第3話 ルトロヴァイユ・ルージュ

 その③ルトロヴァイユ・ルージュ


 🦈

 昼休みを告げるチャイムが鳴ったのは数分前。伊瑠奈高校政経コースの一年A組では、早速あちらこちらに生徒がざわめいて動いている。

 遅まきながら購買部へ小走りになっていく者あり。

 弁当片手に気になる相手を、部活の仲間を、友達を誘って中庭や渡り廊下や屋上へ行く者あり。

 安さに反比例して驚くほどの量と質を誇る食堂(味の方は地に落ちている)に肩を落としながらトボトボと向かう者あり…

 ちなみに伊瑠奈高等学校の食堂はほぼ全ての生徒が一度は利用し、その破壊的なまでの現実に玉砕するという経験をしている。いわばそれはこの学び舎の生活における通過儀礼とも呼べた。

「あー、そろそろ僕のお腹はんも減ってきたどすな」

 思い思いの場所と方角へばらけていくクラスメイトたちを見送って、僕つまり黒猫人の一年生、祭黍磯良さいきいそらは伸びをした。

 小柄な体つきでも背をうんと伸ばせば、なんとか150㎝台後半に届くというところ。

 左右で色の違う瞳。右のほうの浅いグレーに濁った瞳は視力が無く、眉の上から下瞼まで痛々しい切り傷が走っている。もう片方の左側は、夜の終わりを告げる明星を吸い込んだように朱の濃い色。

 黒板上のまだ新しい時計を見やる。昼休みのベルのあとで駆け出していった、従兄弟とその寮で同室だという巨漢のコンビのタイムを計るために。折り返し地点が購買、ゴールはこの教室である。

「新護のアホ、ほんまもんのいらんことしいなんやから…」

 溜息には訳がある。わけもなく溜息を垂れ流すのは恋する乙女か貧困家庭の主婦くらいのものだが。

「あられのら?終了10分前かぁ…まあいいや。キリがいいからこのへんまでにしときましょ。誰か質問のある人〜」

 という古文教師のモグラ人、海吉銀春うみよしぎんばるの言葉にワッとみんなが喜んだ。

 そこで勢いよく挙手したのが我が従兄弟のナイル系ワニ人、廣金新護ひろかねしんご。空腹の極まる四時限めのフライングエンドを邪魔するのはどんなに深い質問かと思いきや、

「あのさ、さっき海吉先生が言ってた『トビッコくらいの大きさの腫物できもの』の『トビッコくらい』ってどんなもんだってんだ?イクラと同じくらい?」

 という心底どうでもいい内容だった。そのせいでせっかく早めに終えるはずだった授業が定時終了になってしまったのだ。

 あの教師も教師だ。新護の馬鹿さ加減と調子の良さを向学心と取りちがえるなんて。前向きに捉えすぎだ。あやうく早く終わるどころかベルが鳴っても雑談を延長しそうだったので、無理やり僕が

「先生、続きは次回までのお楽しみにとっときましょう。それでは、起立、礼!」

 と、ぶった切ってしまうほかなかった。

 そのくせ当の本人は他のクラスメイトの恨み節も意識せず「急げユリリン!今日こそ購買で狙いのブツ手に入れるぜ!」と一番に出ていってしまったのだから…

「さてあの凸凹コンビ、新記録に届きはるんどすかねえ…」

 と、ぼんやり時計を眺めている僕の(同級生の男子に比べたら)華奢な肩に、後ろから思いっきり乗っかる白い毛皮。

「だーれかさんとだーれかさんっがむっぎばったけぇ〜♬✖️✖️✖️していっるえーじゃないかぁ〜♬グフフフフフフフ」

 なんの関連性があるのかわからない歌と唐突なバックハグは、僕の表情を明るくするどころか滅茶苦茶にしかめさせた。

「あのー、いきなり背中に飛びかかられると脊柱を砕かれそうで怖いんどすけど、城羽しろはね=グプタ=和華かずはなはん」

「こんな美少女つかまえて、そんなつっけんどんな事言ったらダメだよ磯良イソちゃん〜」

 学園モノにありがちな過剰なボディタッチをかましてきた白豹の女子が、こちらも眉根を寄せて言い返す。

 後ろから回した腕は、もこもこの毛並みに覆われていて、これがまたチェックを基調にしたブレザーによく映える。本人が言うようになかなかの整った顔立ちとあどけない言動で入学当初から全校男子生徒の「彼女にしたい女子」投票の一位を確立させた和華が、その豊かな胸の双球を僕の背中に押し付けてきた。

