第4話 ダーク・ステップ

ブラックラダー④

『ダーク・ステップ』


 🦈

 ───ほた。ほた。ほた。

 建築当初はリノリウムの敷かれていた床も、市松模様を描く軟性タイルに替えられて久しい。見た目ほど滑り易くもなくまた衝撃吸収にも優れているため、10代後半という元気の有り余って割引セールを開催できる少年少女の保護者の方々には評判のいい仕様である。

 しかし。

 ───ほた。ほた。ほた。

 とっぷりと日の暮れた校舎に響く足音は、硬質のものでないだけにかえって孤独感を煽るものだった。

「ああもう、忘れ物とりになんか来なきゃよかった!夜の校舎とかベタに怖すぎなんだからー」

 いかにも説明的な科白。しかしそれは、己に言い聞かせるとともに少しでも雑音を発して不自然なほどに静まり返っている宵闇の校舎への恐怖感を薄めるためのもの。何がしかの音声が反響していれば少しは気が紛れる。───それがたとえ真の独白、強がりの独り言だったとしても。

 月曜日の午後8時。五月を迎え日没が遅くなったとはいえ、完全に夜である。校舎の主光源は見回りの警備員によって落とされ、夜間照明のサイドライトが壁からLEDの寒々しい明かりが廊下を照らしているのみ。

 ウイークデーで体育系の部活の夜練があった筈だが、その連中もとっくに用具を片付けて帰宅してしまっている。

 玄関ホールへと急ぐずんぐりとした影が、一つ。西表系山猫人の少女、藤川ヒヨリのものだ。

 身長が低く見えるのは、私服にカーディガンを羽織った背中を丸めて早足になっているせいだ。

 県立伊瑠奈高等学校の一年生であるヒヨリは、昼間の友達とのはしゃぎすぎで音楽室に教本にしているレオポルド=モーツァルトを忘れてしまった自分のことを、心の中でもう百回は「ヒヨリのバカ!」と罵っていた。

 ───ほた。ほた。ほた。

 周囲がしじまに満たされているため冴えてしまった山猫人の耳は、この高校の床を歩く自分の独特な足音と、余白部分の無音をしっかりとらえてしまう。

 時折。

 ───かさり。

「ヒッ⁉︎」

 隙間風に動かされたプリントか、それともさすがにこれだけの建造物である、巣食っている小動物か何かか。それらの立てる物音に、テーマパークの恐怖の館に入ったように慄いてしまう。そしてそんな自分の滑稽さになおさら腹をたてるのである。

(だいたい、ナズナのやつが久慈先生に変なことしゃべるから退室が遅れて、それで慌ててたから忘れ物しちゃったんじゃないの。私悪くないもん!)

 と、友人であり音楽専攻コースのクラスメイトであり、さらにいえば淡い初恋のライバルでもある虎猫人に責任転嫁し怖さを紛らわしていた彼女の耳が、また別の何かを聞きつけた。

 ───ごそり。

 音は玄関に続く廊下の途中の右側からのもの。そこには階段の登り口がポッカリと口を開けている。

 自分の進行方向である。避けて大回りしていくこともできなくはないが、それは更に多くの闇に閉ざされた教室の前を横切らねばならないということで。

(誰もいない教室って、なんか視線を感じそうでイヤなんだよね。…ていうか、本当に誰か…『何か』が見てたらと思うと…)

 ぶるぶるるんっ。激しくかぶりを振って不気味な妄想を打ち消し、ヒヨリは駆け足になってその場所を横切ることにした。

 壁、壁、壁。そして、壁が切れて、階段の登り口。

 反射的にチラ見してしまう。…何も、いない。それはそうだ。通気窓から溢れてくる眩しいほどの月光の他に、なんの変哲もないステップ。それ以外に何があるというのだろう?

