眠れぬ夜の物語

胡桃ゆず

森の夜

 どこかの国の、深い森の奥に、静かな夜はやってくる。

 時折夜行性の動物たちの走り回る音や、獣の鳴き声が思い出したように聞こえてくる以外は、今日は風もさほどないので物音もしない。昼間だって人が来ることはないような場所だ。ましてやこんな時間に歩き回っている人もいないだろう。もしいるとすれば、人生の迷い道に入ってしまって抜け出せず、ここを天国か地獄と間違ってやって来てしまった人だと疑ってしまうかもしれない。

 もう少し寒くなったら、雪だって降ってくるような、そんな凍える季節なら尚更。

 そういう森の中に一軒だけある小さな木造の小屋に灯る明かり。そこには、一人の少女と一人の青年が、言葉を交わすわけでもなく、暖炉の火を囲んでいた。少女は何をするでもなく、温めたミルクにはちみつを垂らしたものを飲みながら、時折窓の外など眺めている。青年は、本を読みふけり、自分の世界に入り込んでいた。

 外から聞こえてくるフクロウの鳴き声が合図となったように、少女がまた窓の外を眺めながら、ふとつぶやいた。

「今日は何日だったかしら」

青年は読んでいた本から目を離し、顔を上げた。

「二十五日。満月なら過ぎたよ」

「そうだったっけ。別にどうでもいいんだけど」

 そう言いながらも、少女の目はずっと窓の外に向いている。月にでも行きたいだなんて思っているわけでもあるまいに。星をその手に一掴みして、砂糖菓子のように頬張りたいなどと思っているわけでもないだろうに。

 もしそうなら、後で金平糖でもあげようか。青年はそう思ったかどうかはわからないが、彼女のことをからかうように笑った。

「その割に、ずっと外を見ているじゃないか。ここは夜に外を見たって、星と月の他には真っ暗闇しかないのに」

「充分じゃない。夜空の主役よ。夜なのにあちこち光って眩しい都会っていうのは、なんだか野蛮で好きになれないのよね」

「ただ単に君は都会の光に慣れていないだけだろう。逆に、そういうのに慣れている人には、ここの夜は怖いかもしれないね」

 彼は静かに本のページを捲った。伝説の殺人鬼を描いたホラー小説。文字の世界は読んでいる人の頭にしかその世界が現れない。彼の世界は誰にも浸食されないし、彼の世界が誰かの世界を侵食することもないのだから、何を読んでいようと勝手ではあるけれど。今の彼の頭の中の世界よりは、この森の闇の方がずっと優しくて、そっと包んでくれるではないか。

 自分ならば、わざわざそんな恐怖で頭の中を満たすようなことをしたくない。夜に読むならば、うんとロマンチックな本の方がいい。眠る時には、きっと素敵な夢を見られるだろうから。ホラー小説など読んだら、きっと悪夢にうなされてしまう。

 少女はそう思ったものだ。

「あなたはどうなの?」

「ちっとも怖くない。この部屋の明かりは消えないし、本はあるし、何より君がいるからね。なんなら、音楽でもかければ完璧な夜だ」

「まあ、そんな本を読んでいるくらいだから、ちょっとやそっとのことじゃ、怖いなんて思わないんでしょうね」

 彼は、ぱたんと本を閉じて、すっと玄関を指さした。

「そんなことはないよ。たとえば、今、この本に出てくる殺人鬼がその戸を蹴破って入って来たとしよう。そうしたら、きっと震える以外何も出来なくて、いろんな人にも、君にも、いろんなものにも、さよならを言う間もないまま血を流して倒れて終わりさ」

「そうしたら、私が敵を打ってあげるわ」

「君の方が恐れ知らずだね」

 少女はいたずらっぽく肩をすくめて、ホットミルクを一口飲んだ。

「そういうことを言うあなたが一番怖いからよ」

「殺人鬼よりも?」

「ええ」

「嘘だろう。本を愛する心優しい人間だよ。本の世界で遊ぶのが好きなだけで、毒をまき散らす化け物なんかじゃない」

「想像力って、一番の狂気よ。きっと、殺人鬼っていうのは人一倍想像力の逞しい人なんじゃないかしら。その想像が変に歪んでしまっているのだろうけど。その点、あなたはきっと負けてない」

