発見した孤独
フカイ
掌編(読み切り)
ミサキはクルマのウインカーノブを上げた。
それは何も考えなくてもなされる、自動的な行動だった。
ミサキのフレンチ・ブルーのクーペは後続車に対し、路肩へ寄ります、というウインカーを点滅させた。クルマはゆっくりと減速し、背の低い街路樹の茂る路肩に停車した。
雨の降る水曜日の午後。
街路樹の向こうには、金網に囲われたバスケット・コートが見えた。コートの中には、置き去りにされたゴムのバスケット・ボールがひとつ、転がっていた。バスケット・コートの向こうにはわずかな緑地帯、そしてベージュ色の砂浜が広がっていた。海も、グレイの雨に煙っていた。
ミサキはクーペのステアリング・ホイールに両手をかけ、そこに顔を埋めた。
何も、考えられなかった。
ただ、混乱していた。
●
「―――転勤なんだ」と彼は言った。
「ずっと、このまま続くと思ってたのにね」
そう言いながら、彼はこちらを見ずにコーヒーを口にした。
水曜日の午後。あの日も雨が降っていた。ラブホテルでの日中フリータイムを使った長い情事の後、ふたりはこの地方都市の駅に併設されたショッピングモールのカフェにいた。そこは、ウィークデイの日中に時間を持て余した高齢者と主婦であふれていた。
ふたりの住まいはここから真逆に電車で小一時間程度離れたところにあったので、会う時はいつも、互いのちょうど中間地点のこの街だった。
春先に出会い、季節が一回りした。
出会いこそ、ネットのいかがわしいサイトで、基本的に身体の関係だけで始まった。ミサキはそういうのは初めての経験だった。
ミサキにも彼にも配偶者はいたから。
それぞれセックスレスではあったが。
でも、最初に抱かれた時、その相性の良さに驚いた。
ホテルのソファーに座ったミサキの前の床にひざまずき、スカートからのぞく彼女の両膝に、彼は両手を置いた。そしてゆっくりやさしくその膝を開き、ミサキのとっておきの濃紺のレースのショーツをきれいだ、と言ってくれた。
彼に上手にリードされて、ミサキは自分でクリの位置を指先で示した。死ぬほど恥ずかしかったけれど、その時にはもう、ショーツの中はトロトロに溶けていた。彼がやさしくそこに触れ、ゆっくりと上下にその指先で、張り詰めたそれを撫でてくれる頃にはもう、恥ずかしさよりも高揚感のほうがはるかに勝っていた。
上手に雰囲気を作り、色褪せた日常をサラリと忘れさせてくれた彼。指を絡める前に、目線や言葉で、巧みにミサキの欲情を掻き立て、そしてたっぷりとジラした。
ゆっくりと入ってきた後は、むやみに激しく動かず。彼女の息づかいを確かめながら、その反応の良い場所をじっくりと集中的に責め立てた。時間をかけて高められ、何度も逝く寸前で止められて、懇願させられた。お願い、お願い、とはしたない言葉が自分の口をついて出てゆくことに、ミサキ自身が驚いていた。
そしてミサキは生まれて初めて、中イキというものを経験した。そんなことを繰り返すなかで、ミサキは自分自身がなにかから解き放たれてゆくのを感じていた。
教師の父と、そろばん塾を経営する母に育てられ、学校では率先して学級委員をやった自分。
東京の大学を出て、世間で名のしれた外資系製薬メーカーに入った自分。
でも、同期の女性の何人かのように、キャリア形成に夢中にはなれず、自分を可愛がってくれた先輩の男性社員の妻の座に収まった自分。彼もまた、有名大学の出身だった。
郊外の一戸建てのすてきなお家と、地域コミュニティーで英会話を教える先生としての自分。ハロウィンにはクッキーを焼き、夏には麦茶を煮出して、子どもたちをもてなした、良き妻であり良識ある大人の女性である、自分。
そういう、お仕着せの価値観から自分が解き放たれてゆくのを感じた。彼とベッドにいると。どこの誰でもないただの女として、のびのびと淫らな行為に
男性経験は、彼で五人目だった。それが多いのか少ないのか、もちろんミサキには分からない。けれど、これまでの四人では味わったことのない、膣でのエクスタシーを感じた時、性的な快感だけでない深い満足感を、彼女は味わった。
それは成熟した大人の男女として出会い、セックスをきっかけとして新しい成長の糸口をくれた彼への感謝であり、また、そこまで心と身体を開けたパートナーに出会えた
彼も自分も、現在の結婚を解消するつもりはない。恋に目がくらんで、配偶者を捨てるような、ドラマのような不倫などとは全く遠い世界にいた。ただ、日常の中にぽっかりできたエアポケットのような時間を大切にしていた。
―――――あの日までは。
あの出会い系サイトを再訪したのは、ほんの気まぐれだった。
まだ
その中に、ひとつ、心に留まるプロフィールを見た。
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胸に空いた穴、塞ぎます。
上手にリードされて、やさしく導かれて。
普段は内緒にしているデリケートで敏感なボタンを、じっくりと甘く刺激します。
ベッドの中で、あなた自身を再起動しませんか?