 恐ろしい血だるまの女の幽霊が、ズルズルと上から降りてくる?いや、あんなのは映画の中だけの話だ、現実にはあり得ない。

 が。

 ───ぺた。ぺた。ぺた。

 微かに、灰色の被毛に覆われた耳を嬲るように、その音がまとわりつく。

 明らかに空気の流れなどではない『何か』の音。

(見ちゃダメよ、ヒヨリ。なんでもない。なんでもないって思えば、そうなるんだから)

 気の迷い。耳の錯覚だ。

 しかし、そう思い込めるほど彼女は単純でも鈍感でもなかった。クラスの中でも音感が抜群に良く、ヴァイオリンの弦から奏でられる僅かなボウイングのミスすらしっかり聞き取ることができるのだ。それを今日の昼間も、ヴァイオリン講師に褒められたばかりだ。

「えーと…誰か、いる?」

 足を止めて、踊り場を見上げて声をかけてしまった。反応は、ない。

 バカなことをしてしまった。よしんば誰か居たとして、無視して帰るのが良策なのに。玄関ホール脇の宿直室にいる、いつも生真面目で年齢不詳な獏人の警備員にひと言注意してそれで終わりにすればいいのに。

 踵を返した刹那、踊り場の上───彼女の死角から強烈な視線を感じた。

「…誰か、いる…んですか?」

 逃げたい。今すぐ。寮に帰って、ちょっと品がなくてボディタッチのきつい同室の白豹人(インド系だというらしいが、映画やドラマの中の神秘的なインドのキャラクターとはかけ離れている)と熱い紅茶を飲みながら「さっき学校で怖いことがあってさぁ」なんてたわいもないおしゃべりにひたりたい。

 でも。

 そんな思いとは裏腹に、まるで自分の意志ではなく得体の知れない磁力に引き寄せられるように、足が階段のステップにかかってしまった。

「誰かー…いないよねっ?」

 こうなると止まらない。一気に踊り場へと駆け上がり、その上の、二階の廊下まで至ってヒヨリは目を凝らした。

 ゼエハアと肩を荒く上下させているのがバカらしくなるほどに、何の変哲も無い。一階と同じ、夜間照明に照らされた廊下の横腹があるだけ。

 ほっ。息を吐くと、肩の力が抜けた。緊張のせいか百メートル走の後のように全身がダルい。

(バカバカしい。何を怖がってたんだろう、ヒヨリってば)

 大きな瞳を一回閉じ、ボートを漕ぐように大きな深呼吸をして。

 帰ろう。尻尾を大きく振るように廊下にくるりと背を向けて、今度はステップを下りる。

 ───ぺた。

 先ほどのものが、今度は先ほどよりも明らかに大きくはっきりと聞こえた。

 こういうシーンは、それこそ同室の白豹人が好きな『呪』と『怨』のつくホラー映画で何度も観ている───正確には、観させられている。

 あの時は、登場人物の行動が不可解だとか可笑しいとか言って笑っていたはずなのだが、いざ自分が同じ状況に立たされると…

(…か、体が動かない…)

 ───ぺた。ぺた。ぺた。ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

(なにこの音?裸足?こんな時間に?しかも…一人じゃない?)

 ───ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた。

 何か異様な連続音が凄まじい速さで背後に迫ってくる。

「───いやぁっ!」

 悲鳴が足を動かした。恐怖に囚われた動作はしかし、彼女の靴を不安定な位置に導く。

 見事に足を踏み外し、階段に尻餅をついた。

 一瞬だが、ヒヨリの大きく見開いた栗色の瞳はを認める。

(───蛇?)

 傾いだ視界。廊下の壁に写った蠢く影。それは鎌首をもたげた大蛇のようにも見えたが、腹には実に数十もの足が身悶えるように蠢き、その様相はさながら───

「む、ムカデ⁉︎」

 次の瞬間。

 ザアッ───

 音声でスイッチの入る機械のようにが伸び上がり、ヒヨリの胴体へ巻きついた。勢いの激しさは、踊り場の手すりを簡単に飛び越えてしまうほどのもの。

 足がかりを失い、掴み留める助けもなく、彼女は頭から階下へと墜落する。

「ちょマジっ」

 の声を最後に、生木を折るような重く湿った音が辺りに響く。そして、静寂。


 🦈

 僕は、黒猫人だ。祭黍磯良という名前がある。

 自分の毛皮が闇色だということは、夜になってみるとよく分かる。

 パン屋ブーランジェリーで生計を立てている実家の、二階の居住スペース。階段からまっすぐ突き当たりが僕の部屋。ドアにスヌーピーの絵柄で『磯良(在)室中』の掛け札をしてあるドアの内側は、電灯もつけずカーテンも締め切った真の暗闇。

 けれど。

 夜にも強い瞳を持つ猫人には、明かりをつけていない暗がりも暗黒ではない。ヒトには想像もつかないだろうが、外の街灯がカーテンを透かして投射する僅かな光がしっかりと開いた瞳孔で増幅されるので、青灰色の視界では輪郭の隅々が見てとれる。

