第2話 ランチ・ブルー

ブラックラダー②

『ランチ・ブルー』

 🦈

 野良犬に噛まれたと思って忘れろ。

 って、よく言うよね。

 巫山戯ふざけんな、って思う。こんな無神経で身勝手なもの、どんなポンコツが考え出した理屈なのか。多分、十中八九、いや絶対にこれは「野良犬に噛まれたことなんかない」者の言葉だ。

 百歩譲って本当にそう思い込んだ方が被害者にとって良いと言うのなら、噛んだ野良犬はんにんの方は地の果てまでも追い詰めて、必ずぶっ殺すべきなんだ。

 そんな考えが頭の中で迷路の出口を見失ったハムスターのようにぐるぐると回っていた。

 いま、目の前の車窓には、立っている私の上半身が映っている───大事な推薦受験のために母親が選んでくれた清楚で感じのいい、いかにも高校生にふさわしい濃紺のスーツ姿。つり革をつかんだ反対側の手には、面接で必須の演奏道具であるヴァイオリンケースを後生大事に携えて。

 背中に垂らした長い鬣は鬱陶しく見えないよう、親友から誕生日にプレゼントされた大きな四つ葉の髪留めで三つ編みにまとめて。

 しかし肝心の顔の方は、とても面接官の心象をグッと掴めるとは言い難い代物。なんせまるで起き上がったばかりのゾンビのように、ドロンと精彩を欠いているのだから。このままで面接に臨んだら、入室するや否や不合格のハンコを面接用紙に捺されるだろう。

 それもそのはずだ。

 前日に緊張していたためにまさかの寝過ごしをやらかし、受験会場のホテルに向かう途中。いつもは乗らない通勤快速に乗ったのが間違いだった。

 今、私は自分のツキの無さを痛いほど噛み締めている。

「ほら、ええか?ええんやろ?…こんな風にされるのがほんまは好きなんやろ?」

 平ぼったい舌で舐めるような発音。

 まだ肌寒い風が吹きすさぶ電車の窓の向こうから見返してくる私の死んだような顔。その背後には───

 ドラゴンなボールを集める漫画に出てきそうな剃り眉でがっしりとした身体つきのパンダ人の大男が立っている。

 その男の左手は私の腰を抑え、もう一方の手が先程から私の臀部と太腿の周辺をしつこく撫で回している。そして独り言とも問いかけともつかない関西弁で、しきりに繰り返している。

 勿論のこと、この大男と私の間に恋愛感情はない。というか、そもそも関係性すら皆無だ。なにせ今日、この朝、ここで初めて出会ったのだから。

 端的に言うと、私は痴漢されている。

 それも車内の大勢の人間の目の前で。

 はじめは男の存在にも、男が満員ではないがそこそこ混んで座席の空いていない車中を一駅ごとに移動して距離を詰めてきていることにも気づかずにいた。

 生まれて初めての面接試験のことで頭がいっぱいで、私はガラス窓を鏡の代わりに口角を上げたり下げたり、はたまた脳裏に面接官との受け答えのシミュレーションを展開しているのに忙しかったから。

 臀部を這い回る得体の知れない気持ち悪さにハッと我に帰った時には、もう遅かった。

 怖い。恐怖が石膏のように私の表面を覆い、体のあらゆる筋肉という筋肉が固まってしまって動けない。悲鳴も上げられない。

 父親譲りが自慢の長い睫毛を震わして、視線だけで周りを見回すけれど───無駄。誰も私を助けようとはしない。

 真正面で座席についているサラリーマンは、スマフォの画面を食い入るように見つめている。

 私と近い入口脇のおばさんは、自分の足元をひたすら眺めている。

 割とガッチリした体型の大学生風の青年は、窓の外に気を取られている。

 旅行者風の女性二人組は、グルメ雑誌を夢中でチェックしている。

 ───フリ。

 みんながみんな、誰も彼も気づいていないフリ。見て見ぬフリをしていて……

 黙殺だ。これは、まるで群れから脱落した一頭が肉食獣に襲われても我関せずと通り過ぎてしまう草食獣の行動のようだ。

 でも私は動物じゃない。人間だ。これまでそう信じてきたし、周りにいる人間もそうであるはずなのに。

 ───なのに。誰も私を助けようとしてこない。

(なんだかんだいって悲鳴を上げてもいないんだ、自分がしゃしゃり出る幕じゃないだろう)

(大したことじゃないんでしょ、表情も変えていないし)

(他人に構って怪我なんかしたくないし)

(なんにしろウチらには関係ないわよねー)

 ───そういう彼らの心の声が、心象が透けて見えるようだ。決して本当に気付いていないわけではない。だってその証拠に、私が必死で視線で訴えても、目が会う前に顔を背ける。

(…助けろ。誰か私を助けてよ!)

