土などさびしい花壇くらいにしかないのに、雨上がりの濡れた土の粘りつくようなにおいが漂っていた。日が、空気に痛みを漲らせる激しさで広がっていた。コンクリートに照り返していた。

 そういえば団地といってもどこに住んでいたのか、弓子に詳しく聞いたことがないと彼は思い、死を目前に吸い寄せたいま記憶の集積地へ導かせる陳腐に呆れながらも、手を引かせた。一歩ごとに足取りがたよりなくなる。爪先から薄れていく。弓子の足取りもそのように見えた。しかし、白々とあかるく薄れながら、眩い。二人が消え、陰惨な靄と清潔な光が残り、しかしそれも蜃気楼のようひとしくあたりの透明な風に紛れる。歩みの憂鬱に静まりも滲む、と彼は救われるような心地がした。

 弓子の去ったところも、古いままだった。彼は口もきかず弓子に添い、棟の四階までのぼりつめると、踊り場からおもてを眺めた。古いものと新しいものとがならんでいた。音がなく、日が明るい、世界のはじまりのようにもおわりのようにも見える索漠とした眺めに彼はおだやかに息をのんだ。色が褪せてぼんやりとした古いほうが、新しく見えた。弓子の体の白さをおもった。抱く前でも、まじわりのなかでもない。抱いた後の、果てしもない倦怠と嫌悪にひえびえする肌をおもった。

 死に場所を探さねば、と悠長な口調で胸に呟きながら、今度は隣に並んで階段をおりた。踊り場にでれば陽が入って明るむのが嘘のように、階段は薄い影にみちていた。暗くなり、明るくなり、を繰り返すうち弓子が、ふうと息をつく。肉体にしみついた疲れをそっと吐き出すような息に、弓子が孕んでいることを彼は思う。自分もかつて孕まれていたとまで、心が流れる。視界が白み、また陰る。

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明ける しゃくさんしん @tanibayashi

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