全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 09

 暗い、黒い、昏い。墨に塗れながら、ノウィは墨染の袖と戦い続けていた。もう金の角の半分以上が黒ずんで変色している。

ウミウシの墨染の袖がノウィの身体に十匹以上張付く。それを手で剥がし潰しながら捨てていく。

「じゃま――じゃま――」

剥がすことに気を取られて、鯨型の大きな墨染の袖にノウィは飲み込まれる。

「じゃま」

 その大きな腹を裂いて、ノウィが中から這い出てきた。全身真っ黒に染まり、角がまた墨を吸い上げる。

「しつこいなぁ……」

だんだんとノウィの動きが鈍くなり、足元がふらつきだしてくる。

大型のタコを模した墨染の袖が、押し潰すようにノウィに絡み付き、墨の海に引きずり込んだ。ノウィはもがいて墨の海から出ようとするが、水面下で手ぐすねを引いて待っていた墨染の袖達が大挙してノウィに群がりそれを阻む。

『倖姫……』

やがて、もがくノウィの腕がだらりと浮き。抵抗が無くなった。

 その姿を、墨の海の中で満足そうに見つめる瞳があった。


 ********************


 村に蔓延っていた墨染の袖を粗方斃してから、ノウィは倖姫と蘇皇を探していた。木立の間を歩き回り、藪の中に幾つかの墨の跡を見つけて眉をひそめる。

「こうきーすおうーあほうどりー」

 うろうろと墨の跡を跨ぎ三人をさがす。

「ん」

墨の跡に混じって血痕があるのを見つけ、ノウィはくんくんと地面に落ちた血の匂いを嗅いだ。

「……倖姫」

 そっと地面から顔を離すと、転々と土を汚す血痕に沿って歩き出す。

「倖姫、俺ちゃんとたおしたよ。倖姫がまもりたかったものをまもったよ」

 その背は、温かな家に必死で帰ろうとする幼子のように見えた。追いかける血痕に、ノウィの身体から流れた真新しい血が混じる。

ノウィも満身創痍だった。這うように木々を分け入って進んだ先に、二畳ほど開けた場所があって、そこに倖姫は転がっていた。

土の上に転がる、白く細い、倖姫の左腕だけが。

「あぁ、倖姫だ」

 ノウィは這って倖姫に近づいた。手を伸ばそうとしたが、腕は微かに揺れただけだった。

「ん―――?」

 千切れかけた肩からは滝のように血が流れて、深く切れた右瞼は血で固まって開かなくなっている。ノウィは残った緑の左目で、じいっと倖姫を見つめる。

「倖姫。おきて」

ノウィは鼻先を倖姫の腕へ近づける。虚ろな匂い。心が乾いていく。

「ねー倖姫ーおきてーおきてよぉ」

 何度も倖姫の腕を揺するが、丸太のように倖姫は転がるばかりだった。

 ノウィには倖姫が死んでいることがまだ理解できていなかった。

悲しいほどに、ノウィは化け物だった。

彼にとって胙は血肉。魂はそこに付属するものであり、姿形がどうなろうとも、そこに魂は残ると思っていたのだ。

「たべちゃうよ。たべちゃうよー」

 おどかすようにノウィは口を大きく開けて倖姫に噛み付いた。肉に歯を立てると、まだ柔らかった。顎に力を込めると、じんわりと血の味が口内に広がる。

 命の抜けた、鉄の味がした。

 そこまできてノウィはやっと、倖姫の魂が此処にないことを理解した。

 だから食べた。もう倖姫はいなくなったのだと理解して。

 倖姫を食べたことで体が軽くなった。それは墨の毒が中和されたことによるものだったが、ノウィにはそれすらも理解できていなかった。

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