 私は念じる。しかし心の声は、叫びは、いくら発されたところで音波にならず、空気に乗って拡散することはない。

(…あ。)

 スーツのパンツのラインの上から腰骨をなぞっていた男の指が、私の下着の中に侵入しはいってきた!

 一気に私の目尻に涙が溢れて───

「おいオッサン」

 情けなくてすすり泣いていた私は、彼の声に反応できなかった。これまで自分はもっとつよい人間だと、そこそこの自信を持ち合わせていたから。高校三年生にもなって、性犯罪の被害に声すらあげられないなんて情けないと、この時は自分で思ってしまっていたから。

「オッサンて。聞こえてへんのけ?───おい!」

 その声は、高かった。女の子かと聞き間違ってしまうほど。

 しかしその言葉には、単語の一音一音に至るまでしっかりと、はっきりと、勇気の鼓動が刻み込まれていた。

「そこの!DBのナッパみてーな丸頭で剃り眉のヤーさんぽいパンダのオッサン!お前にゆうとんのやぜ‼︎」

 威勢のいいボーイソプラノ。巻き舌気味の関西弁。

 私は声の主を探した。まさか、いくたりかの人波をかき分けてこちらに近づいてくる学ラン姿の鮫人がそれだとは思いもよらなかったのだけれど。

 それほどに、少年の体格は小さかった。黒い詰襟を暑そうにはだけ、真っ赤なランニングシャツを露わにしている。その胸も腹もむっちりと肉が付いていて、コロコロとよく肥えた金太郎みたいだ。

 ただ、顔付きはとても男らしかった。成長したらきっとそこらの人間が恐れるぐらいの強面になるだろう太い眉と三白眼の少年。丸い顔面のあちこちにある生傷と古傷が、そして勲章みたいな鼻頭の絆創膏が、ヤンチャさと向こう見ずさを表している。

 少年の気迫ある台詞に、パンダ人の痴漢がゴリっと牙を鳴らして振り返る。

「あ゛あ゛⁉︎何や貴様、ワシを誰や思とんねん?天任組の若頭やぞナメとるんかゴラ引っ込んどれやオラこんクソチビ‼︎」

 地の底から響いて車体を揺らすかのごとく太く重い男の声。

 しかし凄まれたはずの鮫人の少年は、耳孔に人差し指を突っ込みながら豪気に笑い飛ばした。

「は?知らへんよ、ンなもん。痴漢がなにイキッとんやボケ。てかオッサンなんかナメたないねん、ババ臭い変質者なんかナァ」

 ビキビキッ。と不穏な効果音が白黒の模様のついた丸い頭から発され、青筋が水面に浮かぶ廃棄物のように広い額に次々と浮かんできた。

「っちゅーか、さっさとそン人に出しとるきったない手ぇ離さんかい。それともあれか?日本語わからんのんか?国語もできんか?てか脳みそついとらん?頭だけはエラいでかいけど、なぁオッサン」

