三 小さいお母さんだった人との話

 誓って言いたいんだけど、あのとき私は自宅職場の性質を利用して噂をキャッチしようとは思ったが、噂をバラ撒こうとは思っていなかった。

 だから、四月何日に寺岡てらおかだいが通販をコンビニ受け取りにして何を買っていつ取りに来てどんな服装と態度で何のカードで払って一緒に何のコーヒー買った、という噂が駆け巡ったとしても、その発信源は絶対に私ではない。

 笈川おいかわさんだ。

 あのときイートインスペースに溜まっていた常連のおばちゃん達の中に、寺岡家が現在住んでいる果樹園の去年までの住人だった、笈川さんの奥さんがいたのだ。



 去年の春、笈川さんの旦那さんが急に亡くなった。まだ六十代だったが持病があったらしい。最初は一人息子のりょう兄が帰ってきて果樹園を継ぐと聞いていたが、間もなくそれは笈川のおばさんが自分の願望を勝手に言っただけで亮兄にその気は全くないということが分かった。

 初七日の頃に笈川のおばさんのフカシが分かってから亮兄のお嫁さんは七日七日の法要にも姿を見せなくなり、どうも相当の修羅場があって四十九日のあとは亮兄も家と縁を切ると宣言したらしかった。確かにそれからお盆も年末も姿を見ない。

 何もそこまでしなくても、と思ったが、おばさんは亮兄の結婚当初からこっちに帰ってこいとか孫の顔が見たいとか相当しつこく言い続けていて最初からかなり関係が悪かったらしい。亮兄と同級生だったうちのお姉ちゃんは、正直おばさんのアレは完全な嫁イビリだし亮は逃げて正解でしょ、と言っていた。亮兄のお嫁さんは、訳あって元々赤ちゃんが産めない身体なのだという。

 後継者がおらず、果樹園の世話もおばさん一人ではとても無理。だだっ広い土地の古い家に一人きりで住むのも怖いからと、意外にもおばさんはその年のうちに果樹園を手放すことを決めた。それで年明けに寺岡さんが来たわけだけれど、果樹園を出た笈川のおばさんはどうしたかと言うと、うちの店の近くに中古の家を買って引っ越してきたのだった。

 その家は小さくて古いけれどぱりっときれいにリフォーム済みで、都会からリタイア移住する予定だった夫婦が購入してあとは住むばかりになっていたところ、片方が難しい病気になってしまって専門の医者のいる都会の病院を離れられなくなったために移住を断念して売りに出されていた。スーパーもうちのコンビニも徒歩圏だし、一応の住宅街ですぐ隣に人もいる。高齢の女性が一人で住むには確かに、クマだって出かねない広い果樹園よりは安心かもしれない。

 ただしおばさんは、元いた果樹園と無関係になったつもりはまるでないようだった。寺岡さんちにものすごく電話するし、だから寺岡さんも気をつかっておばさんを時々招待するみたいだ。そしてうちのコンビニに来てイートインスペースに溜まり、都会の人ときたらこうなんですよ、まったくねえ、という話をいつまででも繰り返すのだ。

 その同じ調子でおばさんは、うちのイートインスペースで会う人会う人に寺岡大輝のコンビニ来店時の様子について喋りまくり、噂は地域を駆け巡ったというわけ。




  ◇◇◇




「というわけ」


「噂配給所じゃん」


「否定はできないね」


 くっくっと笑うお姉ちゃんは病室のベッドを起こしてもたれ掛かるように座っている。今日はすごく調子が良さそうだ。

 窓の外は雨。ザ・春雨って感じの、細かくてさあさあ降る雨。今日はお母さんは家の仕事をしていて、私だけバスで町に出てきた。

 予定日から少し遅れて双子が生まれたのは四月の末のことだ。帝王切開だったので、産後しばらくお姉ちゃんはずいぶん痛がって本当に可哀想だった。帝王切開は産みの苦しみがないから母親失格なんて言った奴、全員腹を切って縫われたあと毎日ぎゅうぎゅう押されるといいと思う。あれのどこが産みの苦しみじゃないんだ、と私もお姉ちゃんの旦那さんも泣いた。

