第四章 -此岸の善悪―

 東廊下の突き当り、上階へ向かう階段にはシャッターが下ろされ、下階へ向かう階段からは濃い〝気配〟が漂っている。一歩踏み出せば段を降りる事になるその位置で、阿藤は足を止めた。

「ん、どしたの? アソーちゃん」

 数段下で、軽薄な声が振り返る。

 西廊下の奥からこちら、ぽつりぽつりと交わした会話を思い返しながら、阿藤は嘉納に問うた。

「こちらへ向かう足音を聞いた――というのは、本当なんですね?」


 独房へ続く扉の前を通りかかった際、その向こうを改める阿藤の姿を見ながら「そういえば」と嘉納は拳で掌を打った。

 阿藤がサークルと化した元研究員と対峙していた間、トイレの個室に立て籠もっていた嘉納は何発かの銃声と、地下二階へ向かう複数の足音を聞いたのだと言う。阿藤が仔細に問い詰めようと食って掛かると、嘉納はへらへらと笑いながら「詳しくは知らないよ、わざわざ巻き込まれに行くのもめんどくさかったし」と事もなげに語ったのだ。


「ホントだよ。見て確かめた訳じゃないけどね~」

「何故もっと早くに仰らなかったんですか」

「忘れてたんだもーん。こんな状況なんだからさあ、そういう事もあるでしょ。許してにゃん★」

「……」

 言い回しから知性が感じられない。外見の不自然な色味から年齢が読み取りづらいこの男は、実は阿藤よりも年若いのではないだろうか。激昂した嘉納にナイフを突きつけられた首筋に触れ、阿藤は身を震わせた。適切な距離を置くべきだと、理性の後ろから何かが告げる。

「あっ。アソーちゃん、アソーちゃん、でっかい穴が開いてる!」

 リズミカルに階段を下りきった嘉納が、そう言い残して右手側の壁の影へ消えた。

「ちょ……待って下さい!」

 一段下ってしまえば、両脚は勝手に下階へと進んでいく。

 徐々に遠ざかる背後からの光。何かとてつもない過ちを犯しているような、巨大な不安が背中に張り付く。

「嘉納さん! 勝手に先へ――」

 踊り場と呼べば良いのだろうか。階段下の開けた空間にも、あの黒い水溜りがあった。それを踏まないよう避けて歩き、阿藤の背丈よりも二回りほど大きな壁の穴へ足を踏み入れた――瞬間。

「うッ」

 正面からぶつかってきた質量に、苦悶の声が飛び出た。衝突物――嘉納は焦りの滲む表情で背後を振り返り、阿藤の肩を両手で掴み、強く押す。

「あーダメダメダメ、ここダメ、背中チャンが居る。ダメ。戻って。早く」

「ちょ、ちょっと待っ……」

 掛けられる負荷に耐えかねた背筋が反り、バランスを崩しかけた阿藤の足元がもたつく。よろめくように後ろ歩きする姿に舌打ちをぶつけ、嘉納の爪先が阿藤の脛を蹴った。

「早くしろっつってんだろ!」

「痛っ!」


「……何なんだ、もう……」

 蹴られた脛を押さえて蹲り、口の中で呟く阿藤を後目に、嘉納は白衣やズボンのポケットを叩きまわしている。

「いやあ、やっぱりズルは良くないってことだね! あれえ? どこに入れたっけ……」

 頼れるものがないのは確かだ。確かなのだが。既に芽生え始めた後悔の念が阿藤を苛む。

「あった。やっぱこれだね~」

 どこかで聞いた節に乗せて言葉を放った嘉納が、ズボンのポケットから取り出したカードをリーダーへ翳す。幾度か聞いた電子音が狭い踊り場に響き、開いた扉の向こうから暗闇が流れ出た。

「嘉納さん、それは」

「ん? じゃじゃーん★Aランク職員カードでーっす」

 開いた扉の戸袋にもたれ掛かり、半身を阿藤へ向けた嘉納が赤いカードを自慢げに突き出す。近づいて見るとカードには確かに〝Aランク〟と角ばった文字が記されていた。

『そこそこのお偉いサン』との発言に偽りはなかったらしい。カードと嘉納の顔を数回往復し、渋々頷いた阿藤の姿に満足げに頷き、嘉納は白衣の右ポケットにカードを収めた。

「そのカードがあれば、どの扉でも開けられるんですか」

 阿藤の言葉に嘉納は天井を仰ぎ、閉じた唇から「んー」と声を漏らす。

「全部ではないね。Sランクカードでしか開けられない部屋もあるから。でもねえ、これがあればBでもCでも、大概の鍵は開けられるよ。どう? 嘉納サンは頼りになるでしょ?」

「では、このカードは?」

 阿藤が取り出して見せた緑のカードを一瞥すると、右手の手首から先を揺らしながら嘉納は笑った。

「それは特殊なカードだからねえ、外部の人向け?ホントに限られた所しか開かないよ。少なくとも、ここから先じゃ役に立たないだろうね~。捨ててったら?」

「そうですか」

 後生大事にカードを元の場所へ収める阿藤の姿に短い嘆息を零し、嘉納は扉の向こうへするりと入り込んでいく。閉まりかけた扉の隙間に手を差し入れ反転させると、阿藤もその背に続いた。


 間口を潜った向こうは完全な暗闇だった。扉が閉まると光は途絶え、近くに居る筈の嘉納の姿さえ見えない。

「アソーちゃん! 暗い! 光って!」

「光ってって……俺はヒカリゴケでもチョウチンアンコウでもないです。待って下さい」

 拾い集めた様々な道具で埋まりつつあるポケットの内、ズボンの背面ポケットから取り出した細身の懐中電灯を灯す。

「うわ、近っ」

 想定の数十センチも間近の正面に立っていた嘉納の白が、LEDの灯りを反射して浮かび上がった。光っているのはお前の方だ、と零れ出そうになる言葉を飲み込み、阿藤は周囲へ光を向けた。


 正面には長い廊下が伸びている。懐中電灯から発せられた光は真っ直ぐに闇へ伸び、積み上がった瓦礫に反射していた。右手側を照らすと地下一階と同じように間口を挟んで男女を模したピクトマークが並び、その少し先に別の通路と思しき空間が続いている。左手側の壁に光を這わすと、やはり二、三メートル進んだ辺りで壁が途切れ、こちらにも通路が続いている事が窺えた。阿藤の持つ小さな、しかし強く伸びる灯りで照らせる範囲だけでも三つの死体が転がっており、瓦礫の散り様から上階と同じ――或いはそれ以上に手酷い襲撃を受けたと推察できる。

「さて……」

「地下二階探検隊、行ってみよ~!」

 阿藤の周辺一メートル以内を落ち着きなく歩き回っていた嘉納が腕を振り上げ、さあ続けと顔を向ける。己の堪忍袋の緒の強度に自信を持てず、阿藤はその視線を無視して足を踏み出した。


「上の階よりも被害が大きく見えますね」

「うーん、まあね。上よりも主体に近いのはこっちだから」

「オリジンβは元々ここに居たんですか」

「ヤンチャするまでは居たよ。今はどうか知らないけど。大暴れして疲れちゃって、どっかで休憩してるんじゃない?」

「二歳児じゃあるまいし……」

 阿藤の斜め後ろを歩む嘉納が笑う。積み上がった瓦礫の前へ行き着き、天井を照らす。配管から漏れる水滴がひたひたとコンクリート片へ落ち、染みていく。垂れ下がる銅線は配電関係の物だろうか。感電の可能性を考えると、これを登って乗り越えるという選択肢はない。この先へ進む方法はないものかと辺りに光を向けると、壁沿いに倒れている死体の手元に紙が落ちていた。

「図太いねえ、アソーちゃん。そういう所、いいと思うよ~」

「はいはい」

 懐中電灯を左手に持ち替え、己の腸を頬で押し潰している死体が出来るだけ視界に入らないよう、身を屈めて紙の端を人差し指と親指で摘み上げる。血液と思しき液体で広い範囲が汚れてはいるが、既に乾ききって茶褐色に変じていた。

「ん~? 何々~?」

「地図……ですね」

「ラッキー!」

 背中を叩く嘉納を一瞥し――己がどんな顔をしていたのかはわからないが、嘉納は黙って身を引いた――両手で紙を広げる。『実験棟地下二階 地図』との文字を認め、周囲の景色と紙面を見比べる。

 踊り場で嘉納が突っ込んでいった穴の向こうは、男性用トイレに繋がっていたようだ。トイレ出入り口の向こうに見えた通路には北廊下と文字が振られており、阿藤達が今居る東廊下から見て右奥にボイラー室、左奥に標本室、左手前にモニタールームの扉が設けられている。先程左手に見えていた通路は南廊下で、左手前に会議室A、左奥に会議室B、会議室Bの正面に簡易生活処置室なる部屋の扉がある。この部屋の出入り口はもう一カ所設けられているようだが――。

「ここからは入れそうにないな……」

 左手の壁に、扉が設えられている。しかし、周囲の壁が一部崩壊しており、瓦礫が扉の前に積み上がっている上、カードリーダーの動作ランプも消灯していた。

「ここ、入りたいの? 何で?」

 横から地図を覗き込んだ嘉納が首を回し、阿藤を見る。「近いです」と不快を伝えて一歩引き、阿藤は再び地図へ目を落とした。

「これより奥――西廊下にあるのは、培養室だとか、管理室だとか、カードが無ければ入れなさそうな部屋ばかりですから。可能性がありそうなのはこの東廊下側に面した部屋かなと」

「ふーん」

 興味を失った嘉納が薄闇のグラデーションへ消えゆくのを横目で見送り、阿藤は思考に耽る。

 目の前の瓦礫の向こう側に続くはずの西廊下。そこに面する部屋は右手前から動物管理室、培養室、ゴミ処理室、処分室。左には高度実験室A、Bと、字面だけを見ても危機感の募るものばかりだ。三人がこの地図を目にしたか否かは不明だが、部屋の戸を開けた時点で空気は察する事だろう。そして嘉納に述べたように、直接的に実験に関わる部屋であれば、認証カードが無ければ入る事さえ叶わない可能性が高い。簡易生活処置室についても、こちらの扉が認証式である事を踏まえると確率は低いだろうが、選択肢から排除するのは南廊下奥の扉のタイプ、施錠の有無を確認してからだ。

「よし。まずは南廊下だな」

「ねえ、どこ行くか決まったあ?」

「こっちの扉を確認しに行きます」

 地図に記された南廊下に面する扉を指すと、嘉納は一瞬口を噤んだ。そして「えー……」と何もない――であろう――右上空を見遣った後、一人何かに納得して頷く。

「ま、いっかあ。オッケー」

 阿藤が顔を上げるよりも早く、嘉納は南廊下への分岐へ向け、踵を返す。慌てて地図を折り畳み、地下一階の地図と同様ポケットにそれを収めると、その白を見失わぬよう光を向け、阿藤も後を追った。


                  Ⅰ


「いって!」

 南廊下へ続く角の向こうへ嘉納の背が消えた直後、廊下中に声が響いた。阿藤は小走りに角を曲がり、先を照らす。東廊下同様一部の天井が崩落しており、若干足元に注意を必要としそうなものの、道が塞がっている様子はない。