 あ、と私も思わず声が出た。男が私のそばから動いた次の瞬間、背中が半回転するほどスイングした男の拳が学ランの頭部めがけて振り抜かれた。

 凄まじい音が…しなかった。少年は見た目に反して俊敏に男のパンチを避け、反対に懐に潜り込んで。

「っぎっ」

 次の瞬間、パンダ人の大男ヤクザは細い目を有田焼の皿より大きくまん丸に見開いた。

 次の瞬間目にしたものを、私は、というかおそらくこの車両に居合わせていた誰も忘れることができないだろう。

 現実はおろかフィクション世界の正義のヒーローも、悪魔の手先でさえしたことのない攻撃。それを鮫人の少年は寸分の迷いもなくやってのけた。

 変質者の、痴漢の、犯罪者の脂肪でダブついた下半身。

 パンチを繰り出すために大股に踏ん張っていた、薄汚れたスラックスの股間に。

 耳まで裂き開いた大口でかぶりついたのだ。

 次に車内の空気を震わせた痴漢の悲鳴は、

「(耳にしたことのない絶望的な叫び)」

 とでも表記すればいいのだろうか。私の当時まだ底の浅い知識では、その時の音声を記すべき表現を探すことはできなかったのだ。

さっさとその人に謝らんかいこのカスはっはほほほひほひはひゃひゃはんはひほんはふぅ!」

 男は暴れた。

 これは簡単に、単純に、的確に、確実に断言できる。それが表現として最も相応しいだろう。

 股間に小兵とはいえ人間を一人ぶら下げて車内を暴れまわる男の姿は、お世辞にも悲愴とはいえないものだった。むしろ無様、滑稽な惨状。

 しかし男に、私に痴漢を働いた犯罪者に食らいついている鮫人はそうはいかなかった。

 男の死に物狂いの反撃に遭った小さな身体は、金属製の手すり、床、ドア、ありとあらゆる箇所に叩きつけられ、殴られ、引っ掻かれ、顔といわず服といわずボロボロになっていく。

 私は見回した。やはりほかの乗客達はこの騒ぎから遠のいて、顔を背けるようにして傍観するばかりだ。私を助けなかったように、この争いに介入して少しでも鮫人の男の子を助けようという気はさらさら無いらしい。

 私は胸に手を当てる。そこから勇気を呼び込み、心臓の鼓動に乗せて全身に巡らせるように。

 なけなしの意気地に火を点けて、ようやく。

「─────や、やめ」

 恐怖と躊躇で唾が絡む声を出したときだった。

「ギィィィ───ッ‼︎」

 男が白眼をむいた。そして鮫人があぎとでガッチリ噛み締めていた股間のジッパーの奥から小さく…

 くしゃり。

 という音がして。

 男は口をだらしなく開け、よだれの筋だけ宙に残して仰向けに倒れた。

 何事が起こったのか。パンダ人の内臓というか外部に突出した肉体の一部分がどういう結末を辿ったのか。解らない者はいなかった。その証拠に、男性女性問わず内股気味になって蒼ざめている───

