全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 12
法条は碇に張り付けられたノウィの頭を撫でる。するとさっきまで粘土のようにノウィを包んでいた墨が半分ほど流れて、白い髪と肌が墨の間から覗いた。頭から生えた金の角は、その殆どが真っ黒に染まっている。
「藍ヶ淵の大神。二千年もの間俺達が狙い続けた依代だよ。闘争意識も低くて墨染の袖を倒そうともしない。たとえ倒しても胙なんていう人間との互助によってすぐに墨の穢れは浄化されちまう。それでもこの国の中で一番落としやすい立地だったから諦めきれず、俺達は必死で考えたよ。どうしたら大神を碇にすることができるかってな」
そして倖姫を法条が指差した。
「前回の顛末で俺達は気付いた。大神を穢す最大の障害が胙であると同時に、最大の弱点が胙でもあると。大神は愛する胙のために墨を被る、そしてその穢れは胙が自身の血肉で贖う。そのサイクルを阻めば――大神を墨で侵して俺達のものにできるはずだって」
「だから、俺に近づいたのか?」
「そうだ。大事なのは大神の心じゃあない。胙の心の在り方だ。人から虐げられている倖姫がその身を捧げてまで敵を倒すようにはとても見えなかったから――俺が、体を張ってそう思えるように背中を押してやったんだぜ?」
法条の得意気な顔に、風の刃が刺さる。だがそのまま法条はしゃべり続ける。。
「で、いい感じに大神が穢れてきたところで愚かな人間達が、やれ神事だの胙を捧げよだとのたまって倖姫を大神から引き離す。これも、俺が体を張って人間の犠牲者になったおかげだな」
「なるほど……今回の墨染の袖は、一味も二味も違うってことやね」
「そーゆうこと」
法条はまったく普段と変わらない調子で会話を続けている。倖姫は頭がおかしくなりそうだった。
ただ、墨染の袖が自分達を凌駕し、今危機的な状況に陥っている――いや、手遅れになりつつあるということだけは理解できた。
「ノウィ!!起きろ、ノウィ!!」
倖姫が怒鳴るとノウィの眉がピクリと動く。薄く開かれた青い瞳が、僅かに像を結んで倖姫を捉えた。
「こう……き」「あーだめだめ」
ノウィの顔をべったりと墨が覆う。苦しそうにノウィが痙攣した。
「ノウィ!!」
悲鳴を上げる倖姫に向かって、法条がすまなそうに頭を下げた。
「ごめんな倖姫。もう諦めて?逃げる時間はやるからよ――俺とお前は似た者同士だ」
親愛の情を浮かべて、法条が笑いかける。
「お前のこと、結構気に入ってたんだぜ?――なあそこの烏天狗。お前ならこいつを連れて逃げられるだろう。欲しいんだろ?ひいさまがさ」
「……せやな」
「なら話は決まりだ。じゃあ、残りの人生位は幸せに生きろよ?」
法条がそう言うと手を振って碇と共に墨の海に沈んでいく。
「なあ、どうすればいい!?」
倖姫がポルカに縋りつく。
「どうすれば俺をノウィに食べさせることができる??そうすれば穢れが祓われて、碇からあいつを解放することができるんだろ?頼むよ!俺を」
「……僕の気持ちなんて、ホンマにお構いなしなんやね」
ポルカが口の端を歪めた。倖姫が両手でポルカの胸ぐらを掴む。
「ポルカ、俺を見てくれ!!俺は、俺だ!あの頃の倖姫でも蘇皇でもない。どちらでもあるけど、もうどちらでもない。残酷だってわかってる。だけど、これが俺の意志なんだ」
至近距離で覗く黒いプリズムの瞳は、お互いの複雑な感情を反射して宝石のように輝いていた。
「……ノウィが見てるんは僕と同じ亡霊よ。昔の倖姫なんやで」
必殺の重みをもたせて、ポルカが囁く。しかし倖姫の瞳は全く揺らがない。
「今のノウィをあんな風にしたのは、今の俺だよ」
「……せやね、そーやね!!ようわかりました!」
ポルカが急に両手を上げて降参のポーズをとった。
「千三百年かかってやっと失恋できたわ。あーすっきりした!」
そう言って大きく体を伸ばすと。ポルカが倖姫に手を差し出した。
「連れてったる。墨の海の底までな」
倖姫が手を握ると、ふわりと風の球体が二人を包み込んだ。
「これは……」
「空気の玉やよ。これで潜ればしばらくは呼吸もできるし、墨も入ってこれへん。やったことないからどんくらいもつかわからへんけどな」
「行って」
倖姫は間髪入れずにそう言った。ポルカは苦笑して「出発進行―」と空気の玉を目の前に波打つ墨の海へと沈める。
海中は全く光の無い場所だった。蠢く墨染の袖の存在はそこかしこに感じるが、その姿は墨の海に同化して全く見えない。かろうじて球体の中のポルカと自分の影が暗がりの中感じられる程度だ。
どんっと、空気玉に衝撃が走る。ぼよんと球が内側にへこみ、また元の形に戻る。尚も衝撃が球体を揺らす。
「攻撃されてるのか!?」
「くっそ、邪魔するなや!!」
ポルカの声と共に雲丹のような無数の棘が、球体の外側に突き出した。何匹かの墨染の袖を貫く振動。ポルカは棘を引っ込めると、玉の沈む速度を加速させる。
「きっつ――――!!」
深くなるにつれて墨の圧も増すのか、繋ぐポルカの手に汗が滲む。
「どこにおんねん」
無作為に玉の進む方向を変えているようだが、ノウィは見つからない。倖姫も周囲に目を走らせるが、そもそも光を通さない漆黒の墨の中で、目視で探すことに無理がある。
「ノウィ――ノウィ――」
倖姫は祈るように目を閉じて神経を尖らせる。その時、耳元で声が聞こえた。
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