 声の主はと言えば、サンダルを拾い上げて右足の先に引っ掛けた後、膝の汚れを払っていた。

「……大丈夫ですか?」

「大丈夫じゃないよ~! このクソ野郎、邪魔な所に転がりやがって」

 嘉納の脚が死体を転がす。唇の端から血を流し、薄目を開いたその顔面が懐中電灯の光に照らされ、阿藤は視線を滑らせた。ここに至るまで、もっと酷く損傷した死体も見てきたが、どんな死に様であれ人の死体だ。慣れはしない。出来る事なら、視界に入れずに進みたい。ただ、それが叶う状況ではないというだけの事だ。

「……」

 死体の下から滲み出ている暗褐色の血溜まりを避け、嘉納の後を追う。懐中電灯を持たない嘉納は阿藤よりも夜目が利くのか、大きな瓦礫をひょいひょいと避けながら進んでいた。

 やがて右手側の扉の前で立ち止まると、阿藤を手招いて「こりゃ無理でしょ」とせせら笑った。

「これは……確かに」

 扉は認証式でなく、地下一階の倉庫同様鉄扉だった。しかしノブがあるべき場所には大きな亀裂が入っており、蝶番側の壁は崩落している。ノブ側の壁も抉れたように欠けており、何か大きな生き物の爪が左下から右上へ向かって振るわれた様にも見える。

「ここに逃げ込んでからこうなった可能性は……」

「ないね。下から上がって来てるんだから」

「ですね」

 ドアノブ扉に開いた亀裂から室内を伺うが、光の届く範囲に見えるのは黒い液体で汚れたテーブルと、什器に並ぶ数冊の雑誌、そして微動だにしない白衣を纏った腕だけだ。阿藤は屈めていた身を起こし、周囲を照らす。


「うう……」


 廊下の奥、元は天井であり、壁だったのであろう瓦礫の下。光の直線の先で何かが動いた。

 強く、大きく阿藤の心臓が脈を打つ。ノイズに近い血流音に混じって、阿藤でも、嘉納でもない人間の声が聞こえる。

「よかった……生きてる、まともな人がいるなんて……」

 紡がれる言葉は流暢で、負傷による――ものであろう――震えこそあるものの、穏やかな男性の声だ。足で瓦礫を壁際に寄せている嘉納に背を向け、阿藤は声の元へ向かう。

「大丈夫で……、っ」

 瓦礫の下から、男性の上半身がはみ出している。広がる血液の絨毯は今後の生存を否定するのに十分すぎる面積だった。

「俺は、俺は助かるんだ……!」

 男性の顔に浮かぶ安堵の表情に、阿藤の肺が空気を締め付ける。その言葉が叶う事はないと――その確信を拭う手段が、ここにあったのなら。噛み締めた奥歯から苦みが広がるようで、懐中電灯を握る手に力が籠る。

 埋もれた男性は顔を俯け、伸ばしていた片腕を曲げた。もう片腕も曲げたかと思うと掌を血溜まりに付き、上半身を起こそうとする。背中に積もっていた小さなコンクリート片が零れ落ち、からからと空虚な音を立てた。

「あの、動かない方が」

 色の境目ぎりぎりの位置に、阿藤の爪先が落ちる。男性の半身を圧し潰している重量物の山は、どう見ても個人の力で除去出来る量ではない。その配慮が結果を変える事はないと知りながらも、阿藤は制止の声を漏らす。


「アソーちゃん、それ、離れた方がいいよ~」

「え」

 背後から聞こえた声に振り返る。侮蔑にも似た表情で阿藤を見る嘉納と目が合うと同時、後頭部側から聞いた事のない〝何かが千切れる音〟がした。

そして――。


「助かるんだ、一緒に行きましょう!」


 動きを阻害する〝碇〟を切り離したそれの分断面から、足元の絨毯が色を変えていった。溢れ出した黒は波打ち、小さな飛沫を上げながら赤を侵食する。

「よかった、生きているまともな人がいるなんて! 俺は助かるんだ、一緒に行きましょう!」

「うわッ」

 阿藤のズボンの裾をそれの指先が掠め、僅かに黒く色づいた。肘から先の着衣を赤く、黒く染めながら、軽量化された肉体が匍匐(ほふく)前進で阿藤へ這い寄る。

「よかった、生きているまともな人がいるなんて! 俺は助かるんだ、一緒に行きましょう!」

 阿藤を見る目は――否、その視界に阿藤はいない。焦点は合っておらず、輪郭の一部は溶け始めていた。胴の途中から長く伸びた臓器がぴんと張り、やがてあの音を立てて二分する。

「よかった、生きているまともな人がいるなんて! 俺は助かるんだ、一緒に行きましょう!」

 それから目を離さず、後ろに進んでいた阿藤の踵が瓦礫を踏み、バランスを崩した体は臀部から床に落ちた。阿藤の手を離れ、転がった懐中電灯がそれを照らし、壁面に大きな影が現れる。

「よかった、生きているまともな人がいるなんて! 俺は助かるんだ、一緒に行きましょう!」

 阿藤が立ち上がろうとするよりも早く、それはスピードを上げた。幼児が走る程度の速さで這いずり、阿藤へと迫る。

腹を括るしかない。阿藤は立ち上がる事を諦め、両膝を曲げて力を込めた。

「よかった、生きているまと」

「うるせーよ」

 側面から飛来した銃弾がそれの頭部を貫き、横に倒れた体は溶けて形を失った。銃口から漂う薄い煙を吐息で掻き消し、拾い上げた懐中電灯を投げて寄越した嘉納が鼻で笑う。

「嘉納サンが一緒で良かったねえ、アソーちゃん。ドールでも人の両脚へし折れる程度の力はあるんだからさ」

 続く言葉はなかったが「馬鹿な事をするな」という言外の意図を察し、阿藤の耳介が熱を持った。クリーチャーとの遭遇が不可避である環境に、妙な意味で慣れつつある己の行動を恥じ、より慎重な行動を心に決めて腰を上げる。つい一分前まで人のカタチをしていた水溜りに動きがない事を確かめ、足取りも軽く東廊下へ向かっていく嘉納の背を照らした光が、右手の壁に設けられた二つの扉をも浮かび上がらせた。

 ポケットに収めた地図を開く。阿藤の現在地から見て手前の扉は会議室B、奥の扉は会議室A。どちらも比較的危険度の低い部屋だと推測できる。

「嘉納さん。会議室も中を確認していきます」

 明らかに扉を無視して進もうとする嘉納にそう声を掛けると、ぴたりと足を止めた後、両手を白衣のポケットへ差し込んだまま身を翻した。

「そこ、何もないよ?」

 言い切る口元は弓なりに笑んでいる。また、あの表情だ。笑顔というテクスチャーを纏った、その下に何かがある事を匂わせる表情。

「もしかしたら、仲間が身を隠しているかもしれませんから。階段からもほど近い。既に此処を後にしているとしても、一時的に潜んでいたのなら居場所の手掛かりが掴めるかも」

「何もないってば」

 頑なに主張を繰り返し、一向に歩み寄ってこない嘉納に、阿藤の胃の底が波打つ。

「……見られて都合の悪いものでもあるんですか」

 自分でも驚く程棘のある言葉が零れ出た。嘉納は白衣の裾を揺らしていた手を止め、左右に振れながら、一歩一歩阿藤に歩み寄る。そして顔を上げ、真正面から阿藤の両目を見据えて小さく呟いた。


「余計な詮索は寿命を縮めるよ」


 特段強い言葉でもない。出会ってすぐ、あの時の様に声を荒げている訳でもない。露骨なまでに感情を伝えてきた人物の言葉とは思えない程、無感情な音の響き。しかし、そこに込められた意思は強く感じ取れた。

 引くべきか――阿藤の思考に諦めという選択肢が生じたと同時に、嘉納が両手を顔の横へ上げた。

「なーんちゃって★冗談だよん。アソーちゃんがそこまで言うならしょーがないよね、付き合ってあげようじゃないか。どっちから攻める? あっち? こっち?」

 右手と左手、それぞれの人差し指でもって二つの扉を指しながら、後傾させた首を阿藤の方へ回す。阿藤が左手で指した会議室Bの扉へ向かって「そっちね」と進んでいく嘉納の足元を照らしたまま、しかし阿藤の足は動かなかった。

「アソーちゃん? 早くしてよ」

 ノブを掴み、音を立てながら上下に動かす音が聞こえる。重なる声音は紛れもなく嘉納のものだ。瓦礫を跨ぎ、押し開かれた扉へと近づく。日常の中であれば突拍子もないが、此処では最も懸念すべき可能性が脳裏を過る。

――先程目の前に居たのは、本当に嘉納だったのだろうか?


 扉を潜った先には、左手側の壁一面に誂えられた本棚に並ぶ夥しい数の書籍と、部屋の奥へ向かって等間隔で並ぶ長机、各机に一つ収められたパイプ椅子が待ち受けていた。部屋の最奥で光を反射するホワイトボードを見るに、会議室という名でこそあるものの、用途としてはプレゼンテーションルームに近かったようだ。嘉納は出入り口脇の壁に倒れていた予備用と思しきパイプ椅子を立ち上げ、そこに腰を下ろす。

「俺、ここで待ってるから。早くしてね」

 足を組んで欠伸まで放ち、傲岸不遜を体現したその態度に閉口しつつ、阿藤は扉を背に歩き出す。


 この部屋にもまた、燃え尽きた命の抜け殻がそこかしこに倒れ伏している。廊下と違い、壁に囲まれた狭い空間であるが故の濃い死の臭い。天井の蛍光灯が点く気配はないが、出来れば灯らないままであって欲しい、と願ってしまう。書棚の前を歩きながら長机の間を隈なく照らして回るが、三人の姿は見当たらない。阿藤を見下ろす背表紙の群れにしても、心理学や宗教論、哲学書など、研究の中核からは遠い言葉を冠したものばかりだ。

 嘉納が揺らすパイプ椅子の軋みを遠くに聞きながら、二、三、目に留まった背表紙を指先で引っかけてページをめくる。プラセボ効果、想像妊娠、捏造される記憶――人の心と体の繋がり、曖昧なその成り立ち。至高細胞が宿主の意思を反映するものである以上、こういった分析研究もまた、必須であったのだろう。まるで別世界の、或いは己とは別種の生き物の症例・病態の話を聞いているようで、どの資料の内容も阿藤には大した訴求力を持たなかった。


 手にしていた書籍を棚に戻す際、阿藤はふと、押し込んだ書籍の背表紙が隣の背表紙よりも前へ出ている事に気付いた。同じセクションに収められている、同じような寸法の本にも関わらず、明らかに――五センチ程――飛び出している。

 懐中電灯を左手に持ち替え、飛び出ている背表紙付近の本を取り出しては左腕に抱えていく。やがて背板にもたれかかるようにして隠し収められた一冊の本が現れた。阿藤は右手に懐中電灯を握り直し、それを照らす。

「また〝サネミツ〟か……」

 表紙をこちらへ向けた状態で押し込まれていた書籍には、タイトルの斜め下に『磯井実光』の四文字が小洒落たフォントで記されていた。抱えた書籍を床へ置き、真っ直ぐに阿藤を見つめるその本を手に取る。外観から受ける印象に反して、軽い。懐中電灯で本の上部から照らすと、すぐに理由が明らかになった。ほとんどのページが破られ、失われているのだ。


