ブラックラダー

鱗青

第1話 ディープグリーン

ブラックラダー①

『ディープ・グリーン』


 ───しかるに、彼は天の御使と同じく梯子を渡り現れる。

 惑わさるるなかれ、それは反逆者達の都、呪われし者どもの憩い場、悪徳の神殿がその威容を誇る地の底へ続く梯子。黒き梯子である。

 ───死海文書秘伝・マタイ偽伝36章より


 🦈

 週末の午後6時過ぎとくれば、中華料理店は人いきれがものすごい。特にこのチェーン店は、若年層から人気があるので、周りは仕事帰りのサラリーマンと部活帰りの学生と、それに暇な若者たちでごった返している。

 隣でラーメンを盛大に啜っていた鮫人が口をもごもごさせながらなんと言ったのか、一回めは聞き逃してしまうほどに。

「返事、きかせてもろてええかな?」

 カウンター席は満杯で、あちこちで腰掛けている客らの頭が下がってはズゾゾゾ、ガツガツ、と飲食店にふさわしいオノマトペが巻き起こる。

 鮫人が話しかけているのは、彼の左にいる小柄な黒猫人だ。肩から腰にかけてのラインがほっそりしていて、おそらく一番小さいサイズのブレザーの制服だろうに着膨れしているように映る。

 そのブレザーの上着の隙間から鎌首をもたげている尻尾、先にメッシュを入れたような白斑のある黒いふわふわの尾が、ピンと伸びた形で固まっている。

「あ、もしかして聞こえんかったか?」

 鮫人の手元の丼には角煮乗せ特盛タンメンのスープだけが澄んだ飴色の湯だまりを作っており、そこに映り込む顔面は鼻先から首筋まで大小様々な傷が刻まれたもの。無事に平らでいるのは大きな額ぐらいなものだ。

 小さな三白眼を従え波のようにうねる男らしい眉を大仰に持ち上げて、少し頬のあたりに朱を加えたつくりの顔面は、任侠映画のやくざ者のように迫力があるくせにどこか少年のような愛嬌に溢れている。

 え、あー、コホン。口元にわざとらしく拳を当てて咳払い。喉を通してからもう一度、鮫人は5秒前と同じ台詞を横様に裂けた口の端に乗せた。

「ワイ、木嶋卓也は、祭黍磯良君に惚れてもうた。好きになっても、ええか?」

 一拍置いて。

 細く引き締まった腰をかけている黒猫人が、漆黒の毛皮を

「ぼん」

 と破裂…もとい膨らませた。

 黒水晶から磨き上げたような黒猫人の面差しの中では、大きな夕焼け色の左の瞳と石灰色に濁った右の瞳の両方がくっきりと見開かれている。ヴァイオリンの弓型に整った眉が、普段はまるで泣きべそをかくように下向きになっているそれが持ち上がり、ふっくらした頬から伸びた長い髭がスローモーションにたゆたう。

「よく…意味が、分かりまへんのどすけど」

「…ん、ちょっとええか」

 鮫人の声が黒猫人の耳朶を包み込んだ。と、黒猫人が気付く間もなく巨きな背中がたわんで鮫人の頭が降りてくる。

 高い肩と低い肩が、少しだけ触れ合った。その下で並ぶ二つの丼が、灰色の表鱗と黒の毛並み、重なる二つの頭の作ったかげで暗くなる。

 そしてその黒い象牙の彫刻みたいな手元からホロリと離れたレンゲが、秋の野菜キノコラーメンレディスサイズの食べ残しの器のフチに当たって、上品な音を立てた。

「───これで分かってもらえたか?」

 それは人目のある中で、わずかの間の出来事。

 誰にも気づかれないほど自然で密やかなキスだった。


 ───桜前線の到来を聞くにはまだ遠い、3月の中頃のことである。

 二人の出会いはこれよりずっと前、約11ヶ月ほど遡る。


 🦈

 方向音痴というものは、神速を誇る移動力と英雄的な決断力とがもれなくついてくる。

 なぜに。おお神よ、なぜなのか。我ら人類をかように欠陥多きちっぽけな存在に創りたもうた。

「なーんて、嘆いたところで1円にもならしまへんけどなぁ」

 ピイヒョロロと空に輪を描くトンビなぞを左眼で見上げつつ、僕はシクシク痛みはじめた右眼のまぶたをなぜながらベンチに腰掛けていた。

「まーアレだ、せっかく同じ高校に受かったんだしよ、私立も含めて県内一を誇るこの!広ーい、ひっっっろーい校内のあちこちを探索するのもいいもんだよな!な、イソ‼︎」

 右上からは威勢のいい鼻息と科白が落ちてくる。本来腰を据えるべき座席に仁王立ちになっている誰かさんのブレザーズボンの弁慶の泣き所に、僕の肘鉄が炸裂。

「んぎゃぁぉぇっ」

 悲鳴を上げて身体を折り、相手はバランスを崩して目の前に転げ落ちる。煉瓦舗装の通用路だ、おでこを打って相当痛いだろう。いい気味。

「ななななななな、何すんだよぅ磯良イソラぁ、ひどいじゃないかあ!鬼‼︎悪魔‼︎ブラック企業‼︎」

 台形を丸く切りそろえた形の頭のナイル系のワニ人は、赤黒く腫れた額を抑えて涙目になりながら極大の三白眼で睨みつけてくる。が、どう非難されようとも、まるまる二時間も付き合わされて足の疲れた僕には届かない。