「ほんまにその通りどすなあ。これは失礼をば致し奉りました。鳥の羽根みたいに軽いですさけ、どいてくれはったら嬉しいんどすけど?」

 本来ならば肩甲骨に「ふやん」と当たっているあたたかな感触に陶然となって然るべき立場なのだが、いかんせん女子の女子らしい武器には無関心な僕なのである。

「なーによそれぇ!ご機嫌悪いのー。あっもしかしてイソちゃんは男の子の日?そーゆーヤツ?ブルーデーってこと⁉︎グフフフフフ」

「ブルーデー…聞いたことない言葉どすけど、どうせまたシモの方の単語ですやろ」

「男の子の生理の日。といえば、エロエロな夢みて朝にパンツがグチョグチョになる日のことに決まってんじゃん!」

 そんなことを唇の端からよだれを垂らしそうな助平顔スケベがおで言われても。こちらとしてはドン引きである。

「和華さん。そういうことを殿方に言って困らせるのはやめて差し上げなさいな、はしたない」

 ちょっぴりかすれた声でたしなめたのは、カールした黒髪を腰まで流した、これもまた美少女と呼ぶにやぶさかではないヒトの女子。

「それに制服の前が開きすぎてます。女子は胸元をしっかり閉じる。それからあまり抱きつきすぎないこと。親しみを表すのは良い事ですけど、時と場所も選ばないと殿方には毒ですわよ」

 なよ竹のような指が伸びて、和華の豊かなバストに押され負けかけたワイシャツの前を静々と留め直していく。

「タンキュー、タエちゃん。あ、でも気をつけて!あたし感じやすいからァン♡」

「女同士で何をおっしゃるやら」

 クスリとほころぶ眼差しは、丁寧に切り揃え櫛で梳かれた前髪を通してなおもあたたかい。ほとんど青白いまでの白磁の肌。そして怜悧なリップの輝きを放つ薄い唇。すらりと伸びた手脚といい、外国製の日本人形といった印象だ。

 絵俥妙子えぐるまたえこ。実家が老舗の漬物店を経営をしており、その家系も相当格式が高いという噂のクラスメイト。噂が真実に根ざしていることは、時代物めいた言動の端々に現れている。

「祭黍さんのように誠実な殿方を、つまらない戯れにこうじさせるものではありませんですことよ」

(うへぇ、『殿方』に『昂じる』ときたか)

 僕は内心で舌を出す。和華のようにではないが、こちらもこちらで変わった女子だ。

 妙子の性格はいささか品行方正に偏ってはいるものの、本人はいたってフレンドリーかつ面倒見が良い。こちらもまた入学早々男子により秘密裏に行われた「俺の妹選手権」グランプリ堂々一位を獲得した僕のクラスメイトである。

「イソちゃんはこのくらいで怒るほど心が狭くないよーっだ、タエちゃんのうるさ虫ー!」

 和洋折衷美少女に挑むように大きな目を吊り上げて「イーっ」とする和華。いつも何か愉快なことを企んでいるかのような口許から可愛らしい舌を出して。

(…きっと今、この教室の男子の多くが和華はんのこの表情を脳内メモリに保存しとるんやろなぁ)

 そしてそれはとりもなおさず、帰宅した彼らの夜のオカズとして加工再生されるのだろう。それが高校一年生、思春期真っ盛りの男子というものだ。

「故なき非難は雉が鳴き声、きじも鳴かずば撃たれまい…ですわよ。やくたいもなきことをおっしゃっていないで、早く昼食ちゅうじきの支度を整えましょう。ホラ、そちらの机を寄せますわよ」