『神聖なる喜劇』


 懐中電灯を前歯で噛み咥え、デザインと言うには簡素な、幾何学模様を薄くあしらった照りのあるカバーに書かれた短いタイトルを中指の腹でなぞる。小指が背表紙にかかった所で親指を表紙の端へ掛けて開くと、遊び紙に手書きの文字が躍っていた。

 サインと思しき文様じみた何かと日付、部分的に塗り潰されていて宛先を判ずる事は出来ないが『**くん江』と宛名が入れられている。わざわざ『江』という表記を用いている点から、磯井実光なる著者はそれなりに年配なのだろうかと、阿藤は首を捻る。記された日付は一九八六年。阿藤が生まれた年のものだ。

 目次と前口上を読み飛ばし、本を傾けてページを繰る。数秒も経たぬ内、結末を失った最後のページに行き当たり、阿藤は手を止めた。


『――とする架空の冒険詩編である。


 『神曲』の原題は『La Divina Commedia』である。

お分かりだろうか?日本語に直訳すると、『神聖なる喜劇』となる。

ダンテ自身は元々『Commedia(喜劇)』と題していたが、

後に出版され、世に出回る際に神の威光がかかったようだ。

これを喜劇と称したことについては諸説あるが、

私はこれが『神聖な』ものになったことについて、非常に愉快な皮肉であると思う。


これより先は筆者の推論であるが――』


 見開き間際に綴られたその文章より先に在ったはずの、筆者の主張を知る事は叶わない。阿藤は首を傾げ、遊び紙に戻って塗り潰された宛名と向き合った。

 このサイン本を受け取った〝誰か〟は、何を思って〝磯井実光〟の思想を、主張を否定したのだろう。ほぼ全てのページを破り捨てるという苛烈な行動に及びながら、何故この本を隠し置いたのだろう。

『神聖な』『喜劇』。掌に載っているそれは、どう見ても〝悲劇〟でしかない。


 並べ置かれた本と棚板の隙間にその悲劇を放り込み、阿藤は再び足を動かす。

やがて行き着いたホワイトボードを照らすが、インクは全て拭い去られており、そこに書かれていたのであろう文章を読み取るのは困難だった。

「……ん?」

 前から二列目の机上に、ノートパソコンが載っている。開かれたままのそれに近づこうとするが、足元に伏した亡骸が通路を塞いでいて進めない。迂回しようと方向転換しかけて、阿藤は動きを止める。

 このフロアに降りてから、何か――些細な、しかし看過できない違和感が付きまとっていた。数多の躯。荒れた風景。それは明るさの違いによる錯覚と考えていたが、阿藤はようやくその正体を掴んだ。

「死因が、違う……?」

 傷だらけになって白ばんだ革靴の先、血溜まりに口付けたまま動くことのない肉体。首にかかっている空のIDケース、赤く染まったロマンス・グレー。背を過ぎ、真っ直ぐに伸びた脚の先、天を仰ぐ靴底に至るまで、至高細胞による黒の汚染も、大きな欠損も見られないその死体。彼の命を絶ったのは、恐らく――。

「あ」

 死体の下半身、大きく広がった白衣のポケットから、くすんだ茶色が覗いている。通路を覆う血溜まりを飛び越えて左側に立ち、身を屈めてそれを拾い上げると、固く厚い紙の表紙には年号が刻まれていた。

 適当なページに指を差し込み片手で開く。左上に日付が記された正方形の羅列が現れた。冊子後半の頁の下辺からは、紐のしおりが垂れている。そこを開こうと懐中電灯を握る右手を手帳へ添えると、突如手元の光が極端に照度を落とした。

「!」

 瞬きの間に視界は闇で満たされる。懐中電灯の頭部を回してスイッチのオン、オフを繰り返すが、一度だけ強い光を放った電球はそれきり沈黙してしまった。

「くそ……嘉納さん、何か持ってませんか!」

 出入り口付近に視線を向けるが、まだ暗闇に慣れていない両眼では数十センチ先さえ見通せない。何かないかとあらゆるポケットを叩くと、硬質の薄い板が掌に触れた。

「そうだ、スマホ……」

 ホームボタンに触れると画面が青白い光を発し、先程よりも低い明度で、しかし広い範囲が照らされる。一通り周囲を照らして脅威が迫っていない事を確かめ、安堵の息を漏らした阿藤は「大丈夫ですか?」と呼びかけながら出入り口の方へ画面を向けた。

 間口の傍らに佇むパイプ椅子の座面および背もたれがブルーであり、長机に備えられているものとは色が異なる事に、阿藤は初めて気づいた。右斜め前の長机を小走りに迂回し、左右を交互に照らしながら出入り口に行き着くが、白い影は現れない。

「……は?」

 低い声が漏れる。やがてこれまで蓄積してきた鬱憤に火が点き、煮え立った血は口から叫びとなって放たれた。


「はあァ⁉ どこ行った⁉」


 手近な長机の下、パイプ椅子の間を小さな光源で照らすが、やはり反射するものはない。阿藤が情報収集に集中するあまり聞き逃したのか、はたまた気付かれないようこっそりと抜け出していったのか、嘉納は音もなく室内から姿を消していた。

 阿藤は奥歯を噛み締め、スマートフォンを握ったまま両手を腰に当てて天を仰ぐ。

 嘉納の行動を把握できるとは考えていなかったが、彼自身が行動を共にする事を提案してきた以上、勝手に離脱するとも予測していなかった。いくら会話を重ねてもどこか胡散臭さを感じるあの男の発言を素直に信じていた己に気付き、阿藤の眉間に深い皺が刻まれる。

 何らかの思い付きで一時的に姿を消しているのか、或いは――。

「考えても無駄か」

 目を伏せ、解に辿り着けない疑問を溶かした吐息を短く吐き切ると、阿藤は手元のスマートフォンを操作して明かりを消し、再びポケットへと収めた。

 この部屋に危険がないことはこの数分で概ね確かめられた。細胞の宿主による殺害でない以上、倒れ伏す死体達が立ち上がって来ることもない。阿藤は細い目を更に細め、辺りを閉ざす暗闇に目を凝らす。

 漆黒から涅色、そして鉛色へ。時間をかけて徐々に変ずる視界の色に瞬きを繰り返し、物の輪郭を確かめるようにゆっくりと視線を這わせていく。距離に比例して精度は落ちるものの、足元の障害物を判ぜられる程度には目が慣れた所で阿藤は誰にともなく頷き、ドアノブに手を掛ける。

 嘉納は会議室へ入る事を渋っていた。何か見られては困るものがあったとするのなら、隣の会議室Aで〝見られては困る何か〟の処理をしている可能性がある。その〝何か〟を知ってしまうリスクはあるが、何も見ていないとしらを切り通す自信も、それと同じ程度には持っていた。


 戸の陰から顔を覗かせる形でまず左――南廊下の突き当り――側を伺う。先程嘉納の手で葬られた元ドールの水溜まりが広がっているが、新たな危険の気配はない。

 続いて右側へ視線を向ける。東廊下までは見通せないが、少なくとも南廊下にクリーチャーやドールの姿はなかった。

 阿藤は廊下へ踏み出し、白衣を目印に死体を避けながら会議室Aの前へ立つ。扉に耳を当てるが、物音は聞こえない。嘉納が隠蔽工作に精を出しているのならノックすべきかと緩く握った拳を上げるが「馬鹿馬鹿しい」と呟く己の声に背を押され扉を開いた。

「う……」

 飛び出しかけた悲鳴を飲み込む。

 会議室Bとは異なり、こちらの長机は中空の長方形を作るように並べられていた。一、二台は内へ向かって倒れており、廊下に比べて量は少ないものの、その付近には瓦礫と黒い液体が見受けられる。各机には一つずつパイプ椅子が備えられており、部屋の最奥には幅二メートル、高さ一メートル半程のスクリーンが垂れ下がっていた。本来そこへ像を映すべきプロジェクターは光を閉ざし、低く、小さく唸りをあげており、ホラーティックな雰囲気の演出に一役買っている。

 しかし、阿藤の声帯を震わせた原因はそれではない。パイプ椅子に腰かけ、ある者は凛と背筋を伸ばし、またある者は猫背で足を組み、思い思いの姿勢で正面を凝視する数人の人影だ。

 一見すればありふれた会議室の風景である。しかしここにあるのは日常ではない。非日常の中では、ありふれたものこそ異物なのだ。彼等は招かれざる来訪者である阿藤に見向きもしない。それどころか、呼吸による体のぶれさえ見て取れない。ただ真っ直ぐに、前を見ている。

「……」

 阿藤は静かにポケットの中のスマートフォンに手を伸ばす。己の体温を写し取ったそれを取り出し、指紋認証ボタンに指を押し付け、灯る画面の明かりで足元を照らす。座した人間達は微動だにしない。忍び足で壁際に設えられた本棚へ歩み寄り、ライト機能を最も照度の低いレベルで起動し、一つ深呼吸をした後、光源を白衣の背に向けた。――やはり、動く者はない。

 音のない会議を行う白衣の人影達を照らすが、その中に見知った顔――具体的には、白い薄笑い――は見付けられなかった。悪趣味にも彼等の中にしれっと混ざり、阿藤が接近した所で脅かすくらいの事はしそうだと考えていたのだが。目的の不達成を早々に察した阿藤は「うーん」と小声で漏らし、壁際の掲示物を照らした。

「あ」

『リスト管理番号 担当者区分一覧』と銘打たれた掲示物の中に『田中有希』の四文字が浮かび上がって見える。

「田中さんは〝二十五〟のB……数字の意味はよく分からないけど、このアルファベットは職員証のランク……か?」

 遥か前の出来事の様にも思えるが、少し前まで行動を共にしていた彼女の名を含め、羅列された氏名には二桁の番号とアルファベットが一つ、割り振られていた。 改めて並ぶ氏名の先頭へ目を遣ると、記憶の箱からちりちりと火花が散る。

「蛇淵、陽……」

 それは確か、独房の広間で。不安に惑う彼女の口から零れた名ではなかったか?

