントのやり取りが残されていた。


 元男子生徒には、その「先輩卒業おめでとう御座います」と書かれた文字から先ほど呼び出された後輩の顔を思い浮かべた。人懐っこい性格の女子生徒で、生徒会の書記に立候補をすると元男子生徒と一緒に最後の生徒会を運営した。一癖も二癖もある生徒会役員達の会議の内容を上手く黒板に書き記しながら、余裕のあるときには得意のイラストも何時の間にか書き上げられていた。

 会議が終わると、色鮮やかで良くまとめられた一つのアートとも呼べるその黒板を、スマホの写真に残すことが皆の一つの習慣となっていたが、それが生徒会の結束に役立ったことは想像だに難くない。元男子生徒も辛いことがあった時などにはその黒板の写真を見直すことがあったほどだ。


 思わず元男子生徒はズボンのポケットからスマホを取り出すと、机や椅子と共にその黒板を写真に収めていた。カシャ、という電子音と共にまた一つのアートがメモリーの中へと記録される。

 表示された写真の写り具合に満足をすると元男子生徒は何時も座っていた自分の席に座った。今、生徒会室には自分一人しか居ないが、少し目を閉じると昨日までの出来事が鮮やかに瞼の裏に浮かび上がっては消えてゆく。

 どうして、頭の中のメモリーという奴もスマホの中の精密機器に負けず劣らずの性能を持っているらしい。だが、どうしようもなくこれから生きていく時間の中で、何時の日か少しずつその記憶が薄れ、ぼやけていくこともあるのだろう。そう少しセンチメンタルになった元男子生徒は、心の中に強くその光景を焼き付けるようにその瞼に力を込めた。


 トン、トントン。


 その時生徒会室にノックの音が響いた。

 大した自慢ではないが、元男子生徒はノックの音で誰が来たのかを当てる特技を持っていた。他の生徒会の連中に言わせればどれも同じように聞こえると言っていたが、これは間違い様が無く生徒会顧問の先生だ。反射的に元男子生徒は目を開き扉の方を見据えた。

 間もなく扉が開かれると、果たして予想通り生徒会顧問の先生が生徒会室に入ってきた。

 年は30歳と少しと言っていただろうか。甘栗色のその髪は、何時もはそのまま真っ直ぐに肩の辺りまで掛かっている。時々シュシュで一つに纏め上げることもあったが、今日は卒業式に参加をしていたためか後ろで見たことも無い感じに纏め上げられていた。元男子生徒にはどのようにすればそうなるのか見当も付かなかった。

 少しだけ視線を下げると何時もとは違う濃紺のスーツを着ている。卒業式の最中にも視線の端には見えてはいたが、その何時もと違い見慣れない格好に元男子生徒はその口を半開きにしたまま、思わず腰を浮かせかけていた。


「卒業式も生徒会室に残ってるなんてよほどここが楽しかった?最後の生徒が君達で本当に良かった」


 元男子生徒の心臓はまるで早鐘を打つように脈打っている。じわり、じわりと卒業式ではまるでかかなかった汗が背中から大量に吹き出ている。恐らくは額にも汗を掻いている事だろう。気付かないうちに握り締めた両手は既にぐっしょりと濡れている。そして空気椅子をしているような体勢のまま、両膝が小刻みに震えていた。傍から見れば、肉食動物に捕食される寸前の震える子鹿と言った所だろうか。


 ――ああ、怖い。


 元男子生徒は渾身の力を振り絞り、何とか不恰好な姿勢から椅子を引いて立ち上がると何時ものようにお辞儀をした。


「先生。今まで本当に有難う御座いました。俺も先生が生徒会の顧問で本当に良かったと思っています」

「あ、そんな事言って先生のこと泣かそうとしてるでしょ」

「いやいやいや、マジです。本当です。先生が居なかったら俺――」

「君は本当に手の掛からない良い生徒だったよね。この生徒会と君たちの事、絶対に忘れないよ」


 先生は元男子生徒の言葉を遮るようにそう言うと、ゆっくりとその体を黒板へと向けた。都合、元男子生徒には背中を向けることになる。


「この黒板は写真に収めたの?」


 その言葉に元男子生徒はきつく両手を握り締めたまま頷くだけで返事をした。先生にはその姿は見えていないはずだがその答えはわかっていたのだろう、何度か頷いた後自らもスマホを取り出すとその黒板を写真に収めた。

