四 幼稚と冷静とバスターミナル
「泣くことないじゃん。
「だってあの日は泣くどころじゃなかったんだもん!」
駅のそばにある古いバスターミナルはあまり人気がなくて、遠くに並べて停められた古い車両は案外かわいい顔をしている。広い屋外ターミナルのすみっこ、何年か前に廃止になった路線の乗り場は雑草が伸びっぱなし。今は使われていないその乗り場のちょっと錆びたベンチで、私は三か月ぶりに
本当はあの一泊の卒業旅行にも一緒に行くはずだった彩乃は、卒業式のすぐ後にひどいインフルエンザにかかり、それ以来SNSにもほとんど書き込みがなかった。骨折の話も本人からではなく人づてに知ったし、もう私たちに会いたくないんだろうか、と思ったこともあったけど、こうして会って聞いてみると彩乃もなかなか大変だったみたいだ。
四月早々にやった骨折もまだ全然治っていなくて、折れた骨をプレートとねじで留めてあり、たくさんリハビリした後プレートを取る手術もするなんてめちゃくちゃ怖い。
私たちの間では、割と大人しい彩乃にしては珍しい壮大なギャグ系イベントと捉えられていた国立受験にしても、全然記念受験とかじゃなくお父さんの命令でそこしか受けさせてもらえなかったとは驚いた。彩乃のお父さん、ちょっと何を考えているのか分からない。というか多分、一切何も考えていない可能性がある。私たちみたいな田舎高の追試常連が急に国立なんか入れるわけがないのに。
それで彩乃は、ついにキレて父親に物言ったらしい。うちのお姉ちゃんもワンマンなところがあると言ってたあの曽根果樹園のちょっと怖そうなおじさんに。そうでなくても田舎のおっさん大黒柱に娘が噛み付くなんてことはよっぽど勇気が要るものだ。ついに言うまでの一年近く、彩乃は相当溜めてたんだと思う。
「そんなことなら何で私たちに言わないのさ、彩乃のバカ」
「だって、話すのもめんどくさいくらいめんどくさい話でさ……あの頃のムード的に」
「あー。まあね、みんなそれぞれの受験とか就活とかで盛り上がっちゃってたしね……」
「てゆーか、こっちこそごめんね、咲良。咲良が進路とかの話ほとんどしないの、気がついてはいたんだけど。聞かれたくないんだったら悪いなと思って聞けなかった」
彩乃はそういうやつ。結構先回りして心配してくれることがある。同級生の中にも進学も就職もしない子ってのは時々いて、それは家の面倒見なきゃならないからだったり、進学するお金がないからだったりする。そういう子のなかには、進路の話自体あまりしたがらない子もいる。特に、本当は進学したい、本当は家を出たい、という子の場合は。
心配してくれたんだろうな。うちはお店やってるけどお金があるわけじゃない。お姉ちゃんが私や
大体のことは知ってて、ずっと気を遣ってくれていたのだ。このやろう。
「彩乃、ありがとね」
「やめてよ、気持ち悪いんですけど」
うへへ、と笑って私はぬるくなったキャラメルラテを飲んだ。前に
缶コーヒーじゃなかったんだ、と彩乃には驚かれた。流れていった噂では缶コーヒーを買ったことになっていたという。違うよ、チルドカップだよ。
彩乃は寺岡大輝と割と仲良くなったらしい。いいやつだよ、と言われた。そうであってほしい。友達んちの隣にヤバイ奴が引っ越してきたなんて私だって嫌だ。
彩乃とは、自動車学校に通おうと思うので様子を教えてほしい、という口実で久し振りに会った。実際その予定だから嘘ではない。会いたくないとか言われなくてよかった。会ってみたらお互いの事情も分かったし、ついでに寺岡大輝の話も聞けてしまった。
私が妄想したような色恋沙汰ではないみたいだけど、まあ、よく考えたらそれはそうなんだよね。そもそも彩乃は、好きな相手ができてもキャーキャーなる方じゃないんだから。惚れたら最後全てだだ漏れになる
「とにかく、会えてよかったよ。うちにだけいると話す相手もいないし参ってくるわ」
