全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 10

 ポルカは語る。一三〇〇年前のあの日に起こったことを。

「あの時は二つの問題があった。ひとつは、ぼんくらが墨染の袖を倒し過ぎて穢れてしまっていたこと。そしてもうひとつは、村人達が暴走して猩猩緋の仔を殺そうとしていたことや」

 ポルカの背にしがみつきながら、倖姫はその独白を静かに聞く。


 忘れもしない、あの冬の夜。

ヒトデの墨染の袖の急襲で逸れてしまった双子を探して、ポルカは飛び回っていた。

「どけやっ!」

 対空線上に並ぶ墨染めの袖を極彩色の黒羽で切り裂き、撒き散らされた墨を浴びながらポルカは必死で蘇皇と倖姫の姿を探すが、見つからない。

 木々の間を縫うように翔ける。そして見つけた、大きな木の幹に寄り添う二人の子供の姿を。

其処は村から遠い森の端で、すぐ横には街道が敷かれている。隣の宿場町まで連れて行けば墨染めの袖の脅威からも逃れられる。

「ひいさま!」

 ポルカは二人の近くに舞い降りた。発見できた事で安堵の息を吐きながら、ポルカは二人に笑いかけようとして、そして顔を凍りつかせた。

「ぽるか……」

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、蘇皇が懸命に小さな両手で倖姫の腹を押さえている。鈴懸は今や血でぐっしょりと塗れていて、蒼白な倖姫の顔がその命が終わりを迎えつつあることを告げていた。

「倖姫が、倖姫が私を庇って……」

 ぽろぽろと涙を零しながら蘇皇が顔を真っ赤にして説明する。村人に追い立てられ森に隠れていたところを、倖姫が助けに来てくれた。

倖姫の姿に安心して出て来たところを墨染の袖に見つかり、蘇皇を庇って倖姫が墨染めの袖に腹を裂かれたのだと。

「どうしましょう、どうしましょうぽるか……」

 蘇皇はがたがたを体を震わせながら、倖姫の出血を止めようとする手だけは離さない。

 まずい。ポルカは安心させるように出来るだけの笑顔を作りながら状況を整理する。

今頃墨染めの袖はノウィの手によって数を減らされている筈だ。襲われる可能性が少なくなり、余裕の出来た村人は何をするか。

 胙の捜索だ。

 この災厄は胙が正しく捧げられなかったことが原因だと彼等は思っているようだった。二度と同じことが起こらないよう、血眼になって彼等は蘇皇を捕らえようするに違いない。隣町まで逃がしたとして、すぐに連れ戻されるだろう。

