第5話ミシェルⅠ


 朝、僕は寝入った時の格好ままに目を覚ました。ロゼさんの柔らかい体に抱き締められているが、そういえばお風呂に入っていないのを思い出して、鼻を自分の肩口に近付けて確認をした。


「ここへ来る前に水浴びをしていたし、気にしなくても大丈夫さ」


 いつから起きていたのか、彼女は胸元にいる僕を覗きこんで言う。

 あの男の──異物の臭いはしない。神の庭で倒れていた僕を抱き抱えてくれた時に感じた仄かな花の香りが変わらずそこにあった。


 …………これは独占欲なのだろうか。

 命を救ってくれた恩人ではあるが、それを抱く程に付き合いが長い訳では無いのだ。僕はその感情の処理に少しばかり戸惑っていた。


 ロゼさんが僕の髪に顔を埋めて静かに息を吸い込むと、そろそろ起きようかと促す。いつもの穏やかな表情が戻って来ているのを見て、安心する。


 勝手に部屋を出る訳にはいかず、どうしようかと悩んでいたが、ロゼさんは慣れた様子でテーブルに置かれた小さなベルを手に取り、三度鳴らした。

 そしてしばらくすると、その音を聞き付けたのか部屋の扉がノックされる。どうぞ、と声を掛けると、そこにシンプルな紺のロングスカートに白いエプロンを着けた女性がお辞儀をして立っていた。


「ろくに挨拶もしないまま二人共眠ってしまった。すまないね。この屋敷の主殿は居られるかな?」

「いえ、事情は耳に入れておりますのでご安心下さいませ。──ご無事で何よりです」


 文字通り、ホッと胸を撫で下ろした様に、胸元に手を当てて言ってくれる。その様子から察するに、あの男は余ほど質が悪いのだろう。


 その女性に案内され、来賓室へと通される。ここで昨日僕らを助けてくれた人達に会える様だ。あの時、僕は大して何も出来なかったから、ちゃんとお礼を言いたかった。


 目の前に出されたお茶を口に運んでいるロゼさんを横目に、そういえばと訊ねる。


「あれ、ロゼさんの声、さっきの人に届いてましたよね?」


 そう、普通に会話をしていたのだ。

 昨日は自分にしか聞こえていなかったので、僕が代わりに話していたのだが。


「坊やが寝ている間に発声の調整を終わらせておいたのさ。いくら慣れない肉の身と言えど、昨日みたいなのはごめんだからねえ」


 講堂内での事を思い出したのか、瞳がスッと細くなる。これは相当頭にきている様だった。

 しかし、言葉が通じたところであの男が言う事を聞くとも思えない。ロゼさんの事を考えるなら、やはり魔導師と関わりになるのは避けるべきなのだろう。


 ──となると、ここも早々に出ていった方が良さそうだ。何しろ、ロゼさんは魔導の心得があるとバレてしまっている。ロゼさんの容姿もあの男が迫った要因ではあるだろうが、それ以上に能力を見抜いたからこそなのだと思える。


 そうして一人考えていると、街の住民の様な飾り気の無い質素な服装の女性が部屋に入ってきた。金色の長い髪を後ろで三つ編みにしていて、ロゼさんと同い年くらいに見える。


「遅くなってごめんなさい。昨日は────」


 そう言いかけて、止まる。

 まるで時間がその人だけ止まったかの様に、固まって微動だにしない。

 つい、ロゼさんが何かしたのかなと隣を見やるが、彼女も僕を見つめて小首を傾げるだけだ。


「…………あの、ごめんなさいね、ちょっと疲れてるのかも。

 失礼だけれど、お名前を伺っても?」


 こほん、と可愛らしい咳払いを一つして、ようやく動き出した女性は僕らに訊ねた。


「私はロゼ。昨日は助かったよ、本当にありがとう。こっちは──」


 背中にロゼさんの手が添えられ、僕も促されるまま名を名乗る。


「僕はアインと申します」


 ──そうして、再び時計は動きを止めた。





 講堂で加護持ち仲間で相方のエンガム達と別れた後、私はサーカレス城の敷地内にある魔導師が集う部署、金鈴塔へ訪れていた。

 私がやって来たのを見付けた魔導師のお爺さんが、「聖女様、どうされましたかな?」と声を掛ける。私はその通り名が嫌いだったが、そのまま話を切り出した。


 頭を冷やすとは言ったが、実のところは報告──告げ口である。

 一般の民にあの様に手を出し、あまつさえ私をも侮辱するなど、到底許せるものでは無かったのだ。もちろん、加護するというプライドが傷つけられたのが問題なのでは無く、女性を性玩具としてしか見ていないその有り様が度し難かった。


