五 雨とバスと、来る夏と

 相変わらずよくコンビニに来店する井上と、他の客がいないタイミングで何度も話し合っている。そうの小学校入学以来の勉強や学校生活の様子をまともに知っているのが家族ではもう私ひとりなので、井上にとって私は重要な情報源ということらしかった。

 けれども井上は最近、そうした話題はなるべく手短に切り上げて、それから少しだけ私のことも聞くようになった。颯太の担任の井上から私が習った化学の井上に戻って、私の話をする。梅雨っぽいけど雨で頭痛くなるタイプじゃないのか? とか、自動車学校オートマとミッションどっちにすんの、とか、お前その手火傷したな、とか。

 高校に通ってた頃みたいで、そういう会話は何だか少し安心する。家族ではない誰かが私のことを覚えていて何か聞いてくれるということに、変な話だけど、安心する。

 井上が私と社会を繋いでいるような気がしてきてこれはこれでやばい。

 結局のところ、所属先の人数が一学年四十人そこそこ×三学年と先生たちというまあまあの大集団から、たかが十人もいないコンビニと家族のミニ集団になってしまったことのギャップなのだ。学校は一応のソトだったが、今私がいる集団は、親の経営するコンビニということもあってあまりソトの感じがしない。

 それで、会話する相手のうち井上くらいしかソトの匂いのする人がいないから、井上がソト社会の窓口のように見えてきてしまう。やばいぞ。

 これは私が自分で考えたのではなく、あや寺岡てらおかだいとちょっと喋った時に出てきた話だ。喋ったといってもSNS上でだけど。

 ここに住んでると、すれ違う人の量が全然少ないし変化が少ないね、と寺岡大輝は言う。それは分かる。物理的にどうしてもそうだ、過疎だから。

 そして多分それが寂しい時もあるのだ。

 私が学校から自宅コンビニへの所属縮小で違和感を覚えているように、寺岡大輝も都会からこのド田舎への所属縮小で感覚の違いがあったのだろう。彩乃を挟んで私たち二人は、だよねえ、と言い合った。

 特に私は今まだ、通う場所がないから。お父さんがコンビニのバイトを新たに確保して安全なシフトが組めるまで、私はまだ自動車学校に通い始められない。現在のバイト数だと完全にヤバい。回らない。深夜帯はお父さんと私で頑張るから、朝昼にあと二人は欲しい。


『うう、結局ズルズルと秋まで通えないような気がしてきた……』


『夏休みの高校生バイトが確保できたらそのタイミングで見切り発車しちゃえば。だらだら通って私と同じくらいで免許取ればいいじゃん?』


 まだ利き手が十分使えない彩乃は第一段階の学科をすべて履修した状況で進度がストップしている。それでもずっと、受ける授業がなくても通ってはいたんだという。家にいたくなくて、自習室で時間を潰してたと話してくれた。

 一方、寺岡大輝はもうそろそろ第二段階も終わって卒検、近々免許が取れてしまう。


『大輝がいなくなると淋しいからさく早く来てほしい。そして優しい教官を探しておいてほしい』


 スマホ画面にポコンと出てきたそのメッセージに私は笑ってしまって、大輝に聞かないのかよ(笑)と返したのだけど、彩乃曰く大輝は運転が元々得意なタイプの人種らしくて全然怒られないというから何も参考にならないんだそうだ。

 まあとにかく両家敷地の境界近くにあるログハウスで二人でだらだら過ごすことがある、とかお前ら漫画かよ。なんかそんな漫画あったよね? 割と古いやつだった気がするけど。やめて、私を招待しないで。なんか空気に耐えられないと思う。今、仲間内のメンツで彩乃が一番面白い。あと、あいつ多分まだ私に隠してることがある。何か大事なことを。でも詮索はしない。言うか言わないかは彩乃が選ぶことだ。私が追い込むことじゃない。



 仲間内のSNSの様子も、四月当初と比べて少しは落ち着いてきた。私が寂しさに慣れてきたのもあるし、みんなが落ち着いてきたというのもあると思う。

 やっぱり、高三の年明けから卒業、新年度、というこの数ヵ月はちょっと普通ではない時期だった。解放のような終わり、新しさの代償としての別れ。世界の屋根が破れて、子供時代のまゆから放り出されたようなこころもとなさ。

 女子高生の電源がぷつんと切れたその後の世界を、私たちは否応なしに歩き続けている。子供時代の終わり、女子高生の終わり、というものを自分で選んだわけではないにせよ、現実にそのようになっている以上、現実の中で生きていかなければならないのだ。

 それで? ただ時間の流れの中を押しやられながらこれまで通りの環境や周囲の出来事に対して受け身でいくのか? それとも自分で自分の環境を作っていく?