 丸裸になってベッドに四つん這いにさせられ、冷たいシーツに汗ばんだ顔を押し付けている自分の姿も、ベッドの反対側に立ててある姿見に確認できるのだ。

 呻くような、それでいて息遣いのなかにねっとりと甘みを帯びた僕の声が、頭より高くかかげた腰を貫くリズムに合わせて口から漏れていく。

 僕はの自分の声がキライだ。どうしても心とは反対に、喉の奥から媚びたように勝手に出てきてしまうのだ。

 この───肉体を貫かれている時には。

 尻たぶには熱い指の感覚。がっしりと厚い筋肉で覆われた掌で両方から鷲掴みにされ、ぽったりとした谷間を押し広げられ、そこにとめどなく相手の股間を、腰を、肉の槍を打ち付けられているのだ。

「磯良、声を殺さんでも良いぞ。貴様の家族は誰も此処には居ないのだから」

 相手───僕と同じ闇色の毛皮をした、猫人の男の言葉が僕の頭の上から降ってくる。それを聞いて、僕はもっと声を低めようと努力して…でも失敗する。

「快感には抗えまい?げに愚かよの、貴様らは父子揃って」

 く、く、く。重厚な冷笑。

 僕が爪を掌に食い込ませて我慢しているのを勘づいたらしく、僕の両膝を大きく割るとべたりとベッドにうつぶせにさせ、さらに肌を密着させてきた。僕の尻尾が相手の腹に圧迫されて、付け根に鈍い痛みが走る。

「ちょっ、やめ───」

 叫ぼうとしたら、横からいやらしく口を吸われた。いつものように、甘酸っぱい果実の味のするキス。

 きつく閉めた唇の隙間に熱い舌をねじ込んで、僕の縮こまっている舌先をゆるゆるとねぶり解いていく。…それでいて、下半身では挿入と排出の絶妙なバランスを保って繋がったまま、相手は腰のリズムを刻み続ける。

 はむ、んぐ、ふんん───と、声にならない僕の叫びと喘ぎと吐息が相手のでかき乱される。

(性懲りもない…けど…イヤなんは変わらへん…)

 二匹の蜘蛛が足を絡め合うように、僕と相手はピッタリと一つに重なって闇の中で蠢く。骨盤の内部をぬるぬると動く、硬く太くしなやかなモノ。感度の高まるポイントをゴリゴリと押されて、意識さえも突き崩されてしまいそう。

 合意なき交わりは、僕の精神を毛羽立たせ傷つけていく。悔しくて情けなくて泣きたいほどに。

 それでも。絶望的なことには、それら総てが、何もかもが…

(どうしようもあらへん…気持ちええ…っ)

 不定期に訪れるこのひととき。屈辱と後悔に苛まれる渦中にあって、僕は快楽という麻薬に溺れきってしまっている。

(でもこんなん…お父はんに知られたら…)

 それだけは、絶対に避けねばならない。それが分かっているからこそ、僕はに逆らえない。

(おたあはんのために…僕ができるのはこれぐらいしか…)

 そのくびきがあるからこそ、僕はこいつを受け入れるしかない。言い訳?…そうなのかもしれない。

 冷んやりしたシーツを握る僕の指に力が入る。スプリングがキュイッキュイッと鳴く。背中にある相手の胸と腹が、熱い。絡みつくように逃さない太腿が、毛皮同士のこすれあいでザワザワする。

「───気持ち良かろう?この淫乱者すきものめ」

 く、く、く。…相手は笑う。いや、嗤っている。

 そう。この男同士の交わりが、相手からの強引な陵辱が、僕にはなぜなのか───とても気持ちがいいのだ。

(…せやから、許されへん。僕に、まともに誰かを好きになる権利なんかいっこも…)

 脳裏にチラリとぎるのは、昼間に学校で階段から手摺を超えて真っ逆さまに転落した僕のことを身を呈して庇ってくれた鮫人の大きな顔。

(オリエンテーリングで会ったあのひと…今度うちの学校に先生として転任してくるんだって言ってた…)

 自分の体を軽々とお姫様抱っこして、藪を小走りに抜けた時の記憶も、尾鰭のようにセットで思い返される。気恥ずかしくて、でも胸の中がほっこりするような不思議な感覚。

(…あかん。こんなこと考えたらあかん。今はダメや)

