全てをしずめる墨の海を揺蕩うのは 05
夜の闇に沈む神社の本殿内に、ゆらりと一つだけ明かりを灯して話しこむ者達がいる。
「――もう駄目だ。大神の顕現はまだなのか神主様」
「言い伝え通りであれば。胙を食らって目覚めるはずだ」
「だが一向にその気配がないではないですか」
人々のざわめきが次第に混乱の相を呈しはじめる。それを落ち着かせるように、冷静な女の声が響いた。
「……やっぱり、胙を捧げる手順に誤りがあるのではないかしら?平安の頃の記録ですがその成功例では――」
続く女の言葉に、神主を含め皆が慄く。
「まさか――そこまで倣えというのか。だがしかし――」
「迷っている暇はもうないわ。ついに子供の行方不明まで出ているのよ。法条さんの所」
女の言葉が皆の背を押す。絶望の中で救いを求めるように、視線が一点に集中した。視線を一手に受けて、神主が大きく息を吐く。
「――止む無しか」
深い皺の刻まれた顔を鎮痛に歪ませて、神主が「支度を」と手を叩いた。
それは、何の違和感もない早朝のお願いだった。
「ねえ、誰か表の掃除を手伝ってくれる?表が葉っぱですごいことになってるの」
怜子が部屋の襖を開いて声をかけてきた。傷が響いているのかまだ深い眠りの中にいる倖姫を気遣い「ええよ」と二つ返事でノウィとポルカが立ち上がる。
「昨日あほうどりがないたからかぜがふいたんだよ――もう」
「阿呆!!泣いたんちゃう!!怒ってたんや!!」
門の外に出ると確かに落ち葉が沢山散らばっていて、ぶつくさと言い合いながら箒を持って二人は掃除を始める。それを見つめていた怜子がすっと無表情になった。
バタン
背後に鳴る固く重たい音。驚いて二人が振り返ると、先ほどまで開いていた門がぴったりと閉まっている。
慌てて駆け寄ってポルカが門扉を押すが、ぴくりともしない。
「どいて」
ノウィが大きな掌で力任せに門を叩く。その弾みに青い燐光が舞い散った。
「これ――化け物除けがかけられている」
「かしこみ申し上げまする大神とその使い殿。今しばらく、お待ちをお願いいたしまする」
扉の裏では、怜子が大量の札を門に張りつけて、閂に何重にも注連縄をかけていた。同時に、比与森家の全ての出入り口に、同じ施しが掛けられる。
「僕を使いとはなぁ……烏天狗をコケにせんといてや!!」
ポルカが羽を広げ飛び上がった。門を壊せないなら跨げばいい。一気に比与森の敷地内に入ろうとしたが、その瞬間見えない壁にぶつかった。
「痛ったぁ!!」大きな音を立てて門の外に弾き落とされる。
家の外壁の上にも、まるで鉄条網のように細い注連縄が巡らされている。それが空中からの化け物の侵入を防いだようだった。
「我々は一三〇〇年に亘って藍ヶ淵に暮し御焚山の大神に尽くしてきたのです。この程度のたしなみはありまする」
ポルカは舌打ちした。確かに御焚山は他の聖域と違い大神一人が管轄してきた。その為どうしても人手が必要なことがあれば、藍ヶ淵の人間に知恵を与えたり、指示を与えたりしていたのだ。
それが積み重なった結果、自分達に牙をむく力さえも持ち得てしまったらしい。これは厄介だった。
「倖姫になにをするつもり!!」
「――未だ力を顕現されぬ大神のために、胙を捧げる神事を行いまする。穢れが生まれますゆえ、一時的に外でお待ちいただきます」
事務的ですらある怜子の態度に、ノウィが吠えた。
「やめろ!!そんなことをしても俺は――!!」
「我ら人の子にできるのは神の慈悲を乞い、この窮状を救っていただくことだけ。どうか、どうか藍に沈む淵をお救いくださいませ」
それ以上会話を続けることなく、怜子は扉の向こうから立ち去っていく。盲目的に仕来たりを信じ、もはや目的が手段になっていることに彼等は気付いていない。
「最悪や……」
ポルカが目を覆う。敬うべき大神であるノウィの望みを無視して、暴走する人の姿を見るのはこれが初めてではない。
ノウィが獣のように吠え、門扉を叩いた。ポルカには、それが打ち破られるのは時間の問題に思えた。
霊山である御焚山は、本来一般人が入れる領域ではない。
そこにいるのは、化け物か胙の仔だけ。だがある日ついに、それを破る者が現れる。
それも、最も望まれぬ形で。
「た……助けてくれ…………」
最初にそれを見つけたのは、蘇皇だった。朝靄のかかる平原で草を摘んでいると、靄の向こうにふらふらと頼りない足取りの人影が見える。
「誰?」
やがて現れたのは、麓の村の男だった。冬の山を取るものも取敢えず駆け上がってきたのだろう。簡素な着物に草鞋という出で立ちで、身体は凍傷で赤黒く変色し、怪我をしているのか右肩から先はついているだけというようにまともに動いていない。
「丸吉さん!」
見覚えのある顔に蘇皇が悲鳴を上げる。丸吉が人の声に安心したようにその場に崩れ落ちた。蘇皇の声に反応してノウィ達が駆け付けた。
「どうしてこんな姿で――」
倖姫が自分の着ている毛皮で丸吉を覆う。男はがたがたと寒さに震え、咽び泣いた。
「村が……村が墨染の袖に襲われて……!!妻も、子供も食われた……!!」
村の状況を大神に伝えようと、丸吉は必死にここまで登ってきたらしい。
「げほっ……頼む……村を……まだ今ならっ……」
体はとうに限界だったのだろう、話している間に始終血を吐くようになり、やがて丸吉は動かなくなった。猩猩緋の髪の双子は、顔面蒼白でお互いを支えるように抱き合った。
「どうしよう――村が、村が――!!」
特に蘇皇の錯乱が酷かった。彼女は胙が大神に仕える役目を負うことで問題が解決すると教えられていたのだ。だからこそ、麓がこんな悲惨なことになっているなど、思ってもいなかった。
倖姫は異様なほど静かになって蘇皇を宥めつつ、ノウィに意味ありげに視線を送ってきた。あの星空での約束を覚えているか?というように。
「――麓まで降りよう」
やがて倖姫がそう言った。丸吉の開いたままの瞼をそっと閉じて、せめて死んでからは寒い思いをしないようにと毛皮で丁寧に包む。死と縁遠い化け物二匹は、その行為を淡々と見つめている。
「のうぃ、ぽるか。助けてくれないか」
倖姫は膝をつき、額を地面に擦り付けて救いを乞う。蘇皇も慌てて真似するように同じ体勢になった。
「止めてや、ひいさん。そんなんされたら、助けるしかないやん」
「……うん。ほんとうに、めいわくだ」
双子の襟元を、猫の子を摘まむようにノウィが軽々と持ち上げる。
「ほんきで、たすけたいの?」
ノウィは二人に聞いているようで、倖姫だけに最終確認を言っているようだった。
「ああ。後悔しない」
倖姫は真っ直ぐに紅い瞳でノウィを見返した。
蘇皇をポルカが抱え、倖姫をノウィが背負い、二人と二匹は麓の村へと急いだ。
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