「ああ、机は僕がやりますさかい、絵俥はんは椅子の方を頼みますわ」

 いそいそと机を五つ並べて島を作るヒトと黒猫人を、白豹人はニコニコと見守っている。

「あの、和華さん。少しは手伝っては下さらないこと?」

 別に機嫌を悪くしたのではない。あくまで疑問としての妙子の質問に、和華も快く返答する。

「うん?いーけど?あたしがやると机が爆発して椅子が分解して、お弁当が食材にまで巻き戻るけど、それでいいのなら」

「やっぱりやめときましょ、絵俥はん」

「…そうですわね祭黍さん。それが次善の策ですわね」

 エヘッ、と腕を組む和華。

 そうなのだ。この和華、僕にとってインド系では初めての知己であるが、なぜかやることなすこと予想だにせぬ破壊と混沌をもたらすのである。

 板書をすればクラスの三分の一が気絶するほどの不快音を発するし(なぜたかがチョークで音響兵器並みの破壊力が生まれるのかはなはだ不思議だ)、プリントを配れば破れるし(力加減というもののメーターがおかしいのだろうか)、コンピュータを触ればモニターから発火する(器材の劣化で片付けられたが、クラス全員が鳥肌立ったものだ)。

 比喩ではなく、実際に僕たちが見聞した事実であることが、畏怖と神秘のあだ名を和華に授けた。

 ───「伊瑠奈高校の破壊の女神カーリー・ドゥルガー」と。

「ほんに、こないに不器用なお人やら、僕の短い人生の中でもお目にかかったこともないですよ。和華はん、量ではどないしはってるんどす?」

 癖のついた額の毛を捻って遊びながら

「えー?まぁ、寮でもこんなもんよ?同室の子とかが色々やってくれるから、あたしはただ座ってるだけかねー」

 と答えた。

 人呼んで破壊の女神である白豹人は、スポーツ万能でもある。陸上の特待生でもある彼女は、校舎から離れた街中にある女子寮の住人なのだ。

「あっ、昼ご飯スペースができたね。ほんじゃーイソちゃんの毛づくろいターイムっ」

 和華は無事に形になった五人席につくや、磯良の尻尾の手入れなど始める。彼女の元々の気質なのかインドに由来する家族伝来の文化なのか知らないが、やたらと人懐っこく触ってくる。

 女の子に、というか他人から触られることが好きではない僕には正直クラス替えが待ち遠しい。クラス編成してまだひと月めなんだけど。

「殿方にあまり気易く触るものではありませんですわよ、和華さん。女子の品格を下げてしまいます」

「えー?だってぇイソちゃんの尻尾超可愛いんだもんー。ホラ見てよ、毛並みなんかツヤッツヤ、完璧な芯のしなやかさで先っぽにかけてのふっくらした毛膨らみ。一番すごいのが顔も身体も黒毛なのに、尻尾のここ!最先端だけ雪がくっついたみたいに真っ白なの凄くない?」

「もう、論点はそこではありませ…あらま、まことに麗しいですわね。あの、あたくしにも触れさせて頂いてもご不興を買いませんこと?」

「なんだ、結局タエちゃんも触りたいんじゃん。いーわよ、ほら。あたし今度は耳の方やるから」

「あの、僕の主張を挟む余地はいずこに?」

 左右を美少女に挟まれてしまった。片方からはウットリと尻尾をなぜられ、片方からはしげしげと耳から後頭部の毛並みを手入れされる。

 繊細かつ小柄で容姿整った黒猫人と、存在するだけで太陽すら霞む朗らかな白豹人の美少女と、ヘレニズムの化身のような黒髪の乙女は傍目から見て絶好の被写体といえる。写真を投稿サイトに乗せればあっという間に拡散しそうな素材───ではある。

 しかし。

「あのー、お二人ともほどほどに…」

「んー、イソちゃんブラッシングサボってるでしょ?あちこち毛羽立ってるもん。ダーメだよパン屋さんが朝早いからっていっても手を抜いちゃー。右耳の後ろ、それに首筋んとこも。自分じゃ見えないところは鏡を使ってさー」

「はぁ…ほんに素晴らしい手触りだこと…祭黍さんの毛並みは天衣の如くですわね。まったりとして照りがあってこってりとしてらして…あたくしの母の晴れ着だってこれほどまでに艶めいてはおりませんですことよ…」