 外から帰宅してうっかり手洗いも忘れて製パンの作業台に立ってしまった時のような、何か大事なものを汚してしまうような気がして僕は意識を閉じる。

「どうした?声を出せ、と、申し付けておるのだぞ」

 相手のピストンのリズムが高まる。もう既に僕と相手とは指と指を絡め、相手の体重が僕自身の怒張してきた小さいモノをベッドに押し付ける。

「喘ぐがよい」

 そして相手が顎を僕の右肩に乗っけてゴロゴロと鳴らしているのを聞きながら───僕の方も喉が低く鳴るのをこらえることもできなくなり、股間の奥底がドロドロと煮えたぎり───

「ふあっ!」

 先に叫んだのは僕。

 海老のように丸まりながら、睾丸に溜まっていたものを勢い良くシーツにほとばしらせる。

「気をるのが上手くなったな磯良。我の手管に慣れてきたか…」

 低い低い嘲笑の尾を引かせ、相手は少し腰の角度を変える。

「今度は我の番ぞ」

 ぐったりした僕にはおかまいなしに強い突きを集中させ、そしてやっと。

「…むっ。我も気を遣ろう。喜ぶがよい」

 相手の腰の前後の揺れが停止。荒々しく後ろから僕を抱き潰すようにかいなの力を振り絞っている。続く痙攣。

「うぁっ!」

 骨盤が砕けそうな一撃。僕の悲鳴。

 股間の蝶番のすきまから、熱いほどの体液が奥まで注ぎ込まれた。


 姿見の中で、ベッドの上には重なった黒猫人が二人。

 餅のような筋肉をつけているせいで、身長よりも大柄に見える一人と。

 その下で哀れにも潰されている姿勢の、肋が浮くほど細く小柄な一人…つまり僕と。

 僕たち二人の毛並みの表面は汗でずっくりと濡れている。窓の外から差し込んでくる街灯で、情事の余韻の炎に息を乱している身体は淡く銀色に波打たせて見える。

 ほとんど一つの塊になっている、二つの黒い裸。

 それがゆるりと別れるとき、僕の尻の奥の裂け目を埋めていた一物が引っこ抜かれる粘っこい音が響いた。

「うっ…」

 僕の呻きを寸分も意に介さず、相手が逞しい腰をベットに降ろす。

「学校で何かあったな?」

 揺り椅子のようにゆったりとしたリズムをつけながら、相手が尋ねる。

 見上げるとそこに、筋肉と脂肪がいい具合に谷間を作る男らしい裸の胸。汗の粒をくっつけてきらきらとさせている、その肌の熱さと筋肉の柔らかさと重さを反芻しながら、僕は首を振る。

「正直に答えるがよいぞ。嘘偽りは我には意味をなさん」

 相手の顔は…見たくもなかった。きっとそこにあるはずの、卑下と侮蔑と優越に歪んだ黒猫人の笑みなど。

「…あんたが気にするようなことは、何も」

 ああ、叫びすぎて───違う。

 喘ぎ過ぎで、喉が枯れている。

「いたって普通や。伊瑠奈高校は進学校としては可もなく不可もなし、やな…」

「そうなのか?」

「従兄弟の新ちゃ…新護と再会したんは予想外のことやったけど。変わったことゆうたらそんくらいや。あんたが面白おもろがるようなことも、嫌がるようなこともない。もうしばらくしたら生徒会活動が始まって、すぐ体育祭や…」

「───ふうん」

 だしぬけに頭の被毛を掴まれた。乱暴にのけぞらされ、顔を覗き込まれる。

「なあ磯良。我は恭順なぞ求めん。ただ正直でない貴様の振る舞いは好かん」

 いっそ優しげな口調で。しかし太く長い指に絡めた被毛をギリギリとねじ上げる力は緩むどころか強くなる。

「貴様から光の匂いがする」

「───え?」

 意外な言葉。思いもよらぬそのひと言に、僕は心底からギョッとした。

「…まだほんの僅かにすぎんがな。気に食わん匂いだ」

 一体なんのことだろう?思わせぶりな科白を吐くのは、わりといつものことだけれど。

 険しく歪んだ眉よりも、声の節々に埋め込まれた抑揚が、ただ事ではないものを示している。

「貴様、誰かに懸想しているのではなかろうな?」

 茜空を焦がす夕陽を閉じ込めた色の瞳が、謎の深淵を見透かす探偵ように細く酷薄にすがめられている。───機嫌を損ねた兆候だ。

「け、懸想だなんて…」

 一瞬だけ、昼間に再会した鮫人の笑顔が思い出されたけれど。

 ───僕が誰かに想いを寄せている、だって?

