7
昔のことをよく覚えているのは弓子だった。彼は、弓子がする過去の話をたびたび嘘か何かと疑うほどに、思い出に頓着がなかった。
それで、ふたりが幼い頃にはそばにいた、ともにあの団地群に住み、小学二年までは同じ小学校に通ってもいた、という偶然に出会いから随分と遅れて気付くことになった。弓子がする昔の話に、彼が確かな記憶をもって肯けば、すぐに同じ土地に住んでいたと知れたはずだった。
辛うじて彼に残る思い出があった。だから、彼と弓子とは、まだ互いの肌を知らぬ間に同じ風景と同じ温度をわかちあっていたと判明したのである。
それが犬公園だった。
「うちのそばに公園あったんよ。ほんでね、そこにおばけ出るって、都市伝説あってん」
かつてそうベッドのなかでそう語り始めた時、弓子の話声が、やけにとろとろしているように、彼には聞こえた。弓子は枕にしている彼の手を引いて、自分の胸に添わせた。彼がされるがままにだらりとしていると、力ない手に手を重ねて、固い掌を冷たく汗ばんだ肌に這わせ、話を続けた。
「公園にちょっとぽこって高いとこあってな、そこに三つ、犬のやつあんねん」
「犬のやつ、てなんやねん」
「んもう、わかってよ」
「無茶言うなよ」
「もう、あのう、なんていうん、マネキンみたいなやつ」
「銅像みたいなんか?」
「小っちゃくて、白い」
彼は、その犬を見たことがある、その背に乗って立ち、どこか残虐な悦びを味わったことがある、と思った。記憶というほどに確かでない。しかし弓子の言葉に引き摺られた幻想にしてはあまりに生々しい。彼は過ったイメージの出所を訝しんだ。腹の下の暗い濡れの残りを感じた。
「その犬に、名前なかったか?」
と彼は聞いた。自分が何を聞こうとしているのか、はっきりしているのに、なにものかに喋らされているような、そんな妄想の影が唇の動きに付き纏った。
弓子の目がやわらかく開いた。
「うん、ようわかったねえ、あったよ」
「ゴン、タロウ、ナツミやろ」
弓子は、声を失ったように口をぽかんと開けて、ただ何度も深く頷いた。彼は、なぜか驚きもしなかった。
彼と弓子とが同じ町に短いあいだであれ一緒にいた、そう知れると、弓子は熱っぽく、そういえば名前を聞いた時に初めて聞くと思わなかった、といった。彼は、やはり驚きの欠片もなく、どころか弓子がやけにはしゃぐのを珍妙に眺めた。それほどに、現実味がなかった。弓子が、彼の顔を、まともに見た。むかし見たはずの顔を、探るのだという。彼はその弓子の顔を見返し、まじわりの熱が冷めていつもより深く白い肌を暗がりに沈むなかで見つめ、あの、灰色のコンクリートを想った。彼が住み、離れ、弓子もまたそうだった。彼も弓子も、痕跡ひとつ、残せなかった。団地は、人が入り、抜けるだけの無機質な箱として、いかなる温度にも染まらず、ただある。
弓子の話す犬公園の都市伝説は、こうだった。昔あの地で、同じ棟の男らみなと密かに通い合う女がいた。その亭主が全てを知り、嘆き、女を殺した。亭主は、男らへの見せしめか、棟の眼前の犬公園に女の死体を夜更け捨て置いた。朝になり、白い光が仄かに降りはじめ、住人たちが女を見つけた。女は、血を拭い傷を隠した綺麗な姿で、一匹の犬の下に、組み敷かれるように斃れていた。二匹の犬が、自分の番を待つように、黒いだけの眼で傍から見つめていた。それからというもの、区内で密通があれがその夜に公園に叫びとも喘ぎともつかぬ甲高い声が震える。
「そのひとがナツミやから、あの犬、ナツミってみんな呼ぶんやって」
弓子はそのあまりに嘘くさい噂話を語りながら、じんわりと、静まりかけていた体をまた熱くした。彼は無言の誘いを感じて応えた。弓子は切なくなまなましくうけいれた。彼の眼の裏にまた団地が浮かんだ。ぼんやり見えた。団地はいつもぼんやりしていた、と思った。弓子の腹に力がこもった。膝頭で彼の腰をきつく固めた。彼はそれを荒く解き弓子の手を縛るように握り波を逃させまいとする。あの団地の一室にいるようだった。どの部屋か、と考えて、この部屋あの部屋などというものはない、何処でも同じことだ、と彼は可笑しかった。
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