「いやあの、絵俥はん?さっき言うてはった品格とかなんとかはどこに消えたんですか?」

 この現状は、僕の思惑とは裏腹に全校男子の嫉妬を燃え立たせるに違いない。当方の希望とは異なると声を大にして叫びたい事態ではあっても。

(まったく、まだ入学して一月ほどしか経っとらんのに…僕ってそないに距離の詰めやすい印象やないはずなんやけど)

 どちらかといえばかげがある僕は、自分の身にまとうオーラが人を寄せ付けないものであることを客観的に理解している。むしろ他人を阻み、必要以上の接近の障壁となるように愛想は極力排除してきたつもりだ。

(それもこれも、あの能天気な新護のせいや…あいつが僕を無理やりこのグループに入れたりしよったさけこないなっとるんや!)

 従兄弟のことに想いを馳せたのを待っていたかのように戸が開き、教室の中の賑やかさ指数が四倍に跳ね上がった。

「現実さ見るびょん!」

「理想を語れっての!」

 極太のバスと子供っぽいキャンキャン声。

 デンデンデンデン。

 ドスドスドスドス───

 軽重二つの足音。教室の床が…いや、むしろ建物そのものがおののいている。

 むっちりと固肥りした小柄なワニ人と、軽くジャンプしただけで天井を突き破り床を踏み抜きそうな巨漢のアザラシ人である。二人揃って同じように制服の前を広げて、腹をせり出させた凸凹コンビの登場。

 やいのやいのと議論をぶつけ合いながら、アザラシ人とワニ人はそれぞれ両腕に購買で強奪してきたパンとおにぎりをしっかり抱えている。

「おかえりヤッホー、新ちゃんにユリリン」

 ぴっ、と片手を上げる和華。

「ただいまヤッホー、和華。イソ、タイムどうだった?」

 大きな目をグリンと回して問うワニ人、僕の従兄弟の廣金新護。

「タイムは…8分17秒。随分と急ぎはったようで、昨日より2分余計にかかってはりますよ」

「えー⁉︎くっそー、明日は縮めてやる!」

 手にした戦利品を静かに島の真ん中に置き、左の眉の上から頬にかけて十字形の傷を持つアザラシ人の百合之助は胡乱げな視線を投げてくる。こちらも新護によってグループに引っ張り込まれたクチだが、そうでなかったなら在学中に関わり合うこともなかっただろうことは疑いもない強面だ。

「あまっこ二人がらサンドイッチにされで、ええ身分だべな、黒猫」

 不機嫌そうに糸目をごく薄く開けて、それでも瞳が見えない。ゲームやハーレムもののラノベの主人公でもあるまいに、一見して女子からちやほやされている僕などは、質実剛健な彼から見れば確かに鼻持ちならない風に映るのだろう。