涙は乾いてきた。青空の下、
「咲良んとこも大変だったね」
「だったというか大変よ。大変なうよ」
「古い」
「古さも
というのも颯太のやつがあまりにも勉強ができない。ほとんどスルーで卒業させてくれた中学に比べると高校はやはり甘くはなく、一学期の中間試験からしっかり追試組に入った颯太だったが、私と違ってできなさがあまりにもストロングスタイルなため、さっそく親が呼び出された。私はギリギリ赤点が多くて、やればできそうなのにと言われる下の上カテゴリーだったのだけれど、颯太に関しては担任はお母さんと向かい合うなり「小学校のどのあたりで勉強に
その担任というのはなんと、あの化学の
お母さんはそれでギャーッとなって、高校が颯太に分かるように教えないのを颯太のせいにすると言ってブチ切れた。それを言うなら颯太が最初に躓いた小学校のときの担任に文句を言うべきだったでしょ、颯太のできなさは普通じゃないって私もお姉ちゃんも当時から言ったのにお父さんもお母さんも聞かなかったじゃん、ほっとくからじゃん、親のくせに、と言ってみたら更に爆発して、何故かは分からないんだけれどもゆかり叔母さんのところに行き、何か大変失礼なことを言ったようでガチンコの大喧嘩をしたあげく完全にやりこめられて今は家で
とにかくお母さんのギャーからの屍で、私はまた家事を一手に引き受ける羽目になりかけたのだが、ちょうど自動車学校に通う許可をお父さんから得ていたので、通いながら店のシフトもいっぱい入りながらはちょっと厳しいわ、いやかなり厳しいわ、店のバイト増やしてほしいし家事は分担があるべきだわ、と主張してみた。
お父さんは当初かなり渋ったが、ここで井上がナイスアシストを決めた。お母さんがアレなので井上とはお父さんが話をすることになって、家に来たときに、ふと、という調子でこんな雑談をしていったのだ。
――吉川は……あ、お姉さんの方、咲良さんですけど、なんかほんとに『きょうだいの真ん中の子』という感じですよね。まあ仕方のないことでしょうけど、親にとっては一人目の子ほど新鮮じゃなく、末っ子みたいに何しても可愛いというのともちょっと違う。本人は上の子を見て学習し、下の子に遠慮して親に甘えにくい。それで、あの子はしっかりしてるから大丈夫だと思われてさらに放置されちゃうんですよね。世話好きで控え目なのは子供なりの処世術なんですかねえ。それにしても進路希望の紙を毎回白紙で出してきたのは心配しましたが。……いや、僕もきょうだいの真ん中で色々放っとかれたもんですからね、『真ん中の子』に会うとつい心配しちゃって。たまにめちゃくちゃ頑張って欲しいもの言ったりしても軽くあしらわれたりとか、大人になっても忘れられないものなんですよ。
井上が帰ったあとお父さんはお茶を片付ける私に、進路希望の紙って何、と言った。
そんな二年も前のこと今さらどうでもいいからせめて颯太の心配しなよ、と答えると、にねん、とか呟いて何秒か固まってしまい、お母さんは知ってるのか、と聞いてきた。
――進路希望をどう書いたらいいか分からない、ってお母さんに言ったことはあるよ。答えはなくて、颯太がスパイク買い換えてほしいって言うけど高い、お父さんはこういう出費のこと全然わかってない、って急に言われた。お母さんの受け答えが脈絡ないのはいつものことだけど、とりあえずお金はないなと思いました。
私がそう答えると、お父さんはいよいよ視線が定まらなくなり、咲良はほんとはどっか行きたいとことかあったの、と言うので私はただ事実を伝えた。