 カシャ、と電子音がざわつく廊下の音に負けず生徒会室に響く。


「寂しくなるね」


 背中を向けたまま、先生はそう言った。


「……そう、ですね」


 そう答えた元男子生徒の手がゆっくりと開かれていく。先生の背中を見ていた視線はゆっくりと下に向かい、薄汚れた自分の上靴が目に入った。


「先生、教師辞めるって本当ですか?」


 薄汚れた上靴を視界に入れたまま、元男子生徒は搾り出すようにそうポツリと呟いた。


「本当だよ。ここでの教師としての時間があまりにも素晴らしすぎたからそれを綺麗なまま終わらせてみるのも良いかもなって、そう思ったんだ」


 背中を向けたまま先生がそう答えた。少し鼻声に聞こえたのは元男子生徒の聞き違いだっただろうか。


「先生ね、これでも色々バイトとかしてたからさぁ、意外と何でも出来るんだよ」

「先生が器用なの皆知ってますよ」

「工作とかが得意なのはこの子しか居なかったもんね。そこらへんは苦労したわー」

「でも、何で先生を――」

「少し、疲れちゃった」


 先生の言葉に元男子生徒は喉まで出掛かっていた言葉を思わず飲み込んだ。

 聞こえてきた最後の言葉には、確かに涙が混じっていた。


「あ!ごめんごめん!君達が原因ではないよ?もう卒業して、今日先生の手を離れて、社会人として歩み始める君だから特別に言っちゃうんだけどさ、教師の世界って奴も中々に大変なもんでね。思ってた通りにならないことなんて山程あって、パンクしちゃった。君は先生みたいにならない様にね」


 背中を向けたまま先生は早口にそう言うとハンカチを取り出して涙を拭く仕草をしていた。

 それを見た元男子生徒の腹の辺りに、熱が生まれた。

 一度開ききっていた両手をもう一度痛いほどにきつく、きつく握り締める。吐き出した自分の息は熱く、鉛のように重かった。だが、それでも男子生徒は肺の中に重く溜まっていた空気を全て搾り出すように吐き出すと、一度だけ鋭く息を吸った。


「先生、俺と付き合って貰えますか?」


 元男子生徒の言葉は先生に届いていただろう。だが、先生は微動だにすることなく黒板を向いたままだった。

 やっとのことで伝えることの出来た想いに、元男子生徒は思わず心の中で踊りだしそうなほど狂喜していたが沈黙が続くに連れ、先ほどまでの震えが何だったのかと思えるほどのそれを越える痙攣じみた震えがその体を襲ってきた。

 その姿はまるで生まれたての子鹿もかくやと言うものだった。一寸したマッサージ器具にも見えるほどである。


「ばかだなぁ。先生と幾つ年が違うと思ってるの」


 永遠にも感じられる時間の後、先生がぽつりと呟いた。


「年なんて関係ないでしょう!」

「関係あるんだよ。若い君にはまだ分からないのかもしれないけど」

「分からないかもしれないけど、先生のこと好きになったんだから仕方ないじゃないですか!」

「人を好きになる気持ちは誰にも止められないって言うからね。それは否定しないよ。でも、その気持ちが必ず届くかって言うとさ、ドラマのようには行かないんだ」

「……俺なんかが、先生に告白して、成功するとは、思っていなかった、けど、きつい、なぁ」

「ごめん」

「……こうなること位は予測してましたけど、ね」


 元男子生徒の体の震えは嘘のように収まっていた。爪の痕が残るほど握り締められていた両手は力なくだらりと下げられている。早鐘を打っていた心臓は、今では止まってしまったかの様に自分では感じていた。欲を言うならこのまま心臓が止まってしまえば良いのに、と滲む視界の中先生の背中を呆然と眺めていた。


