終章

エピローグ

 半年ぶりの藍ヶ淵。強い日差しが焼き付けるように駅舎の黒く濃い影を描き出す。艶のある黒髪をポニーテールにした少女が、スーツケースを押しながら誰もいない改札に切符を投げ入れた。

「涼子―♪」

 出迎えてくれたのは高校の同級生。弓道部で全国大会まで一緒に行ったいわば戦友で、地元から離れた大学に通う今も長期休暇の度に顔を合わせている。

「久しぶり、元気そうだね」

「うん!涼子も相変わらず変わってないね~ちょっとは化粧でもしたら?」

「いいのよ、学校ではいっつもゴーグルなんだもの。眉を描く気も起きないわ」 

 二人で他愛もない話をしながら駅から商店街へ向かって歩いていく。藍ヶ淵は人口が減ることも増えることも無く横這いで、この辺りの田舎では子供の頃のままの活気を保っている珍しい街だった。

「あー懐かしいなあ」

 駄菓子屋の前で涼子が足を止める。

「これねー。店のばばがこれは芸術だって、頑なに消さなかったんだよね~」

 ばばの店はとっくの昔にもう潰れていて、シャッターが下りっぱなしになっている。

 二人が懐かしいねと言っているのは、煤けたシャッターに描かれた――いや、ぶちまけられたコバルトブルーの染みのことだった。

「結局主犯っていうか、最初に始めた奴は捕まらなかったんだっけ」

「そうそう。なんか失踪とかもあって、あの頃の藍ヶ淵ってやばかったよね……」

 そう言ってから、その友人はしまったというように顔を顰めた。涼子が気付かないふりをして「こわかったよね」とその気まずい空気をさらりと流す。

 涼子の兄が消えたのも、八年前のちょうどその頃だった。不思議なことに当時もそれほど騒ぎにならず、今では藍ヶ淵の住人達は兄の名前も、声も。形も、おぼろげな記憶でしか持ち得ていない。

 涼子も違わず記憶の不確かな者の一人だ。写真の一枚すら撮られていなかった兄は、客観的に見ても恵まれなかった人生を送ってきたのだろう。

 だが、涼子はどうしてかその喪失を哀しいと思っていなかった。家族の一員が消えたというのに、胸に浮かぶ感情はどちらかというと爽やかな気持ちですらある。しかし周りの者までそう思っているわけもなく、今の友人のような態度を取られる度に、本意ではない悲しみを装うのが常だったが。

 思えば、それが嫌になって涼子は藍ヶ淵を出たのかもしれない。

「あ、今日は行くところ決めてるんだ!」

 友人は話を変えると「素敵なカフェができたんだよ」と心底嬉しそうに涼子を誘ってきた。

「都会にはそんなのいっぱいあるかもしれないけど、藍ヶ淵にはやっと!なんだから!!」

 稀に見ぬ友人の強い主張に涼子は訝しむ。何だか前も「おしゃれな花屋ができた」だとか「変わった雑貨屋がある」だとか言ってた気がするのだが。まあ来るたびに話のネタになるような店があるのは良い事、と涼子は気を取り直して「わかったわかった、じゃあ行こう」と言うと、途端に友人は上機嫌だ。

 辿り着いたのは商店街から一本裏手に入った、農道に面した古民家だった。人が住まなくなったのをリノベーションしたのだろうか、入り口や障子は全て硝子張りの大きな開き戸になっており、採光が多いので明るく、それでいて落ち着いた気配が漂っている。

 鈍い光を放つ金属製の小さな看板には【No With Feed】と刻まれていた。

「ノゥウィズフィード――?んん?変な英語ね……餌、ではなく??なんだか挑戦的な店の名前。大丈夫なの?」

「そんなこといいのよー!!とりあえず、ここの店員さんが!超!超!皆かっこいいの~!!」

 明らかにコーヒーよりも、ケーキよりも、そのイケメンを楽しみにしているのが友人の瞳に浮かぶ輝きで伝わってくる。

 涼子が硝子の扉を押し開くと、カランカランと客を知らせる音が鳴った。見上げると、なぜか比与森神社にあるのと似た、真鍮製の鈴が、扉の上部に括りつけられている。

「いらっしゃいませー」

 廊下の向こうからゆっくりと歩いてくる人影がある。奥のフロアから、慌ただしい声がした。

「こら!だからつまみ食いするなーゆうてるねん!!」

「ちがうよう、あじみだよ」

「そういうことは、きちんとパフェの一つでも盛り付けられるようになってからなぁ……!!」

「あぁもう――こら!お客様が来てるんだから!!すいません。すぐ静かにさせますね」

 何度も頭を下げるのは、涼子より少し年下の少年だった。珍しい猩猩緋の髪が、モノトーンの給仕服に良く映えている。

「いえいいんです。そのままで」

 反射的に出た声に少年が顔を上げ、涼子を見て目を大きく瞬かせた。左右色違いのこれまた変わった瞳それぞれに、違う感情が浮かんですぐ消える。

 少年の背後から聞こえてくる声は、相変わらず喧しい。

 胸に溢れるこの感情はなんだろう。涼子は喉元まで込み上げてくる言葉を何とか形にしようと桜色の唇を開閉させるが、そこから声が紡がれることは無い。努力も虚しく、記憶も感情も、それを表す言葉は泡となって消えてしまった。

「では、お席にご案内いたしますね」

 少年が丁寧な物腰で、騒々しい奥のフロアへ二人を誘う。穏やかで柔和な顔つきは、人懐っこく面倒見が良さそうだった。その背を追いながら、涼子は何故か泣きたい気持ちになった。

 伝えたいこと、言いたいことはたくさんあるはずなのに。

 だけどそのすべてはぐるりと曲がって解されて、自分の中だけで輪になってぐるぐると巡っている。

 閉じ込められたこの想いは、涼子の心の外へ出られない。多分、一生。

「ノウィ、ポルカ!ほらお客様だよ!!」

 少年が手際よく自分より年上の授業員たちを叱咤して持ち場に戻している。その小さな背中を、いや自分より小さくなってしまった背中を見つめて、涼子はたった一粒涙を流した。

 内から出せないその全てを、その涙に籠めて。

頬を伝った一筋の心の発露の意味を分からぬまま拭い、そして涼子はにっこりと笑う。

「良いお店ですね」

 それは、胸のすくような幸せな喪失感だった。


                                  おわり

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