――分かんない。進学したいって言っていいのか、就職して家にお金入れた方がいいのか、そういう大まかな方向も一切示されてなかったわけだし、聞いてもはっきりしなかったし、分かんないから白紙で出した。まあさ、颯太は勉強できなさすぎるけどあの子は大学にやりたいって話は出てたでしょ、で私大にやるならお金がきついなって話も何度もしてたでしょ。お姉ちゃんも下のために進学しなかったんだし、私もその方がいいのかなとは思った。下手に進学したいとか言って、悪いけどダメだって言われるのも嫌だったし、お母さんは絶対爆発するだろうし。十八年もうちで暮らしてるんだから私だって学習はするんだよね。颯太より私を優先することはないでしょ。
だからせめて就職せず、家にお金を入れないのが、幼稚な私に唯一取れる幼稚な反抗だった。そこまで察して尽くしてはやらない、という、無言の、つまりは声に出して言う勇気が持てなかった結果の、ねじけて幼稚な、胡麻粒のように小さな反抗。
やりたいこと、行きたいところなんてありませんよ。だって、どうせ何だって許されはしないでしょ。我が家の優先順位リストでは、いつも私は下の方なんだから。
……と、そこまでは言わなかったけれど、とにかくそれでお父さんは何か思うところがあったらしかった。
――井上先生の言う通りかもしれない。お父さん、咲良はしっかり者だから自分でやらせておけば大丈夫だと思ってた。一番、親の事情を分かってくれると思ってた。でもこれ、あれか。遠慮させてただけか。わがまま言わない良い子なんじゃなくて、言えなかっただけか。
一秒にも満たない間、私は色々考えた。そうだよお父さんひどいよ、と泣いたり怒ったりすることはできる。でもなんか、今さら気分が乗らない。そんなことより、このところ私がこうして以前より率直にものを言ってみる気になったのは何のお陰なのか。
お姉ちゃんが病床から機関銃のようにブッ込んできたあのアドバイスのお陰なのではないか?
だから私は言った。これはすげー重要なポイントだぞ、という態度をなるべく強く出そうと努力しながら、言った。
――あのさ。たまたま井上が『真ん中の子』って話をしたから三人の中で私が損してるのかもと思ったかもしんないけど、一番上のお姉ちゃんだって、ほとんど私とおんなじだから。お姉ちゃんは、まだ中学生だったのにうちの『小さいお母さん』をさせられてたんだし、下の私たちにお金が残らないと思って進学しなかった。お姉ちゃんだって、たくさん遠慮したと思うし、言えなかったこと選べなかったもの、今でも理不尽だと思ってること、たくさんあるはずだよ。
言ってやったぞ、と私は思った。
お父さんはひどくショックを受けたような表情だった。やっと分かってくれた、なんて思わない。多分まだ分かってないし、今驚くくらいだからこれまで考えてもみなかったということだ。それがむかつく。でもまあ、そうなんだろうなとは思っていた。
誤算だったのは、それを
屍だったお母さんはたちまちゾンビのように甦り、再びのギャー化を起こしたのだった。
それゆえに我が家、今、マジ大変。
「家にいる時間が長けりゃ長いだけしんどいね、それは」
彩乃は炭酸水を一口ずつ飲んでキャップを閉めては、ペットボトルの中の光る泡を見ている。昔からそういうの好きだよね。
「でもまあ、お父さんが少しは分かってくれたんなら、何もないよりは良かったんじゃない」
「そうなんだけどね。まだ怪しい」
ウォーン、と遠くから路線バスの冷房の音がする。小さなターミナルの建物から、何人かの人が外に出てくるのが見える。
ぴかぴかの青空と光の下で私は、ベンチに預けていた背を起こして言った。
「お父さん、颯太の問題から目を逸らすために私を見てうるうるしてるだけの可能性があるからね。全っ然、油断はできないわけ」
彩乃は持ち上げていたペットボトルをすっと下げて、改めてこっちを見てから、ため息のような声を出して。
「咲良は相変わらず冷静だなあ」
そう言って笑った。
私も笑った。
笑えたことが、嬉しかった。
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