 赤ちゃんは可愛い。そしてちょっと不安になるくらい小さい。今は保育器の中にいて、時々ほにゃほにゃと泣いてくれる。二人ともほんとに可愛いねえ、と言うとお姉ちゃんは心底嬉しそうにする。

 病室のお姉ちゃんはお母さんから聞けない地元の話をあれこれ聞きたがるから、私は今、寺岡大輝と笈川のおばさんの話をしていたところだった。


「あのおばさんもうちのお母さんと一緒で、とにかく自分の話するの好きだからなあ。他の友達からも聞いたんだけど、おばさん、亮のことまだ諦めてないんだって?」


「多分ね。今にあの嫁はダメだって分かるときが来るから、そしたらあの果樹園に帰ってくる気になるはずなんだ、って話はずいぶんしてる」


「帰るったって、果樹園売ったんでしょ? 亮が来てもやる畑がないじゃん。買い戻す気なのかなあ」


「嫁から慰謝料がとれるから、とかなんとか」


 取れねえよー、取られる側だろ、とお姉ちゃんはけらけら笑い、それからすっと真顔になって、寺岡さんにも失礼じゃん、と言った。

 そうなんだよねえ。


「寺岡さん、うまくいくといいんだけどね。あやんちがお隣でしょ。彩乃のお父さんとかが果樹園のやり方指導っていうか、そういうのしてるみたいなんだけど、なんかほら彩乃のお父さんも喧嘩腰なとこあるから、吉村の拓ちゃんとかちょっと心配してる」


「はは、あのおじさん結構ワンマンだからな。ていうか、彩乃ちゃん元気なの? お家にいるんでしょ」


 彩乃か。

 彩乃は。

 ……私は一瞬口ごもり、それから努力して、あんまり連絡取ってなくてさ、と言った。


「でもここの病院に通ってるはずなんだよね。ほら、骨折したから」


「ああ、災難だねえ……利き手だって言ってたじゃん。メイクするのも不自由だわ」


「それな。まじ可哀想」


 彩乃はつきやまやと違って顔を作り込む方ではないからアイライナーを左手でやろうとして目にぶっ刺したりという心配はないけど、スマホは打ち辛いんじゃないだろうか、SNSに全然顔出さないのはそのせいだろう多分、と私は思うようにしていた。

 私たちのことがもうどうでもいいから出てこないのだとは思いたくなかった。


「お姉ちゃん。学校卒業すると、友達って会わないね。夏休みとかとも全然違う感じで会わない」


「そらそうよ。一緒に行ってる学校が一緒に休みってんじゃなくて、みんな違うことしてるんだから。休みではないから」


「あー」


「寂しくなった?」


「寂しくっていうか」


 うまく言えないんだけど。

 朝起きてご飯を作り、そうの巨大なお弁当作って、なかなか起きない颯太を苦労して叩き起こしてご飯を食べさせ朝練に送り出して、掃除して、洗濯して、店番に行って、発注して品出しして掃除して、買い物して家に戻ってご飯作って片付けして、颯太が毎度ギリギリに出してくるお知らせ類とか出し忘れてた洗濯物とかにギャーッとなって、連絡なく戻ってきたお母さんの訳の分からない話に付き合わされて、お風呂洗ってお湯はって、台所荒らす颯太を追い払って、その颯太の部活のユニフォームとか揃ってるか確認して、色々やりながら明日明後日の夕飯とお弁当のメニューどうしようとか考えて、あれやってこれやってあれはどこなのみたいなことは言われるけど何か全然誰ともまともに喋らないうちに気がついたら深夜で、私、今クールのドラマいっこも見てないし好きだったバラエティもあんまり見られないし、友達と遊びに行かないしずっと家か店にいて、なんだこれって感じ。絶対に誰かがしなくてはならない必要なことをしているんだから意味はあるんだけど、でも私はなんなんだ? って感じ。


「わかる」


 お姉ちゃんはふむと頷いて真顔で言った。


「主婦とかが感じてるやつの仲間だわ」


「お母さんも、これが辛くてあんな風になるのかな」


「うーん、お母さんのあれは子供の頃からだって叔母さんたちからは聞いてるなあ……さくのは違くて、急に、暗黙の了解で、『小さいお母さん』になってることがしんどいんじゃない? それを昔は私がやってたの。颯太が小さい頃、入院した時なんかはね」


