全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 14

――墨の海の底には、あの世しかないよ。

――騙されちゃ駄目。碇を、彼等はどこに降ろしたいの?

 はっとして倖姫は上空に目を向ける。

「上だ!碇は俺達の世界に船を繋ぎ止めるための物。底じゃなく浅い所にあるはずだ!」

 ポルカが弾を操作して弾を浮上させる。すると急に下から、何か長大なものが空気の玉を浮かせまいと絡み付いてきた。玉の内側にいくつもの丸い吸盤の跡が食い込んでくる。烏賊の足だ。

「当たりか!!上に行かせんつもりやね!」

 ポルカが強引に拘束を抜けようと玉の形状をぐにゃぐにゃと変えるが、圧着した吸盤のせいで中々外れない。

「あっ!」

 目を凝らして上空を見つめていた倖姫が声を上げた。

 きらりと、一瞬だけ金色の光が線香花火のように闇に弾け消えた。

「ノウィの角だ!!あそこに!!」

 必死で指差す先に、確かに光がある。ポルカの顔に決意の色が浮かんだ。

「倖姫!絶対ノウィを助けるんやで!!」

「え?」

 倖姫が振り向くよりも早く、ポルカが繋いでいた手を振り払う。同時に空気の玉が大きく震えて、二つに分かれた。

 さしもの烏賊の足も二つに分かれた球体を一瞬取り逃し、球体が少しの間束縛から逃れ自由になる。その隙をポルカは逃さなかった。

「いけぇぇ!!」

 ポルカの入っている方の空気玉が、倖姫の入っている空気の玉にぶつかり大きく突き上げた。

 際どく変形しながらも、隙間を抜けて、一気に倖姫の入った空気玉が浮上する。

「ポルカ!!」

 空気玉の内側に貼り付いて、倖姫がポルカの名を叫ぶ。だが、ポルカの空気の玉が続いて浮いてくる様子は無い。

「こっちに気を取られてるんちゃう!!上だけを見とき!!」

 ポルカのくぐもった怒号が倖姫まで届く。倖姫ははっとして顔を上げる。

 そうだ、これはポルカが命がけで作ってくれたチャンス。ここで失敗すればもう二度とノウィは帰ってこない。

 溢れる気持ちを堪えて、周囲に金の光を探す。すぐ近くでまた金の光が瞬いた。

玉を内側から蹴って、反動で光の方へと移動する。ぼこん、と空気玉が揺れる。固い物に当たった感触があった。恐る恐る内側から触れる。

 十字の碇――そして柔らかい、人の感触。

「ノウィ!!」

 ぐっと身体を押し付けると碇が半分球体の中に入りこんだ。それと同時に墨が碇と空気玉の隙間から侵入してくる。

 倖姫は構わずにノウィの顔を手で拭う。どろりとした墨の下から、ノウィの蒼白な顔が現れる。

「ノウィ、起きて!!」

 何度も頬を叩くと、薄く瞳が開かれた。闇の中に、宝石のように美しい蒼と翠の光が零れる。

「倖姫……」

 墨で汚れた白い髪を払い、倖姫がノウィの頭を抱き締めた。

「ノウィ、ありがとうな。今までいっぱい戦ってくれて。俺、ここまで来たよ……約束だろう?ほら、俺を食べて」

「なんだよ倖姫にしてはしつこいなぁー」

 突如、碇の後ろから飛び出してきた真っ黒な腕が、倖姫の首を掴み締め上げる。

「ぐっ!?」

 倖姫が仰け反って首を掻き毟るが、掴んだ手がぐいぐいとそのまま力を籠めてくる。

「素直に逃げてくれれば良かったのによ~~俺は悲しいぜぇ」

 法条が隠れていた碇の裏から顔を出した。苦痛に顔を歪める倖姫に、眉を下げて言葉を続ける。

「生まれた時から生き方が決まっちまう。俺もお前もそれを憎んでたよな?」

「あぁ――自転車屋なんて継がねえっていつも言ってたな、おまえ」

 脂汗を浮かべて唇を歪める倖姫に、法条が初めて寂しそうに笑った。

「そうだったらどれだけよかったろうな――だからこそ、お前だけでもって思ったのに。でももういいよ。死んでくれ」

「それは残念っ――だったね!!」

 倖姫は首を掻き毟っていた手を、ノウィの口に突っ込んだ。

「ノウィ!」

 ノウィが再び意識を取り戻す。馬蹄のように綺麗に並んだ臼歯に何かが当たっている。

「噛み切れ!お願いだ!」

 朦朧とする意識が、お願い、という単語だけを明瞭に掬い取る。

「……うん」

 整然と並んだ上の歯列が、断頭台のように落ちた。

 だが、覚悟した痛みは訪れることは無かった。弱り切ったノウィには、もう胙を食む力も残っていなかったのだ。

「吃驚させるなよー」

 法条に引っぱられ、倖姫の手がずるりとノウィの口から抜け落ちる。倖姫はそのまま締め上げられて窒息し、やがて意識が途切れ、両手をだらりと垂らして動きを止めた。

 法条が腕を緩めると、ずるりと力無く倖姫は碇に張り付けられたノウィの身体にしな垂れ掛かる。倖姫を海底に棄てようと法条が肩に手をかけたが、何かを思案するような顔をして、手を離す。

「……そうだな。せめて二人で、ずっと一緒にいろよ」

 法条が碇から離れる。もう放っておいても碇はあの世とこの世を固定して繋ぎ留める。そうすれば後は碇を辿って漆黒船がこの世側に上陸するだけだ。

 空気玉に埋まった碇は、ゆっくりと浮上を続ける。空気玉の中は殆ど墨に満たされていて、もう倖姫の首から上しか見えていない。倖姫が微かに呻く、それに反応してノウィが睫毛を震わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る