 喉の奥から鈍い音とともに泡を吹いている男のそばで、鮫人の少年が立ち上がる。

「…あー、バチクソ臭かった。風呂入ってへんのかこのパンダ。牙が腐るわ」

 コキコキと首を鳴らし、「ヘン!」と胸を張っている学ランの左肩がおかしな方向にねじれて垂れ下がっている。脱臼…しているのだろう。

 電車が速度を落とし始めた。かすかなサイレンの音が聞こえてくる。もしかしたら誰かが警察に通報して、停車駅にパトカーが駆けつけているのかもしれない。

 ゆっくりとホームに滑り込んでいく電車。慣性の法則に傷だらけの身体をよろめかせながら、鮫人の少年は私の前に来ると。

「シャハッ!もう安心せぇや。もう二度と誰かに痴漢する気ィ起こさへんようしたったさけ」

 呆然としていた私は、お礼の言葉さえ出てこない。

 それでも口にできたのは、

「どうして…?」

 という言葉だった。

「どして、って?」

 少年は首をかしげる。それはそうだろう。きっと彼はこれ以上ないくらい正義に基づいた行動を、咎められるとは思わなかったのだ。

「君は、どうして私を助けてくれたの?」

 違う。本当に言いたいのはそんなことじゃない。それより一言、ありがとうと伝えなければ…

 まるで痛くもないとでも言いたげに脱臼した方の肩を叩きながら、鮫人は答えた。

「わいな、ヒーローやさけ!それだけや‼︎」

「ヒーロー…………気取り…?」

 違う。本当に間違えている。私は彼に、恩人である彼になんてことを言っているのか。

 ムッとした表情で、しかし彼は私に指を突きつけて答えた。

「気取りやない。ヒーローなんや、もうワイは。しゃあからあんたを助けたのなんか当たり前、なんでもあらへんことなんや」

 電車が完全に停止した。後ろによろめいた私を、彼は引きちぎれた袖を伸ばして腕を掴む。その力強さに私はびっくりする。

「大丈夫か?まぁ普通は痴漢されるやらショックな事やろうから…えーと、こーゆーときよう言うよな、アレや、こーいう体験っちゅうのは…」

 カラリとほころんだ打撲傷うちみだらけの顔の中、大きな三白眼が

 細くなる。

「野良犬に噛まれた思て忘れとき!」

 まさかの台詞。

 でも、それがきっかけになったように私は腰が抜けてへたり込んだ。

 もう大丈夫。大丈夫なんだ。一瞬の、しかし永遠とも感じられた悪夢が、地獄が終わった。

 見上げると、仁王立ちの男の子と視線が合った。その楕円に突き出した鼻先は絆創膏がベロンと剥がれ、クレヨンで引いたような赤の筋が下がっている。

「あ、鼻血が。ティッシュで拭かないと…」

「ん?ああこんなもん」

 片方の鼻腔に親指を当てて、「ちんっ」と器用に鼻血をかんだ。

「これでええやろ」

 ニッ!と笑ったその瞬間の男らしさといったら───いやもう、これはきっと「漢らしさ」というべきものなのだろう───まるで歴戦の傭兵もかくやというべき様子だった。

 ドアが開く。駅員と、それに続いて警察官数名が慌ただしく雪崩れ込んできて、私と彼の距離が遠くなる。

「あ!しもた、急がんと遅刻や」

「あ、待って、君の名前とか…」

 毛布をかけられ、うずくまったまま手を伸ばす私にホームの彼が振り向いた。

 反対側の線に到着した電車の起こした強い風が、ボタンの全て弾け飛んでいる学ランをまるでマントのようにはためかせて。

「ワイの名前が知りたいんか?なら耳かっぽじってよぉ憶えとき!」

 大きな団旗を振るような、空気を打つ音がひとつ。

「木嶋卓也!」

 それから彼はいずこかへと逃げるように走り去り、私は以降彼に会うことはなかった。

 そのボーイソプラノを思い出すのはそれから数年の後の事である。


 🦈

 女という性は、美しい。

 若い女性とは、素晴らしい。

 女子高校生ともなれば、それは尊く、崇め奉るべき世界の宝である。

 それを表すに最もふさわしく、簡潔な文言を私は識っている。たった一言、三つの語幹で完成される感嘆符。

 ───ブラボー。と。

「久慈センセーイ!久慈杏波くじあんばセンセーイ‼︎」

 校舎の渡り廊下に、ほのかに檸檬の香るような高い声。呼ばれて振り向いたのは一人の背の高い獅子人だった。

「やぁ、我が校の麗しきお嬢さんマ・フィユがたじゃないですか。私に何か御用の向きですか?」

 伸ばした深い琥珀色の柔らかな鬣を背すじにたなびかせ、眼鏡の鼻当てを繊細な指で直す。野性味というよりどこか高貴な繊細さを漂わせる顔つきの獅子人は、絹の刺繍のような眉をやんわりと緩ませて緑と茶のまだらな瞳で微笑んだ。

 彼…県立伊瑠奈高等学校外国語教師の久慈杏波を呼び止めた女生徒三人が、それぞれの喉から違った音色の歓声を上げる。

 久慈の上半身には無駄な肉付きは一切なく、中天に昇った太陽が床に落とした影さえ引き締まって見える。袖を通しているのは真昼の陽射しの中でほとんどベージュに見えるクリーミーなピンクのサマーニット。

 女性モデルすら悔し泣きしそうなくびれた腰に穿くのは、サスペンダーで吊り上げた細身のパンツ。これでもかというほど長い脚を見せつけ、トドメはブランド物の上履きサンダル。さらに注視すれば、全身のコーディネートがそのままブランドで固められていることが分かる。

 久慈は追いついてきた女生徒らに囲まれ、一緒にお昼ご飯を食べませんかというお誘いに余裕綽々の笑顔を振りまきながら。

(ブラボー!今の私、完全に完璧にカッコいいじゃないですか?)

 ───と、自画自賛に内心打ち震えていたのだった。

 ここ、県立伊瑠奈高等学校の校舎は、三つのモノリスが一本の連絡通路で貫かれた形に建てられている。モノリス一つが丸々一学年の校舎という、マンモス校ならではの豪快な区分けだ。

 校舎はそれぞれ三階建ての鉄筋造り。くだんの連絡通路はその二階部分にあり、内部は夏の暑気からも冬の風雪からも二重構造でがっちりガードされた快適空間。そして天井部分はそのまま屋上が渡り廊下になっており、見晴らしが良く日当たりも良く花壇にベンチもしつらえてあるため昼休みの格好の憩いスペース。

 久慈らが居るのは、渡り廊下の三年生の校舎と二年生の校舎の間の部分であった。

 キャラキャラとお愛想を振りまく女子生徒に囲まれる形で、獅子人は全く気負わず自然体のまま教職者らしい知的さ、洗練されたエスプリの利いた小粋な会話を楽しんでいる。

 ───ように見えて。その内心は…

(ああ女の子っていいなぁ。まったくもって素晴らしいトレ・ビアン!共学校だから男子もいるのは玉に瑕だけれど、この学校に赴任できて本当にブラボーだった!)

