全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 08
ポルカは倖姫の着物を動けるように着付け直してその手を取った。
「ひいさま、麓は今、墨染の袖で溢れ返ってる」
「なんだって!?」
「凄い数や。あいつらは本気で藍ヶ淵を落としにかかってる」
倖姫は顔を蒼白にしてポルカに縋りついた。
「ポルカ頼む、俺を降ろしてくれ!!ノウィが戦うには、胙の俺がいるんだろう?」
「落ち着いてやひいさま!ひいさまは勘違いしてる」
ポルカは至近距離で倖姫の目を覗き込む。
「まず、ぼんくらが力を行使するのに、ひいさまの血肉はいらんのや。ひいさまの血肉には、もっと別の意味がある」
「え……?」
ずくり、と腕が、肩が、体中の治りかけの傷が鈍い痛みを伝えてくる。
「それは、解毒や」
「解毒……?」
意味が分からずに鸚鵡返しする倖姫に、ポルカは言葉を続ける。
「僕等が墨染めの袖と戦う時に一等怖いんは、あいつらが撒き散らす墨なんや。あいつらは簡単に千切れるし弾け飛ぶ。そしてその時必ず袖に溜め込まれた墨を周囲に撒き散らす」
それは何度も戦いを傍で見ていた倖姫も知っていた。気味の悪い黒い血を全身に浴びながらノウィは敵を倒していた。
あの墨が、毒だった?
「戦った後、ぼんくらにかかった墨がどうなったか覚えてる?」
「いや……てっきりノウィが自分で洗うか拭くかしてたんだと」
だがよく考えればそんな素振りを倖姫は一度も見ていない。気付いたら綺麗になっていた、と言うしかない。
「被った毒は僕等の身体に染みこんで穢れとしてを蓄積させる。それを浄化してくれるんがひいさまの血肉の力なんや。だからぼんくらはひいさまを、本能で食らおうとする」
「じゃあ、俺の血肉を摂らずに墨の毒にあてられたら……?」
「ちょっとの毒なら時間さえ掛ければ自浄させられる。せやけど、今回は話が違う」
「どういう事?」
「向こうが打ってきた布石が、此処まで来て全部活きだしたんや。胸糞悪いことにな。短期間に墨染の袖を大量に倒し殺し続けたから、ここら一帯の土地自体はもう墨の毒でたぷたぷなんよ――京やったら僕等が調整して場の均衡を崩さないようにしてる」
「要は、人間を見殺しにするってことか」
「人間は増えすぎやねん。昔やったら人間自体の数も少なかったから墨染の袖の出現も少なかった。それが今やどこの土地にも人はうようよと蠢いとる」
ポルカは肩を竦めた。それに合わせて何枚か羽が舞う。
「ぼんくらはそういう考えは持ち合わせてへん。だから、ひいさまが願えば喜んであいつ等を殺した」
そうだ、何も分からないまま目の前で殺されそうになる命を見咎め、ノウィに願ったのが始まりだった。そして、友人が殺されたことで後に引けなくなった。
結果、倖姫はノウィに確かに願った。あいつらを皆殺しにしろと。
ノウィはただ頷いて、その代わりに倖姫から少しの血肉を受け取って戦っていたのだ。自身を侵そうとする漆黒の毒に塗れながら。
「藍ヶ淵が――ノウィが墨の毒で汚染されたら、どうなってしまうんだ?」
倖姫の声は震えていた。良かれと思ってやっていたことが、災厄に繋がりつつあると倖姫は理解し始めていた。
「――此処は今、海原になりつつある。彼奴等が袖に染み込ませて持ち込んだ、墨で作られた海にな。そしてその海は、この世ではない処からの船を乗り入れさせる港になる」
「船?」
「漆黒(しっこく)船(せん)。今だこの世に顕現した事のない、あいつらの侵略機や。そこにはこの世を襲いたくてうずうずしている数万の墨染めの袖、いやそれ以上の闇の者達が乗っている」
「そんな……」
「もともと藍ヶ淵は墨が溜まり易い場で有名やったんや。しかもあいつ等は僕等みたいな化けもんを狙ってる。だからぼんくら以外の化け物はそもそも此処に近づかんようにしててん」
「ポルカ達を狙う?」
「せや、ここで話はぼんくらの事に戻る。墨染の袖の本当の目的は、本丸の漆黒船でこっちに乗り付けるために力ある化け物を僕等に墨を浴びせて毒で侵して、この世とあの世を繋ぐ媒介にすることなんや」
ポルカは胸に手を当てて、真っ直ぐに倖姫を見た。
「漆黒船を繋ぎ止める、碇としてな」
倖姫は目を見開いた。
「じゃあ墨染の袖は今、ノウィを碇にしようと狙っているのか?」
「そうや――もうここまできたら、ひいさまを食べさせるしかない。せやけど……」
なぜそんなにつらそうな顔をするのか、倖姫は不思議だった。
「わかってるよポルカ。これは、俺が始めたから起きたことだ。何もおかしくない――だから、ノウィの所に連れて行ってほしいんだ」
ポルカは子供のように首を振る。自分で提示した解決案を、彼自身が受け入れられない。
「いやや――僕は、もうひいさまを失いたくないんや……」
「ポルカ。落ち着いて」
頭を抱えて、ポルカは狼狽える。
「なんでここまできて、やっともう一度チャンスが与えられたっていうのに……」
「ポルカ。落ち着いて、俺を見て」
繋いでいた手を、倖姫は自分の心臓の上に重ねた。ゆっくりと上下する鼓動を掌に感じているうちに、ポルカの瞳が見開かれる。
「――ひいさま?」
「うん、ちゃんと気づいたんだ。俺達は、ずっと傍にいた。幸せだった。俺達は、隔たりさえ意識しないほどに均一で、調和していたんだ。孤独だと錯覚するくらいに」
ポルカの掌が倖姫の心臓を掴んだ。
「蘇皇のあの日の悲願は、もう叶っていたんだ」
「ひいさま――――!!」
泣き出す寸前の顔を隠すように、ポルカが倖姫を抱き締めた。気の遠くなるような時間その細い両肩に負っていた大きな罪を、やっと下ろせたかのように。
「わかってるよポルカ。あの時一番苦しんだのはポルカだったよね――あの時俺を食べた、ポルカが」
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