全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 06
ばらばらになった硬い木の欠片が宙を舞う。無残に砕けた門扉を踏み砕きながら、ノウィが比与森家の土地に再び踏み込んだ。
「倖姫!!倖姫!!」
ノウィの慌て様は酷く、家屋を壊しかねない勢いで敷地の奥の神社に向かう。
人間がそこで良くわからない儀式をしているのは気付いていたが、それが倖姫に害を為すものなのだということまで理解できていなかったのだ。
壊してやる――苛烈な想いを抱いてノウィは本殿の扉を開け放つ。
だが、そこには数人の水干を来た男たちがいるのみだった。
「嵌められた――!!」
ポルカが男たちを睨む。だが彼等も化け物達の足止めという役目に覚悟を決めていたのだろう。平伏し「お許しくださいませ」と徹頭徹尾倖姫の居場所を吐こうとしない。
「ほっとけ!!僕が空から探したるさかい」
ポルカが黒い羽根を目一杯打ち鳴らして空へ駆けあがろうとする。
「!?あほうどり、あぶない!!」
ノウィの警告が響く。ポルカが空中で制止しようと羽を引いたが、その端を真っ黒な墨の矢が撃ち抜いていた。
「いったぁっ!!」
ふらつくところを第二、第三の黒い矢が襲う。無残に羽を傷つけられ墜落する間際、ポルカは比与森家の外壁の向こうに信じられない数の墨染の袖が湧き出しているのを目にして愕然とした。
地面に落ちる前に、ノウィがポルカをキャッチする。
「どういうことやねん……!!外は墨染の袖で溢れ返ってるで……なんでや……?倖姫を攫ったんは人やろ?なんでそれに墨染の袖が便乗してくんねん」
あいつらにそこまでの知恵何て無かった筈――という所まで言って、ポルカが思い当たったように視線を険しくした。
「昔はおらんかった、人を模した墨染の袖――あいつか?」
公園で倖姫がたしかに遭遇したという、人と同じ身体、温かさをもった墨染の袖。そいつに人と同じ知性が宿ったとすれば、水棲動物を真似ることしかできなかった一三〇〇年前よりも、遥かに向こうは有利に事を進めることができるはずだ。
「――かずとかかんけいないよ。俺が、ぜんぶつぶすから」
ノウィが金の角を大きく天に広げる。
「おい、止めとき」
倖姫がいない状態での力の発散にポルカが忠告するが、全く意に介さない。そのまま壁を飛び越え、墨溜まりに蠢く墨染の袖達の中に突っ込んでいく。
「くそ、ぜんぜんへらないじゃないか」
ノウィは苛立ちながら、まるで泳ぐように墨染の袖をかき分けて前に進もうとする。だが、次から次へと沸き立つ海老、巨大な鯨、鯉などの墨染の袖がその行く手を阻む。そうしている内に、ノウィの金の角に異変が起こりはじめた。
角の根本が、僅かに黒く変色している。まるで、墨を吸い上げ染まってしまったかのごとく。
その様子を見ていたポルカが、敵の作戦に気づき戦慄した。
「ここでぼんくらを、穢そうていうんか……!!」
ノウィから倖姫を引き離した状態で、墨染の袖と戦わせる。そこに悪意ある策を確かにポルカは感じた。
光に吸い寄せられる蛾のように、無闇矢鱈に現れていた昔とは違う。奴等を指揮する何者かが、やはりいるのだ――ポルカは居てもたってもいられなくなった。
この作戦で一番の鍵を握るのは倖姫だ。倖姫がこちらに戻ってこなければ、最悪の事態が起こる。だがとても今のノウィは人の話を聞けるような状態では無い。
ポルカは傷ついた羽を広げ、その場から飛び上がる。それと同時に風を自らの周囲に起こし、飛んでくる墨の攻撃を弾く。
「ひいさま――無事でいてな」
ポルカは祈るようにそう呟いて、目的の場所――御焚山へと大きく羽ばたいた。
麓の村は、阿鼻叫喚の様相を呈していた。木立の陰から墨染の袖達がウツボ、サメ、ヤドカリなどの水棲動物の形を成して村の住人を手当たり次第に殺して回っている。
家の壁や地面は、墨と人の血が混じり合った模様で彩られ、禍々しい気配が村中に広がっていた。
「臭い――鼻が曲がりそうだ」