「僕をさんざん引き回してるあんたはんは良え事をしてはるおつもりやのん?廣金新護ひろかねしんごはん」

「従兄弟の俺をわざとフルネームで呼ぶなよ!そういうの、イヤミだぞってな!」

「イヤミに聞こえへんかったら僕の言い間違いどすな。えろうすんまへん、政経科一年A組二十六番の廣金新護はん」

「だからそれをやめろっつってんの!同じく一年A組祭黍磯良‼︎」

「僕のフルネーム呼んでくれてありがとさん。ついでに冷えたアップルティーとサーモンクラブサンド、あとできたらデッキチェアをよろしゅう頼んます」

「んなもんあるかっての!俺は執事かコンシェルジュか⁉︎」

「僕の記憶が正しければ、両方とも用意周到さと融通無碍とを兼ね備えた高材疾足の人物に相応しい職業やったかと…」

「ん?ん?ん?なんじゃそら?つまりなんだってーの?」

 僕はひらりと頬を仰ぐ。風の温度はほんわりと温かく、うっかりするとこのまま寝入ってしまいそうだ。

「無為無能の輩には無理難題ですやろ。あんたはんはよう自分を見つめ直したがよろしおますえ」

 ムキー!と動物園のニホンザルよろしく両腕を振り回して地団駄を踏んでいる小柄なワニ人。丘陵を形成する腹の上で律儀に留めたブレザーの前みごろがピッチピチしていて、太短い手足が暴れるごとに軋むボタンがはち切れそうだ。

 それを生温かい(冷えかけてはいるが)表情で見返して、僕、同じく小柄な黒猫人の祭黍磯良さいきいそらは肩をすくめた。

「全くはるばる東京まで引越してったっちゅうのに、あんたはんの方向音痴は全然治ったらしまへんな。どこをどうしはったら校内案内図を真逆に読み間違えるんどす?おまけに頼みの綱のスマフォの充電切れでGPSも使えないやら…ほんにようそない偉そうにできますなあ」

 僕の指摘をものともせず、ワニ人は小肥りの腹の脇に両手を添えて胸を張る。

「エリートたるもの細かいことはいちいち気にしない!俺はやがて政治家になるのだ、無策失策どんとこいっての‼︎」

「エリートて…確かにここは『才能の鉱脈』やら言われとる有数の人材育成高だすけどね…」

 県立・伊瑠奈いるな実業高等学校。

 その名を口にすれば、誰もが「あぁあの色んな天才が卒業してるところ!」と掌を打って答えてくれるだろう。

 普通科のみならず商業コースに工業科、芸術科(美大専攻)に医療科メディカルコース 、さらには政経科までも抱える総合高校。どのコースも倍率が高く、下手な有名私立の数倍は難関とされている高校だ。

 僕は将来的に法律関係の仕事に就きたいがために。新護は将来政治に関わりたいがために。僕達はこの春揃って合格した。

 僕はずっと地元だが、新護などは東京に両親を残しての越境入学かつ寮生活。家が同じ町内で小学校時代を共に過ごした相手を受験会場で見つけたときは、互いに心底から驚き合った(サプライズのつもりかお互いの両親からはなんの報告もなかったので)。

 二人とも政経科の同じクラスだったこともあり、旧交を温めるのはまさに一瞬。合格叶った後の入学式の日、正門の桜の樹の下で数分立ち話をしただけで互いの近況報告も再びの友達宣言も済んでしまった。

「スッゲー偶然だよな!俺ら自分の親から押し付けられたわけでもねーのにまた会うなんて!つか、こんなことあるんだなぁ!ラッキーラッキーマジラッキーだっての!」

 聞けばこのワニ人、将来は政治家になりたいらしく、某有名大臣を輩出したというのでこの学校を選んだのだという。

「俺が政治家になったら絶対トクだぜ⁉︎便宜図っちゃうっつの!でへへへ!」

「それは頼もし台詞どすけど、口に出したらあかんのやないどす?在学中に粗忽なところ直したらなあきまへんえ」

「おう分かった!任せろ‼︎」

 どん、と胸を叩くワニ人。調子が良くて憎めないところは小学生の頃のまんまだ。

「お前も昔とちっとも変わんねえのな。俺またお前のことイソって呼んでいいだろ?そっちもまた新ちゃんて呼んでくれよな!でへへっへへへへへへへ!」

 ワニ人が身体に比して大きな口を奥の方の牙が見えるくらい開けて豪快に笑うと、肩に乗った桜の花びらが風に舞った。

 つられて僕も笑った。誰も見知った顔がいないと思っていた緊張がほどけて、小学生の頃は周囲を巻き込む迷惑冒険小僧と呼ばれた相手がまさかこんなに学業レベルの高い学校に来たという意外性と、どこか後ろめたい感情で口角は小さく抑えられたけれど…