 そんなことは、それこそあり得ない。だって、自分がそんな上等なものではないことを誰よりも識っているのは僕なのだ。

 僕の答えがないので、納得したのかそれとも己の力への自信ゆえか、とにかく相手は掴んだ時と同様予告なく手をパッと放した。ベッドに倒れ込み、僕はむせる。

「まあ、よいわ。いずれ明らかになるであろうよ」

 相手は両膝に手をついて、精力を僕の尻に放出しきって重い腰を上げる。

「───貴様のことだ、如才なく立ち回るだろうて。それができぬときには…」

 衣服を纏うことすらせず、ゆるりとドアに歩いていく。

「あの女が死ぬだけだ」

 僕の背骨を悪寒が斬りつけた。

「だっ、大丈夫や!絶対、あんたのことも僕の右目のことも喋らん!必要以上に他人と親しゅうせん!」

「それが貴様のためだな」

 く、く、く。肩甲骨の上下だけで、向こうでどんなよこしまな表情をしているか判別できる忍び笑いを漏らしている。

「───それともう一つ。貴様にまとわりついていた別の匂いのことだが」

「ま、まだあるんか⁉︎」

「……くっくっ」

 のそりのそりと裸のまま、相手は答えずに去っていく。しかしドアを閉める間際。

「階段には、気をつけることだ」

 バタン!───乾いた音を置いて、僕は自室に取り残された。

「…階段…?」

 からこれまで何かを教示されたような覚えはない。僕が死のうが生きようが、いっかな悲しんだり惜しんだりする筈もない。そんな感情を持った相手ではないのだ。

 しかし、それが却って不吉に思える。そもそもあの鮫人に命を救われた一件のことは、打ち明けてもいないのに。

 僕はすっかり汗で冷えた身体を抱きしめるようにベッドにうずくまり、相手の言葉の意味を考えていた。


 🦈

「んにぬゅふぁぁぁ…」

 隣の女子列に並んでいた白豹人が、伊瑠奈高校の誇る大体育館じゅうに響き渡りそうな欠伸をついた。すぐさま、

「もし、和華さん。大口を開けてだらしない、牙まで見えてますことよ」

 と、白豹人こと城羽しろはね=グプタ=和華かずはなの後ろに控えるように立っていたヒトの女子、絵俥妙子えぐるまたえこが漆黒の巻き毛を揺らして耳打ちする。

「んぇぇ〜マジぃ〜?んでも許されるでしょ〜。アタシ昨夜はちょーど寝ついたところ起こされたし、日付変わるまでなんか変に忙しかったんだからさ〜」

 大きな目をしょぼしょぼさせてうるさそうに首の上の方の毛皮を掻いている白豹人に、僕、祭黍磯良も横から口を挟む。

「寮の方でなんぞ騒ぎのあったんは知ってます。けど、今は全校集会の真っ最中なんですさけ、しゃきっとしとらんとあきまへんのじゃないですか」

 ふぇ〜…とすぐにも立ち居眠りをこきそうな同級生の背後から、妙子は上品な魚のような手で白豹人の尾を握るや爪を立てる。

「イヤんっ!」

 という悲鳴が一瞬上がりかけたが、僕が横から片手で口を塞いでやる。涙目の和華は、

(二人とも覚えてな、後で可愛がってやるよ〜)

 という恨みがましい目つきでこちらを睨むが、僕は涼しい顔を壇上に向け背筋を伸ばしたまま静かに無視を決め込む。

 ちなみに僕の後ろには同じように従兄弟の廣金新護が並んでいる(名前順ではなく並んでいる)のだが、先ほどチラと後ろを確認してみたらドングリ眼を見開いたまま爆睡していた。まったく器用なやつ。