「君、さ。ここに来る前に書記の子に告白されなかった?一寸お節介焼いちゃったんだけど、あの子と付き合うのが先生良いと思うよ。社会人と学生だから一寸スリルあるかもしれないけど」


 背中を向けたままの先生が明るい声でそう言った。


「俺、これから先生に告白するからごめんって伝えました」


 その背中に向かって元男子生徒は小さな声ではっきりとそう言った。そしてよく見ると随分と端がほつれた学生服の上着の裾で両目から流れ続ける涙を力強く拭って捨てた。


「君、ばかだなぁ。賢い社会人にはなれないかも」

「良いんです。俺、不器用ですから」


 元男子生徒が何気なく行ったその言葉に、先生が思わずと言った感じで子供のように肩を震わせて笑った。


「その台詞、先生が好きな俳優さんの名台詞なんだよね」


 そう言うと先生はくるりと元男子生徒の方へと向き直った。少し赤く見える両目が優しく自分を見つめており、再び心臓が早鐘を打つことを感じ取る。


「そんなに私のことが好きなのかい?」

「はい。大好きです」

「そっか。君ずっと先生のこと見てたの知ってたんだ」


 短いやり取りの後、先生は一歩元男子生徒の方へと近づいた。

 窓から差し込む柔らかな日差しがうっすらと舞った髪に絡み、煌いていた。

 それから暫くの間の後、先生はもう一歩ゆっくりと元男子生徒へと近づいた。

 先生の背は元男子生徒より10㎝ほど低い。男子生徒はもう後一歩で触れ合うほどの距離に近づいた先生の顔を何も出来ずに見下ろしていた。


 更にもう一歩先生が近寄ると同時に、唇に柔らかな感触が軽く押し付けられた。

 視界いっぱいに広がる目を閉じた先生の顔がゆっくりと離れていく。元男子生徒は石のように固まったまま、パニック状態に陥っていた。


「よし、こうしよう。三年後の今日、私のことをまだ忘れずに居てくれたらここで逢おうか。そのときには私はもう良いおばさんだけど。それでも良いなら君の気持ちに答えることにするよ」

「……え?」

「今のは餞別。私のこと泣かせた努力賞って所かな。でもね。三年って長いから、君が私のことを忘れていても構わない。出来れば素敵な恋愛をして私のことを忘れてくれると嬉しいかも」

「……絶対ですよ?絶対ですよ?」

「君も社会に出て見れば気付くこともいっぱいあるよ。いっぱい失敗して、少しだけ成功をして。大事な物が少しずつ見えてくるよ。私になんて拘らないで自由に恋愛して素敵な男性になって欲しい」

「俺、先生に釣り合う様に頑張ります!」

「三年後、もし逢う事があったならその成果を見せて」

「約束します!」

「約束はしなくていいの。もっと気軽に覚えといて」

「……やった!」


 元男子生徒に先生の言葉は既に届いては居ない様子だった。完全に浮かれきり、狭い生徒会室を飛び回ると机に脛を思い切りぶつけて蹲るとようやく平静を取り戻したようだった。


「さて、三年後の約束をしたところで廃校祭の準備に取り掛かろうか。君も手伝ってくれるんだよね?」

「勿論です!」

「じゃあ残り一週間、一緒に頑張っていこうか」

「分かりました!」


 元男子生徒は飛び切りの笑顔を浮かべ、先生は苦笑を浮かべながら生徒会室を2人で出て行った。

 少しだけ乱れたままの机と椅子、黒板が静かに優しい日差しに照らされたまま残された。


 三年後の今日という日がどのような結末が迎えるのかは、神のみぞ知ることとする。

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