 全くの不本意だけど。むしろ嫌がらせに近いのだけど。

「おかえりなさいお二人とも。戦果は上々だったようですわね?」

 流れるような動作で重箱を机に出す妙子。高級そうな漆塗りの箱を崩すと、その内側にはこれまた高価そうな食材ばかりが詰め込まれた魅惑の和食ランドが開園している。

「でっへっへ。我が戦果、遠きにあらば音に聞け、近くに寄らば目には目を!歯には歯を!」

「古風な言い回しが板についてなくて上滑りしてませんか新護はん?」

「ま、待ってイソちゃん‼︎新ちゃんが持ってるあれ!あ、あれはまさか───!」

 新護が誇らしげにぶち上げた短い腕の先にあるもの。ほっこりと膨らんだキツネ色のコロネを目にし、僕の頭をこねくり回すのをやめて立ち上がる和華。

「そう!これこそ月曜限定販売・生クリームの白コロネだってんだい!」

 喜びのあまりピョンと飛び跳ねる白豹人。僕と、アザラシ人と、ヒトの三人はさっと弁当箱と購入品を机から落ちないよう押さえる。

「わーっやったーっ!これ超レアじゃん、初めて食べるよー!ありがと新ちゃん愛してる!」

「ちよっ、ヤメろ和華!別にお前にやるために買ってきたんじゃねーっての!あと、お前が触るとロクなことがない!」

「そうだべ和華、お前などお前などで自分の弁当コ持っできどるべ」

「それはそれ!これはこれ!あたしによこせ白コロネ!Hey-Yo‼︎」

「妙なリリック刻んでないで落ち着きなさいな和華さん。勢い余ってわたくしの足、踏んでいますことよ」

「あゴメン、タエちゃん!」

 結局、新護は根負けして少しだけ和華にコロネを分けてやることになった。僕は

「一口だけ!そんだけだかんな!いきなり一口で半分持ってくとかしたら一生許さねーぞ!」

 と釘を刺す新護に呆れ果てながら、のんびりと自分の弁当を広げる。今日も今日とて、パン屋ブーランジェリーである我が家の売れ残りを工夫したものだ。

「まっだぐ、たかが菓子パン一個に大袈裟すぎるべな。まいね」

 百合之助は暑そうにブレザーの前をバタバタやってボテ腹に空気を送り込みながら、どっかと腰を下ろしてペットボトルのキャップを親指ではじき飛ばす。何気ない動作だが、とんでもない怪力だ。

「男なら女の子に譲るくらいの器量を持ちや、新護はん。そないにしみったれとると、いつまでたっても政治家にふさわしい人格者にはなれまへんどすえ?あとモテまへんどすえ」

「別に俺、磯良みたく女にモテなくたっていーもんね!ただ食いたいもん食えれば…って、コラァ‼︎ツバつけんなっての和華ぁっ」

 半分取っ組み合いをしながら和華からコロネを取り返し、卵を護る雌鶏よろしく抱え込むワニ人。

「あー、さすね。こんだけたんとあんだ、みみっぢいごど止しどげ。男らしぐねど」

「むっ。そーいう『男だから』とか『女だから』とか、ジェンダーのオシツケってやつにあたるんだぞ!こないだ授業でやったっての!」

「僭越ながら申し上げれば、百合之助さんの表現のこの場合の用法は、意図するものを別に想定できる範囲ですわ。ジェンダーハラスメントには当該しないのではございませんこと?」

 弁当の鰆の治部煮やおにぎり、サンドイッチを頬張りながら唐突に始まる法令や社会問題への談義。これぞ政経コースならではの日常風景といったところか。

 ふと横を見ると、白豹人が瞑目している。僕はカマンベールチーズとハムのクロワッサンサンドをきちんと咀嚼し尽くして、細い喉元の奥へと嚥下してから問いかけた。

「どないしはりました?和華はん」

「エヘヘッ、どうかしたように見えた?んー、なんでもないようなことなんだけど…このクラスに来て始めての日の、自己紹介の時からするとさ。こんな風にお昼ご飯するようになるなんて想像もしてなかったのよね」

 和華にしては珍しい感慨深げな科白セリフ。照れたように頬を掻きながら沢庵とシーマヨの長巻きを齧っている。

 確かに、入学式、オリエンテーリングと続いて初めてのホームルームの際には、こんな和気藹々とした景色が生まれるなんて思えなかった。というか、うん、割と殺伐としていたと記憶している。