 これまでにもあの男に使われ、捨てられた人達がいたのだ。これ以上は魔導師、延いては信仰の要とも言えるサーカレス国に対しての信頼失墜にもなり得る。早急に対応が必要であろう。


 ──が、それも無駄となった。

 あの男の導衣は金刺繍である。最上位魔導師の証とも言えるそれはつまり、あれに意見する事の出来る位の者が王以外にいないという事だった。

 ここに詰めている者の中に同位の者すらおらず、存在はしていても異変対応に終われていて都市を離れているのだ。


 また、いかな加護持ちといえど、その言に強制力は無かった。あくまでも強い信仰の一つとして従属させる事が可能であり、立場としては別枠なだけで対等でも無く、上も下も無い。よって、信仰心の欠如しているあの男には私の言葉など何の効果も無いのだった。

 私が魔導師風情と煽ったのは、戦うとなった場合、加護は魔導術に対して完全に優位だからである。──ただ、それだけなのだ。


 ここでどれだけ苦言を呈しようと、放置するしか無いのが実情である。


「……まるで、放し飼いの獣だ……」


 呟いた声は空気に溶けたか、聞き逃されたか。答える者はいなかった。


 冷えた空気を変える為か、魔導師のお爺さんは良い知らせがあると言った。

 ──彼が語ったそれは、間違い無く吉報で、私は思わず涙で頬を濡らしていたのだった。






 ──塔を出ると街はすっかり夜の色に染まり、家々から溢れる灯りと街灯が寂しく道を照らすばかり。消沈した気分を半分、嬉しさ半分を引き摺って私は屋敷へ戻った。


 屋敷に着き、扉を開けると給仕さんが不安気に眉間を寄せて出迎えてくれた。私がこの屋敷の主人となってからずっと付いてくれている彼女──サラに微笑み掛ける。


「ごめんね、遅くなっちゃった。お客様はもう寝ちゃったかな?」

「はい、余程お疲れだったのか、夕食にお呼びしても返事が無かったので……。あ、お帰りなさいませ!」


 思い出した様に言葉を付け足し慌てて言う姿が可愛らしい。

 歳もさほど離れていないので、私はサラとは友達の様な感覚で接しているのだが、彼女もたまにそれに影響を受けて給仕としての作法を省略する嫌いがある。私としては、もっと砕けて接してくれても構わないのだけれど。


「それじゃあ、お話は明日として今日は私達も休みましょ。もうホント疲れちゃった……」


 近隣に出来た禁足地の浄化を終えてのあの騒動である。精神的にも肉体的にも疲れきっていた。

 お風呂はまあ、起きてからでいいやと伝えて、寝室のベッドに潜り込む事にする。


 ……しかし、いつもよりか幾分早めの就寝とは言え、疲労もあるはずだったがなかなか寝付けず、何度目かの寝返りで諦めて体を起こしてしまった。講堂での映像が頭を離れないのだ。

