“き”『教室』

 慌ただしい足音がこちらへ近付いてくる。間もなくしてその足音は、この教室に入り込んでとまった。

「よかった、まだ居た」

 真っ赤な夕陽に染まる教室の中で、彼の声が小さく響いた。

「週番、お疲れ様」

 私が言うと、彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。窓際にいる私に近付くと、彼の髪も瞳も夕陽の赤に染まった。綺麗だ。

実香みか

「先生、明日はやっと卒業式だね」

「そうだね。おめでとう」

「嬉しい。これで堂々と一緒にいられるようになるんだよね」

 私は彼に向かってひかえめに手を伸ばしながら言った。目の前のこの人がいとおしくて、れたくてたまらない。

 そんな私にこたえるように、彼が私をゆっくりと抱き寄せた。

「先生、誰かに見つからない?」

 心配になって、私は彼から離れようとする。

「この教室は大丈夫。外からはちょうど見えないからね。もっと早くから知っていれば良かったんだけどな」

「そうだね」

「でも、これ以上は駄目だよ。君はまだ未成年なんだから」

 そう言って、彼は私の頭を優しくでた。この優しい手が私は大好きだ。だって、とても心が安まるから。どんな不安も吹き飛んでしまうくらい安心する。

 彼にぴったりとくっついて身をゆだねていると、下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

「まだ離れたくない……」

「またそういうことを言うんだから。今日までは我慢がまんだよ。もう帰りなさい」

 優しい声が耳元でひびいた。これも心地良くて大好き。

「うん、わかった」

「また明日ね。気を付けて帰るんだよ」

 私たちはゆっくりと体を離す。視線が重なると二人で微笑ほほえみあった。

「先生さようなら。また明日ね」

 私が荷物をつかんで歩き出そうとしたとき、彼が私の腕をつかんで引き留めた。

「何? 先生」

「このくらいなら、いいかな」

 カーテンが風にあおられてゆるやかに動いた。私たちの髪も穏やかに揺れる。

 瞬間、彼の顔が近付いて、唇を軽くふさがれた。

「先生……」

「我慢できなかった」

 真っ赤な夕陽に照らされた彼のはにかんだ笑顔に、私の胸は例えようのない想いで一杯になる。

「あーもー! 先生のバカ!」

 私はふたたび、彼の胸へ飛び込んだ。彼はそんな私をしっかりと受けとめてくれる。

「ごめんごめん。さあ、下校時刻だよ」

 そう言いながらも、彼は私を抱きしめたまま、優しく頭を撫でてくれていた。

「先生、大好き……」

「僕も実香が大好きだよ」

 そしてもう一度、私たちはゆっくりと体を離す。

「今度こそ、また明日ね」

「はい、また明日。さようなら」

 私は荷物を持ち直すと、真っ赤に染め上げられた秘密の空間から外へ出た。

 後ろ髪を引かれる思いで廊下を歩きだす。

 出逢った日から今日までずっと、他の先生や生徒に見つからないように逢瀬おうせを重ねてきた。明日、私はやっとこの学校を卒業する。

 これからは人目を気にすることなく、先生と自由に会うことが出来るのだ。

 私は何だか体が軽くなったような気がして、全速力で昇降口へと走り出していた。


*了*

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

*50音の恋愛掌編集* 平野 絵梨佳 @hanetani_yui

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