 心外である、と、青年の顔にははっきり書いてあった。少女は勝ち誇ったように得意げな顔をしている。ぱちぱちと暖炉で火の粉が弾ける音が控えめに鳴り、挑発していた。

彼はその火の粉の音の音楽に合わせて歌うように言う。

「でも、力は何でも使い様だよ。想像力だって、使い方次第では素敵な夢になるよ。君は、どんな本が好きかな」

 じっと暖炉の炎を見つめて、少女はしばし思考の世界に沈んだ。誰かが書いた物語ではなく、自分の物語を見つけるために。揺れながら弾ける炎は、彼女に夢を見せてくれただろうか。

 両手で持っているカップをくるくる回しながら、彼女はゆっくりと話し始める。

「そうね……たとえば、あなたが満月の夜には狼になってしまう人狼で……」

「なるほど、だからあんなに君は夜空を気にしているんだね」

「そういうことね」

「でも、それじゃあ、僕は君を食いちぎって殺してしまうかもしれない。それなら僕が読んでいるこの本と変わらないじゃないか」

 少女は頭を横に振った。

「だって、あなたは本を愛する心優しい人間だって、自分で言ったじゃない。そんなのあんまり信じてはいないけれど、いいのよ、これは私の物語なんだから。……だから、あなたは私を絶対に食い殺さない」

「へえ……それは、それほど君は僕に大事にされているという自負かな」

「自負じゃなくて、願望よ」

 うーん、と、青年は唸りながら、遺憾の意を思いっきりその顔に表していた。

「そう言われると、僕に対して不満があるようにも聞こえるけど」

「そうは言ってないけど、言ってる」

「やっぱり言ってるじゃないか」

「だから、言ってないって言ってるでしょう」

「でも、言ってるって言った」

 子供じみた反論をしてくる青年を、少女はカップを夜や乱暴に机の上に置くことで黙らせた。

 しん、と、この森本来の静けさが、この部屋にも戻ってくる。外でばさばさと何かが羽ばたく音がしていた。きっと、さっきのフクロウがどこかへ飛んで行ったのだろう。

「まあ、いいから続きを聞いて」

「うん」

 彼は一度座る姿勢を直した。そして、本をテーブルの上に置き、完全に彼女の話を聞く体制を整える。彼女はそれに満足して、一度頷いた。

「それでね、私は満月の夜に狼になったあなたの暴走を止めるために一緒にいるのよ。だから、あなたは私を食べない。暴れ回って、こんな人里離れたところで暮らしていても、この森に狼男がいるなんていう噂が広まったら、あっという間に囲まれて狩られるだけでしょうからね。そうならないように」

「酷い話だ。人間の時の僕は人畜無害なのにね」

「そうなのよ」

 少女は深く頷いた。すると、青年は嬉しそうに、子供のようにはしゃいだ。

「やっぱり、君は、僕が本を愛する心優しい人間だって認めてくれているんじゃないか」

「いちいち話の腰を折らないでよ。あくまでも、物語の中のあなたが、よ」

「じゃあ、君はどんな女の子なのさ」

 ふふ、と含み笑いをした後で、つん、と、彼女は得意げに顎を上げた。

「そりゃあ、誰もが認める美女で、うんと機転も利くし、頭の回転も速い。こんな森の奥に閉じこもっているのはもったいないくらいなの。でも、あなたのことが心配だから、私はここを離れられないのよ」

「まあ、君の想像の君に文句をつけるほど野暮ではないよ。想像なら、なりたい自分になればいい」

「でも、何か言いたいからそういうことを言うのよね」

 むっ、と少女は顔をしかめた。だが、青年はあえてそれを取り合わない。

「黙って聞いているから、続きをどうぞ」

 納得は出来ないものの、少女はテーブルの上のカップを再び手に取ってから、話を続けた。ここは暖かいミルクで心を落ち着かせようというわけである。ついでに、ここから話を広げていく想像力の助けにもなる。一口飲むと、ゆっくりと頭がほぐれていくような感覚。そしてまた、カップをテーブルの上にゆっくりと置いた。

 くるくると、頭の中を回っていく想像。

「私はね、怯えているあなたを見てしまったから。人にも、自分にも。狼になったあなたは、そりゃあ何も考えてはいないでしょうけど、その分、人間の時のあなたは時々ひどく怯えているのよ。だから、私がいるから大丈夫だって、そう言ってあげたかったの。何の根拠もないとしてもね。ところが、実際に満月の夜になって狼になったあなたを見たら、そりゃあ私だって足がすくんだわ。あなたは絶対に私を殺さない、そう言ったけれども、その爪と牙は確実に私に向かっていたんだもの」