「ランクはS……S? Aランク職員がお偉いさんだって言うなら、Sって……」

 阿藤は息を飲む。柳は恋人の安否と意思を確認した後、どうするつもりだったのだろう。彼女の願いが恋人を――蛇淵を日常へ戻すことであるのなら、それは既に叶わぬ望みなのではないか。「くそ……」ようやく得られた情報の一端が、到底歓迎出来ないものであったことに毒づきながら、阿藤は明かりを滑らせる。

 他の掲示物は『書架の管理に関する告知』『処分書籍一覧』等の内部連絡関係書類と、意図は不明であるがそれらの中央に掲げられた大きな星図程度だ。無意識に己の星座――Geminiと書かれた双子の図を横目に、背後の会議を振り返る。

 攻撃的な素振りを見せるどころか、意思を示す事も、生命活動を為しているかさえ不明瞭な人間大のそれらは、皆例外なく白衣を纏っている。つまり、研究所の所員達だ。中には先程見掛けた区分一覧に名を連ねている者もあるかもしれない。恐らくはドールと呼ばれる状態なのであろう人ならざる者も、こうして真っ当な人の姿を維持している様を見ると、彼等が人であった頃の生、などという感傷的な思考が頭を掠める。

 阿藤は頭を振る。それらを全て受け止めていては、いずれ正気を失う。己を維持する事の重要性。阿藤の中に遺す物は、きっとそれだけで十分だ。


 白衣の背を伝い、長机の外周を撫でて歩く。机の上には資料や飲料のボトル、薄い紙ファイルが置かれており、正常に執り行われていた会議の名残を表していた。それらに何かの情報が含まれているのでは、と考えつつも、流石に手を伸ばす勇気はない。そう断じて廊下への扉に向かおうとした時、阿藤の視界の端に小さな黄色の板が映った。

「あっ」

 カーキブラウンの短い髪。肩幅や机上に置かれた手のサイズから察するに男性であろうその背中の傍に、嘉納が所持していたものと酷似したカードが置かれている。薄明りに浮かぶ色が異なることから、ランク違いの物だろう。阿藤が所持している清掃業者用のカードで開けられる扉は殆どない、というような旨の嘉納の言葉を思い出す。Aランクカードを所持したまま姿を消した嘉納を探す為には、代替のカードが必要だ。一つ、二つの瞬きの内にそう考えを巡らせ、阿藤は口元へ手を当てた。

 唾液を通す喉が鳴る。人影の右前腕、その輪郭から数センチ程度の距離にあるカード。比較的四肢の長い阿藤が目一杯に腕を伸ばせば、確実に手が届く。これだけの時間、室内を物色する阿藤に対して反応を示さなかった者達。――いける。阿藤の脳裏に、無音の声が響く。


 左手に持ち替えたスマートフォンの明かりで挙動を伺いつつ、静かに腕を伸ばす。あと十センチ、あと五センチ。時間にすれば数秒の所作に細心の注意を払い、ようやく阿藤の人差し指がカードに触れた。間接を曲げ、机の縁まで手繰り寄せたそれを親指との間に挟み、胴へ引き寄せ――「!」阿藤が僅かに肘を曲げた事で軌道を変えたカードの角が、人影の腕を僅かに掠めた。阿藤の手が己の元へ戻るよりも早く、人影の頭が回転する。

――頭が、回転したのである。

 それは梟がそうするように、何の異音も伴わず、静かに、滑らかに、正面を向いていた顔面を〝完全に〟反転させた。

 背の上に目鼻と、開いた口がある。阿藤は声を失い、反して人影はこう述べた。

「木下さんも相場さんも可笑しすぎます! 何故あの男を生かしておくのでしょうか? 裁判官ですら脳みそが溶けたのに!」

 会議室中に響く程の声量。沈黙に慣れていた阿藤の鼓膜はそれ自体が音を発しそうな程に強く震え、平衡感覚を奪った。カードとスマートフォンを握り締めたまま後傾した体は為す術なく体勢を崩し、強かに床へ臀部を打ち付ける。

「いッ……!」

 予期せぬ痛み。しかしそこに集中している場合ではない。左手の小さな光を掲げ、照らした先には。


「仲間以外要りません。であるからにして往々に」「肉体は貴方を食す為に暴か」「私ならば腸の壁に菜花を植えて春に」「神経メイズノロジーを解決して啜」「貴方は騙されています!」


 止まっていた時が動き出したかのように、人のカタチをしたそれらは口々に意見を述べる。往来の喧騒にも似た容赦のない音の波。斑に聞き取った言葉はどれも正しく意味を成しておらず、聞き慣れた言語でありながら、全く別の星の言葉にさえ聞こえる。


 そしてその言葉のどれもが――阿藤へ向けて放たれていた。


 正面に座す者、対角線上、或いは長方形の短辺から。カードの所持者であるカーキブラウンの髪の青年を含め、阿藤側の辺に座した者達の頸は、可動範囲を完全に無視して回転している。


声、声、声声声。

 欠損なく、変態もせず、真っ当な人の〝カタチ〟をした、人ではない何か、の、集団。


「う……わ、あああ‼」


 一度は飲み込んだ悲鳴を、二度抑える事は叶わなかった。裏返る声を置き去りに、阿藤は手足をばたつかせて立ち上がり、扉へ向かって駆け出す。縋るようにドアノブへ飛びつき、体当たり気味に開け放とうとするが、音を立てるばかりで一向に開かない。ヒステリックにドアノブを上下させる内、内側へ向かって動いた扉の隙間から廊下へ転がり出た阿藤は、振り返る事無く、真っ白な頭で走る。

 明らかに人ではないもの、体の一部を失った人だったもの、理性を失っていく人。それらは十分に危機感を抱かせ、阿藤に心構えを促す。だがあの会議の参加者達は、姿形はただの人であり、積極的に害を為す事はなく、しかしもう人ではなかった。物体を検知したセンサーが鳴動するように、或いは縄張りへの侵入者に動物たちが吠え立てるように――彼らが阿藤に向けて発していた音は言葉ではなく、人の鳴き声であった。


 怖気から逃げるように足を交互に踏み出し、駆けた先。突き当りに行き着き、阿藤は壁へスマートフォンを握ったままの手を当てた。肩で呼吸を繰り返し、徐々に冷めゆく額の熱を感じながら、じっと床を眺める。頬を伝い落ちた汗が床に黒い染みを作る。一粒、二粒。その数が増える度、阿藤の思考が冷却されていく。

 やがて再び暗闇に目が慣れた頃、阿藤は強く握り締めていたスマートフォンと向き合った。画面には何も表示されておらず、手近な範囲を照らしてくれた小さな灯りも消えている。残りの充電が何パーセントだったか、具体的な数値を思い出すことは出来ないが、想像よりも早くバッテリーを消費してしまったのかもしれない。嘆息と共にポケットへスマートフォンを収め、今度は右手に握っていたカードに顔を寄せる。

 完全にパニック状態に陥っていた自覚があるが、あの状況でよくこのカードを手放さずに来たものだ。自身の無意識に感心しつつ、暗く沈む文字に目を凝らすと、うっすらと『Bランク』の文字が読み取れた。Aランクには劣るものの、それなりに開けられる扉はありそうだ。ランク表示の下に小さく『ID』の文字が認められており、続いて『二十八』の番号が振られていた。先程会議室で見た管理番号は、職員毎のID番号であったようだ。

「二十八番さん、お借りします」

 氏名の内一文字すら思い出せない所有者に向けて礼を述べ、清掃業者用のカードと花蓮から預かったお守りが入っている内ポケットにそれを放り込む。どの扉が開けられるのか見て回る必要があるが、嘉納の捜索と並行して行う方が効率が良いだろう。重要な情報がハイ・ランクの職員にしか明かされない事は容易に想像がつく。結局、あのふざけた同行者を探すのが最も近道だ。

「はあ……」

 壁に背を当て、天井を仰いだ。無我夢中で駆けたが為に、阿藤自身、どこへ行き着いたのか把握出来ていない。

 懐中電灯で照らした地図を瞼の裏で開く。扉を出た時以外に、方向転換をした記憶はない。体が記憶を裏切っていなければ、恐らく北廊下にいる筈だ。北廊下に面していた扉は三つ。ボイラー室、標本室、モニタールーム。ここが北廊下の突き当りであるのなら、右手側の壁には標本室の扉が、左手側の壁にはボイラー室の扉がある事になる。右手の壁を見ると、認証式施錠の稼働を示す小さなランプが点灯していた。先程得たばかりのカードで開けるものか、数歩先ならばそれを試すのも悪くない。


 壁から背を離し、斜め前の扉へ向かって一歩、踏み出したと同時。暗闇の奥で、ちらりと〝赤〟が動く。


 酸欠に因るものと思っていたのだが、滲み来る頭痛の原因は別に存在したようだ。壁と天井の境目を覆い隠す何かが、そこに張り付いている。

〝それ〟と阿藤の間には、目視で三メートル程の距離がある。否――あった。小さな塊から生えた二本の腕――のような影――で壁を這い、ゆっくりと、しかし確実に、阿藤の方へ近付いてきている。

 センチピードよりもコンパクトな体躯。虫と言うには太い、壁を掴む何か。二つの赤は灯ったり消えたりしているように思われたが、距離が近づくにつれ、揺れる長い髪が不規則に覆い隠していたのだと、阿藤は知る。

 僅かな壁の突起を捉えるのは〝指〟。繋がる先は〝腕〟。中央には女の〝頭〟。


――数秒前、見つけたばかりの時よりも、腕が増えている。


 三本、四本、五、六、七―――加速度的に増える腕が、緩やかに下りながら進んでいた壁を離れ、床を捉えた。

そして、阿藤が〝それ〟の髪の束を視認できる距離で、――宙に浮いた。


「……やばい、やばい、やばい」


 阿藤は見た。上階で嘉納と出会う寸前、己を捉えんとあらゆる物を破壊しながら迫る化け物の姿を。

 頑強な扉さえ容易に排除し、阿藤が駆けるよりも早いスピードで移動する、それは――。


「サークル、に、なるのか…!」


 増える腕は十を優に超え、各々が当て処を求めて蠢いている。

 中央で揺れていた髪は肉の輪郭と共に滑り落ち、柔らかな白が露出する。

 眼窩に収まっていた赤は片方が床に弾け、それと阿藤の距離は一メートルを切ろうとしていた。


 サークル――未だ擬きであるが――から距離を置こうと左手側の壁へ寄りつつあった体が、冷たい扉へぶつかる。

 重い衝突音に向かって、無数の腕が伸びる。

 阿藤は指先に触れた、鍵のない、のっぺりとした銀のノブを回し、次の暗闇へ身を投じた。

 閉じた扉の向こうからは、瓦礫を押し除けるような、或いは新たな瓦礫が生じるような、固い音が聞こえる。

 この扉には鍵がない。侵入を拒む術がない。

 辺りに目を転がすと、扉の傍に阿藤の胸程の高さのドラム缶が立っている事に気が付いた。手を掛け、目一杯に力を込めて引くと、ぐらりと傾ぐ。傾いた勢いに乗じて引く腕に更に力を込め、扉の前に倒す事に成功した。ドラム缶内部で液体が跳ねる音の余韻に混じって、鉄の表面を引っかく音が聞こえる。

「どこか、隠れる所は……!」ドラム缶で隠れていた床下に繋がる扉が目に入り、錆びた取手を力任せに引くがびくともしない。早々に諦めて壁際の機械を探りながら、奥へ奥へと向かう。阿藤であっても、滑り込む余地はなさそうだ。扉を引っかいていた爪音はいつの間にか乱暴なノックに変わっている。

 思考の歯車が回らない。落ち着け、落ち着け、落ち着け――繰り返し唱える心の声に応えるように、部屋の奥から人の声が放たれた。


「阿藤さん! こっちです、早く!」


 行き止まりと思われた壁の端。扉に開いた大きな亀裂を隠すように置かれた段ボール箱の隙間から、人の腕が覗いていた。垂れ下がる手首が忙しなく上下し、阿藤を招く。

「えっ?」

「この段ボールをどけて、こっちへ!」

 今にも扉を叩き壊さんばかりのノックの群れに混じって、ノブを回す音が聞こえた。躊躇している時間はない。

 阿藤はその腕に招かれるまま、段ボール箱の奥にある亀裂へと滑り込む。

 四畳半もあるか否かの狭い室内で待ち受けていた人物は、阿藤の入室を見届けるなり室外の手近な木製コンテナを引き寄せ、再び亀裂を閉ざす。コンテナに引っ掛けていた指が外れた瞬間、込めていた力が跳ね返り、尻餅をつくのみならず背中を床に打ち付けて転がった。