 と小躍りしている。

 だがそのヘヴンタイムとでも言うべき至福の時を愉しむ彼の三角耳が、遠くから近づいてくる不穏な物音を聞きつけた。

 デンデンデン。

 ドドドドドド。

 それは一年の校舎の方から伝わってくる、リズムの違った二つの地響き。

 と、一瞬後には震度六を超えそうな勢いの揺れが渡り廊下を襲った。勿論、地震などでは、ない。言うなれば人力、あくまで人災だ。

 渡り廊下にいた生徒らの口々から悲鳴が上がる。誰もが手近な物に掴まるかあるいはその場にしゃがみ込む。

 これが最近では、イル高の昼時の名物ともなってしまっていた。

「ま、またあいつらかぁっ!」

「毎日毎日何してくれてんだあの一年ボウズども!」

「誰か止めさせろ、廊下が崩れるぞ⁉︎」

 最後の叫びは現実的ではない。厳正な建築基準に合格している伊瑠奈高校の校舎が簡単に崩れることは理論上はあり得ない。

 ───のだが、その大きな縦揺れは鉄骨とアーチ状デザインで組まれた連絡通路の強度の限界を測るかのようにさらに大きくなっていく。

「せ、先生…久慈先生!コワーイ!」

 女生徒らがこれ幸いと獅子人にしがみつこうと飛びつく…が、そこに囲まれていた獅子人の姿はなかった。

 いや。

 産まれたての子鹿のように不恰好に不安定に腰から下をガクガクさせている情けない姿の獅子人ならば、確かにそこにいた。

「ひっ、ひいい!揺れ、揺れが、怖いぃぃジェプーっ‼︎」

「久慈センセー…」

 あられもなく膝砕けになっている獅子人に、同情と失笑ギリギリの表情になる女生徒たちであった。


 🦈

「おいユリリン!もっとペース上げてこーぜ!遅いってんだ!」

 前を走る小柄なナイル系ワニ人の科白に、

お前などごそその短足、もっど速ぐ走れんのけ!」

 と大柄なアザラシ人がどやし返す。

 二人の走り抜けた後の廊下には、腰を抜かした先輩と同級生が両サイドにへばりついていた。

 この二人───一年A組・政経コース専攻廣金新護ひろかねしんごというワニ人と、斗与富百合之助とよとみゆりのすけというアザラシ人は、現在五月中旬の時点で校内で知らぬ者とていない名物コンビになっていた。

 理由はもちろん、この昼休みどきの暴走行為のせいである。

「今日は月曜日だからっ、購買限定商品の白生クリームのコロネがあるんだって!売り切れてたらそっちのせいだかんなユリリン!」

 デデデデデデッ、と短い足を繰り出すワニ人。

「などが授業の最後に要らんごど先公に質問しまぐったせいだべ⁉︎トビッコとイクラの違いなんがどーでもいいべな‼︎」

 ドンドンドンドンドン、とワニ人の胴体ほどもある両脚でぴったりその背後についていくアザラシ人は体躯に恵まれ、さながら機動する大仏。素早いその脚さばきは摺り足に近いものだが、それでも大きな地響きを伴うことは避けられないらしい。

 校舎を連絡する廊下は、モノリス風の建物をまっすぐ貫く形になっている。約八十メートルのコースの彼方、終着点には購買部があり、昼休みのチャイムが鳴って駆けつけた生徒たちがすでに黒山の人だかりとなっているのを遥かに見たワニ人が振り返ってアザラシ人に目配せ一つ。

 百合之助は大きく頷くと、若干体勢を低くした。差し出したみきのような右肘に、新護はジャンプして飛び移る。

「せだば!」

「いくぞ!」

 走るスピードを保ったまま、相手の体の重さを感じていないかのごとく投擲体勢に入るアザラシ人。その肩と大胸筋に踏ん張るワニ人。

「「必殺!双竜雷電跳撃ドラゴニックブリッツフライ‼︎」」

 中二病くさい技名を力一杯叫ぶと、百合之助は制服の背中も破らんばかりに振りかぶり、新護の身体を前方へ投げつける。百合之助の掌をそのままカタパルトに蹴りつけて、新護は飛ぶ。