「…っだぐオメらときだら、ガキっぽいべな。全校集会だど。静かにしとけねのか。まいね」

 さらに新護の背後から響く怪獣の呻きもとい低い声の主は、巨躯のアザラシ人の斗与富百合之助。まったくもってその通りと胸の中で相槌を打つ僕である。

 柔道か相撲か知らないが、広い肩幅から胸、腹腰とみっちりと肉をつけながら弛んでいない体型。とにかく何かの運動をしていたことは確かだ。

 ちょっとした暴力行為ならお手の物といった糸目の強面で全校集会というのに両腕を組んでそびえている肉山だが、開目睡眠中の新護が前後左右に揺らめいているのを倒れないようにさり気なく支えているあたりが隠しきれない優しさを見せている。

 体育館のコートを埋め尽くしているのはブレザーの制服の人の海。校長の長ったらしい話が進むにつれて、いつも週中しゅうなかに開かれている全校集会が火曜日に開かれているのが、どうやら昨夜この校舎で起こった事故に関係しているらしいと分かってきた。

 和華の寮であった騒ぎも、根を辿ればその事故の被害者が同室の女子生徒だった事が原因のようで。

『えー、そういうわけですから。皆さんも日常に潜む危険というものに気をつけて。常に余裕を持ち、慎重を心がけて過ごしてください。とくに新入生の皆さんは、まだこの学び舎に慣れておらんわけですので…』

 壇上には仏様のように穏やかで人生における悟りを開いた人相の鶏人の校長がマイクを前にして、滔々とありがたくも眠くなる校内生活の安全の大切さを述べている。そして壇の横に並ぶのは、ブルドック人の教頭や生徒指導の先生の神妙な顔。

 昨夜、音楽専攻科に通っている寮生の女子生徒が、忘れ物を取りにきたところ階段から足を踏み外して大怪我をしたのだという。───まさにその昼間に、僕が墜落の失態を演じた同じ場所で、だ。

 間が悪かったというか運が悪かったというか、その女子生徒の転落を食い止めることはできなかった。彼女の周囲には誰もいなかったから…とっくに下校時間を過ぎていたのだから当たり前ともいえるが。

 そのせいで救助も遅れ、巡回に出た警備員が発見してすぐに救急隊を呼んだのだが、怪我の具合は相当に酷いらしく、その女子生徒と寮で同室の和華は寝入っていたところを叩き起こされたり彼女の身の回りの衣服その他を搬送先の病院に届けたりなぜか警察に事情を聴かれたりと、一晩中てんてこ舞いだったらしい。

 場所が学校で、多感な少年少女の巣窟ということで、まあ所謂「友情のもつれ」(平たく言えばイジメとか)だの「恋愛のこじれ」だの「将来への不安」だのを怪我をした女子生徒が背負っていたのではないかと大人達は考えたのだろう。

 だからというか当然のことというか、無駄口を叩いているのは僕たちだけではない。縦長に並んだ列のあちこちで、上級生が、下級生が、その噂話をやりとりしている。

(階段での転落…僕も昼間そうなりかけたんやったっけ…)

 自分の場合、あの鮫人の助けがあったから傷一つなく無事であったのに。そう思うと、どこかしら申し訳ないような気持ちになってしまう。

「んも〜、ヒヨリはイジメられたり失恋とかで思い余るような子じゃないっての〜…あたしにそんなこと訊くとか的外れでしゅよ〜…ふみゃっ!」

 警察官とのやりとりを寝言で反芻しながら夢うつつになっている和華を、すぐにまた妙子が厳しい指でつねり起こす。

『先輩方の言うこと、また先生方の注意には深く意識を傾けて、今回のように痛ましい事故が起こらないように行動してください』

 集会の開始から壇上で一本調子な弁舌を垂れ流していた鶏人の校長はそう締めくくると、マイクをゴトゴトと鳴らして脇へ退いた。

 ブルドック人の教頭(確か泰村と言っていた)が二言三言校長と言葉を交わす。一礼し、入れ替わりに壇上に上がる。

『えー、それでは皆さんに新しく赴任された先生を紹介します』

 ここでまた鯉の池にパン屑を打ち込んだようにざわめく全校生徒。

「新しい先生だって!」「こないだ辞めた数学の隆正の代わりってことかぁ」「あの先生なんで辞めたんだっけ?」「ラグビーのプロ選手になったんじゃなかったっけ」「くまモンみたいで可愛かったのにねー」「今度のはどんな感じかな?」「先輩の話だとこの学校のOBらしいよ」