「同感でございますわ。わたくしも感慨が深いものです」

 こちらは言葉短く追従する妙子。しっとりとした出汁の匂いを放つ金塊のような卵焼きをつまむ、その箸運びさえも繊細である。

「まさか逆立ちして登壇したタエちゃんが、カポエイラの動きで自己紹介するなんてね。あたしめっちゃビックラしたわ」

「いつあたくしがそんなロックなアピールを致しました?至って変哲へんてつもない一分間スピーチを聴いてたでしょう、あなたも」

「ユリリンは一人5役でアニソン歌い切ったしねぇ」

「頭沸いでんのが白豹?誰がそっだらごどできんだ?オラはあん時、名前しか言ってねど」

「新ちゃんは首を三百六十度ひねってから尻尾を顎の中に入れてみせたし」

「普通それ首折れてっし、尻尾ちぎれてね?」

「イソちゃんに至っては網タイツでセクシーダンス踊ったじゃない?」

「『セクシーイコール網タイツ』て石器時代の考えですよ?和華はん。さっきから言うこと一個も当たっとらんどすけど?」

 和華はポワンとした笑顔を振りまくばかり。ギャグを言ったつもりなのだろうが、ハイボルテージすぎて誰もついていけていない。

「その顔の造作に明るい性格。これで天然で男子顔負けの下ネタ好きでなかったなら…いやはや、残念なことどすな」

「えー、褒めすぎだってイソちゃん!」

「オメの取り柄はそのポジティブシンキングだべな」

「そーだな!俺も和華なら男同士の感覚でどつきあえるかな!」

 丁寧にコロネを食べ終わり、次に乱雑に天むすを食い散らかしながらケラケラと笑う新護。その大口が飛ばす米粒を、百合之助はスウェーバックで避ける。和華はまだら模様の毛皮に新しく追加された新護の食べカスに顔をしかめる。

「もー、毛皮につくから食べカス飛ばさないでよ新ちゃん!口閉じて食べて、飲み込んでからしゃべりなよ!」

「和華さん、そう言う貴女も、しっかりおパン屑つけてらしてよ」

 僕は目線だけを男子二人と交わした。新護は素直に目を丸くして、

(ふわー、おパン屑ってのか?すげーなお嬢様は)

 と顔に書いてあるし百合之助は

(どげな言い方しでもカスはカスだべ)

 とクールな感想をミリも動じていない全身に漂わせている。

 そんな僕らの眼の前で、学年きっての美少女二人は…

「え、どこどこどこ?ゴシゴシっと───ね、取れた?」

「いえ、まだ。ちょっと失礼しますわね」

 つと伸ばした可憐な妙子の指先が、白豹人の頬に触れて。

「きゃんっ?」

 と、和華は尻尾を跳ねあげた。

 以下、僕たち男三人によるテレパシー会話。

(なんだすか今の可愛らしい反応は…)

(なーイソ、俺たちの目の前にあるのって一体なんだってんだろな?)

(さあ…さながら天使の戯れとしか…)

(あまっこ二人のくんずほぐれつどが、エロいべな。まいね)

 ラブもロマンスも程遠い。けれど、コメディと目の保養には困らなさそうだ。

 まずまず恵まれた学園生活を噛み締める僕達だった。


 🦈

 午後の授業は視聴覚室での法律史概論。一年生のみの基礎的な科目である。

 ご大層な名目とは裏腹に、一学期のみの科目。夏期の期末で赤点さえ取らなければ問題ない授業。おまけにスライドと記録動画が主体の内容のため、腹がくちくなった生徒には致命的な「暗い・静か・退屈」の三拍子が揃った睡魔の跋扈する一時間。

 当然、カーテンを閉めた薄暗い教室のあちこちで低い鼾が立ち昇り、後ろの方の席ではやヒソヒソ話が花が咲く。

 席が自由に座れるのをいいことに、僕も最後列に陣取って、ノートだけは真面目につけながら御多分に洩れず新護や和華と雑談を続けていた。

 教壇の上のスクリーンには、教科書通りの年表と、便覧通りのヨーロッパの法廷や裁判の銅版画が流れていく。教師は時折解説を入れるだけで、こちらの方は見向きもしない。

「ねーねー、こういうマンモス校だと怪談とかもつきものだよねー。ね、知ってる?この学校、怖い話がたーっぷりあるんだって」

 適度な薄暗さに誘われたらしい和華が、不意に左側からそんなことを言い出したので、僕はギクリとした。

「マンモスって言いかた古いかも。したっけその、怪談?どこ情報だって?陸上部?」

 僕の右側から短い猪首を伸ばす新護に、和華はそうだと首肯する。およそ怪談や醜聞、噂話の類は部活の先輩から縦の線を伝わって後輩の耳に届くものだ。そして和華が仮入部している陸上部といえば、伊瑠奈高校きっての歴史を誇る部なのである。