 ちなみに本日は平日の木曜日で、今は新入生含め全校を挙げて行われるオリエンテーリング大会。

 その会場となっている学校の広大な敷地の中でまさかの迷子二名が、僕とこいつ…廣金新護というわけだ。

「よーするにさ、スタンプ5個集めりゃいーんってんだろ?楽勝じゃん楽勝!」

「まだ一個しか集まってまへんのに?」

「でっ…そこはほら、こっから挽回だっての!ささささーっ、ぱぱぱぱーっとスピードアップして集めりゃ」

 飛行機の離陸のようなジェスチャーに対し、ため息で返す。

「もうお昼どすのに?どうやって?」

「そ、そりゃあさ…」

「制限時間、一応言いますけど、勿論のこと知ったはる思うけど、午後一時どすえ?」

「ででででっ…」

「現在の時刻は…おやおや12時すぎどすか。今から挽回するにはこの広い校舎全域を無駄なく間違えず移動していかなあきまへんのやけど、それもお分かりどすか?」

 言いこめられた新護の頭がブレザーの襟元にグググと縮こまる。これ以上つついたらしおれるかな、と思ったら違った。

「うっさいバーカカーバ!もー磯良なんか知らんっての!勝手に独りで行っちまえバカヤロー!」

「逆ギレどすか。あんたはんのそゆとこも、一向に変わりまへんなぁ」

 元から土気色の表鱗を赤黒くして、ムキーと顎を上に向けて地団駄を踏むナイル系ワニ人。

「黙れ冷血野郎!変温動物!爬虫類!」

「全部ものっすごいブーメランになってますけど。それワニの特徴やないどすか」

「いちいちツッコんでくんじゃねーつってんのバカチン!それに俺はワニじゃなくてワニ人だい!磯良のトンマ!マヌケ!お前の父ちゃんイーンポ‼︎」

 最後のシャウトを言い切るや、ベソをかいたワニ人は砂煙を上げて走り出した。

「はぁ⁉︎なに言うとるんだす‼︎」

 突然の下ネタに、さすがにこちらも声を荒げて立ち上がった頃には、

「──っ…ての……」

 と、ドップラー効果のついた叫びと共に、太い尻尾の先が芝生の彼方に小さく揺らめいて消えていく。

 都合が悪くなったら逃げる。これも小学生の頃さんざん見てきた光景だ。やれやれ。

「もう、あの短気でよぉ『夢は政治家』やらほざきよるもんやなぁ。元気を余らしてはるなら大人しゅう応援団でもしはったらええどすのに…」

 とりあえず、後を追おう。追いつくのは難しいが、見つけるのは簡単そうだ。

 なぜなら足の短いワニ人の新護の走りは、巻き起こす煙は派手だが決して速くはない。かてて加えて体の重さ。靴の裏で地面を削った後が、芝生の上に無残な電車道を作っている。

「それに付き合うてまう僕も、大概なんやろなぁ」

 少し自嘲して、僕はまるでアニメのキャラが走った跡のように空にたなびく土煙を辿り始める。風に吹き散らされる前に、多分早々にスタミナ切れをしてへばる新護に追いつけるだろうとたかをくくって。


 🦈

「あ、いた」

 予想に反して、ワニ人は僕の登場にも別段反応を見せなかった。それどころか声をかけながら近づこうとする僕に

「しーっ」

 と大口の前に人差し指を立て、こっちへ来いお前も隠れろとジェスチャーする。

「なんなんどすか、都合悪くなって走って逃げはった思うたら来ないなところでしゃがんで。ええ歳して隠れんぼの真似どすか」

「いーから黙ってろっての!んで見ろ、アレ!」

 僕は樹の根元に隠れるように片膝をついている新護の横に、同じように身を低くかがめた。

 幼馴染の従兄弟の視線の先を辿れば、一体何から隠れているのかは明白だった。

 木立の中にポツンと生えた、桜の大樹。

 青空のもとに映える白桃色の花びらが、キラキラと雪景色を作っている。

 その根元に佇む、人影二つ。

 一方は空色のデニムジーンズに深草色のパーカーを着た背の高い海棲類人…鮫人なのだろう…の男子。太い指で横顔を掻きながら、何事かを訥々と話している。僧帽筋に埋まったような首の太さも、サンドバッグのように膨らむ手脚も屈強そうだ。

 鮫人に対面しているのは、こちらは自分たちと同じ制服のブレザー姿のオーストラリアシェパード系犬人の男子。居住まいがやけにキリッとしていて、凛とした雰囲気を発散している。鮫人に比べたら格段にイケメンだ。

 身長は中背。少なくとも僕や新護と並んだら頭二つは高いだろう。マッチョな鮫人の前に立つと薄い身体つきに見えるが、全身にまとう筋肉は引き締まって敏捷そうな長い手足をしている。