 僕は知っている。それは僕をたすけてくれた鮫人のことだ。地面に激突するはずだった僕を抱き止め、代わりに頭から血を流すほどの傷をこさえてしまったあの相手だ…

 入学式の日、新護ともども目撃してしまった桜の樹の下での告白。他人の失恋の瞬間を目にしてしまったのはあれが初めてだった。

(二度と会わへんと思とった。多分、向こうだってそうやったんやろな…)

 泰村は生徒達の無駄口に動じることなく壇上からしりぞく。

 と。

『イッエエエエェェェェイ‼︎』

 耳をろうするシャウト。

 ホアン!マイクが見事にハウリング。

 バスン!全照明が突然カットアウト。

 えっ、なんだ?───と、視界を暗転に塗りつぶされて全校生徒が一瞬混乱に陥った。

 バシッ!今度は一斉に天井の光源からライトが降り注ぐ。

『ないすとぅー・みーつ・ゆー!エっブリバァデェェェェ‼︎』

 僕も御多分に洩れず眦をゴシゴシとこすり、そして見た。

 壇上のマイク前には仁王立ちになっている、身長2メートルを越そうかという鮫人の大男。

「え───」

 思わず喉から空気が漏れた。いや、僕だけじゃない。

 周りの皆も、上級生も下級生も、眠たげだった和華も、しっかり者の妙子も、目を開けたまま寝ていた新護(などは「ブガッ?」と瞬きをして目を覚まし、更に屁をこいた)も、大抵のことには動じない百合之助までも瞠目した。

 それに値するものがそこにあった。

 それが昨日の鮫人、木嶋拓也その人であることそれ自体は意外でもなんでもなかった。

 度肝を抜いたのはその出で立ち。

『マイネームいずTAKUYA・KIJIMA、あいはぶゆーすつーでぃすスクールずスチューデント!』

 ところどころ発音の良い自己紹介。マイクがギンギンとハウッて、ほとんどの生徒が耳を抑えている。かくいう僕も、猫人の三角耳をしっかり倒した。

 逆三角形に筋肉の盛り上がった上半身から下半身までを、金属光沢のあるド金ピカなタイツで覆い(股間のモッコリが目に毒なムッチリ具合だ)。

 両手両足には何かのヒーローのような白ゴムの手袋と長靴をつけ。

 ヒョッコリ突き出した鮫人の頭には虹色アフロのカツラ。

 トドメにLED電飾のまたたく♾グラサンを眦に引っかけた巨体が、片腕を高くかざしたポーズをキメている。

『伊瑠奈高校の皆はん初めましてぇ!数学を担当する木嶋卓也でっす!よろしゅうにそしてよろしゅうに!お近づきにワイの魂の一曲、早速聴いてくださいィィ!』

 ごん太い指を弾くと、思いのほか小気味良くパチンと音が響く。

 間髪入れず体育館に鳴り渡るイントロ。それはかのQueenの名曲───

「伝説のチャンピオン…?」

 それだった。あまり音楽に詳しくはない僕だって、歌い出しから分かってしまうあまりに著名な往年のヒット曲。

「ちゅうことは、あれ、フレディのつもりなんか…?」

 呟いてしまったのは、感動ではなく呆れから。

 ステージならぬ壇上で、鮫人は満面の笑みをたたえて名曲をうなっている。ワンフレーズごとに耳まで裂けた大口から白く唾の霧を吹く。そしてヘッドバンキングのたび頭鰭から飛び散る汗、汗、汗───

 腰が砕けそうになった。僕の命を救ってくれたら恩人が、鮫人の教師が、大の大人が素っ頓狂な衣装で自己紹介として披露しているワンマンショー…

「なんでやねん⁉︎」

 誰かが叫ぶ。一部から手拍子が上がる。失笑が聞こえる。携帯でムービーを撮る生徒、多数───

 新任教師のオンステージと化した壇上の脇、僕達からは見えない緞帳の影の内側で、泰村先生が人知れず片手で顔を覆っていた。

「ホンッマにアホやなアイツは…こういうんは職員忘年会の隠し芸大会までとっとくもんやぞ…」

 この、かつてのラグビー部では新入生向けの部活紹介で行われていた慣例の復活を大々的に成し遂げた鮫人の数学教師こと木嶋卓也の活躍は、後日校内新聞で大々的に取り上げられることになった。

 その文面は、こうだ。

『赴任早々御乱行⁉︎我が校の誉れ高きラグビー部OBの熱唱オンステージに校内騒然!』

 ───と。

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ブラックラダー 鱗青 @ringsei

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