 それと同時、大きな質量がぶつかる金属音を皮切りに、ボイラー室を賑わいが満たす。身を守るにはあまりに脆弱な、木箱で塞がれた密室の中で、阿藤は息を飲む。


 ぶつかり、押し除け、時には崩し、引きちぎりながら――数分をかけて空間を蹂躙し尽くした巨大な気配は遠ざかり、やがて阿藤の頭痛が止んだ。

「はあ……」

 漏れた溜息は己の物か、それとも床に寝転がったまま天井を仰ぐ、見慣れた、しかし懐かしいその男の物か。Tの字に両腕を伸ばし、部屋の奥に立ち尽くす阿藤を見上げる――一般的な成人男性と比較して――大きな丸い瞳。不意にそれが眇められ、歓喜を湛える口元から快活な声が放たれた。

「間一髪でしたね、阿藤さん!」


 一瞬、事務所内に居るような錯覚を覚え、阿藤は頭を振って横たわる後輩に手を伸べた。

「大丈夫か?」

「はい、大丈夫です! 阿藤さんが無事で良かったあ」

 寝返りを打ち、阿藤の腕に掴まって立ち上がった信濃の脚元。裾からふくらはぎの辺りまでを染め上げる鈍い赤を捉え、阿藤は目を剥く。

「信濃、それ」

「え? あっ。あー……あはは、実は色々あって、流れ弾を食らいまして」

「笑いごとかよ⁉ 手当てとか、いや、それ以前にさっき転んで」

「手当てはしました! ここであれを見つけて、俺ってホント、悪運強いんだなーって」

「そんなノリでいいのかよ……」

 奥の壁沿いに応急手当用品の箱を認め、阿藤は身を屈めて信濃の右腕を己の首へ回した。阿藤よりも十センチほど身丈の小さな信濃の足元が一瞬浮き、静かに左足が床を捉える。阿藤の一歩に信濃の左足が続き、一とコンマ五人分の足音が進む。

「ありがとうな、信濃。助かった。でも、よく俺だって分かったな」

「えへへ。阿藤さんの声ですもん、聞き逃す訳ないじゃないですかあ」

「お前ね……」

 行き止まりの壁に背を付け、滑り落ちるように腰を下ろす信濃の正面に腰を下ろし、阿藤は胡坐をかく。内腿に肘を預け、前腕を脱力させて背を丸めると、少しだけ心拍が穏やかになったように感じられた。

「……何があった?」

 出来る限りに冷静を装い、静かに阿藤は問う。応急手当用品の上に載せていたランタンを手に取り、灯りを点けながら「んー」と信濃は唸った。

「端的に言えば拉致、です。当時の状況から話した方が良いですか?」

「うん。出来るだけ詳しく」

 阿藤の答えに頷き、信濃の視線が過去へと向く。


「土曜の夕方です。俺は家に居て『魔法少年ディータと神の剣』をリアタイ視聴してたので、日時は間違いないです」

「それ、子供向けアニメだよな? リアタイって何? びっくりし過ぎて話の腰が複雑骨折しそう」

「ええっ、阿藤さん『ディタ剣』見てないんですか? 人生の半分は損してますよ! 『ディタ剣』はアニメと実写の複合作品で、確かにメインターゲットこそ低年齢層ですけど、伏線回収の鮮やかさやキャラクターの掘り下げ、見せ方なんかは大人が見ても十分楽しめる構成になってて……何よりも主演の三輪帝太君が可愛くてですねえ! 最近はすっかり売れっ子で、雑誌の表紙なんかでも」

「いいから。お前の隠れた趣味の話はいいから」

 倍速で語り出す信濃の言葉を掌で遮ると、阿藤は両手の指を組み、親指の腹を合わせて先を促す。始末が悪そうに苦笑いを浮かべ後頭部の髪を撫でつけた後、伏し目がちに信濃は語り始めた。

「エンディングテーマが流れ出したくらいのタイミングで、チャイムが鳴りました。うちのインターホンには画面がないので、ドアの前まで行って『どちら様ですか』って聞いたんです。スコープ越しに見えたのは、スーツ姿の男性が一人。俺よりは年上だったと思います。その人が『警視庁です』って言うんですよ。歪んでよく見えなかったですけど、手帳みたいな物も見せてました」

「警視庁……? 確かにそう言ったのか? 奈胡野市警察や、県警じゃなく?」

「はい。俺も疑問に思いました。でも、聞き直してもやっぱり『警視庁』って言うんです。『東京から来た』って。

俺、少し記憶がないでしょう? だから不安になって、話を聞こうとドアを開けました。そうしたらスーツの人に続いて、四、五人の男の人が入って来て」

「彼等も警視庁の人間だと?」

「いえ、スーツ姿でしたけど、手帳は出しませんでした。なので確認できなかったです。ただ、雰囲気は異様で……圧が強いというか、ねめつけるような目で見られてたのは覚えてます」

 信濃はそこで言葉を区切り、小さく溜息を吐いた。決して大柄ではなく、お世辞にも体格が良いとは言えない信濃を取り囲む眼光鋭い男達。当時の信濃の心中を想像し、阿藤も眉根を寄せる。

「俺、聞きました。『僕が何かしたんですか』って。そうしたら、最初に入ってきた男の人が『落相公園の事件についてお伺いしたい』って言うんです」

「……狂犬病の?」

「そうです。……犬が怖いのは、もしかしたらその事件に関わったせいなんじゃないか、と思って。お決まりの『署までご同行願えますか』に大人しく従ったんですけど……」

「実際の所は警察官じゃなく、ここの所員だった、って訳か」

「そう……なんですかね。大きなバンに乗せられてすぐ、スタンガンで気絶させられて。どういう経過を辿ったかは分かりませんが、気付いた時にはここの実験室……みたいな部屋に居ました。それから……」

「それから?」

 右の頬骨下を指先で撫でながら、信濃は口ごもる。記憶を手繰って動く視線が瞼に遮られ、真ん中分けの前髪が垂れて左右に揺れた。

「すみません。そこからの記憶が曖昧なんです。思い出せない部分が多くて……この脚の怪我をした時の事も、少ししか」

「……思い出すの、辛いか?」

 阿藤の問いに、前髪の下から覗く信濃の唇が真一文字を描く。眉は八の字に下がり、阿藤の様子を伺う瞳は不安に揺らめいていた。先程まで顎の辺りを触っていた右手が伸び、湿り気を帯びた右足の衣服に触れる。

「周りの人が……大騒ぎしながら、逃げてて。何がなんだか分からないまま、でも、俺も逃げなきゃって。ずっと、走ってたと思います。途中で……前を走ってた研究者っぽい人が、俺の後ろに向かって銃を撃ちました。やばい、すぐ後ろに居るんだ、発砲するほどやばい奴なんだ、って思ったら、怖くて頭が真っ白になって。……とにかく、必死でした。意識がはっきりした時にはもう、ここに居て……」

 応急手当用品の側面を左手で軽く叩き「ね」と弱々しく笑って見せる。事務所で過ごしていた頃の信濃からは想像し難い表情に、阿藤はそれ以上の言及を断念した。

「流れ弾ってのは、そういう事だったのか」

「はい。まあ、でも、きっと大した事ないです! さっきもゆっくりなら動けましたし、多分、血は止まってるので」

 信濃は両肘を肩の高さで九十度に曲げ、鼻息荒く言い切ったかと思えば、一転して溜息を吐いた。脱力した様子で背を丸め、阿藤に深々と頭を下げる。

「ごめんなさい。俺が軽率な行動を取ったばっかりに、ご迷惑をお掛けしました」

殊勝――と言うにはあまりに哀れを誘う縮こまった肩に掌を当て、顔を上げた信濃に向かって阿藤は首を左右に振った。

「その場で抵抗していたら、今よりももっと酷い状態になっていたかもしれない。結果論と言えばそれまでだけど、信濃の判断は間違ってなかったよ。こうやって話せる状態で居てくれて、本当に良かった。……それに、此処に来たのは俺の意思で、俺の選択だ。信濃が責任を感じる事じゃないさ」

「阿藤さん……」

 両眼の縁一杯に涙を湛え、信濃が顔を歪める。真下を向いてしまった茶色の頭部に二度、掌を弾ませると、滴る雫を手の甲で拭い去って信濃は阿藤に笑顔を向けた。

「阿藤さん、俺、阿藤さんが大好きです!」

「どんな過酷な状況に置かれても、俺は男にはときめかないんだって事を今理解した」

「あはは!」

 噛み締めるように口を噤み、目元を緩ませるその表情に、阿藤の胸の辺りが仄かな熱を持つ。嘉納の失踪からこちら、張り詰め続け、一度は切れてしまった心の糸を結び直し、阿藤は膝を叩いた。

「よし。信濃、聞いてくれ」

「はい!」

「俺はここから脱出する方法を探してる最中なんだ。光明は差した。きっと、もう少しで見つかると思う」

「えっ! ほ、本当ですか?」

「本当だよ。……ただ、お前は見てないかもしれないけど、外は酷い事になってる。この状態のお前を連れて歩くのは、かなり厳しい」

「っ……」

 続く阿藤の言葉を察し、信濃が押し黙る。無言で己の右脚を見つめるが、アニメやゲームのようにたちまち完治する術などない事を、信濃自身、よく理解している筈だ。悔しさが滲む沈黙を裂き、阿藤は信濃の眼を見て、はっきりと告げた。

「必ず、迎えに来る。だから此処で待っていてくれ」

「阿藤さん、俺は……俺が、阿藤さんに」

「信濃」

 遮る声に、ぽかんと口を開けたまま信濃が声を飲み込む。その顔が場に不似合な程滑稽で、阿藤は小さく笑った。

「お前の顔見て、元気出たよ。無事に帰ろうな」

「……っ阿藤さあん! 俺、俺……本当に惚れそうですう!」

「はいはい。馬鹿言える程元気で何よりだよ」

 両手で顔を覆い、くねるようにして左右に揺れる後輩の挙動を後目に、阿藤は膝を立てて立ち上がる。いつになく酷使していた体を休められた事は勿論、気力を養う事が出来たのは幸いだった。期待と不安の入り混じる視線でもって阿藤を見上げる後輩に小さく頷いて見せ、信濃もそれに倣う。

 それ以上語る事はせず、亀裂の向こうにある木製コンテナを強く押す。阿藤一人がやっと通れる程度の隙間を開け、片足を外へ出した瞬間、信濃が声を上げた。

「あの、阿藤さん」

「ん?」

「正しい記憶なのか、分からないんですけど。逃げてる最中に『西廊下』って言ってる人が何人か居ました。もしかしたら、隠し通路とか、逃げ道みたいなものがあるのかもしれません」

「西廊下……」

 地図上の左側。階段から見て奥側の廊下だ。阿藤が嘉納と共に歩き回っていたのは東廊下側であるから、今後向かう予定でもあった。

「分かった。確認してくるよ。ありがとうな」

 無言で深く頷く信濃の瞳が再び阿藤を捉える様を見届けてから、阿藤は信濃に背を向けた。隙間を抜けて、壊れた機械から漂う熱気で些か蒸したボイラー室へと踏み出す。動かした木製コンテナを押し戻して亀裂を塞ぐと、ランタンの灯りが遮られた室内に暗闇が落ちた。

