モーメント

更科 周

前編


 ライムライトと茶色い目だけが、僕の夏だった。


***


 大学四年生の夏。フォトスタジオに就職が決まっていた僕は、日中は派遣バイトや撮影に勤しみ、夜はふらふらと飲み歩くといったような生活をしていた。


 特に気に入っていた店は、映画のタイトルをモチーフにしたカクテルを出すバーだった。確か、「七月の蠍」みたいな感じの名前だったと思う。僕はバーと呼んでいたから、記憶は曖昧だ。なんとも無個性な大学生らしく僕の趣味は映画観賞とカメラだったので、そのバーを気に入るのは無理もないことだった。

 自分の好きな映画のカクテルや、気になったタイトルのものを注文し、帰宅後にその映画を見ることがマイブームだった。


 「『汚れた血』って作れますか」

 メニューにない映画のタイトルをバーテンダーに告げる。

 「カラックス監督の作品ですね。承りました」

 一九八六年のフランス映画だ。ろくに映画も知らない僕だったから、「通が観る映画」などと浅はかな検索をかけては気になったタイトルの映画を観て見栄を張っていた。今思えば、僕はよっぽど個性のない大学生だった。最後の夏もつまらないままに終わらせようとしていた。

 『汚れた血』は、青いリキュールにピンクグレープフルーツの八分の一カットが添えられたものだった。愛のないセックスによる病気、ギャンブルによる借金など青臭く苦い雰囲気がうまく出ていたと思う。

 「フランス映画、よく観るんですか」

 カウンターの向こう側からバーテンダーが話しかけてきた。

 「嫌いじゃないよ。静かで詩的な感じが」

 フランス映画など本当に数える程しか観たことはなかったけれど、わかったように答えてしまう自分だった。


***


 「『ライムライト』をちょうだい」

 エメラルドグリーンの爪がメニューの一行を指す。彼女は僕のSNSアカウントのフォロワーで、今日のポートレートのモデルだ。僕の専門は風景や動物で、人を撮るのが得意なわけではなかったからはじめは断った。けれど、彼女はどうしてもと言い張った。撮影料を払うからとまで言うので、しぶしぶと引き受けたのだ。自分の趣味で撮る写真で金が入るならそれも悪くないと思った。

 撮影は夜がいいと言うので、夜の街で撮影を行った。青がかったウェーブの黒髪は夜みたいで、紺のノースリーブや黒いロングスカートのスリットから見える白い肌と口にひかれた深紅の口紅がやけに目立っていたことを覚えている。決して絶世の美人なんて表現が似合うような人ではなかったけれど、それ以上にどこか印象的な人だった。


 撮影後のなんとなくの流れで、「七月の蠍」に足を向けた。彼女もなんだか飲みたい気分だというので、連れていくことにした。「うまくいけば、抱けるな」という魂胆もなくはなかった。なんとも下半身に直結した浅ましい考えだが、健全な男子大学生ならば不思議なことではないだろう。酒を飲みたい気持ちと、邪な気持ち半分だった。本当は気に入っているバーに気心の知れない女を連れていくことに少し抵抗はあったのだが、どうせ二度と会わないだろうという気もした。      

 なんだかすぐ消えそうな人だったからだ。


 「その映画観たことあるんですか?」

 黙っているのもなんとなく間が持たないような気がしたので、無難な質問を投げかけた。

 「わりと有名なんじゃないかな。チャップリン、知ってるでしょ」

 気の利く人間であれば、その映画を知らないという返事を返せばその映画のあらすじや見どころを語ってくれそうなものだが、彼女はそのような人間ではなかったようだ。


 しばらくの沈黙が続き、彼女が頼んだ『ライムライト』と僕が頼んだ適当なカクテルが運ばれてきた。僕がその時何を頼んだのかは、いまいち覚えていない。流れるように乾杯を交わし、一口アルコールを流しいれる。