 お姉ちゃんが、何とか自力で人間らしい地位を獲得して、あんたは家の備品じゃない、と私に言っていたのは多分そういうことなんだと思う。バカなりに色々考えたが要するに、人間に昇格しろ、と言われている。

 お姉ちゃんなりに私を心配してくれてるんだな、と思うし、里帰り出産以来のあれこれは早い段階での入院というイレギュラーがあったものの基本的にお姉ちゃんがお母さんをはじめとした我が家の状況に風穴を空けるために最初から意図したことなのかな、とも思う。そういう形で私や、ひいては颯太、我が家そのものを助けてくれているのではないかと。

 仕留め損なったみたいな言い方はしていたけど、高卒の頃から出産という人生の一大イベントまでうまく使ってお姉ちゃんはお姉ちゃんなりに長い狩りを続けているのだろうと思う。きっとお姉ちゃんにはお姉ちゃんの、十八才の真剣な時間、家の暗黙の了解から抜け出して人間に昇格するための真剣な勝負のスタートがあったはずだ。

 当時私は中学生。お姉ちゃんのその戦いに気付いていたかと言えば否だ。同様に颯太も今、私に何が起きているかは分からないだろう。分からなくていい。弟が姉の心のケアなんてそんなにしなくていい、そんなことよりてめえのメシを作製し汚れ物を洗い住居を住めるレベルに整えている人間のその物理的な作業の部分にまず敬意を払ってくれ。颯太はまずそこからだ。あと、勉強してほしい。

 人には人の、それぞれの戦いがあるのだ。




  ◇◇◇




 六月のある朝お父さんが、バイトの都合がつきそうだからもう入学手続きしちゃっていいからな、と言い出す。それで私は、今日は雨だから明日行く、と答える。最近はこのへんも梅雨っぽいんだから、雨の日避けてたらいつまでも行けねえぞ、とどやされる。お母さんが、さあこれから娘と夫に文句を言ってやる、という顔で居間に入ってくる。窓の外には朝練に走っていくアホの颯太の後ろ姿。

 世界だ。これが私の世界だ。

 でもきっと、粘れば少しは変えられるはずの世界だ。

 そうだろ、お姉ちゃん。

 そのとき私の手元のスマホに、ポコンという軽快な音と共に、そのお姉ちゃんからのメッセージが届いた。


『おはよう妹!

 旦那の転勤で八月から仙台に決まった。ひゃっほー飛行機の距離だぜ。遊びに来てね。一人で。一人でだぞ。

 ぶっちゃけ年末くらいから転勤話はあったけど内定出るまで黙ってた。

 お父さんお母さんには今日の晩にでも知らせるよ。

 お母さんが簡単にぜると思うんで、各自衝撃に備えよp(^-^)q』


 ヒッヒッヒ、と心の中で私は笑い、マジかよ、とだけ打って、スマホをポケットに仕舞い立ち上がる。長い返信はあとで人のいないときにしよう。

 そうだな、孫に愛情深く手をかけるオシャレで優しいイケてるばぁばをやろうとしゃかりきになってるお母さんは、そりゃ爆ぜる。今でさえ、お姉ちゃんのところに足繁く通おう、あわよくば長期滞在しようとしては断られてギャー化してるんだから、お姉ちゃんたちが飛行機の距離に遠ざかるなんて聞いたらどうなるか。お母さんは昔、友達が遠くに引っ越すときでさえ裏切りだとか何でそんなことができるのとか盛大に暴れた前科があるのだ。

 それを分かってるはずなんだから、お姉ちゃん、ほんとに全部予定通りの仕組みじゃないか。

 私は何か言いかけようとするお母さんを無視して、お父さんに言った。


「じゃあ今日申し込みに行ってくるね。昼過ぎには戻る」


「おう、気を付けろよ。どうやって行く、歩き?」


「いや、送迎バスがうちの前走ってる。聞いたら、申し込み来るのにも乗っていいですよーって言ってたから、それ乗って行く。帰りもそれで」


 そんなら雨でも心配ないな、とお父さんは言い、いいかマニュアルだからな申し込み間違うなよ、と念を押す。

 ざあ、と音を立てて窓の外に強い雨が降り始めた。

 怖くないぞ、と私は思う。

 目的があるし、バスに乗れば大丈夫なんだから、ざあざあ降りになったって怖くないぞ。

 雨が終われば夏が来ることは分かってるんだ。どんな夏かは分からないけど、とにかくこの春よりはましに決まっている。

 ましにするのは自分なんだって、もう分かっている。

 だから。


 怖くないぞ。






(了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春と雨 ――『春と骨』番外編 鍋島小骨 @alphecca_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