「この学校のできる前ね、この辺一帯は古戦場跡だったんだって。ほらあの、徳川と豊臣のぶつかったところみたいにさあ、なんか大きな戦いがあったんだってさ」

「それでしたらあたくしも伝え聞いておりますわ」

 前の席から妙子が振り返る。

「有名ではないから教科書に載るほどではないのですけれど、それはそれは激しい戦があったと。時代は確か、鎌倉あたりに…それで戦死者や犠牲になった付近の町村の住民達の魂を慰めるために植樹をし、伊瑠奈の森といういわば鎮守の森があったそうですことよ」

「おー、さっすが地元民!で?で和華、その怪談ってどんなんだって?」

 ワニ人のノートには巨大なロボと怪獣が光線で戦うイラストや卑猥なマークなどが所狭しと並んでいるので、この教科にかける情熱は推して知るべしだ。かく言う僕も、ノートの角にパラパラ漫画を描きつけていた。

「いくよいくよ?まずねー、死を呼ぶ『呪いの桜』。放課後遅くまで残ってると聞こえてくる、あの世に導かれる『真夜中の潮騒』。それに見たら不幸になる『取り憑きの肖像画』。どーよ!」

 それ以上ボリュームを出したら教師に気づかれるぞと僕が注意する前に、背後からずっしりと押さえつけるような低音が響いた。

「ほんに、オメは馬鹿らしいはんかくせぇ話になっと活ぎ活ぎするびょん、白豹」

 僕の後ろから嘆息混じりに呟いたのは、つるんとした頭のアザラシ人。

ものだの幽霊だの迷信もええどごだべ」

 身体の大きな百合之助は頭を巡らすだけで目立ってしまう。しかしモーションを最小限に抑えて口許だけで話しているので、教壇からは大人しく授業に集中しているようにしか見えないだろう。なんといっても、どこを見ていても気づかれないほどの糸目だし。

「そう?『階段の首折り鬼』なんかは結構怖くてさぁ、陸上部の先輩から教わってあたし夜うなされちゃったよ〜」

「それは和華さんが精神年齢が幼いから…」

「心外!あたしの神経は金魚すくいのポイぐらいに繊細なの!」

 それは繊細というより安っぽい神経なのではなかろうか。

「古戦場ってそういうモンなのかな?オバケとか集めやすいとか?なんかテレビとかの超常現象特集で言ってたけど、レイライン?地形的に霊的なものが集まったりしやすい土地柄ってのもあるらしいって」

 ワニ人のしたり顔に、僕はこの学校とそれを含んだ地域の情報を頭の中に描いてみた。

 そういえば、地図で見た伊瑠奈高校の広い敷地は木に覆われた六つの山というか丘に囲まれている。それもなぜだか、それらの点を結ぶとちょうど浮き上がる六角形の、更に中心になるように。いわば「籠目」の内ということだ。

(レイライン…霊的なものの影響を受け易い地形…)

 言われるまで気がつかなかった。意識をそういった方面に向けていればすぐに目に付いたはずなのに。

「えー、ヤダめっちゃゾクゾクきた。今晩寝られるかな〜」

「話をお振りになった本人が怖気付いてらっしゃるなんて、まさに墓穴ですわね」

「和華はホラーが好きなのか嫌いなのかどっちだってんだ?」

「違うの違うの、好き嫌いじゃなくて『苦手だけど面白い』の。あるじゃん、怖いものほど見てみたいっていうか?」

 まさにテレビの怪奇番組がターゲットにしている視聴者タイプだ。

 僕は震える手をそっとポケットにしまう。もとからノートの必要もない授業だ。クラスごとに先輩から回されてきた、昨年と一昨年の期末試験の過去問をあたれば赤点を取ってしまうこともまずないだろう。

 なんにせよ、さっきから周囲の空気が重い。限界だ。

 ガタリ。

 椅子から立ち上がる音が滑稽なほど大きくて、教室のみんなが驚いて僕を見た。

「すみません、気分が悪くなりました。保健室に行ってきます」


 🦈

「ツ…」

 痛そうな声が人気ひとけのない男子便所の洗面台に響く。

 片手で自分の目を塞ぎ、前傾姿勢から見上げると、鏡の中の黒猫人が見える方の朱丹の瞳で見返してくる。

(事情を知らへん人が見たら、中二病くさいごっこ遊びで能力を開花させてる面倒なヤツ…の構図やね)