「しゃあから酒匂田さこた自分おまえのこと好っきゃねん」

 周りに人がいないと油断しているのだろう、鮫人のその一言だけが飛び抜けたように僕の耳に舞い込んできた。

 ハッと息を飲む僕の口元にワニ人の腕がかぶさる。

「しーっ。さわぐなっての、いーところなんだから!」

 新護に口を覆われて、僕は息苦しく呟く。

「…告白⁉︎」

 ワニ人はずんぐりした台形頭で、こっくりと首肯。

「…しかも男同士どすえ」

 またも頷き、ワニ人は唾を飲み込んだ。

「俺も見るの初めてだよ。桜の樹の下で告白ってラブコメのテンプレかよ?それにテレビん中だけじゃないんだなBLってのは」

 男同士の恋愛は、それほど珍しいものではない。それは知っている。

 もっとも僕の知っている事例は、好いた腫れたというほのぼのした次元ではないが…。

「…にしても、なんや雰囲気が変だすな」

 そう、高い位置から見下げながら恋の告白をしてきた鮫人に対し、シェパード系犬人は表皮より色の薄い両手の掌を前に突き出してヒラヒラと振るばかりで、困ったように笑っている。というより、明らかに困っている風だ。

「ですから、その気持ちは嬉しいけど、まぁ…俺には無理ですって」

「あー分かる分かる、はじめは戸惑うのも分かっとる。なんせ男同士やさけ。そやな!ほしたら三日だけ付き合うてんか?お試しっちゅうやつで!」

 鮫人が勢いよく三本指を立てて突き出した手を、まるで蝿か何かのように犬人ははらう。

「お試してどこまでのことを指して言ってるんです?試供品みたいに言うものではありませんよ、恋愛ごとを」

「ええやん試供品!こんなもんテレホンショッピングみたいなもんやないか?男は度胸!女は愛嬌!エッチは今日‼︎」

 言いながら鮫人は、人差し指と中指の間から挿入した親指をニュッと立てる。

 僕は隣の新護と一緒にズッコケた。

「だーあーかーら!先輩とエッチとか出来ないんです‼︎どう言ったら分かるんだ⁉︎」

 はじめは真剣な雰囲気が漂っていると思い込んでいたのに、なんだか吉本新喜劇みたいなノリになってきている。

「ほらもう昼休み終わっちゃいますよ!弁当もまだですし、俺は行きますからね‼︎」

 まだなんのかんのとへりくだりながらゴネる私服鮫人を尻目に、犬人はくるりと背中を向けた。

「あ、酒匂田!ちょお待てぇや───」

 後ろ髪をナノメートルも引かれることなく犬人が去る。鮫人の伸ばした右腕が見えない壁をなぞるように膝の上にぱたりと落ちて。

「───…だぁっふぁぁぁー…!あかんかったかぁ…」

 はたから見ていて気の毒になるくらい眉をへの字に曲げて、マリアナ海溝の底の方の泥さえも舞い上がりそうな大きな大きなため息ひとつ。気のせいかふた周りほど縮んで見える。

「…好きやったんやけどなぁ…」

 どこからともなく吹いてきた風に足元の葉っぱを散らしながら、「意気消沈」の四文字を背負って丸くなった背中の鮫人がこちらに歩いてきた。

「春やのにお別れかいな。春やのに涙がチョチョ切れるっちゅうねん。あー、ああーあー!春やのに、春やのになあ、ため息ついてまうでほんま…かなんわ」

 なにやらどこぞで聞かれる失恋ソングじみたぼやき。

 何度も口の中で告白の文句を繰り返す両腕を組んだ姿は、どうやら頭の中で一人反省会を開いているらしい。

 そしてこちらは慌てふためく新護と、僕。

「やっべ逃げろ!すぐさまバックレなきゃ。グズっとすんなイソ、あのデカブツこっち来るっての!」

「あ、ちょぉ待って、そんな急に言われはったかて僕、脚が───」

 既に逃げを決め込んだ体勢の新護と、言うことを聞かない左脚をかかえてモタつく僕の体が絡まった。そして。

 立ち上がろうとして大きくバランスを崩し、二人とも無様にも身を潜めていた茂みからまろび出てしまった。

「な⁉︎なんや自分ら⁉︎」

 鋭い目を丸くする鮫人───それはそうだろう。

 せっかく人気のない場所を選んでのホモ告白だったろうに、いきなり他人に、それも二人も見られてしまったのだから。

「でっへへ、見つかっちゃいましたーっての」

 新護がいとも軽薄なことを言った次の瞬間、地面に転がっている僕達に叩きつけるような怒号が響き渡った。

「なんやぉどれら!見せモンやないど‼︎」

 と、新護がだしぬけにすっくと立ち上がり宣言した。

「俺ら、デバガメなんてしてねーし!道に迷って偶然居合わせただけだっての!他言しねーし、バカにしたりもしねー!アンタの告白と玉砕は見ててぶっちゃけ面白かったけどな‼︎」

(えええええ。こっそり隠れて見とったのを否定できとらん!)