「……行くぞ!」

 両頬を叩き、前を向く。


 自分を待っている人間が居る。

 諦める事は、出来ない。


                   Ⅱ


「うわ……」

 先程逃げ込んだ時分とはまるで様変わりした室内の状況に、阿藤の喉から苦い声が絞り出された。

 サークルの無数の腕がかき分けたのであろう機器は歪み、亀裂が走り、とても今後稼働する希望は持てそうにない。

 天井から垂れた電線が飛ばす火花の破裂音に肩を竦めつつ、通路を塞いでいるドラム缶を跨ぐ。跨げる脚の長さがあって良かった、等とおよそ状況にそぐわない思考の後、そのドラム缶がサークルの侵入を阻む為に己が引き倒した物である事に気付いた。現在ドラム缶が転がっている地点は扉からゆうに一メートル以上離れている上、側面がひしゃげて踏みつぶされたアルミ缶のように縮こまっている。では扉そのものはと言えば、上部の蝶番で辛うじて壁に繋がっているものの、最早扉としての機能は失っていた。

 サークルというクリーチャーが振るう破壊力に身震いし、阿藤はぐっと奥歯を噛み締める。オリジンβの脅威は勿論の事、どこで派生するか分からないクリーチャー達にも十分注意する必要がある。先程までの短い安息の時、少しばかり回復した気力が早速削げたような心地ではあるが、短い溜息と共にボイラー室を出た。

「さて」

 サークルと遭遇する直前まで、己の思考経路を遡る。対面の壁で光る小さなランプに目を遣り、胸ポケットに収めたカードの内、Bランクのカードを携えて扉の前へ立った。

 サークル――当時は擬き――が阿藤を追って真っ直ぐにボイラー室へ突進した為、その部屋の扉は被害を受けずに済んだようだ。

 リーダーにカードを翳す。開錠音の後、扉が左右の壁に吸い込まれ、阿藤の鼻腔を鋭い刺激臭が刺した。

「う、……理科準備室……」

 地図上に書かれていた『標本室』の字面をようやく思い出し、右前腕で顔の下半分を覆って室内へ踏み込んだ。自動扉が閉まらぬよう、センサーに感知される立ち位置をキープしたまま、周囲の音に耳を澄ます。低く這うような電子音に混じって、水中を気泡が走る音。標本室という名と先程の臭いのイメージから、棚にホルマリン漬けの死体が並ぶ部屋を想像していたが、どうやらそれ以上の設備が設けられているようだ。

 暗闇に慣れ始めた両目が右手の壁際に並ぶ書籍や標本瓶の輪郭を捉え始めたが、やはり要領を得ない。阿藤はカードをしまい込んだ左手でスマートフォンを取り出し、通路を一歩二歩、ゆっくりと歩みながらライト機能を呼び出す。

「……!」

 点灯ボタンをタップしかけた瞬間、右の足首に仄かな温もりがぶつかり、阿藤の体が前へ傾いだ。咄嗟に出た左足で何とか踏みとどまり、ライトをつけて右側へ体を捻る。

「ひッ……」

 吸い込んだ空気が狭まった気道で音を立てた。膝に手を着き、身を屈めて阿藤の眼前に寄っていた青い瞳がにい、と細められる。


「ながら歩き、危ないよ~? アソーちゃん★」


 捕食者に相対した草食動物の如く硬直する阿藤の姿を喉で笑い、嘉納は右手に握っていたナイフを白衣のポケットへ収めた。それで何をする気だったのか、という問いが脳裏を過ったが、阿藤の口から放たれたのは全く別の言葉だった。

「あ……んた、突然消えたと思ったら、こんな所で何してたんですか!」

「ん~? んふふ、なーいしょ」

 白衣の裾を翻し、嘉納はくるりとその場で回って見せる。ポケットに両手を入れて左右に揺れる姿を見ている内、阿藤の心で燻っていた怒り未満の小さな火種は思考停止という名の酸欠で燃え尽きた。

「……何か見つかりました?」

「んーん。この部屋は元々大したもの置いてないしね」

「本当に何してたんですか?」

「あはは」

 阿藤の辛辣な問いに答える事なく、嘉納は手近な標本瓶を指先で撫でる。その表情はライトが照らす範囲から微妙に外れて完全には見えなかったが、阿藤は嘉納がはぐらかした答えを薄ら察したように感じた。

「アソーちゃんは? 何か収穫あった?」

「Bランク職員のカードを入手しました」

「ここに入って来られるって事はそうなんだろうねえ」

「嘉納さんが勝手に出て行った会議室にノートパソコンが置いてありました」

「へえー。どうせ役立たずの情報ばっかりだと思うけど」

「西廊下に脱出口があるかもしれません」

「ふーん。そうなん……」

 話の流れに沿ったまま、適当に相槌を打っていた嘉納が動きを止める。標本瓶に向いたまま阿藤を見ようともしなかった両眼が異様な輝きを放った瞬間を、阿藤は確かに見た。

「マジで?」

 嘉納の頭が後ろへ倒れ、顔面はことりと阿藤の方へ向く。

「今はまだ可能性がある、程度です。今から確かめに行きます」

「アソーちゃあん」

 嘉納の口元に三日月が浮かぶ。ホラー映画さながらの表情に眉を顰め、阿藤は続く言葉を待った。

「俺ね、アソーちゃんならやってくれるって信じてたよ。信じてた。ホントに」

 これほど空虚なおべんちゃらもそうそう聞けたものではない。片目を眇めてはは、と苦笑いを漏らした阿藤の両の二の腕を、嘉納の両手が掴んだ。

「よくやったよ、アソーちゃん! 俺の見る目は正しかった! さっすがあ!」

 状況も憚らず上機嫌な大声を上げ、嘉納は阿藤の体を前後に揺さぶる。スマートフォンを落とさないようきつく握り締め、為されるがままに嘉納の気が済むのを待ち侘びていると、意外にも数秒で解放された。

「さあさあ、早く行こう! 西廊下のどこ? 部屋の中? それとも隠し扉?」

「そこまで詳しくは……一部屋ずつ確かめていくしかないでしょうね」

「いいとも、有能な嘉納サンが居れば百人力だよお!」

「有能な嘉納さん、声が大きいです」

「これが喜ばないでいられるかっての!」

 リズミカルに跳ねながら――本人はスキップのつもりなのではないだろうか――扉へ向かっていく嘉納の背中を眺める阿藤の口から、深く、長く、それはもう永遠に続くような溜息が漏れた。


「うっ」

 扉を潜ってすぐ、正面に突っ立っていた嘉納の背に追突し、阿藤は一歩退く。「お」という小さな声を零してつんのめった嘉納は、逆に一歩前へ出た。

「ねえねえ、アソーちゃん。アレ見てよ」

 振り返りながら嘉納が指差す先には、扉の体裁を失ったボイラー室の出入り口があった。

「ああ……さっきサークル……になる寸前の擬きに追いかけられて、あそこへ逃げ込んだんです。その時に壊されたんですよ」

「えっ、そうなの? なぁんか外がバタバタしてるなーって思ってたんだよね。アレ、アソーちゃんだったんだ?」

「……」

 悉く他人の神経を逆撫でする言動は、最早一種の才能と呼べるのではなかろうか。行く先を塞ぐ嘉納を右へ一歩避け、握り拳大の瓦礫を跨いで東廊下へ向かって歩み出す。

 嘉納は阿藤の数歩後ろを歩き出したものの、右へ左へ好き勝手に飛んでいく為、一向に追い付いて来る気配がない。

「落ち着きなさすぎません?」

 歯に衣を着せる事さえ断念した阿藤の言葉に、嘉納は「えー」と不満げな声を漏らす。

「アソーちゃんってホンット口悪いね。年上を敬えって教わらなかったの?」

「年上……?」

 阿藤は思わず足を止め、振り返る。思いの外近く、二歩程度離れた位置で同様に立ち止まり、首を傾げる姿。奇抜な色合いも手伝ってか、どう高く見積もっても二十代後半、阿藤と同い年と言うにも少々無理があるように思える。とはいえ阿藤も童顔で、初対面の人間には大概若く見られがちであるから、嘉納が阿藤の年齢を見誤っている可能性も考えられる。

「……年齢に関わらず、敬うべき相手には敬意を払いますよ、俺は」

「うーわ。そういう事言う? 親の顔が見てみたいね!」

「生憎早くに死に別れましたので」

「へえ」

 小石程の瓦礫を蹴り飛ばし、転がるそれに追い打ちを掛けながら嘉納が曖昧に相槌を打つ。サークルに変ずる前のクリーチャーが張り付いていた天井の隅に――無意識に――目を遣りながら通り過ぎる阿藤に向け、嘉納は平然と「何で?」と問うた。

 予期しなかった問いに阿藤は面食らい、目を瞬く。今までにも幾度となく家庭環境について他者に説明してきたが、大抵の場合『両親を亡くした』と言えばそれ以上の追究はされなかった。

 会話のリズムを乱した阿藤に、今度は嘉納がゆっくりと瞼を上下させる。

「何で死んじゃったの? 事故?病気?」

「それ、は……ええと、」

 続く言葉が出てこない。

 いつの間にか止まっていた脚を見下ろし、額に手を当てる。

 入退院を繰り返し、学校に通う事さえ叶わなかった幼少期。はっきりと思い出せるのは、いつも胸に蟠っていたさみしさと諦観だけだ。病室の光景は覚えているが、そこに両親の姿はない。常に忙しくしていたとは記憶しているが、病みついた子の見舞いにも来られない程――?

「っつ……」

 右目を掌で覆う。赤い頭痛が走る。思考の壁にぶつかり、脳が痛みの知覚へと逃げ出した。

「良い親だったんじゃない?」

「え」

 唐突に嘉納から投げて寄越された言葉に、顔を上げる。間もなく東廊下への角に差し掛かろうかという一歩手前で、嘉納は立ち止まり、肩越しに阿藤を見ていた。

「人間って、本当に都合の悪い事は忘れようとするでしょ? アソーちゃんにとって親が〝イイ人〟だったから、思い出せないんじゃない?」

「そう……いうもの、ですか」

「さあね。テキトーに決まってんじゃん。知らなーい」

「ちょっといい話風にしておいて、即自分でひっくり返さないで下さいよ……」

 汚れた白衣の裾を翻しながら、角の向こうへ嘉納の姿が消えた。緩やかに遠ざかっていく頭痛から手を離し、阿藤はその言葉を胸の隅へ留め置く。

「アソーちゃん、アソーちゃん! 早くこっち来て!」

「はいはい」

 つい今し方、サークルに追われたという話をしたばかりだと思ったのだが。嘉納の大声に誘われ、阿藤も東廊下へと出て体を右へ捻る。

「あっ」

 このフロア――地下二階――へ降りた当初、東廊下と西廊下の間には瓦礫の山が積み上がっており、先へ進む事は困難だった。であればこそ、阿藤は会議室の探索を優先したのだが――。

「道が、出来て……!」

 明らかに〝掻き分けられた〟瓦礫は左右の壁際に寄せられ、モーセの十戒を思わせる真っ直ぐな道の向こうに西廊下が見えている。多少床材が剥がれているものの、これなら信濃の足でも進めるかもしれない。か細い光明が光を増したように感じ、阿藤は腿の脇に下げた掌を静かに握り締めた。