 小さい頃の颯太は、わがままで人の話を聞かなくて、危ないことをやっては怪我をし、同い年の他の子に比べて手が掛かったのだと思う。同い年のいとこのかけるとよく比較され、お母さんはそのたびイライラしていた。

 中でも、お祭りの日に何か言うことを聞かなかったために祭りにはもう連れて行かないと叱られ、大泣きしながら弾丸みたいに家を飛び出して前の道路でかれたのは大事件だった。

 その時お母さんは入院する颯太につきっきりになって家を空け、私の世話やら家事は確かにお姉ちゃんがしていたのだ。


「颯太はきかない子で有名だったからさ、お母さんずいぶん色々言われたみたいだよ。子育てがなってないとか、しつけが悪いとか。それもあって、こんなに心配して愛して手を掛けてるぞ! って感じで入院につきっきりになって、子供はちゃんと立派に育ててるぞ! ってことで私に家のこと一切させたんだと思う。私に『小さいお母さん』みたいにちゃんと何でもさせることで、颯太がああなのは育て方のせいじゃない、上の子はこうなってるんだから育児や躾はできる方なんだ、ってアピールしてた感じはある。あんたがきちんとしてないとお母さんが色々言われるんだから、って実際言われたしね。

 私はそのこと地味にずっと恨んでて、ちょうど咲良くらいの歳の頃にお母さんと喧嘩したんだよね。家出るときに。お母さん、それを根に持ってて今回、私に里帰り出産しろって言ってきたわけ」


「なんで?」


「産む前後、側で何でも面倒見てやるから、それで埋め合わせするからって」


 埋め合わせるものなのだろうか。埋め合わせ方はそれでいいのだろうか。私にはよく分からないけれど、何だか違うような気もする。いや、絶対に違うね。お母さんにはこういう、謎の八つ当たりスタイルがある。そんなに言うならいいよ分かったよ、こうしてあげる、それで帳尻合うでしょ、私は身を切ってこうしてあげるよあんたがそんなに言うのなら! どうだ満足かバーカ! こっちの気も知らないで! どうせあんたたち私のことなんかどうだっていいんでしょッ! というタイプの逆ギレの仲間だと思う。面倒くさい。


「まあそれでお母さんの気が済むならいいかと思った私も悪かったよ。お母さん、こうって決めたら人の話聞かないでしょ。説得めんどくさくなっちゃってさ。でも予定外にすぐ入院になって、結局あのときの私と同じように、咲良に『小さいお母さん』をさせちゃった。ほんとは久し振りに家にいて、颯太のあの何にもしないでメシメシうるさいのとか、子供に家事させといて平気なお父さんとか締め上げてやろうと思ってたのに。私の入院のせいで卒業式も誰も行けなかったっていうし、なんか、かえって悪かったね」


 お姉ちゃんはベッドの上から手を伸ばして私の前髪からこめかみの辺りを撫でる。

 お姉ちゃんは『小さいお母さん』ではなくほんとにお母さんになったのだなあ、と急に思った。私や颯太のお母さん代わりではなく、あの信じられないくらいちっちゃくて柔らかそうな双子のお母さん。あの子たちだけのお母さん。


「あんたはきょうだいの真ん中だから、ちょっと損してるところはあるからねえ。ごめんね」


「お姉ちゃんが悪いわけじゃないよ」


 自分ではそんなつもりじゃなかったのに、まるで泣き出すような声を出してしまった。顔が上げられない。その私を、お姉ちゃんはまだ撫でている。


「まあ、私が悪いわけじゃないのは、そうなんだけどさ」


 今日はやけに優しいお姉ちゃんの声が降ってくる。頭を撫でてもらうなんて、どのくらい振りだろう。


「……でも、私がお母さんやお父さんを仕留め切ってなかったから、あんたが同じような目に遭っちゃってるんだよね。もっとうまくやれたらよかったのにね、ごめんね。

 悪いけど咲良、何とか自力で人間らしい地位を獲得して。

 いいね。あんたは家の備品じゃないからね」


 ほどよく逃げなさいよ、自分の時間を持たないとダメ、筋合いの違う仕事にかかわり合いになるんじゃないよ、颯太はいい加減シメろ、お父さんお母さんを甘やかすな自分の人生を優先しろ、あと免許はお父さんの金ですぐ取りなさい逃げる手段は常に確保、とお姉ちゃんはその日、畳み掛けるように不穏なアドバイスを山ほど授けてくれた。



