全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 15

「倖姫――まだうごける?」

「首から上ぐらいは――まあ溺死するのも時間の問題かな」

 倖姫の返事を聞いて、ノウィは力無く笑った。それから深く低く一呼吸して、ノウィは小さく口を開く。

「ねえ倖姫。俺を食べて」

 ノウィの提案に、倖姫が目を細め、声を出さずに笑った。

 神を食う。神に食べられる筈の胙が。

 食べる、食べられる。

 俺達は最後までなんて歪な関係なんだろう。

「なんだよそれ。逆だろ逆――」

「うん……だけど、そうすれば助かるかもしれない。倖姫は、助かりたくないかもしれないけど――俺はいちどでいいから、倖姫とじてんしゃで御焚山までいきたいんだ。みせたいものがあるの。夜になるときらきらして、きれい。きもちがきらきらに洗われてすいこまれて、ふしぎなきもちになるんだ」

 それはきっと、あの星空。幼かった二人を、抱きかかえ見せてくれたあの。

「――ノウィはさ、俺を食べたいの?俺と生きたいの?」

 不意に口をついたのは、ずっと聞きたかった問い掛け。

 ノウィは小首を傾げ答える。

「わからない。倖姫は、どっちだったらわらってくれる?」

 何故だか倖姫は肩の荷がぐっと下りたように感じていた。

 ああそうか、ノウィはこういう生き物なんだ。

「そうだな、それを考える時間が、まだ俺達には必要だ」

 倖姫は大きく口を開けて、ノウィの首筋に噛みついた。

 ノウィの背が大きくしなる。食いしばられた歯の隙間から、軋むような悲鳴が漏れ出た。

 倖姫の喉が大きく嚥下する。

 数秒の後に、倖姫の頭から、捻じれた枝のような角が生え始めた。その角が、銀の光を放って周囲を照らす。二人を濡らしていた墨が、銀の光の熱に乾いて、ぼろぼろと剥がれ落ちる。

 猩猩緋の髪が輝きながら長く伸び、長い睫毛に縁どられた瞼が持ち上げられる。暗紅色だった瞳が、ノウィと同じ青と緑色に染め上げられている。

 光の無い墨の海の中で、彼自身が光源となって世界を照らす。

「ノウィ、おいしかったよ。ありがとう」

 ノウィが張り付けられていた碇を、倖姫は手を添えるだけで破壊する。ばらばらになった碇が深海に沈んでいった。

 倖姫を中心に、密度のある光球が膨張し空気玉を内側から破裂させた。

「えぇ!?そんなハイパーな感じになっちまったのかよ!!」

 突然の光に驚いて駆け付けた法条が、神々しいまでに輝く倖姫の姿を見て仰天し、それから諦めたように笑った。

「そんな苦しそうに笑わないでくれよ」

 倖姫は思わず口をついてそう言っていた。その気持ちとは裏腹に、倖姫の身体は一足飛びに法条の眼前まで移動していた。腕をしならせ、必殺の一撃が法条の胸を貫く。倖姫の銀の角が強く光り、倖姫の腕が貫いた法条の胸から銀の根を深く張り巡らせる。

 吸い上げるのは彼を構成する墨だ。銀の根は法条の身体を覆い、その力を奪っていく。

 わかり合えるかもしれないが、決して共に生きていくことはできない。そんな事、お互いが分かり過ぎていた。

 冷静に自らの胸に埋まる腕を見つめながら、法条が薄い唇を開く。

「――なあ倖姫、どうやら魂は世を巡るらしい。もしあの世とこの世の境目を超えてそれが循環するんなら、次は――――――いや、やっぱりいいわ。今のナシ」

 中途半端に言葉を止めたと同時に、法条の身体は形を崩して墨の海に消えた。

真っ暗な墨の海の中、倖姫が灯台のように周囲を照らず。自分より何倍も大きい墨染の袖達が光に引き寄せられるかのように集まってくる。

「今しばらくは、向こう側に帰ってもらうよ」

 倖姫は目を閉じて深く息を吸い、吐き出すと共に周囲に光をばら撒いた。それに触れた墨染の袖達は次々とその形を失い、海の藻屑となって消えていく。

 光は墨の海の深くまで浸食し、殆ど潰れかけていたポルカの空気玉に巻き付く烏賊の足にまで届いた。崩壊する墨染の袖の間から、ポルカの入っている空気玉がゆるゆると頼りない動きで水面を目指して浮き上がる。

「ぼんくらー!倖姫ー!!」

 倖姫が浮上してくる空気玉を光の網で絡め捕る。そしてそのまま加速して自らと共に墨の海から勢いよく飛び出した。上空から見下ろすと、比与森家の周囲には未だ墨の海原が広がっている。

 倖姫の口から、自然と言葉が紡がれる。

「沈め、鎮まれ、静まれ、沈め。沁み出す藍よ、淵に沈め――」

 それは、神事で比与森家の者達が必死で口ずさんでいた祈りの言葉だった。

倖姫はその言葉に籠められた、切なる願いを、真摯な祈りを汲み取って、墨の海原へと放つ。

「沈め、鎮まれ、静まれ、沈め。御焚を噴き上げ、藍を枯らせ――――!!」

 倖姫自身の持つ胙としての――墨を浄化する力が、言葉と光を通してこの世に顕現する。

 眩いばかりの光が墨の海を照らし、溢れていた無数の墨染の袖と共にそれを蒸発させ、この世を浸蝕していた淀みを消していく。

 倖姫の銀の角が、まるで水を得た植物の様に大きく天に伸び生い茂る。

それに反比例するかのように、徐々に表出していた墨の海は小さくなり、やがて跡も残さずに消える。

 そして、藍ヶ淵に、静寂が戻った。

「やった……終わった」

 倖姫は乾いた地面に着地すると、そのまま膝をついてへたり込んだ。視界を邪魔する紅い髪を手で払って、その感触に動揺する。

「えっ?これ俺の髪!?なんでこんなに伸びてるの!?」

「立派な角もはえてんで」

 ポルカに悪戯に銀粉を散らす角を掴まれて「ぎゃぁぁぁっ!!」と倖姫は悲鳴を上げる。センサーでもある角に直接触れられる刺激は、雷に打たれたに等しい。

 ぱたり、と真っ白に力尽きて倖姫は倒れた。

「あれ、もしかしてこれで僕が最強ってこと??」

「あーほーどりぃー!!」

 ポルカの形の好い頭を林檎のように片手で持って、ノウィが空へと放り投げる。ボロボロの羽を器用に使って空中でバランスをとると、ノウィに向かって意地悪そうに笑いかける。

「その子、倖姫でもひいさまでもないんやて。そんなん言われて、どうすんの自分?」

 ノウィは黒い虹の残滓を撒き散らすポルカを真っ直ぐ見上げて、そして何てこと無い顔で微笑んだ。

「なにいってるの?いまの倖姫も、俺はだいすきだよ」

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