「アソーちゃんが言ってたサークルだろうね。西へ向かって遠ざかっていったから」

「なるほど。そこまで把握出来ていたなら、俺が追われていたのもご存じだったのでは?」

「追われた甲斐があったね~!」

「都合の悪い話は聞こえない耳なんですか?」

「過去を振り返るより前へ進もう?」

「誤魔化されると思うなよ」

 高揚に任せて軽口を叩きつつ、嘉納の背を追って瓦礫の間を抜ける。一つの関所を抜けたような爽快感。明らかな前進の体感に緩みかける口元を引き締め、視線を前へと向ける。

「さ、アソーちゃん隊長。まずはどこから見に行く?」

「真面目にやってください」

 ポケットから取り出した地図を広げると、阿藤の右腕に被さるようにして覗き込んでくる嘉納の頭を左手で押し除け、地図上に今まで歩いてきた道筋を重ねた。

「ここから先はもう、西廊下になるんですね。さっきの……北廊下。モニタールームには入れなかったな……」

 小さく呟く己の声に重なって、何か音が聞こえる。嘉納が奇声を発しているのかと睥睨するが、阿藤の表情を伺うその唇はしっかりと閉じられていた。

「……、何か、聞こえませんか?」

「何かって?」

 地図を持つ両手を下げ、目を伏せて聴覚に集中する。壁、或いは扉に隔てられた向こう側から聞こえるくぐもったそれは、

「犬の鳴き声……?」

「犬ぅ?」

 嘲笑うように――否、実際その表情は嘲笑以外の何物でもないのだが――語尾を上げ、嘉納が辺りを見回す。

 西廊下に面した部屋は全部で六つ。左手は奥から高度実験室A、Bが並び、右手は奥から処分室、ゴミ処理室、培養室、動物管理室と記載されている。

「すぐそこの……動物管理室、ですかね」

「え~? 全部死んでると思うけどなあ。幻聴じゃないの?」

「根拠は何です?」

「逆に聞くけど、これだけ人間が死んでるのを見てきて、何で犬っころは生きてると思える訳?」

「……」

「……」

 二、三回瞬きを繰り返す間に交わされた無言の問答に、先に折れたのは嘉納だった。

「はいはい。頑固なんだね、アソーちゃんって」

 幼児が喧嘩の際にそうするように眉間に皺を寄せ、口を横に大きく開いてさして綺麗でもない歯列を見せつけた後「無駄足って言葉、知ってる?」と毒づきながら右手の壁を指す。

「そこだよ。シャッター降りてるでしょ」

 指先から伸びる意図の糸を追った先には、確かに厚いアルミ製のシャッターが降りている。――床から十センチ程度の隙間を開けて。

 吸い寄せられるように歩み、シャッターの前に立つと、聞こえ来る鳴き声は先程よりも明らかにボリュームを増した。音の発生源は、間違いなくこの部屋だ。

 低く、低く、床に頬を擦るようにして身を丸め、室内を覗くが物陰さえ捉えられない。スマートフォンの灯りを向けても全容を把握できそうにはなかった。

 姿勢を下げついでに、シャッター自体を明かりで照らす。シャッターが降りかけた際、左のレールに大きな圧力が掛かり、一部が歪んだ為にそこで動きを止めてしまったようだ。停止している位置より上は真っ直ぐに天井へ向かって伸びている様を見るに、下から持ち上げて侵入する事は可能だろう。

 さて、ここでこの鳴き声の正体を突き止めるべきか、否か――。スマートフォンのライトを消して立ち上がり、思考に耽る阿藤の目の前から突然鈍い銀が消える。

「え」

 重厚感を帯びつつも軽やかに鳴る音を奏でるのは、白衣の両腕だ。せり上がった青い視線が阿藤のそれと並び、その少し下に位置する顎が室内へ向かって揺れる。

「俺にはなーんにも聞こえないよ。さっさと行けば?」

「で、でも」

「アソーちゃんが行きたいって言ったんでしょ。早くしてね。あんまり待たせると、丈夫なカノーさんの堪忍袋の緒でも流石に着火しちゃうかも」

「わかりましたよ……行きたいとは言ってませんが」

「いいから行けよ。絶対幻聴だからね」

 念を押すような発言と、一際大きくなった鳴き声が重なる。一瞬、鋭い頭痛に刺された体が不随意に脚を前へ出し、靴の裏が室内の床に触れた。――筈だった。


 酩酊に似た、視界の揺らぎ。それを追うように訪れた頭痛と、赤い点滅。

 きつく閉じた両目。四方を厚い硝子で覆われたように音が遠ざかり、感覚の全てが現実から乖離する。



――そして、阿藤は見た。

 こちらへ向かって敬いの言葉を述べる、見知らぬ白衣の人間達を。

 真新しいリノリウムの床と、打ちたてのコンクリートの壁を。

 檻からこちらを見つめる、沢山の、小さな対の瞳を。


 視線の行き着く先、

 そこに立つのは、

 口を開いた感覚が、

 呼んだ、その名は、


 こちらを振り返った男が言う。


『なあ、これがお前の望む――』



 前方へと伸びた手は、何に触れようとしていたのだろう。

 瞬時に黒く塗り潰された世界の中で掴んだのは、長く揺れる何か。


 引いた右手に感じる質量。黒の中に浮かぶ黒。

 引力に沿って床へ向かうそれが、姿を現す。


 滴り落ちる黒。一塊の、ずんぐりとした体躯。

 あの夜に見た、首のない――



「ひッ、あ、うわっ……!」

 咄嗟に開いた掌を、掴んでいた長い何かがすり抜けていく。直後、かつん、と固い音が足元から響き、阿藤は再び体のコントロールを得た事を認識した。

「ねえ~、アソーちゃーん。まーだー?」

 遠くから嘉納の声がする。現実を確かめようと振り返るが、そこにあるのは大きな壁だ。スマートフォンのライトを片手に通路へ歩み出て出入り口を照らすと、薄い闇のヴェールの向こうに、白い姿とシャッターを叩く指先が奏でる苛立ちのメロディがあった。

「あ、あ……、すみません。すぐ行きます」

 先程まで立っていた位置まで小走りに戻り、床を照らす。

 濁った液体を内包する透明の容器が並ぶ棚。その前に落ちていたのは掌ほどのサイズの外付けハードディスクだった。伸びるケーブルこそ黒ではあるが、本体色は清潔感のある白だ。薄く、角張ったその形状を生物と見紛うには少々無理がある。

 膝を折ってそれを拾い上げ、ケーブルを掌で握り込む。先程掴んだ何かとは全く異なる、無機質な感触。

 見た景色、聞いた言葉、触れた温度。五感で捉えた筈の記憶が、数分と経たず急激に薄ぼけていく。

「何だったんだ……?」

 ストレス環境下における幻覚の線も捨てきれないが、それにしてはあまりにも――。

「アソーちゃあん! 死んだの⁉」

 思考を遮る――何かを呼び寄せかねない程の――大声に、体が数ミリ宙へ浮いた。床に着いていた膝の埃を払いながら腰を起こし「はいはい」と来た筈の道を行く。四つ足の生き物が覗いていた格子の向こうに広がる、赤から目を逸らしながら。


 画面の隅に表示されているスマートフォンの充電は、残り五パーセントを切ろうとしていた。デフォルト画面の照度を限界まで下げ、受信する事はないとわかりつつもサイレントマナーに設定を切り替えてポケットへ収める。

「遅いよ。待たせるなって言ったよね?」

「……そんなに長く居ました?」

「は? 何開き直ってんの?」

「いえ、そうではなく。ちょっと……」

 不機嫌を隠そうともしない様子の嘉納に室内へ踏み込んでからの状況を語って聞かせようと口を開き、しかしすぐに掌で声を塞ぐ。

 嘉納は阿藤達が被験体であると言った。脱出という目的に向けての同行ではあるが、田中がそうであったように、阿藤の観察も兼ねているのだろう。先程の現象がただの幻覚ではなく、実験の影響だったなら? 経過としての良し悪しを阿藤が判断するのは困難だ。万一これが侵食の兆しであれば、嘉納は迷わず阿藤を〝処分〟するに違いない。

 一呼吸の間に心を決め、阿藤は掌を下ろした。

「何もいなかったんです。いつの間にか鳴き声も止んでいて、どれくらいあの部屋に居たのかも……」阿藤の渾身の演技を嘉納は「ふうん」の一言で一蹴し「五分くらいじゃない?」と続けた。


 咳払いを一つ、右手に握っていた外付けハードディスクを差し出して「ところで嘉納さん。中でこんな物を拾ったんですが」と申し出ると、ようやく嘉納が興味を示した。

「何これ。外付け? どこで拾ったの?」

「一番奥の棚に置いてありました。見覚え、ありますか?」

「ないね。ちょっと貸して」

「あっ」

 間髪入れずに阿藤の手から外付けハードディスクをひったくり、上下左右、裏表と嘉納の眼がその表面を舐める。

「持ち出し申請されてないって事は、八割方私物ではないね。完全内部向け、外部には見られたくないデータが入ってそう」

「至高細胞絡みの、という事ですか」

 嘉納は唇を突き出し、ぐるりと大袈裟に眼球を回した。外眼角から姿を現した毛細血管が際立って赤く見え、阿藤は無意識に目を逸らす。

「中身、気になるぅ?」片の口角を持ち上げ、嘉納が問う。悪魔は黒いというのが阿藤の中の常識であったが、それはまさに白い悪魔の誘惑だった。

「上の分析室ならパソコンが何台もあるし、確か緊急用のバッテリーも置いてあった筈。見ようと思えば見られるかもよ?」

 知りすぎるな――と、理性が警告する。対して俗物的な欲求は、この手の情報は十知ってしまったら百知っても同じだ、と、阿藤の好奇心を焚き付ける。

 実験を無効化する手段を――、

 脱出後、何か不測の事態に遭遇した場合に――、

 脱出経路についての情報が含まれている可能性――、

 様々な思考が阿藤の脳裏を駆け巡るが、そのどれもが〝言い訳〟だと途中で気付き、阿藤は嘆息した。既に答えは決まっていたようだ。

「分かりました。脱出口の手掛かりが見つかり次第、分析室に行って中を確認しましょう」

「いい返事。人間は所詮、知識欲の奴隷だよ」

「詩的な事も言えるんですね」

「そりゃまあ、嘉納サンだからね!」


「アソーちゃんのポケット、もう色々はみ出てるから、これは俺が持ってあげるね」と、含みのある嘉納の優しさに甘え、ケーブルを本体に巻いて手渡す。白衣のポケットにそれを滑り込ませ、嘉納は肘を曲げた腕の先、両手の人差し指で左右の壁を指した。