 ふっ。

 軽い自嘲が自然と鼻先をくすぐった。

 いつまでもこうしてはいられない。体調不良を宣言して授業を抜けてきてしまったからには、保健室へ直行しなければ教師の心証が悪くなる。

 痛みが完全におさまらないまま、僕はいいわけのように乱暴に顔を洗うとトイレを後にした。

 あの教室での会話で、周りに色々なものが寄ってきていた。それを肌で感じてはいたが、この右眼はもうそれらの影響を受けないと思っていた。その筈だったのだ。そのための、それを保証してくれるものこそがこの傷なのに。

(これのおかげでおさまったと思とったのに…どうして一体、何がきっかけで再発?何か変わったこと、あったかなあ)

 思案しながら移動していたら、急に激しい衝撃を受けた。

「っ……………!」

 それは物質的に表現すれば流れ弾を右の眼窩に受けたような、それまでのものとは明らかにレベルが異なる痛み。

 よろめいて数歩、廊下の端へと。

 手がかりを求めた指先が、壁ではなく宙空をつかむ。

「え」

 まさか。

 そこはちょうど階段の降り口。吸い込まれるように、それがまるで運命だったかのように、僕の身体は簡単に足場のない空間に押し出された。

 ゆっくりとバランスを失い宙に浮く感覚。驚くよりむしろホッとしたような気がした。

 ああ、これで楽になれる。これで終われる。もう頑張らなくていい。耐えなくて、いいんだと───

 走馬灯の時間。転落の数秒がひどく長く感じる。階段の角で首を折るか、頭蓋骨が砕かれる。一瞬のことだろう。そしておそらくは絶命する。

(お父はん…ごめん。おたあはん…赦して)

 父に対して犯したおぞましい罪も、母に対して為したむごい仕打ちも、何もかもを消し去ることができる。

 そう、僕は、自分が死ぬことになんら躊躇ためらいがなかった。

 その時、聴き覚えのある太くて逞しい声がした。

「───シャァッ‼︎」

 攻撃?襲撃?いや違う、ボヨンというかモキッとした柔らかな激突。

 ドン、ゴロゴロゴロ───

 目が回る、世界が回る、頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。

 まず気がついたのは、少し汗の混じった柔軟剤の匂いだった。

 それから、熱。火傷しそうなほど高い体温。

 僕は恐る恐る目を開けた…

「大丈夫け⁉︎オイ、どっこも打たへんかったかッ⁉︎」

 僕の視界のほぼ全部を塞ぐのは、大きな鮫人の顔面だった。

 喉がかすれて声が出ない。

 落下から激突へと至る瞬間、思いがけず食らったタックルのショックと、僕を強く抱きしめる相手の腕力のせいということもあったけれど、その顔が、以前に一度まみえて忘れられなかったその三白眼の強い視線と男らしい造作が、驚愕きょうがくをもって僕の発声器官を黙らせてしまっていた。

「お、おいおいおいおい!何しとんねやお前ら!」

 塩をまぶしたベーコンのような声が近づいてくる。教頭先生の、確か泰村とかいう名前の初老のブルドック人だ。

「私が見たところ、あの生徒が急に階段から落ちてきて───君、大丈夫かいサヴァ⁉︎」

 このハイテノールは、第二外国語教師の獅子人の声。女子生徒に大人気のイケメン、久慈先生だ。

 そして、僕を抱きかかえて一緒に床に転がっている、スーツの似合わない…というか真っ黒なスーツに白ワイシャツだとどこかの用心棒にしか見えない、上半身が鎧のように筋肉太りなこの鮫人は…

木嶋きじま…さん…………?」

 ポツリとこぼした僕の言葉を聞くと、相手は大きな三白眼をパチクリとさせ、それからニッ!と大きな笑いが耳まで裂けた口に溢れる。

「また会うたな、黒猫くん!」

 頭の上の鰭のあたりから真っ赤な血をドクドクと流しながら、鮫人───木嶋卓也きじまたくやは、あのオリエンテーリングの日と何一つ変わらない笑顔で。

 そして今度は、命を救うためではない抱擁に力を込めた。


 続く

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