 自分と同じ髪色の綺麗な女性と、小さな男の子。女性は少しばかり不気味な雰囲気を持っていて、せっかくの美人さんが陰鬱な瞳で台無しになっている様に見えた。


 そして、男の子だ。

 後ろ姿しか見ていないが、同年代の子供達と比べても体格はかなり小さく見える。若白髪というやつか、ところどころまばらな髪色をしていた。

 私はどうにも、あの年頃の子を見ると放っておけなくて、ついつい面倒事に首を突っ込んでしまうのだが、今回もそれが一番の理由だ。


 まだ幼かった頃に、私は幼馴染の男の子を見殺しにしてしまったから。

 しかも、それは自分が加護を持ってしまったが為に起きた事だと知って、余計に胸に大きな傷痕を残しているのだ。彼はただ巻き込まれて、そして私を守る為に殺されて。

 迫り来る殺意の光に消える瞬間、彼の最期に見た顔は悲しむ様な、でもどこかホッとしたみたいに見えて、それが焼き付いている。

 自分がいなければ、あの村もお父さんもお母さんも、彼だって──今も元気に暮らしていたかも知れないのに。


 殺したのは、私なのだ。


 加護の力を疎んだ時期もあった。

 しかし、それを必要とする人達もいた。

 ……善意などでは無いが、これが単なる代償行為なのだとしても、償い続ける事を選んだのだから。


 この身は、世界の為に。


 ──罪悪感を使命感で覆い隠して、ようやく落ち着く。子供を助けた日はこういう事が度々あるのだ。体を切り刻まれる様に襲ってくる後悔を、どうしても思い出す。……いや、忘れてはいけない事なのだから、それで良いのかも知れない。


 明日は特に用事も無いし、せっかく村が解放されたのなら弔いに行こうか。今まではそれすら出来なかったのだから。


「……まずは彼女達とお話をして……それから……」


 私の目蓋を、夢へのカーテンが覆った。





 普段はサラに起こされる前に身支度も終えている私だったが、今日は寝坊してしまった。サラの声でようやく目を覚ました私は急いでお風呂を終わらせ、タンスから普段着を引っ張り出して着替える。貴族が着ている様な豪奢なものを私は好まなかった。


 すでに二人は部屋にいるとの事だったので、急がなければ。

 見たところ外からやって来た人達の様だし、この街での居住か別の街への斡旋をして上げなければならないだろう。


 まあ、あの男がいる以上、他へ行った方が安心出来るかだろうなとは思うが。


 部屋に入り開口一番、遅くなった旨を謝罪する。

 が、そこにいたのは──。


 後ろ姿しか見ていなかったあの男の子の顔を、今は正面から見て息が止まった。

 彼は何から何まで幼馴染と瓜二つどころか、そのものなのだ。髪色に多少の違いはあれど、間違いなど無い。忘れる訳も無い。クリクリとした瞳に華奢な体、少しばかり病弱だった彼が、目の前にいた。


 その表情は機微に乏しいが、それは私の中の幼馴染もそうであった。だから、たまに見せる笑顔が堪らなく好きだった。私がこの子を守らなくちゃ、なんて思っていたのだ。


 固まった体をなんとか動かし、名前を訊ねる。私と同じくらいの女性──ロゼさんは昨日よりかは落ち着いた顔に見える。それでもやはり、暗い雰囲気は変わらない。


 そして、彼は──。


 その名が耳に届いた瞬間、私の体はすでに彼を思い切り抱き締めていた。


 『アイン』、だ。

 私が殺してしまった彼が、今ここにいるのだ。

 生きている。

 動いている。

 体温を感じる。

 小さな鼓動は私の胸を静かに叩く。


 涙が止めどなく溢れ、言葉が喉に引っ掛かってもどかしい。

 何故十年前と変わらない姿なのかなんてどうでも良かった。ただ生きて触れられているという事が何よりも嬉しかったのだ。


 少しばかり困惑した様に腕の中で身動ぎしている。それすら愛しい。


「私だよ、ミシェルだよぅ──アイン、アイン……」

「……ミシェル、なの?」


 声変わりもまだ始まっていない、あの頃の声が耳に染み込む。彼に名前を呼ばれたのが嬉しくて、また私は泣き出した。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……私のせいで、あなたが……お父さ……お母さんも……」


 嗚咽混じりで言葉が上手く出てきてくれない。私は沢山の人を殺したから沢山謝らなくてはいけないのに、まともに謝罪すら出来ない。許して欲しいとは言わない。ただ謝りたかった。


「分からない事ばかりだけど…………それはミシェルのせいなんかじゃ無いよ。──だって僕達は、普通に生きてきただけなんだから」


 辛かったね、苦しかったね、心配掛けてごめんね。優しい声音が私を包む。決して許されてはいけないはずの私を、彼はいとも簡単に許す。

 嬉しくて涙が溢れる。

 不甲斐無くて喉が詰まる。

 一度は呪ったこの力、それを与えた神を恨んだが、今はこの奇跡の再会を与えてくれた神に感謝の念しか無い。


 生きていてくれて、ありがとう、と──。

 降り止まぬ涙に震える私の肩を、彼はそっと抱いてくれていた。

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賢者が愛した二番目の僕 小豆丸 @yamato_nadeshiko

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