体温に依存する幼さ

あずきに嫉妬

第1話

 今日、知り合って20年になる幼馴染みが結婚する。

 そして、私の20年間の恋も、今日で終わる。彼の相手の女の子は、会社での部下だそうだ。小柄で大人しそうな人だった。

 鏡に向いていた彼が振り返る。少し照れくさそうに笑って「どう?」と聞く声は期待と不安が入り混じって、眩いほどだった。私は手を伸ばして少しだけ曲がっていた彼のネクタイを直してあげた。昔も、よくこうしてあげたっけ。できるだけ元気いっぱいに笑ってみせる。

「うん、ちゃんと似合ってるよ!」

 私の返事を聞いて彼はそかと、一気に顔を緩ませ、嬉しそうに目を伏せた。幸せが彼を包んだのが目に見えた。

 私は耐えきれずに切り出した。

「ねえ、式までもう少し時間があるし、何か話でもして時間を潰そう?」

 本当は、時間を潰そうなんて軽々しい気持ちじゃなかった。でも、私が今口に出せるのは、これが精一杯だった。

 近くにある椅子を引っぱり、腰を下ろす。ひんやりとした、無機質な座面が素早く体温を奪っていった。

 窓の外は横から伸びてきた木の枝で半分ほど景色が遮られ、どこかから飛んできた鳥が羽繕いをしながら時々思い出したように鳴いている。鳥でさえ、あんなに気楽に鳴いているのに。と、ぼんやりと思った。

 目線を彼に戻して口を開く。

「私達が知り合ったのって、小二だったよね。」

 できるだけ何気ないさまを装って聞いた。

「あぁ、お前が転校してきた時だよな?」

 彼は懐かしそうに目を細めた。

 小二の時に、父親の転勤で、私は入ったばかりの小学校からの転校を余儀なくされたのだ。幸い、新しい学校にすぐ馴染めたおかげで、あまりトラウマにはなっていない。でも、それなりに心細かったのも、否めなかった。

「うん、あの時は話しかけてくれて、ほんとに助かったわ。」

「なんだ、そりゃあ困ってる子がいたら放ってはおけないだろ?俺は昔からそういう気質なんだ。」

 屈託もなく彼は笑った。

 彼からしたら、転校してきた女の子を可哀想に思って仲良くするのは当たり前かもしれない。けれども、幼い私の目には、その行動がどれだけ嬉しく、有難かったか。おそらく彼は一生わからないだろう。そして、明るく優しい彼に好きという小さな芽が生えたのも、今思えばごくごく自然なことだったのだ。でも、その気持ちを彼に打ち明けるほど、私は勇敢ではなかった。

 しばらく子供の頃の話に耽っていると、彼から唐突に質問された。

「あのさ、俺、高校二年生の時に、お前になんかした?」

「え、」

 私は一瞬固まった。

「ほら、俺らは家が近かったからさ、ずっと一緒に登校してたじゃん。だけどお前、高二になってある日から、ぱったりと一緒に学校行かなくなったじゃん?あれ、俺がなんか悪いことした?」

 高二。思春期の真っ只中の私が、子供時代から続いていた恋に自覚した時期だ。そして、彼にどう接すればいいか分からずに避けていた時期でもある。好きなのに、近くに居るとバレてしまいそうで、いつもビクビクしながら気持ちを隠すのに必死だった。それがズルズル引きずって、今に至っている訳だが。

 誤魔化すように笑った。

「だってその時は思春期で、女子と遊びたかったもんっ。」

 そうか、と彼は小さな声で呟いた。すぐに、仕方ないよな、といつもの人懐っこい笑顔を向けてくれたが、目の奥にうつる寂しさは、私の心を刺すようにチラついていた。でも、私は何も言えなかった。今更何を言っても仕方がないとさえ思った。彼はもう、結婚するのだ。そして、私はこれから永遠に、彼の「幼馴染み」なのだろう。もしかすると、段々疎遠になっていって、幼馴染みですら居られなくなるかもしれない。心の中でため息をついた。心臓が苦しそうに音を上げ始めた。

 二人の間に、重たい沈黙が流れた。

 外の鳥は、私達を訝しそうに見て、首を傾げていた。隣の木の梢の先が震えるように揺れていた。

「そろそろ時間かな。」

 彼は時計を見て、私の顔色を窺った。立ち上がった彼に、スーツがよく似合って、体のラインを描き出した。黒の柔らかな光沢は、まるで紺碧や真紅のように鮮明に私の目にうつった。彩度のない服なのに、どうして彼が着ているとこうも私の目を惹き付けるのだろう。まるで、一生忘れるなと言わんばかりに。

 部屋を出ようと彼が私の隣をすれ違った瞬間だった。

 私は彼の大きな背中に抱きついた。

 彼の体が瞬時に固まるのがわかった。彼は一言も発さなかったが、戸惑っているのが自ずとわかった。私は目の前の背中に、顔をそっと埋めた。彼の独特ないい匂いがふわりと香ってきた。私は鼻の奥がツンとするのを感じた。と同時に、涙がこぼれたのを自覚した。ばれないようにしなくっちゃ。どうしてこうも見切りをつけられないんだろうか。

 いつまでも君の体温に依存する幼さは、もうやめるんだ。

 そう自分に言い聞かせて、優柔不断さを振り払うようにぎゅっと目をつぶり、私は大きく息を吸った。

「幸せに、絶対なってね。結婚、おめでとう。」

 外の鳥はいつの間にか静かになっていた。その中、私の声は、自分の体から出ているはずなのに、どこか儚げで、空のはるか向こうからぼんやりと漂ってきたように感じられた。震えては、いなかっただろうか。彼に、勘づかれてはいないだろうか。私の、最後の一生懸命な勇気だった。彼の腰に抱きついていた腕に力を込めた。どうか、届いて――

 彼は何かに気づいたような、それでいて何も気づかなかったような、優しい声で返事をした。

「うん。約束するよ。」

 私は、それを聞くと、もどかしさに後ろ髪を引かれる思いで腕をゆるめた。できるだけ軽やかに彼の背中を押して、部屋から送り出す。

 そして、彼が振り返ることなく廊下の曲がり角を通り過ぎたのを見届けると、すべての力が体の至る所から抜けるように座り込んでしまった。支えをなくしたドアはパタンと乾いた音を立てて閉じた。

 外の鳥はまた鳴きはじめた。

 私は床に座ったまま、笑顔を作ろうとした。でも、上手くいかなかった。涙で視界がぐちゃぐちゃだ。あーあ、最後の最後まで、言えなかったな。でも、これでいいんだ。私は、後悔しなかった。よろけながらも立ち上がった。涙を拭いて鏡の中の自分に向かって口角をあげる。今回は、私が君を幸せに向かって送り出すんだ。最高な幼馴染みじゃなければいけないんだ。私からの最後のプレゼントなんだ。鏡の中の私は、まだ涙痕を残した顔から、あたたかい笑顔を浮かべた。

 だって、鳥でさえ、あんなに楽しそうに鳴いているんだよ?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

体温に依存する幼さ あずきに嫉妬 @mika1261

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