 そして、目の前で死に絶えつつある倖姫。しかも、助かる見込みの無い状態だ。

「ひいさま、大丈夫やからそないに泣かんといて」

 周囲に村人の姿が無いか鋭い目で一瞥しながら、あくまで柔らかな物腰で蘇皇を倖姫から引き剥がそうとする。

「やだぁあああぁぁぁぁぁ!!」

 一層蘇皇の泣き声が高くなった。慌てたポルカは蘇皇の口を手で覆う。

どうしよう、どうすればいい。ポルカが絶望的な気持ちで視線を彷徨わせた時、不意に倖姫の空ろな瞳とぶつかった。

僅かに、その瞳が細まった。全て分かっているのだというように。

「蘇皇……落ち着いて」

 倖姫が青く変色した唇で言葉を紡ぐ。細波すら立たないような小さな声で。蘇皇がぴたりと泣き止んだ。ポルカは息を呑む。

「蘇皇、お前は走って街道から隣町に……いや、もっと……遠くに逃げるんだ」

 そう言って木々の間を指す。血液の巡っていない指はぶるぶると痙攣していた。

「倖姫は!?私は倖姫が居ないと嫌なの!」

 嗚咽交じりの我儘に、なんとか苦笑にも似た表情を倖姫は作った。

「ちゃんと……追いかけるに決まってる……だろ。なあポルカ……っ、お前が運んでくれるよな?」

 同意を求められて、ポルカは何度も頷いた。彼の嘘を肯定して塗り重ねることで、真実になれと祈るように。

「本当に?」

「……あぁ」

 はらはらと涙を零しながら蘇皇の血まみれの両手が倖姫の冷たい頬を包む。

「約束よ倖姫。あぁ本当に、何故私達は別たれて生まれてきてしまったんでしょう。不安でしょうがないの。私は、倖姫と一つで生まれたかった……」

「俺は違うよ蘇皇。きっと一人で生まれてきたら、お前のこの手の温かさも、声の優しさも知る事ができなくて――それは寂しくて寂しくて、やっぱり悲しいことだと思うんだ」

「私は……そうは思わないわ……」

 そっと、倖姫から手を離し蘇皇は立ち上がった。

「待っています倖姫。ぽるか、何卒倖姫をお願いします」

 深々と頭を垂れる蘇皇。

「勿論や」

 今生の別れだ。そうポルカは思った。だって倖姫は助からない。それでどの面下げて蘇皇の前に現れる事ができるのか。

募り続けていた想いを伝えたかったが、ここで蘇皇に疑われるような事は決して言えない。

「ひいさま、これをどうぞ」

 ポルカは自分が持っていた金目の装飾品を全て蘇皇に持たせた。蘇皇は賢い、上手く立ち回り生きていくだろう。

「有難う。釣り合わないですが、私もこれを」

 蘇皇は素直にそれを受け取り、代わりに自分が身に着けていた耳飾りを差し出した。

「それでは、ずっと、待っていますから」

 名残惜しそうに何度か振り返りつつ、蘇皇は木立の間から街道へと駆けていった。

残された倖姫とポルカは、安心と同時に溜め息を付いて、そして顔を見合わせて微かに笑った。

「倖姫、ほんまにすまんな」

「ぽるかこそ、嫌な役を押し付けてごめん」

 息も絶え絶えの様子で尚、倖姫はポルカに気を遣う。

「早く……村の皆が来る前に」

「ああ」

 ポルカは倖姫を抱き上げた。次第に弱くなっていく鼓動。

「のうぃにも、謝らないといけないな」

 僕を、食べる代わりに戦うって約束だったのに。目を閉じて倖姫が掠れる声で告げた。

「気にせんといてください。倖姫が恨まれるような事には絶対しません」

「……別に、いいのに」

 もう眠いのだというような、まどろむような声。

 生まれた時から胙として育てられ、人によって化け物に宛がわれ、人に追われ、化け物に腹を裂かれ、最期には化け物に食われるだけの人の形を成したもの。

 そんな彼が今、静かに息を引き取ろうとしている。

「ぽるか……この世は、なかなか生き難いね……俺は…………上手くできなかったよ」

「倖姫……」

 そう言って涙を一筋零した彼をポルカは抱き締める事しかできなかった。倖姫は微かに力なく垂れ下がっていた両手を動かす。そこには居ない相手を探して。

「ごめんねのうぃ……ごめんね、食べさせてやれなくて」

「もうええよ、もうええんよ……つらいんは全部終わりや」

「ごめんな……俺の願いを聞いてくれたのに……戦ってくれたのに」

 夢うつつに繰り返し呟かれる。

「もうええんです!……そんな僕らみたいな化けもんに謝らんといて……ひいさまも倖姫も、次はきっと幸せになれる」

 そう言って化け物に謝って死んでいく彼を、ただ抱き締める事しかポルカにはできない。

静かに息を引き取った倖姫を、腕と首を残して泣きながらポルカは食べた。

 残した倖姫の首を抱いて飛び、ポルカはそっと村から程近い場所に置いた。

 倖姫のその耳には、蘇皇から貰い受けた耳飾りが光っていた。

 全く同じ顔、長い睫、すっと伸びた柳眉。暗紅色の瞳。猩猩緋の髪。

 それはもう、蘇皇の首となっていた。

 これを見つけた村人たちは、蘇皇の首を得たと思って、なんらかの自己満足的な儀式を行うだろう。元々倖姫は補充的な位置づけて用意された胙だから、あえて残った胙に固執することは無いはずだ。

 最後にノウィが見つけやすいように倖姫の腕を置いて、ポルカは藍ヶ淵を離れた。

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