 ───それはもはや芸術的な完成度のモーション。筋肉の小山のようなアザラシ人の膂力に、小柄でエネルギッシュなワニ人のジャンプ力がぴったりと重なって。

 ずんぐりした肉体が、砲弾となって購買の人だかりへ一直線。

 折しも購買では、最後の限定白生クリームコロネが一人のイケメン狼人の男子学生に掴み上げられていた。

「やはぁ、苦節半年、ようやくコレが食べられるよ。こっそり授業の最後に退室して良かった。気ぃ持ちいいなぁ───」

 ぶぎゅる。

 そんな狼人の台詞をみなまで言わせず、ワニ人の両足が彼の顔面に着地した。

「ラッキ!コロネゲット!おばちゃん!」

「はいよっ」

 新護が投げ銭した代金を、割烹着姿の貫禄ある購買のおばちゃんは器用に巾着で受け取った。

「よっしゃあ、オラオラもっとよこせー!こんなんじゃ俺たちの腹は満足しねーってんだよ‼︎」

 小学生のような体躯の新護が他の生徒を圧倒して巻き起こす悲鳴を聞きながら、百合之助は走るペースを落として呟く。

「よし、よぐやっだべ新公。これで俺たちわったの昼飯は豪華パン祭りだっきゃ!」


 🦈

「ああああいつら、あいつら…許さんインパルドナブラッ!」

 渡り廊下の上には既に人影まばら。わずか数分前には女子生徒囲まれていた獅子人教師はなんとかかんとか立ち上がりそう叫んだものの、ひっくり返った不協和音のようなそれは虚しく青空に吸い込まれていった。

「やぁやぁ、久慈先生。こないなところに居ったんですか」

 青い顔で手摺につかまり呼吸も荒いその背中に、タバコの灰を噛み潰したような声がかかる。

「どないしたんです?えらいこと汗かいて?」

 大分歳の差のある妻の勧めで絶賛禁煙中だというものの、長年の喫煙習慣ですっかり体臭にニコチンが染み付いてしまったらしいブルドック系犬人の教師がゆるゆると歩いてきた。小ざっぱりとした身形ではあるが、ポコンと膨らんだ腹回りのだらしなさと同じぐらいに鷹揚な笑みを口許に浮かべている。

「…泰村先生…」

「堅苦しゅうならんで、泰村ヤッさんでええですよ。あー、その様子だとあれですか。一年の例の二人組、また賑やかしとるんですか」

 伊瑠奈高校の教頭、泰村昭一は頬にたるんだ肉を震わせてガッハッハと大笑する。

「わ、笑い事ではありませんよ。どうにかならないのですかあの二人は⁉︎他の生徒の迷惑というものが考えられないのは学校という社会の中における叛逆です‼︎」

「これはまた随分とおかんむりで」

「私は私の憤激の正当性を主張します!『廊下を走ってはならない』ときちんと貼り出してあるにもかかわらず、彼らの暴走は日常的に繰り返されている!標語とは秩序、秩序とは他者との協調のための条項、つまり日本国憲法の精神にも則る大切な要素エッセンスです!それを軽んじる彼らにはそもそも法律を学ぶ政経コースの学生としての意識にかけると言わざるを得ない!」

「───まぁ、久慈先生の言わんとするところは解りますけどなぁ。しかしですなぁ、若さというものは多少の暴走も内包したもんやさけ、杓子定規に縛り付けるわけにもいかんでしょう」

 脂肪のついた臀部をぴっちり覆うスラックスの腰に手を当てる泰村は、さらに言い募ろうとした久慈を制して、先に用件を切り出した。

「明日から赴任する新米教師が挨拶にきとります。昼飯がてら、顔を見てやってください」

 膝の埃を払い、毛羽立った精神を落ち着かせながら獅子人は記憶を確認する。

「数学の…確か先日退職された隆正鍾馗たかまさしょうき先生の代わりになる先生ですね」

「そうそう。隆正タカのやつ、やっとラグビー続ける踏ん切りつけよったのはええんですが、後釜も自分で見つけてきよったんですわ。これがまたクセの強いやつで…ま、詳しくは後でにしまひょ」

「───ブラボー。かしこまりました。ちょうど生徒たちとの昼食もなくなりましたので、この資料を置いてすぐに参ります、泰村教頭」

「しゃあから泰村さんでええですて言うとるやないですか。ほんまにキッチリはんですなぁ」

 笑いながら肩に添えられるブルドック人の教頭の手を、それと悟られないほどのさり気なさで躱す獅子人。

「立場は立場です。では、すぐに追いつきますから」

 足早に去っていく細い後ろ姿に、相好を崩したまま泰村は呟いた。

「全く、こっちの道のりもまだまだ険しいみたいやなぁ…」


 続く

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