全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 07

そうか――あの時俺は――

 一定のリズムを刻む震動。奇妙な浮遊感。

思考が霞む、躰は動かない。小さな穴が眼前で揺れる。

 見慣れた視界。胙の正装。極彩色の着物が倖姫の身体を戒めているに違いない。だが覗き穴の向こうに見えるのは何時もの本殿の天井ではない。

「ここは……外?」

 緑の木々と、空が見えた。ゴトン、と体が揺れる。車や電車ではない。

「ロープウェイか――」

「そうだ。良くわかったな」

 護の声がした。その他にも数名の人間の気配がする。

「ノウィ、ポルカ?」

「二人には家で待っていてもらっているわ。これから大切な儀式があるのよ」

怜子の声のトーンから、二匹の化け物による幻覚が既に解けていることを倖姫は悟る。

「登山客はいないんですか?」

「今日は朝から噴火の兆しがありということで、入山規制をしている」

 倖姫が戯れに問うと、膠も無く返された。

御焚山を麓から八合目まで一気に輸送するロープウェイは藍ヶ淵で唯一観光客に人気のスポットだ。

狭い搬器の中に着物で簀巻きにされた自分と、儀式の衣装を着た人間が押し込まれている姿を想像すると少し滑稽で、倖姫は仮面の下で小さく笑った。

「ねえ玲子さん。おれ、双子だったんだってね」

「……どこでそれを?」

「なんで、お墓参りの一つもさせてくれなかったんですか」

 前世の記憶を呼び起こされたことで、倖姫にとってその双子の片割れは、産まれてこなかった赤子の一人ではなく、泣き、笑い、共に御焚山で生きた蘇皇に置き換わっていた。

だからこそ、その存在を隠されていたことに憤りを感じていた。

「――消えたのよ」

 玲子のその声は、悪意ではなく恐怖が滲んでいた。

「累さんの大きなお腹からは、一人の赤子しか出てこなかった。エコー検査でも、心音確認でも確かに双子だってわかっていたのに、もう一人の赤子は、累さんのお腹の中で消えてしまった」

「は――――?」

 間の抜けた声を発して、倖姫は驚いていた。信じられない。だがその場の誰も息を吹いて嘲笑ったり、どよめいたりしない。ただただ重たい沈黙だけが、その事柄を真として受け入れ、呑み込む。

「一人産まれてきた貴方の髪が、猩々緋であったという事で、藍ヶ淵は大騒ぎになった。只でさえ奇形での流産が増えていた頃で、みなこの地に災いが起こっていると信じ始めていたから。そのせいでしょうね。わが子の危険を感じた累さんは、信じられないことに出産して数日で貴方を連れて病院から逃げ出したの」

 だから、絶対に母は帰省しようとしなかったのか。倖姫を守るために。

「だが、最後には胙は藍ヶ淵に戻ったのだ――到着した先に、御焚山の大神の神籬がある。これから正式な神事をそこで執り行う」

徹底して儀式を推し進めようとする護の意志には倖姫も脱帽するしかない。

「涼子、お前もいるのか?」

 かたりと音がした。どうやら同行しているらしい。

「倖兄――私は使命を果たすわ」

 緊張で雁字搦めになった硬質な声。彼女も記憶の改竄から解放されて、元の状態に戻ったのだろうか。

 数分もしないうちにロープウェイは八合目に到着し、倖姫は神輿に担がれ運ばれていく。

着いたのは小さな社だった。社の中には小さな祭壇があり、そこに倖姫は下ろされた。

数人の巫女と神職者達が灯りを灯し社を手早く清めていく。その間、横たえられた倖姫の側に涼子は座りじっとしていた。そして周りの者の目を掻い潜るように、倖姫の耳元でそっと囁いた。

「私は祝(はふ)り――猩猩緋の仔を屠る(ほふる)ために育てられた巫女。ねえ倖兄、私は何度あなたを殺したのかな――?」

「……涼子――大丈夫か?」

 涼子の思いつめた声。小さな覗き穴から、悲痛な表情の涼子が垣間見える。

「でも、それももう終わり。藍で溢れるこの地を鎮めるために、貴方を正しく屠り胙とする――」

 涼子は自分に言い聞かせるようにそう呟いている。倖姫が黙っていると、涼子がこつりと額を仮面に押し付けてきた。

「……ねえ倖兄――やっぱり、こんなの、おかしいよ」

 真実、それは涼子自身の言葉だった。

「場は整った。さあ涼子、祝りとして神事を執り行うのだ」

 涼子の背中に、絶対的な君主である護の言葉が圧し掛かる。それでも、涼子は動かない。ひそひそと同席していた神官達が囁きあう。怜子が痺れを切らして刀を掴んで立ち上がり、涼子の肩を掴んで上体を起こさせた。