ポルカとノウィは赤い飛沫の散った笹の葉を手で押しのけながら、姿勢を低くして少し離れた場所から村を覗き見る。
夜の闇を照らす明かりは篝火ではなく、家屋の屋根から噴き上がっている火事の炎だ。誰かが墨染の袖を倒そうとしてつけたのだろうか。
だが真っ黒な人外の影は、火の熱など全く意に介さずに村の家々の間を蠢き這い回っている。
「倖姫、蘇皇。ふたりはここでまってて」
ノウィがすっと立ち上がると、まるで散歩にでも行くように村の方へ歩き出した。双子が慌てて後に続こうとするが、それをポルカが抱きかかえて止める。
「じっとしてるんや。あれでもぼんくらはこの地を統べる大神や。あんな雑魚なんてことも無い。二人が近くにいるほうが迷惑なんや」
そう言っている内に歩いてくるノウィに気が付いた亀の墨染の袖が、首を伸ばして大きく歓喜の声を上げた。周囲にいた同胞も同調するように鳴くと一斉に標的を変えてノウィに群がる。
最初に気づいた亀の突進を、ノウィは手の平だけで止めた。西瓜ほどの頭を手の平で掴み、そのまま握力のままに潰す。鈍い音と共に墨が花火のように飛散した。
そのまま地面に亀の死骸を投げ捨てると、その隙をついてウツボの墨染の袖がノウィの身体に巻き付いた。だがそれ以上、締め上げようとするもまったくノウィには効いていない。
「きもちわるい」
言葉と共にノウィは腕を強引に開いてウツボの胴体の隙間から両腕を突き出した。そして外側からウツボを掴むと、力任せに左右に引っ張り膂力だけでその身体を引き裂いてしまう。
だらりと弛緩した細長い体を縄か何かのように叩き落とすと、動きを止めた墨染の袖の群を小首を傾げて見やった。
「どうしてこちらにでてくるの?かてるはずないのに」
真っ白な髪と着物を斑に黒く染めて、ノウィが獰猛な捕食者の顔で哂った。
「すごい……」
その姿を見ていた双子は、もう大人しくなっていた。決して戦い方が上手いとは言えないが、圧倒的な力を振るうノウィ敗北の気配はない。
「村の人達は大丈夫かしら――」
「どこかに隠れているはずだよ」
蘇皇の手をぎゅっと倖姫が握る。その時がさり、と音がして三人は後ろを振り向いた。
「お前達……やはり生きていたのか……」
十数人の村人が立っていた。皆鋤や鍬を握り締め、煤や血で体中が汚れさせながら、呆然とした顔でこちらを見ている。
「他に無事な人達は――?」
村人たちは怯えきった表情で首を振り頭を掻き毟る。みな混乱して何が起こっているのかわからないのだろう。
「藍が――藍が溢れて、化け物が――」
譫言のように呟いている村人に危険な兆候を感じて、そっとポルカが二人に顔を寄せ耳打ちした。
「普通の人間には墨は藍色にしか見えへん。藍ヶ淵は元々墨染の袖が出やすいことから付いた地名なんや。合わしとき」
「何を話している!?……倖姫、蘇皇なぜ、お前たちは死んでいないんだ!?」
ひそひそと話す三人に村人が吠えた。びくりとして目を見張る双子に村人たちの目が剣呑なものとなる。
「お前達――さては大神の元から逃げてきたな!!だから墨染の袖が減らなかったんだ!!」
「そうか!胙の使命を忘れ落ち延び、その男と隠遁する気なんだな!!」
「許せぬ!!」
「許されぬ!!」
「役目を!!」
「その肉を大神に捧げるのだ!!」
言葉を荒げて殺気立つ男達から、ポルカが二人を背に庇う。この極限状態の中で、何を言っても彼等の神経を逆撫でするだけだ。
「これは、逃げるに限るなあ」
ポルカの判断は正しかった。ただ、状況はそれを許してくれるほど甘くは無かった。木々の陰から無数のヒトデの墨染の袖が、手裏剣のように回転しながら降り注いだのだ。
悲鳴と怒号。無差別に対象を切り裂き突き刺さる墨染の袖に、場がさらに混乱を極める。
村人たちが武器をあらぬ方向に振り回し逃げまどい、それに巻き込まれる形で三人も散り散りになった。
そして、悲劇が終幕を迎える。
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