「こっちは実験室。被験体の出入りがある部屋に脱出口を作る馬鹿はいないと思うから、廊下に隠し扉がなきゃあ、あっちの部屋だろうね」

「ええと……手前から、培養室、ゴミ処理室、処分室……でしたっけ? 三部屋ありますけど」

「うん。処分室はほら、アソーちゃん、上から見たでしょ。俺と出会った運命のお部屋から★」

「う……」

 硝子にへばりついた赤黒い肉片の記憶が蘇り、阿藤の食道に熱い液体が込み上げる。鳩尾を腕で押さえ、口元に手を当てて少し身を屈めると、どうにか押し戻す事が出来た。

「だから培養室かゴミ処理室のどっちかじゃない? 制限時間がどれくらい残ってるかもわかんないし、サクサクいかないとね」

「ええ、そうですね……」

 倉知達を探すという阿藤の目的は、嘉納の脳から綺麗に消し去られているらしい。これまで見て回った部屋の中で三人の痕跡が見つからなかった。偶然脱出口を発見し、外で助けを呼んでいる――そんな可能性もないではないが、楽観が過ぎるだろう。最悪、通り過ぎて来た黒い水溜りの内のどれかが――、そんな可能性に行き着き、阿藤の背を冷えた節足類が走り抜ける。

「ねえ、アソーちゃん。これ、ヤバくない?」

 いつの間にか数メートル先の壁に向き合っていた嘉納が、阿藤を手招く。背筋の違和感に身を捩りながら嘉納の隣に立つと、その言葉の意味がようやく理解できた。

「これ……は、この奥だった場合……」

「詰みだよね」

 嘉納が向き合っていたのは壁ではなく、壁程の高さに積み上がった瓦礫だった。地図上では培養室の出入り口に当たる部分の天井が崩落しており、元の姿を思い描く事すら困難な有り様だ。

「で、隣もあんな感じなワケ」

 隣――ゴミ処理室の出入り口も、目の前の山程ではないにせよ、扉の開閉を絶望視するには十分な量のコンクリート片に埋まっている。床の落下物や液体に目を凝らしながら進み、扉の前でスマートフォンのライトを点灯させた。

「うわッ」

 ライトが灯ると同時に、視界の端を何かが走った。咄嗟にそちらを照らすと、巨大な百足の尾が壁の大穴へ消えていく。

「いたのかよ……」

「出て来ようとして引っ込んだ、が正解じゃない?」

「いや近いですって」

 阿藤の右腕に体当たりしたような格好で、嘉納が大穴の中を覗き込む。「ここからなら入れそうだね~。入りたいかどうかは別として」些か青ざめて見える引き攣った笑いに首を捻り、嘉納の体を押し返すようにして阿藤は灯りを床に這わせた。

 解体工事の途中だと言われても違和感のない床に、時折黒く平坦な影が走る。視認できる範囲にはひしゃげたドラム缶や鉄塊と化した何がしかの装置、横方向に折り畳まれたパイプ椅子が転がっているが、その内いくつかの残骸には白い背中が寄り添っていた。巣窟と呼ぶに相応しい光景。阿藤は額に手を当て、ライトを消したスマートフォンをポケットへ収める。

「……武器がありそうな部屋は?」

「対クリーチャー用って事なら、今はもうないね。そもそも俺が持ってるコレだって、ラッキーで手に入れたみたいなモンだし」

「上の独房にあった大きな銃は使えないんですか?」

「ああ、あれ? 使えるよ。体が出来てて、心得があればね。アソーちゃんみたいなシロートもやしが撃ってみなよ。弾は外れて転んだ所を返り討ちだよ」

「……」

 嘉納と出会う直前、阿藤は相対した元研究員にライフル銃を向けた。冷静に考えれば、嘉納が言うように返り討ちになる可能性の方が高かったのだろう。体に響く重い反動と、痺れる掌。攻撃対象の総数が知れないこの環境で〝素人もやし〟が武器を持つ事は、果たして有利に働くのだろうか?

「先に分析室、行く?」

 阿藤の思考の端に浮かんだ言葉を、嘉納が音にして放った。正直な所、ハードディスクの内容についてはそこまで重要視してはいないが、武器を持つ以外のクリーチャー対応策を見出せたのなら儲けものだ。そんなものがあるのならとっくに嘉納が実践している――とも考えられるが〝お偉いサン〟でありながら緊急時の脱出口という至極重要な設備の所在を知らされていない以上、組織から嘉納に与えられている情報には偏りがある可能性が高い。

あと一つ、考慮しなければならない点は――。

「この部屋に、皆が居たら……」

「は? 居ないよ」

 阿藤の口から無意識に漏れた小さな声に、間髪入れず嘉納が応じる。不自然極まりない即答に阿藤が顔を上げると、嘉納は目を細めて笑った。

「ここには居ないよ。これだけべらべら喋ってて、さっきの光にも反応しないんだから居ないでしょ。そもそもこんな状況の部屋に能力発現してるかも怪しい人間が踏み込む理由、ある? 俺達みたく何らかの情報を持ってるなら別だけどさあ、それならそれで今まで手掛かりを得て来た場所に痕跡がないのはおかしいよね? それとも何? アソーちゃんはあの辺這いずってるアレや、そこで蹲ってるアレがそいつらだと思ってんの?」

 捲し立てるような言葉の雨。有無を言わせぬ笑顔が放つ圧力が、阿藤の身を退ける。

 確かに、嘉納の発言には説得力があった。彼等の入室後にクリーチャーが侵入したとしても、倉知は独房の銃を所持している筈だ。容易――とは言えずとも、脱出は不可能でないだろう。そしてもしも万が一、阿藤が想像し得る内で最悪の結末を迎えていたとするのなら。

「……今確かめる必要はない」

「結論は出た?」

 既に上階へ向かう一歩を踏み出した嘉納が振り返る。阿藤は無言で頷き、その背に続いた。


                  Ⅲ


 長い廊下を取って返し、踊場への扉を開いて一段ずつ上へと進む。空気中に含まれる何かの濃度が下がっていくようで、阿藤は深く息を吸った。

「ああ……そういえば、分析室なら少しはあるかも」

 阿藤よりも二、三段先を歩く嘉納がぽつりと呟く。

「パソコンやバッテリー以外に?」

「対クリーチャー弾。検品くらいはしてたと思うんだよね」

「なるほど……」

 検品という表現から、武装品の類は何処かからこの研究所に入荷していた事が窺える。薬品棚で見かけた英字ラベル然り、事の規模は阿藤が想像していたよりも遥かに大きい。これはいよいよもって、後戻りが出来なくなってきた――今更湧いてきた実感に、阿藤は小さく苦笑いする。


 地下一階を分析室へ向かう途中独房へ立ち寄ったが、やはり倉知達の姿はなかった。入れ違いで、との淡い期待も砕かれ、若干の落胆と共に廊下を歩む。地下二階と比較すると心なしか遺体の数が少なく感じるのは、やはり下階に緊急用通路が在る所為か。

 先に思い当たった可能性を振り返る。どの程度のランクに属する職員まで所在が明かされているのかは不明だが、少なくとも田中の口からはその存在すら知らされなかった。検体である阿藤の逃亡――否、脱走を防ぐ目的で伏せていたと考えるのが妥当だろうか。

「あ」

 そこまで記憶を手繰り寄せ、阿藤はある事実に気付く。

「何? なんかあった?」

 阿藤の前へ後ろへと気の赴くままに移動していた嘉納が真横に立ち、口元に当てた手の下から阿藤の顔を覗き込む。

 薄闇の中、はっきりと輪郭を示す白の下に浮かぶ、ふたつのブルー。清廉を絵に描いたような色の取り合わせとは裏腹に、阿藤の胸に去来したのは疑念だ。「いえ」と一言答え、僅かに歩みを早める。

 嘉納はAランク職員証を持っていた。出会って早々に『お偉いサン』と自称していた事もあって、嘉納のランクについては疑いもしなかった。しかし、阿藤が会議室Aで見た管理者一覧に、嘉納扇の文字はなかった。Bランク以下の職員まで記載されているリストに、嘉納の名はなかったのだ。もし嘉納が己のランクを偽っているのだとすれば、脱出口の所在を知らない事にも説明がつく。


 では、あの職員証は誰の物で、何故今嘉納の手にあるのか?

 人の姿を保ったままのドールを、一寸の迷いもなく撃ち抜く姿。

 会議室に踏み込む事を、一度ははっきりと拒んだ理由。

 そこで阿藤が見た、この階の遺体とは死因を異にする骸たち。


「アソーちゃあん、どこ行くの~?」

 上着の裾を引かれ、阿藤の左足が一歩下がる。半身を翻すと、嘉納はもう片手で分析室のカードリーダーに職員証を翳していた。疑惑の種を目の前にし、阿藤は静かに息を飲む。

「嘉納さん」

「はいはい?」

「そのカード」

 言葉の序盤で、嘉納の足が止まった。しかし振り返らない。開いた扉から流れ込む薄明りが、二人の影を前へと伸ばす。

「預からせてもらえませんか」阿藤がそう続けると、嘉納は頭を前へ倒し、顔の正面を阿藤の方へ向けて「何で」と問うた。その表情は平坦で、何も読み取る事が出来ない。余計な詮索をするな、と、あの警告を述べた時のそれに酷似している。

阿藤は体の脇に下げた右手を一度強く握り、中指の爪が母指球に食い込む痛みを捉えてから言う。

「俺をここに置き去りにして、勝手に脱出されると困るので。貴方、前科一犯ですからね」

 平然が過ぎて、却って胡散臭い程の平然。差し出した掌の爪の痕に、嘉納は気付くだろうか。

 長い数秒の後、嘉納は「酷いなあ」と笑いながら身を翻した。白衣のポケットに入れていた右手を出し、左手と共に顔の横に持ち上げてひらつかせる。

「もうしないよお。動物管理室の時だってちゃあんと待ってたじゃん」

「それとこれとは話が別です」

「ちぇー」

 唇を尖らせ、渋々といった様子でカードを取り出す。阿藤の掌に己の掌を重ねるようにして薄い鍵を叩きつけ、そのまま指を曲げて阿藤の手を握った。

「これで、信じてくれる?」

「……それとこれとは、話が別です」

 阿藤よりも少し低い体温。その口元が嘲るものが何なのかは分からない。「冷たいんだァ」などとおどけながら離れていく掌に、阿藤は内心胸を撫で下ろした。


「じゃ、俺はこっち探すから。アソーちゃんはそっちね」

 右と左を順に指し、嘉納は部屋の右側に広がる空間へと向かってさっさと歩きだす。毎度疑問に思うが、何故あの男はこの闇の中を躓きもせず歩けるのだろうか。欧米人はその瞳の色故に夜目が利くと言われるが、それに準ずるものなのか。首を捻り、左手に続く壁の感触を確かめながら、阿藤は細い目を殊更に細め、暗闇に滲む様々な影を凝視して進む。

 二、三メートル程進んだ所で壁は左へ折れ、それに従って進むと、やがて壁面とは異なる冷たい素材に触れた。扉の上方には覗き窓が設けられているが、何しろ闇の向こうの闇である。微塵も状況が窺い知れない。

「開くのかな……」

 嘉納から預かったばかりの赤いカードを取り出し、扉面のリーダーに翳す。電源灯こそ点いていなかったがセキュリティ自体は生きているようで、深いノイズに覆われた人口音声が何事かを呟いたかと思うと、開錠音がそれに続いた。

「おっ、入れそう」

 ノブに手を掛け、手前へ引く。外枠かヒンジが歪んでいるのか、金属がコンクリートを削る不愉快な音を立てて向こう側への道が開けた。それとほぼ同時に駆ける足音と、少し遅れて何かの衝突音が届く。阿藤は体を後ろへ傾け扉越しに様子を伺うが、続く音のない事を確かめると足元の敷居を跨いだ。


続く

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