 まあ、あれだ。私もうっすら気付いてはいた。うちの構造はなんかアホだと。

 私にも人並みに友達がいて、人並みにそれぞれの家のこととか話し合ってきたけれども、私ほど『私の将来』について親から何も言われない奴はいなかった。みんな、受験もうすぐでしょとか一人暮らしするなら簡単な料理くらい覚えなさいとか卒業後のためのことを言われていたようだったし、卒業式の晩に好きなメニューでお祝いしてもらったとか言うし、親の方から言って自動車学校に免許取りに行ったり、お母さんと町に出て化粧品を一揃い買ってもらったりしているみたいだった。

 私は卒業後どうするのとも出ていけとも言われなかったし、卒業式当日はあの通りだったし、特にお祝いなんかなくてただぷつりと女子高生の電源が切れて永遠にこれで終わりです、という感じ。お姉ちゃんが家を出て以来当然のように家事はやらされてきたからそのまま颯太とお父さんの世話係になり、免許取りに行ったら、とも言われず、このままうちのコンビニでいいのか、何かやりたいことでもあるなら、とも言われず、何の確認もされない。

 そういえば、私の進路を聞いてきたのは身内ではゆかり叔母さんだけだ。ゆかり叔母さんのとこのかけるはこの春、町の私立高校に合格した。私たちの行った地元バカ公立ではなく、外のそれなりの成績が必要な高校を受験する子は少ないのでご近所ではちょっと話題になり、うちのお母さんはピリピリしていたものだった。翔とうちの颯太は同い年だけど完全に頭の出来が違うから、生まれたときから何かと比べられるとお母さんは過敏になっているところがある。

 まあそれで、話は颯太や翔の受験よりずっと前、お正月に会った時だったか。咲良ちゃんは卒業後どうするの、とゆかり叔母さんが言ったらお母さんは食い気味にこう答えたのだ。


――何にも考えてないよ、暢気な子だから。うちのはみんな、翔ちゃんみたいなのとは違うからね。


 私が何を考えているか考えていないかについて、お母さんと話し合ったことは一度もない。だからお母さんは、私が何にも考えてないのかどうかを知るはずがない。

 結局どうでもいいということなのだろうな、と思う。

 私の中身のことはどうでもいいし、私には都合よく家の担当をさせたいんだろうな、と。

 お姉ちゃんの出産が終わってからお母さんは、母親教室で習ったパステルアートがすごく誉められて自分に向いてるから通信講座でインストラクターの資格を取って教えたい、癒しを与えることで人の役に立ちたい、とか言い始めており、お父さんに対して費用の交渉をしている。家事は咲良がいるしいいでしょ、と言って。

 勝手だなあ、と改めて思ってしまった。その費用って、どれくらいかかるの。もし私が進学していたとして、学費と比べてどっちが安いの?

 お姉ちゃんが、自分の人生を優先しろ、逃げる手段は常に確保、と言っていたのは多分正しいんだと思う。


 病院を出て、夕方になってもまださあさあと降る雨の中をバスに揺られて地元に帰る間、私は初めて、家族の要望よりも自分の要望を通す行動をするかどうか考えた。

 いいのかな。

 いいんじゃないか。

 そのくらい、ばちは当たらないのでは。

 ……ちょっと競合してみるか。



 地元に着いた私は自宅より先に店に寄ってお父さんに会い、ねえ考えたんだけど、と話しかける。


「何にしても不便だから、私、車の免許取った方がいい気がするんだけど。自動車学校に行きたい」


 ビニール傘の在庫を店頭に補充していたお父さんは、なんだかびっくりしたような顔で、ああ、そりゃそうだなあ、と言った。


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