 ひゅー、と何か音がすると思ったら、僕の喉の奥から漏れる声にならない声だった。

「そうけ!」

「そうだっての!」

 睨み合うデカブツとチビ。のっしどっしと近づいてきた鮫人は、見上げると進撃の巨鮫といった風で。

(あ、死んだわ)

 と僕は意識が飛びかけた。

 さらに木立中の空気を集めるように息を肺いっぱいに吸い込んだ鮫人が。

「シャーッハッハッハッハッハァ‼︎」

 ビリビリと表皮が振動するくらい大きな笑いに相好を崩した。

「ほうけほうけ!偶然見てもうたんけ!そんなら仕方ないなぁ、迷子のお二人さん!」

 え…と表情がラフ絵になっている僕の手を引いて、乱暴に立たせてくれる。

「そうなんだよ。俺達オリエンテーリングのスポット周りしてる途中なんだけど、もうとにかくこの学校の敷地が広いから迷っちゃって、んで時間は無くなるし、困ってたっての」

「ほうけほうけぇ。それもあるやろなぁ、なんせイルコーはアホみたいにでっかいさけのぅ」

 したり顔で頷く鮫人に、新護が「怖い人じゃなくてよかったっての」と目配せしてきた。

「ほいで?自分ら、どこまで回れたん?もう終わるとっかいな?」

「え、終わるも何もまだ全然です…このボケカスが方向音痴なもので往生しよったところなんどす」

「ボケカス⁉︎おいイソ、それはないんじゃねーか⁉︎俺はイソのためを思って一緒に回ってやってるんだっての!」

「その優しさの半分くらいも地図見るチカラに回せたなら、いえ、方向が違うんやないかっていう僕の意見を聞き入れるだけの懐の深さがあったなら、先輩の告白の立会いもせんですんだんどすけどなぁ」

「んだとぉ⁉︎もう一度言ってみろコンニャロ、くすぐるぞ⁉︎息の根が止まるまで‼︎」

「まーまー待て待て、ちょお待たんかいお二人さん」

 僕の脇の下を取ろうとする新護と僕が激しく手刀の応酬をするところへ、鮫人が割って入る。

「確か一年生のオリエンテーリング、タイム測って順位付けて、豪華景品やらもらえるんやなかったか?」

 僕たちは揃って頷く。

「せやったよな。そんで、まだ一個も回られてへん、と。ふん…」

 腕を組んで宙空を眺め、そう待たせずに鮫人は提案した。

「ほしたらワイが連れてったる。今からならまだ最後に一箇所くらい間に合うやろ。少なくともドベで失格になるんは避けられるで」

「え、でも、それは」

 確かに入学早々「あいつらは鈍臭い」というレッテルを貼られるのだけは避けたい。スクールカーストなんて言い方はもう化石だけれど、舐められるのと労られるのはだいぶん違うし。

 けれどもこの人の言う事を聞くのは…

「ズルやな」僕の言いたいことを察した鮫人は、ニヤリと悪い目つきになる。「しゃあけど、そん代わりさっき見たもんは全部忘れてもらう。それでどないや?」

 僕と新護は顔を見合わせた。天才的な方向音痴と、目と脚の悪い僕。ウン!と息を合わせてから。

「お願いします!」

 ニカッと目を細めた鮫人は、僕の三倍はありそうな太さの親指を、今度は卑猥な意味でなくおっ立てた。


 🦈

 オリエンテーリングはどこから始めてどこで終わってもいいように、各ポイントにタイムキーパー役の先生が配置されているそうだ。僕達はとりあえず地図を鮫人に見てもらい、一番手近なポイントへ向かうことにした。

「ほいで、自分らはなんであんな藪の中におったんや?いくら道に迷うてたかて変やろ」

「逆になんだと思うっての?」

「シャハハ!なんやその聞き返し。そやな、二人っきりで茂みの中におったとすればヤることは一つ!」

「そのココロは⁉︎」

「茂みで青姦アオカン!せやろ?」

 先を行く鮫人の背中に大きく遅れながら、うぐ、と僕は喉が詰まった。先程からワニ人と鮫人は会話が弾んでいる。僕はともすると遅れがちになるのでちょっとした競歩をやるつもりでついていくので、そんな余裕はない。

「ちっ、違います!」

 しかしここは否定しなければと思い、なんとか肺の中の空気を集めて叫んだ。

「なんや違うんか?自分ら一年生、つまり新入生なんやろ?ほしたら他の仲間とおらんとおかしいやないけ。不自然や。とすれば、自分らはワイと同じくゲイで、こっそり示し合わせて皆とはぐれて、あっこの茂みに隠れてアンアンしよ思とった。ていう想像しとったんや。どないや?違うんか?」

