全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 11
「僕には――ひいさまが一番やったんだ」
ポルカは大きく羽ばたく。比与森家が視界に入ると倖姫は目を見開いた。
外壁の周囲が真っ黒に染まっている。墨が溢れてあの世とこの世の境が無くなりつつあるのだ。墨染の袖達がうようよとそこから浮き上がり、まるで地獄絵図のようだ。
「だから、あの時嘘をついて、ひいさまが生き延びられる道を作った。後悔はしてへん」
「わかってるよポルカ」
「ずっとずっと待ってたんや。ひいさまにもう一度会える日を。それがこんな形になるなんて、思って無かったんよ」
ポルカと倖姫は墨の海から少し離れたところに降りる。
「ノウィ!!」
ノウィの姿を探すが、見当たらない。倖姫は墨の中を探そうと突っ込むが、「あかんて!!」とポルカが羽交い絞めにしてそれを止める。
「ノウィ――――!!」
倖姫の叫び声に、呼応するようにぼこり、と大きな泡が目の前に上がった。
ずるずると何かが浮き上がってくる。それは大きな十字の形をした碇と、二つの人物だった。一人は十字の部分に人が張り付けられており、一人はそれに寄り掛かっている。
粘度を増した墨がその輪郭を隠していたが、倖姫には張り付けられている方がノウィだとすぐに判った。
「ノウィ!!」
ノウィが微かに顎を動かす。だが体表を分厚く覆う墨のせいで僅かな凹凸しか判別することができない。
「遅かったな」
その声に聞き覚えがあった。倖姫が信じられないものを見るように、もう一人の人物に視線を合わせる。するすると墨が流れ落ち、その姿が露わになった。
「法条……!?」
法条は倖姫と死に別れたその時の姿そのままに目の前に存在していた。破れた制服までまったく同じ。
理解が追い付かない倖姫の目の前で、法条が高らかに、朗らかに、場違いなほど快活に笑う。
「全部ぜーんぶ俺の思い通り!!ハハハハハ!!」
「なんで……」
驚愕する倖姫に向かって、学校で向けていたのと同じ笑顔を友人だったものが浮かべる。
「俺は法条瑛士。自転車屋の息子で、且つこの藍ヶ淵に漆黒船を召喚する為に遣わされた墨染の袖だ」
言葉と共に法条の身体を真っ黒な墨の波が包み込み、数秒の後に引いていく。そこにはあるのは、先ほどまでの無残に破れた制服ではなく、闇よりも濃い黒の法衣。長い袖を振ると、布というより液体じみた動きでゆるりと揺れた。
「嘘だ!法条が化け物の筈なんてない!だって……友達だったんだ!お前は偽物だ!!法条の身体を乗っ取ってるんだろ!?」
「そんな阿呆な……あんさんからは人間の匂いしかせえへんかったんに……」
信じられないというように凝視してくるポルカに「照れるだろ」と法条はふざけて返し、不敵に笑う。
「薄皮一枚のところでばれなかったみたいだな」
法条が法衣の前を肌蹴させると、蟹鋏に挟まれ大きく抉れた腹の傷が露わになった。傷口からは真っ黒な墨がだくだくと溢れ、二つに分かれた身体を繋いでいる。
「あの時はお前の服にも俺の血――いや墨がついてひやっとしたぜ。幸い倖姫の服が黒だったし、蟹鋏の墨と混じってたのもあったから騙し通せてたみたいだな」
「本当――なのか?本当にあの時から法条は敵だったのか?」
「あーまどろっこしいなあ!最初っからだ!徹頭徹尾、俺は生まれた時から墨染の袖なんだよ!親はただの人間だけどな。母体の胎内で人の皮一枚を残してこの体に入れ替わったんだよ。十六年前、藍ヶ淵で奇形児出産が相次いだ時、化学工場の廃液による汚染だとか言われてただろ?実際は墨染の袖が羊水から胎児に侵入しようとした影響だ。流石に強引だったのか、俺一人しか成功はしなかったがな――ああ、後お前の妹は母親の腹の中で溶けたらしいぜ?お前を墨から守るための、膜になったんだ」
生まれてこなかった女の子。自分の片割れ。
胎盤が変形していたと浅葱病院の先生は言っていた。その意味をやっと理解する。
生まれてこなかった女の子。
敵の手に落ちる事を拒み、別たれて生まれることを拒み。
守ることを選び、消えることを選んだ。
「……そして魂だけが胎内に残り、俺と同化した。寄り添うように、小さな欠片となって」
「そこまで理解してるのか。ついこの間まで、自分は何にも知りませんって顔してたのにな!話が早くて助かるぜ!!」
両手を広げて自らの存在を誇示するように笑う法条。
「俺の目的はただ一つ、あっち側で増えすぎて圧死しそうな同胞たちをこの世に招き入れる事だ。人間達が宇宙に夢を馳せるのと同じさ。さあ行こう宇宙船漆黒号ってな!」
「なぜ、人に危害を加えるんだ?」
「人の血は、墨の海と成分的に近いんだよ。だから惹かれる。俺達は墨の海でしか生きられない。こちら側に漆黒船で乗り入れた後は人の血が必要だ――安心してくれよそういう意味では、俺達は人間を滅ぼしたりすることは無いよ」
法条はこう言っているのだ。人間達すべてに、胙となれ、と。
「――悪いな倖姫。ずっと見てたんだ。興味深かった。人は、人を食い物にして助かろうとする。だから、真似してお前を利用させてもらったよ。血肉から、骨の髄まで」
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