後編

***


 彼女について知っていることはそうない。小説書きを目指しているということ、映画や本の趣味、しなやかな体つきといったところだろうか。あと、ハイライトをふかして吸うこと。そういえば本名も年齢も知らなかった。

 撮影は週二、三回。撮影をした後に適当な居酒屋に行ってその後彼女の部屋で映画を観るというのが恒例となった。僕達はあくまでも契約関係ということで逢瀬を重ねていた。始まりが始まりだったから、恋人という関係にはなれない雰囲気だった。

 数回目会う頃には、彼女にせがまれてツイッターにアップしていなかった写真を見せるようにもなっていた。代わりに彼女が書いている小説もいくつか読ませてもらった。僕はあまり本を読む習慣を持っていなかったけれど、彼女の書く話はなんだか嫌いじゃなかった。

 

 「ふーん。やっぱり君の作品は私好みだなあ」

 ベッドにもたれかかりながら、一枚一枚見落としのないように彼女は写真を眺めていた。自分の作品を目の前でまじまじと見られるのはなんだか公開処刑のようで恥ずかしかったけれど、青い僕の自己承認欲求は十二分に満たされていた。彼女の部屋の本を隣で読みながら盗み見る彼女の横顔がちょっとだけ好きだった。

 

 写真を見ていた彼女の手が止まる。彼女の眉間に小さな皺が刻み込まれるのが目に入った。

 「ねえ、花火も撮るんだね」

 「ああ、この間隣町の花火大会があってね」

 なんの変哲もない花火の写真に何か不満な点でもあったのだろうか。

 「花火って、視覚だけの芸術じゃないよね。音と、匂いと、空気と光が全部組み合わさった芸術」

 「そう言われてみればそうだね」

 何を言い出すのかと言わんばかりに言葉を返す。

 「うん。だから、花火を写真に撮るのって野暮なんじゃないかなあ。って思って。だってそうじゃない? 全ての要素が揃わないと成り立たない作品なのに」

 「瞬間を残す写真と瞬間を描く花火。瞬間の芸術としては類義されるものなんじゃないかなって僕は思うけどね」

 自分の作品をなんだか否定されたような気になってしまって、熱の籠ったままを吐き出してしまった。それと同時に、よくこんな言葉が出てきたな、とも思った。

 「私って物書きだからさ、物語性を求めちゃうんだよね。芸術は基本的には物語性を持つんじゃないかなあって思うんだけど、どうかな。完成されない瞬間をフレームに収めたところで、その物語性は表現できない。君の作品もそれを知っているように見えたから惹かれたんだ」

 「何をモチーフにしたっていいだろう。勝手な君の価値観に僕を巻き込まないでほしいな」

 彼女に僕を責めるような口調はなかったけれど、言葉の端々に落胆のような色を感じ、憤ってしまった。彼女の手の中にあった写真を取り上げて、「ごめん、今日はもう寝よう」と促してそのままベッドへと身体を寝かせる。

 「ごめんね。私もわかったような口を聞いて」

 彼女は僕の寝転ぶベッドには入らずにテレビの前にちょこんと座った。どこからかヘッドフォンを取り出し、何やらまた映画を観始めたようだ。抜け抜けと起き上がって隣で映画を観られるような無神経さは持ち合わせていなかったので、寝たふりをしてしまうことにした。


 「ライムライト、一番好きな映画なんだよね。なんていうか、いくつか重なるところがあって」

 これは独白なのだろうか。

 「キャッチコピーが『道化の恋』ってやつでね。写真やってた彼と物書きの私がさ、なんだかテリーとカルヴェロみたいだったの。この映画もあいつが教えてくれたんだけどさ。あいつの写真と君の撮る写真が似ていて、つい惹かれちゃったんだ。これが君に近づいた本当の理由」

 僕は何も言えないまま、宙に浮かぶ音の振動に耳を傾ける。

 「相手の幸せのために、なんて馬鹿みたいだよね。日がなあいつが撮った写真をどこかで探して、あいつが吸ってた煙草も吸えないくせに吸って、腰にタトゥーまで入れちゃってさ。毎晩そのひりひりとした絵を撫でられずにはいられないんだ。花火を撮らないあいつと、花火を撮る君を比べてしまった。どうしたってあいつと君は違うのに」

 彼女の未練がましい自己陶酔に吐き気がしてしまう。嫉妬なのだろうか。それともなんとなく気に食わないだけなのだろうか。むせる声が湿った部屋に響く。煙草の匂いが空気に染み込み始めた。

 掴まれたような胸の痛みが治まるように目を瞑っていると、自己防衛の睡魔が眠らせてくれた。


 ***


 家に帰る前にレンタルショップに立ち寄り、「ライムライト」を借りた。それを観たところで僕の気持ちが晴れるわけではないと知っていたけれど、なんとなく観るべきなのかもしれないと思ったのだ。

 ストーリーはいかにもな失恋モノだった。足を麻痺したバレリーナのテリーを救った道化師のカルヴェロ。カルヴェロを愛するテリーとテリーを思う故に彼女の元を去るカルヴェロ。テリーに恋する作曲家のネヴィル。気が付けば自分をネヴィルに重ねていた。