「アッ、アンアンどすか…⁉︎」

 鮫人の後にピッタリついていた新護が手を挙げる。

「はい!質問!」

「ハイ!ワニ君!」

「『アオカン』ってなんですか!空き缶みたいなもの⁉︎それとも合コンのことだっての⁉︎」

 不意に立ち止まった鮫人の尻に、小柄な新護の顔が突っ込んだ。

 クルリと振り向き、鮫人は呵々大笑する。

「自分、おもろいなあ!天然か?狙っとんのか?」

「…残念どすが、新護のは天然なんどすえ…」

「ほうけ。んで、そっちのちっこいワニ君は新護いうんやな。黒猫君、自分は?」

 そういえばまだ自己紹介もしていなかった。迂闊にもほどがある。

「あの、僕は祭黍磯良言います。こっちの土気色の出来損ないは従兄弟なんどす」

「へぇ、従兄弟かいな!そら心強いなぁ」

 また歩き出す巨漢と小人(のように体格差がある)二人組。

「ん?けど新護君は関東モンの訛りやないか?」

「あ、それは俺が説明!俺、小学校の卒業と同時に親の都合で東京に行ってた!そんで高校進学にあたって、将来を見据えてこの伊瑠奈高校…イル高に受験したってんだ!」

 ほうほうと頷く鮫人。そういえば先輩のお名前は、と尋ねたいのだけれど、鮫人が開いてくれる枝葉が閉じる前について歩くのに精一杯だ。

 せっかくショートカットで案内してくれてるのに、このままのペースだと制限時間にも間に合わないかもしれない…

「ッ痛…」

 急ごうとしたが、先程から右のくるぶし全体に骨が軋むような衝撃が伴っている。新護と一緒に倒れこんだ時に、変な風に捻ってしまったのかもしれない。

「んみゃっ」

 今度は僕の鼻先が、前を歩いていた新護の後頭部にぶち当たる。

「───なぁ、訊いて悪かったら済まんけど、磯良君どっか怪我しよるんか?歩くのしんどそうやぞ」

 鮫人がまた歩みを止めて、心配げに覗き込んでくる。近くで見ると尚も恐ろしい顔貌だが、純粋に配慮だけで満たされた薄水色のその瞳に見つめられて、なぜか心臓が重たくなった。

「その…これは、僕、元から脚がよくないんです。生まれつき右の膝を悪くしてて」

 これは、嘘じゃない。ただ新護のせいにするみたいで、くるぶしの痛みのことは言いたくないだけだ。

「ん、ほうなんか。それから自分、右目の方どないしたん?瞼やら、えらい傷こさえて」

「あっ、……あのっ…………………これはっ………………………」

 反射的に傷痕ごと右目を押さえた。鮫人の先輩は焦れて先を促したりせず、なかなか答えられない僕の言葉を待ってくれる。

「すまんのう、けど気になるもんは聞かな済まされへん性格なんや、ワイ」

(やっぱり気になるんや。そうやんね…こっちは色も違うし…)

 東西南北も分からない木立の中、立ち止まる六本の足。

「イソの右眼は中学生の頃の怪我、だっての!右目こっち側はほとんど見えないっていうわけ」

 口ごもっている僕と先輩の間の沈黙を割って、新護が代わりに前に出てくれた。

「ほー、怪我?それでアレか、目ン玉ん色も左右で違とるわけか?」

「そーなんだよね。こいつ、しっかりしてるようで結構ドジっ子でー。中学の時に家の中で刺し傷こさえちゃって、だからそっちの目は虹彩コーサイの色が違うんだっての」

「新護はん、あんたみたいによう成功にたどりつかんお人からドジこき呼ばわりは面白うないんどすけど?」

 新護の説明は半分以上正解だ。というか、新護にはそのように入学式の日に伝えてある。そして経緯と結果は正しいけれど、肝心の理由に関しては嘘っぱちだ。

「ほうけー。もったいないなぁ。可愛ぇえ顔しとんのに」

 僕は「えっ」と言うこともできなかった。何故だか身体中の血液という血液が沸騰して、喉から顔から真っ赤になっていくのだ。自分ではそんな風に反応するなどイヤなのに。

「なんや、黒いお鼻が赤ぅなったでー?ワイに見つめられたんがそないに恥ずかしいんかー?」

 シャハハ、シャハハと歯を鳴らすように周囲に響く笑いを発して笑う鮫人。

「か、可愛いとか、男が男に言うことどすか⁉︎」

 思わず強く反発してしまった僕の頭を、グローブのような手がボスボスと叩いた。

「おー、ようやっと元気な声出たなあ。そうそう、若人はちっとばかし生意気さんでもええさけ、元気がないとあかんで!」

 そしていきなり僕の方へしゃがむと、僕の両膝を片腕にすくい取り抱きかかえた。

 またしても一瞬頭が真っ白になる。

 新護のバカなど頭の上で拍手をして

「ヒュー、お姫様抱っこー!リアルで見たのはじめてだってーの!」

 と短い脚をタスタス踏むように小躍りだ。

「おろ…降ろしてください!」

「なんやなんや、遠慮なんかするもんやないで。この鍛えたワイのバディ見よったら分かるやろ?こんくらい屁でもあらへんて」

「い、いえあの、そうなんでしょうけど…」

「しゃあから安心して任しとき。アレやな、プライヴェートなこと聞かしてもろた詫びや!」

 肘を曲げてモジモジする僕は、本当に情けない姿をしてるのだろう。

 鮫人の腕は太い蔓よろしく血管が巻きついた切り株で、僕を支え持つ安定感たるや空のトレイを運ぶハンバーガーショップの店員よりも軽々としている。

 おまけにとても温かい。特に胸は、胸板というか女性だったら巨乳にあたるぐらいの分厚さと温もりで僕の身体を包み込んでくれる。

(…なんや柔軟剤の香りと、しっかり汗の匂いもする…けど嫌やない…気持ちええ…)