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適当な捨てアドをひとつ作ると、彼女はそのプロフの男性にメッセージを送った。
“プロフ拝見しました。ドキッとしました。自分のことを言い当てられているような気がしました云々…”。
返事はすぐに来た。
中身はどうでも良かった。その返事のアドレスは、紛れもない、あの彼のアカウントだった。
ミサキは彼の不義を知りつつ、その後も彼に抱かれ続けた。だって自分だって彼だって配偶者に不義を働いているのだ。その上で彼を責めるのはお門違いというものだ。それに彼は、他にどんな女と関係を持とうが、そんなことはおくびにも出さず、ミサキといる時だけは恋人のように振る舞ってくれる。ベッドの中では素晴らしい時間をくれる。それで良い。問題ない。
そう、思おうとした。
けれどいつしか、彼から送られてくるデートのアポイントのメールにも時めきがなくなり、ミサキからの返信も滞りがちとなった。
そしてひと月が経ち、彼の方から別れを切り出された。
―――きみのことは今でも大好きだ。気持ちは本当に辛い。でも転勤だ。もうこんな風に会えない。仕方がない、と彼はすこしも辛そうでない顔でそう言って、ダブルのエスプレッソに不格好な角砂糖をふたつ、いれた。
彼の小さなデミタスカップの黒い池に、角砂糖が溶けてゆく泡がプツプツと浮かんでは消えた。彼のことよりも、その小さな泡のほうが印象に残った。
ミサキは笑顔で、その申し出を受けた。最後には握手をして、別れた。
大人の婚外恋愛というのは、こういうものなのだ、と思った。
それを受け入れるのにかなりの時間と、ネット通販で買ったシリコンの玩具の力が必要だったが。
●
夫が不在中に、自宅のポストに大きな封筒が入っていた。差出人には地区の基幹病院の分院クリニックの名前。夫の扶養で入っている社会保険を使って、年に一度の定期検診を受けに行った。その結果が来ていたのだった。
夫がエジプトに出張に行っている時だった。
診察レポートの見開きを見ると、赤字で「要検査」の文字が目に入った。
ミサキはすぐに病院の本院に電話をかけ、婦人科の予約をとった。
そして雨の降る水曜日。
ごま塩頭の医師はレントゲンの写真を見せながら、彼女の乳がんは、進行が思いのほか進んでいたということを淡々と説明した。
彼の白衣はのりが効きすぎている感じがした。袖口や襟が肌に当たって痛いのではないか。思わずそう、口走りそうになる自分を、ミサキは抑えた。
「外科療法って、手術ってことですか?」
「欧米では乳房(にゅうぼう、と医師は言った)を摘出しない手術の実績もあるんだけど、日本人にはまだエビデンスが少なくてね。再発の可能性があるんだ。だから当院では摘出を勧めているんだよ」
「それって、バストを片方、とる、という意味ですか?」
ショックなのはよく分かるから、すこし時間をかけて考えてもいい、と医師は言った。必要なら他院でのセカンド・オピニオンのために、カルテを提供することもできる。
「―――ただ、あなたはお若い。だから腫瘍細胞の成長も早い。時間がたっぷりあるわけではない、ということも知っておいてほしいですな」
診察室の消毒液の匂いが、妙に鼻につくな、と彼女は思った。
過酷な内容を話す場所なのだ。もうすこしリラックスできるような香りを漂わせるぐらいの配慮が、医療機関にあってもいいのに、と。
―――自分がわざと頓珍漢なことを考えようとしている、と彼女にはわかっていた。
●
ミサキのクーペは、まだ走行距離が五千キロにも満たない新車だった。
どこもぶつけたことはなく、ピカピカの状態を保っていた。
運転好きな彼女はこのクルマで色々なところに行き、またこれからも夫とふたり、様々な場所へ出かけてゆくだろうと思っていた。それもこの先、どうなるのかわからないけれど。
子どもは、まだできていない。
ミサキは三十三になっていた。
夫とはセックスをしていないのだから、できるわけがない。でも、ネットで情報を調べ、セックスレスの解消と妊活についてもすこしずつ、計画していた矢先だった。
海沿いの路肩にクルマを停めた。
クーペの屋根を、止まない雨が叩き続ける音だけが、社内に充ちた。さっきまでかけていたFMラジオでは、愛だの恋だのを歌う、子ども騙しのポップ音楽がかかっていた。そのスイッチを切ると、雨音がよく、聴こえた。
ハンドルに載せた両手に顔を埋めたミサキは、不思議と涙が出ないことに気づいた。
こういう時に人は、涙なんかでないだな、と。
乾いた思いだけが、そこにあった。
テレビや映画とはぜんぜん違うのだ、と。
サウジアラビアだかエジプトだか知らないが、七年も一緒に過ごした夫がそこにいないことに、すこし腹が立った。こんな時、キュッと抱きしめてくれるべきなのに。大丈夫だよ、と言うべきなのに。
あのセックスフレンドの彼の笑顔も思い出された。彼と別れてから三ヶ月。傷はすこしも癒えていないのだと思った。シリコンの玩具も、なんの慰めにもならない。
彼と知り合ってから、ミサキは不思議と、実家の両親を疎ましく思うことが多くなった。真面目で面白みのない女に育てたことを逆恨みしているのだ、と自分でも気づいてはいたが。
だからこのことは親には知らせないでおこうと思った。いつかそれを知った時の彼らの驚く顔が目に浮かぶ。いい気味だ、と。
あぁ、わたしには、誰ひとりとして、この想いを共有できる相手がいなんだ。
わたしはこの雨に降り
―――誰にも助けてもらえずに。
ミサキは顔を上げて、窓の外を見た。
雨は変わらず降り続いている。
そうか、ここにあったかと、その時に気づいた。
発見したばかりの孤独は、このクルマのダッシュボードのなかに仕舞われていた。
それを取り出して、彼女は手のひらに置いた。
すこし冷ややかで、すっきりとした美しさのある孤独だった。
指の先で触れると、その固さと透明感が好ましく思えた。
誰にも触れられない孤独。
どこへも行けない、孤独。
雨の降る、駐車場にて。
ミサキは心の中で、そう、つぶやいた。
発見した孤独 フカイ @fukai
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