「さあ涼子!祝りとしてのお役目を果たすのよ!そのために今日まで神事の練磨を積み重ねてきたのでしょう!?さあ神官達も、猩猩緋の仔を祝るための用意をなさい」

 神官たちが数人進み出て、倖姫の幾重にも重なる着物をほどき、首元を緩ませ頭と体を押さえ付けた。

まるで切り落とされるのを待っているかのように、白い首が露わになる。

 怜子は涼子の手に、刀を握らせようとした。涼子の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。

「もう……嫌よ。倖兄が何したっていうの?何でこんな目に遭わなきゃいけないの!?」

「口を慎みなさい!」

 怜子が涼子の頬を強く張った。だが、子供の頃とは違い、涼子はきっと母を睨みつける。

「あなたにもちゃんと動物で祝りの練習をさせておくべきだったわね……」

 怜子が冷たい視線で涼子を射抜く。涼子も負けじと声を荒げる。

「こんなことおかしいわ!母さんはおかしいわ!自分の代で猩猩緋の仔が見つからなかったことにほっとしてるの?それとも比与森の最も重要なお役目を私に取られたことに嫉妬しているの?自分は罪もない動物を胙にして、手を汚しただけだものね!!」

「黙りなさい!此処は神の御座よ!」

 母娘の遣り取りに嫌気がさしたのか護が怒号を上げる。

「いい加減にしないか!藍ヶ淵が滅びの際にある今、もはや一刻の猶予も無いのだ!」

 護が大声と共に涼子から刀をもぎ取った。

「うぐっ……」

背中に圧し掛かられ倖姫が呻く。

「涼子、お前に祝りとしての使命が果たせぬなら、私が果たそう」

「父さん待って!!」

「やめなさい!」

 揉み合う母娘を尻目に、護が刃を振りかざし倖姫の背に狙いを定める。騒然たる空気の中、勢いのままに刀を振り下そうとする護の腕が、ぴたりと止まった。

「――――?」

 振り上げた腕を護が見ると、目に見える程の風が渦巻き巻き付いて、刀を持つ腕を空中で固定していた。さらに視線を上げる。

「ひっ――!?」

刀の柄に爪先を乗せて、曲芸師のように護を見下ろす黒い影があった。

「人の子は、何度同じ過ちを繰り返すんやろな?」

 護の腕を固定していた小さな竜巻が、皮膚を、肉を切り裂く風の刃に変わる。真っ赤に染まった腕を掲げ、護が痛みに絶叫した。

刀を取り落とし、床に蹲って叫び続ける。ポルカはふわりと倖姫の側に舞い降りた。蜘蛛の子を散らすように神官達が社の外に逃げ出して行く。

「あなた!」

 怜子が護に駆け寄り、信じられない目でポルカを見上げる。そこには畏怖ではなく、明確な恐怖があった。

「もうここまで来たというの……」

「アンタら、烏天狗を舐めすぎやで」

 その瞬間、倖姫を乗せた祭壇の四隅から竜巻が噴き上がる。倖姫の仮面が風に吹き飛ばされ、開けた視界に黒いスーツ姿の華奢な背中が見える。

「ポルカ!!」

「ごめんなひいさま。怖かったやろ。こんな場所、必要ないねんほんまは。今片づけるな」

床を剥ぎ天井を吹き飛ばし、ほんの十五秒ほどで、社は祭壇を残して跡形も無く消え去った。

怜子たちは吹き飛ばされはしなかったものの、髪は乱れ装束は切り裂かれ、呆然と青空の下で無残に破壊された祭壇を見つめていた。

「いねや。ひいさまは僕のもんや。諦めえ」

 有無を言わさぬ言葉だった。人には、化け物のその言葉を覆すことは最早不可能だった。

「終わった――藍ヶ淵は終わった――」

 血で真っ赤な腕を垂らして、護が譫言のように呟く。怜子は夫の変わり果てた様子に泣いていた。

涼子だけが、全てに納得したように穏やかな表情を浮かべている。

「父さん、手当がいるわ。戻りましょう。人の傲慢が過ぎたの。彼等の望まざる儀式を推し進めて、誰が救われるというのでしょう」

 父母を支えて涼子は歩き出す。祝りとしての宿命から解放された彼女の表情は晴れやかだった。

それと同時に、今日藍ヶ淵に終わりが来ても止む無しという、比与森家の人間としての覚悟も感じられた。

「涼子!!」

 倖姫がその背中に声をかける。

「ありがとう!!俺を守ってくれて!!」

「殺さないでくれて、の間違いじゃない?」

 涼子が目に涙を浮かべながら振り向いた。

「優しいね倖兄。そうやってずっと優しいから、私はそれにずっと甘えていたの」

 涼子は倖姫に大きく手を振った。

「さようなら倖兄!大神様のところに行っても、お元気で!」

 こうして、倖姫は比与森と決別した。


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