 体が、高い。まるで宙に浮いているみたいに感じた。

 空がこんなにも近くに在るなんて…

 僅かにユッサユッサと揺られながら運ばれていくのは、僕を夢見心地にさせた。つい無防備に、うっとりと瞳を閉じてしまうほどに。

 瞬間、右の瞼に激烈な差し込み。

「うっ」

 痛みのためにさらに強く目を瞑ってしまった。それが失敗だった。

 光を失って久しい網膜のスクリーンに、紅い何かが揺らめいた。ぼんやりとした形は蓑虫のようで、バラエティ番組でモザイクが解凍されていくように徐々に細部が鮮明になる。

(まさか。視えるはずない。もう、視えるはずがないんや…!)

 しかしそんな僕の願いも虚しく、視界が一変した。どこかの街の様子を俯瞰で見ている。視線が移動する。だんだん下に下がっていく。

 そして…

「ホイ。もう着いたで?」

 ハッと気がつくと、僕は地面に立っていた。背後には藪があり、そこに背中から埋まるようにして鮫人がチョイチョイと前方を指している。

 オリエンテーリングのポイントのひとつ、伊瑠奈高校文化会館の古めかしい瓦屋根の木造建築がホームページの施設案内の写真そのままにどろんと横たわっており、その玄関先に新入生の数グループが固まっていた。

「やった!あのまま遭難とかあり得ねーとか思ってたっての!おーい!」

 誰か顔見知りを見つけたのか走り出したワニ人。僕はその無礼さに呆れながら、従兄弟の分も合わせて深々と鮫人の先輩に頭を下げる。

「ええてええて、コッソリせな。ほしたら、さいならさん」

 ザッ。と葉ずれの音と共に、本当に一瞬で先輩は巨体を消した。

「おおーいイソ〜!もうすぐ点呼なんだってー!早くこっち来いってのー!」

 ちゃっかりゴールした生徒に配られるらしい瓶牛乳に口をつけながら、やり遂げた顔で手と尻尾を振っている新護。

 その調子良さにちょっとムッとしながら僕も皆の輪に加わりに行った。

「あ…そういえば最後まで言わへんかった…」

 最後まで名乗らなかった、あの鮫人の先輩。しかしこの学校に通っていれば遠からずまた見えることになるのだろう。

 僕の予想は外れてはいなかった。しかしその場面は、ちょっと予想を超えていたけれど。


 🦈

『お帰り、磯良』

「ただいま、おたあはん」

 家にはいつも通りお母さんがいた。

 いつも通りの部屋。いつも通りの白い天井に白いLEDの長電球。正方形の小さなテーブルに、椅子二脚。

 いつも通り、真っ白い毛皮に形の良い頭の猫人のお母さんの、少し潤んだ目許が優しい表情を見ると、つい気持ちが緩んでショルダーバッグを下ろしながら溜息をついてしまった。

『学校の方はどないでした?オリエンテーリングで失敗とかせんかった?新ちゃんと一緒やったんでしょう?新しい友達、ちゃんとこさえてきた?』

 息子の溜息で何か深読みしたのだろう矢継ぎ早の問いかけに、僕は慌てて手を振った。

「なんも、変わったことはなかったで。それよりお母はん、今日はどないやった?ずっと起きて待っとってくれたん?」

 僕を見返す深い麦茶色の瞳は、淡いベージュの毛皮の中でキラキラと輝く。

『私は変わらずどす。それよりも…』

 ドッカーン!と、扉の開けたてとは思えぬ効果音を投げ込んで、黒い毛皮の肥った猫人が現れた。

「お、遅れてごめん!」

 両手には湯気が結露したビニール袋を二つ提げ、パンケーキのような丸顔からジブリの黒猫のような滝汗を流し、太い腹であちこちにぶつかりながらテーブルに着く。それは例えるなら意志を持ったプリンが椅子に置かれたらどうなるか?というもの。