 それから何事もなかったかのように僕たちはまた同じようで違う夜を重ねた。することは何も変わらなかったのだけれど、やっぱりどこか変わってしまっていた。もうすぐ秋が来る。それでこの感傷にもおさらばできるだろうと思っていた。この頃夜は涼しくなってきている。彼女に対して何の希望も抱くことはなくなっていたし、彼女も多分そうだった。けれど、お互いに会うことをやめなかったのはそれぞれに思惑があったのだと思う。惰性もあったけれど。


 黒いワンピースを脱ごうとする彼女を横目に、ドンという音を聞いた。

 「今日、花火やってるみたい」

 窓の外を眺めながら彼女は口を開いた。

 「そうなんだ」

 花火の話題についてはなんだか触れたくなかった。どういう顔をすればいいのか分かりかねてしまう。

 「この花火、去年もやってたんだ。非常階段から綺麗に見えるから、よかったら見ようよ」

 夏ももう終わるし、と小さく呟いた彼女はどんな表情をしていたのか薄暗い部屋の中ではわからなかった。彼女に手を引かれ、外に出る。意地の悪い僕は鞄からカメラを取り出してくることを忘れなかった。それを見た彼女は、何も言わない代わりに苦笑していた。


 「やっぱり、綺麗だよね」

 彼女の言葉はどこかからっぽで、僕は何も言わずに非常階段の手すりに身を任せて花火を見つめる彼女と、花火を撮っていた。花火に照らされてシルエットになった彼女は、そのままうすっぺらになって散ってしまうのではないだろうか。    

 また、そうなってしまえばいいと願った自分もいた。


 「ごめんね」

 振り返りもせずに彼女が言葉を零す。

 「何が」

 何が悪いかなんてわかっていないのだろうと思った。彼女は残酷だけれど、悪いかと言われてしまえば微妙なところだ。

 「なんとなく」

 「そう」

 背中を向けた彼女の表情はわからなかったし、わかりたいとも思わなかった。短い返事の合間にシャッターを切る。

 「今日までありがとう」

 そういえば、今日は八月の末日だった。思うより時は早く過ぎ去っていたようだ。

 「こちらこそ、ありがとう」

 僕の夏もこれで終わるのだ、とどこかほっとしていた。

 また、しばらく音や光を遠くに見つめながら僕らの間に沈黙が流れていく。


 「ねえ、私さ。君のことちょっと好きだったよ」

 ここでそれを言うのか、と口を開くこともできずに続きを待つ。

 「困るよね。信じられないと思うし、都合のいいこと言ってるだけだと思われても仕方ないのもわかってる。でも、これだけは言っておかなきゃなと思ってさ」 

 彼女が一音ずつ発音するたびに、彼女の言葉が安っぽくなっていく。怒りとも悔しさともつかない感情が胸を支配した。

 「君は、僕のことなんか何にも好きじゃないよ」

 無感情を装って、無機質な言葉を返す。彼女が好きなのは、花火を撮らないどこかの男であり、それを好きだという彼女自身だ。好きだなどと言われてしまいたくはなかった。

 知りすぎてしまったのだ。彼女のことを知らなければ、僕は彼女の言葉を何一つ疑いもせずに喜んだだろう。けれど、僕はそんなに馬鹿にも素直にもなれない人間だった。

 

 その時だった。


 僕の言葉に思わず振り返る彼女の体重に錆びた手摺が悲鳴を上げる。


 かなしげな彼女の目が僕を捉えた。


 ああ、彼女の目はこんなにも美しい茶色だったのか。


 落ちていく彼女に差し伸べることもできなかった手の人差し指は、思わずシャッターを切っていた。

 スローモーションに過ぎる瞬間に、僕は永遠を感じた。自分は、ネヴィルでもあり、テリーでもあったと自覚する。そして、落ちていく彼女にカルヴェロが重なった。脚本のない物語だ。役回りもその時々で巡りゆくのだろう。僕もまた、誰かのカルヴェロになるのかもしれない。


 道化の恋は伝染する。

 

 ***

 

 それからのことはあまり覚えていない。救急車を呼んで、救急車に乗ったあたりから家に帰されるところまでの記憶が曖昧になっている。

彼女の命には別状はなく、右足が折れただけで済んだ。意識を取り戻した彼女は僕に何も言わなかった。自分を助けようともしなかった男にどんな感情を抱けばよかったのかわからなかったのだろう。それきり、面会も拒否されてしまった。

 彼女のSNSのアカウントも三日もしないうちに消えていた。たったそれだけで終わらせてしまえる関係だった。


 あの茶色い目が忘れられない僕は、現代の知識がその特別さを教えてくれるだろうと期待して調べた。しかし、茶色い目は世界で一番人口の多い色だと知り、落胆した。彼女は何も特別な人間ではなかったし、彼女に恋した僕もまた特別ではないということを思い知らされてしまった気がした。それでも、あのうつくしさだけは錯覚だと思いたくなかった。


 今でも花火が上がる季節になると一枚の写真を取り出さずにはいられない。花火と振り返り落ちていこうとする彼女は、どこまでも物語の中にあった。ひとつ溜息をついてハイライトの灰を落とす。


 ライムライトと茶色い目だけが僕の夏だった。

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モーメント 更科 周 @Sarashina_Amane27

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