 「そういえば、なんで僕にポートレートを? 」

 沈黙に耐え切れず、なんとか探し出した話題を振る。

 「んー。田中さんって、なんていうか私の好きな世界観のある風景撮るんだよね。メッセージでも言ったと思うんだけど。けど、人物をアップしてるの見たことないなって。だから、見たくなっちゃったんだよねえ。リクエストでもよかったんだけど、」

 そう言って、言葉を切る。

 「どんな人がをこんな写真撮ってるんだろう。って。会って話してみたかったんだよね」

 血を塗ったような唇から零れる言葉に僕は少し黙ってしまった。そんな僕を見て彼女は少し戸惑ったように言葉を変えた。

 「まぁ、そんなことはいいか。まだ若くて綺麗なうちに写真を残しておきたくて。どうせなら好きな写真を撮る人に撮ってもらえたらいいなって思ったの。付き合わせてごめんね」

 「そうなんですか。こんな僕を選んでくれてありがとうございます」

 話しすぎてしまったと言わんばかりに早口で簡潔な理由を述べた彼女だった。それがなんだか可愛らしく見えて、言葉を失っていた僕は最低限の言葉を返した。

 

 二、三杯注文するうちに、彼女と僕の映画の趣味は案外に合うらしいことがわかった。メニュー表を指さしてはこの映画を観たがああだった、これが好きならあの映画も好きだと思う、そんな感じに話は盛り上がり夜は更けていった。今思えば、たいした映画の知識もない僕に彼女が合わせてくれていたということも否めない。


 「せっかくだし、うちに来て映画でも見ない? 」

 まさか彼女から家に誘われるなどということは想像もしていなかった。そうした俗的なものごととは縁がないような印象があったので、少し驚いてしまったが、すぐに頷いた。

 「じゃ、決まりね」

 彼女は気持ちだけ赤らんだ頬を緩ませた。


 言葉少なに昼より少し温度の低い街を歩いた。

 途中でレンタルショップを見かけたので、足を止めようとする。しかし、「いいの。見せたいのは全部家にあるから」と腕を引かれた。細いな、と思っていたがその脆そうな感触は想像以上だった。

 僕の夏は今から始まるのかもしれない、などと予感した。


 ***


 彼女の家は、アパートの五階の一室だった。白を基調としたシンプルな部屋に1人暮らしにはなんだか見合わない大きな本棚が目を引く。そこにはずらりと並ぶ本とDVDがあった。

 「はい、これ」

 渡されたのはウィスキーだった。

 グラスを二つ小さなテーブルに並べ、彼女が推しているという映画を観た。アルコールを前面に押し出した熱さをちびりちびりと飲む。正直僕は映画どころではなかったので、映画の内容はそれほど覚えていない。


 僕達は当たり前のように抱き合って眠った。軽率に動物になった夜だった。シャワーを借りようと立ち上がった時、薄暗い部屋の間接照明に照らされた、うつ伏せで寝ている彼女の腰に絵があることに気づいた。

 「それ、何。刺青? 」

 「んー……。そんな感じ」

 寝ぼけていたせいなのか、あまり答えたくはないのだろうか、なんとも言えない答えが返される。特に踏み込むことでもないだろう。手を出したらやばい女じゃなきゃいいなと思いながら、「そう」とだけ返し、浴室へ足を向けた。

 

 彼女の部屋から出る前に一つだけ提案をした。

 「この夏、一か月だけ僕のモデルになりませんか」

 なんとなくこの一回だけで、彼女と終わりたくない気がしてしまっていたのだ。駄目元だった。そんなことをせずとも現像したデータを手渡すだのなんだのと言ってもう一度会う約束を取り付けることは可能だったはずなのだが、そう誘った。

 「いいよ。けど、撮影料は値引きしてね」

 キャミソール姿の彼女は舌を出して見せた。あざといとはこういうことだろうか、とその小さな舌を見ながら思った。

 「僕が頼んでいるんだから無料でいいです」

 こうして、僕と彼女の一か月契約が始まった

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