「それでも君は、ちゃんと狼になった僕を御することが出来たわけだね。そりゃ、機転も利くし、聡明な人だからね」

「その通り。……私は必死にあれこれ考えるうちに、思い出したのよ。たとえば、あなたが好きなものや好きなこと。そういうもので、機嫌が良くなるはずだわって」

「なるほど」

 青年は頷く。それに少女も頷き返した。

「ほら、あなたは朝食のベーコンエッグが好きでしょう」

「でも、それは満月を連想させないか」

「そうね、それは問題ね。だから駄目。ドーナッツとかクッキーとかいろいろ試してはみたんだけど、全部一飲みにしちゃって終わりよ。だから、食べ物はやめたの。本だって渡してみたら食いちぎって終わりよ」

「ちょっと待って、どの本?」

 彼女は、青年のテーブルの上にある本を指さした。

「今読んでいるそれよ」

「ええっ、酷いな……途中なのに」

「その本を物理的に食べてしまってその内容を吸収するのと、文字で読んで頭の中に吸収するのと、どう違うの?」

「そりゃ、大違いだろう。第一、本は食べるものじゃない。ましてや、ヤギじゃなくて狼だよ」

「ヤギだって本当は紙なんて食べたりしないでしょうよ。果たして、白ヤギと黒ヤギは本当に手紙を食べてしまったのかしらね」そこで、彼女は何かを思いついたように、にやりと笑った。「そう、手紙……手紙ね。私は手紙を書いたの」

「そんなの書いているうちに君が食べられてしまうよ。それに、狼に泣き落としは効かないと思った方がいいよ」

 その笑みがぴたりと止み、うーん……と、少しの間唸っていたかと思ったら、少女はまた次の策を提案した。

「だから、私はそのふさふさの毛を撫でてみることにしたのよ。犬だってそうしたら喜ぶし、落ち着くでしょう。でもその時に注意しなきゃいけないことがあるのよ。尻尾は絶対に触っちゃ駄目。余計に怒るだけだろうから。前に飼っていたことがある犬がそうだったの」

「そうかい?僕が飼っていた犬はむしろ、尻尾を撫でると喜んだよ」

「あなたはきっと嫌がるわよ」

「何で?」

 何でと訊かれても、明確な答えなど持ち合わせていない。彼女は適当に話しているだけだ。だから、肩をすくめて、こう言った。

「さあ、知らないけど、なんとなく」

「まあいいけど。それで?」

「それでも、撫でるっていうのは結構な難題よ。あなたに近づいたら殺されてしまうんだから。それでも、私は勇気を振り絞って自分から飛び込んでいったの。すると、あなたはこちらに向かって大きな口を開けて来たわ。私は逆にそれはチャンスだと思った。だって、顔を近づけて来るっていうことは、その鼻面を撫でられるじゃない」

「それは無謀だな」

「でも、私は一瞬の隙を逃さなかった。さっ、と二度ほど撫でたのよ」

 話を聞きながら、彼は思わず自分の鼻を撫でていた。その間に、自分はきっと彼女を食い殺してしまうことが出来るんじゃないかと、案じながら。

「そんなことでおとなしくなるかな」

「なるのよ。他の誰がやったってそうはならないでしょうけど、私がやればね」

 こうなったら、もうだいぶ強引な話運びになって来たが、しかし、おとぎ話としてはむしろわかりやすいし、それはきっと彼女が望む、ロマンチックな物語だ。

 だから、彼はそれを盛り上げるように、外の夜空に広がる星よりも目を輝かせる。わざとだろうか。

「素晴らしい!それって愛の力だろう。……つまりは、君は僕のことが好きなんだ」

「そうは言ってないけど、言った」

「つまり、言ったんだろう」

「でも言ってない」

 そんな言葉遊びなど、彼はもう気にしていない。椅子から立ち上がり、彼女の目の前に立つと、そのまま跪いた。

 そして、彼女は彼の鼻を軽く撫でた。

「私が撫でていれば平気なの。空に昇っているのが月から太陽に代わるまで、そうしていればね」

「そうして、人間に戻った僕は君にこう言うんだね」青年は、少女の手を取ると、その手のひらにそっと口づけた。「僕は、僕の全部を君にあげますって」

「でもそれって幸せかしらね」

 手を重ねたまま、彼女はぽそりとつぶやく。思いっきりロマンチックな結末にしたつもりだったのに、ご不満なのだろうか。

「幸せなんじゃないのかな。……ところで、これって何の話だっけ?」

「さあね、何だったかしら」

 ただの眠れぬ長い夜の、暇つぶしだったのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠れぬ夜の物語 胡桃ゆず @yuzu_kurumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