 答え。崩れる。

「お父はん、そない死に物狂いに急がんでも良かったのに」

『そうよあなた。まだ十分時間ありますし』

とっんでもないナッンセンス!」

 汗を撒き散らして顔を上げ、先まで黒く太長い尾で床を打つ。

「家族の!食卓を!ないがしろにするなんて僕にはできない!死んじまう方がマシだ‼︎」

「わぁお暑苦しい」

『ていうか、部屋の中あちこちに貴方の汗やら唾やらスプラッシュされてますやないの。不潔やおもわれへんのどすか?』

「な、なんだよお前達二人して!僕が、僕がせっかく店からタクシー飛ばして帰って来てるのに」

「え、タクったん⁉︎アホちゃうの⁉︎勿体無ッ‼︎」

『貴方!走ってきたならいざ知らず、そない無駄遣いしてはったんどすか!許しまへんえ!』

 そこから始まる大げんか。お父さんが文字通り顔を洗って戻るまでに、それこそ30分も費やしたのが一番無駄なのでは無いかと僕は思った。

 一辺が80㎝もない小さなテーブルに、お父さんはビニール袋に入れていた保温容器を所狭しと並べる。

 そのメニューは、ほうれん草とウィンナーのホワイトグラタン、パン粉の香ばしい鮭のピカタ、モロヘイヤとレタスのスープ、カレー風味のチーズパン。それとデザートにチョコレムース。

「店で使ったクロックムッシュの中のソースのあまりと、キッシュに使った素材の余りだな。それからこいつは」

 と、ムースの入った小さなガラス瓶をお母さんの前にかざして見せる。

「お母さんの好物だからね。後で食べてもらおうと思って」

『…あら!ありがとうさんどす。…んん、部屋中ええ匂いが漂って…』

 倖せよ。そう微笑むお母さんに、僕もお父さんも笑顔になる。


 🦈

 慎ましい二人分の夕食のあと、僕とお父さんは

「じゃあまたね、お母はん」

「行ってくるよ」

 と言い残し、部屋を出た。

 外はもうとっぷりと日が暮れていた。これからだんだん日照時間が伸びていくのだ。7時すぎごろまで薄ぼんやりと明るさが残る、八月までは。

 日が短くなっていく秋よりも、今の季節の方が僕は好きだ。

「磯良、手」

 隣で歩くお父さんに、高校に入ったのに恥ずかしいよと文句を言う。

「何が恥ずかしいことがある⁉︎僕達は親子なんだから!な、ほら、だから!手出せよ!」

「もー…しょうもないなぁ」

 僕より大きな頭で、僕よりも子供っぽい大きなどんぐり眼がニンマリとたわむ。

 背丈はまだまだお父さんの方が大きいし、体型だってむっちりと筋肉がつき腹が出ているので、ブレザーの僕と歩いていると父子というより援交と思われそうだ。だから断ったんだけど…

 手を繋ぐと、毎日パン生地と格闘して培った筋肉が幾層にも重なったお父さんの掌は、たっぷり食事を摂ったこともあいまって熱いほどに温もっている。

 僕はふと、昼間の出来事を思い返していた。

 生まれて初めてのお姫様抱っこ。あの時の先輩も、これぐらい…いやお父さん以上に温かかったっけ。

 家族の食卓で、僕は当然今日一日のことを報告した。新護のヘマのことも逐一余さず、鮫人の先輩のことも(告白シーン以外)忘れずに。

 全部聞いてお父さんは新護は頼りない、もっといい友達を他にも作れと半分怒り、お母さんは新護はあれで不思議な人間的魅力があるから一緒に居るべきだとフォローしてまたまた侃侃諤諤の議論になった。

 そんな回想にふけっていると。

「なあ磯良、何か心配事とかあるのか?」

 いきなりそう言われて、僕は視線を跳ね上げた。

「な、なんでそう思うん?」

 真ん丸い顔のお父さんの猫人の耳が両方ヘタリと倒れ、垂れた髭に感情を剥き出しにしている。

「いや、前々から思ってたんだが、…磯良が最近ずっと何かを黙っているような気がしてな。私達に隠し事とかしてないか?悩みとかないか…?」

 悩み。

 その言葉が背中に隠れた後ろめたさもろとも僕を串刺しにした。

「───な、悩みって…?そんなん、ないに決まってるやん!ある言えばあるし、無い言えば無いよ」

「…そうなのか?本当に?」

「ホンマやって。僕がお父はんに嘘つくはずないやん?…もし困っとることとかあったら、言うってば!」

「…そうか!」

 愛息子のことを案じていたお父さんの顔に、輝きが戻る。

(…ホンマに、お父はんこそ心配や。こない純情で純真で素直で、よう大人ん中で商売やらできるわ)

 それじゃあ明日の夕食のメニューはなんにしようかと相談してくるお父さん。大きな子供のように繋いだ手を振って、僕と同じ夕暮れ色の瞳をキラキラさせて自分の伴侶と血を分けた息子を喜ばすことに夢中になっている。

 僕は、甘いものはそろそろ控えないと健康面をお母はんが心配してるよと言いながら願った。

 今夜は、このままでいたい。

 いつ来るかわからない『あの人』が、願わくばこのまま訪れませんように。

 もうこれ以上、僕の家族の平安が運命の悪魔の蹄でぐちゃぐちゃにされませんように。

 ───けれど。

 それは叶えられることのない願いだということも、心のどこかで受け入れてしまっていた。

 数日と経たず、『あの人』は現れた。

 僕の悩み、苦痛、絶望の権化であり原因である『あの人』が。


 続く

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