第25話
残された人たちは、呆然と兄弟の消えた亀裂を眺めている。
美津さんも、細萱警部補も、風早青年も、皆、呪縛にかかったように無言だ。
舞依は声すら出せずに流れ落ちる涙を拭おうともせず、結依は深く頭を垂れて伏せた顔を両手で覆い──俺自身、思わぬ急展開と衝撃的な結末に、膝がどうしようもなく震えている。
思えば、この呪われた亀裂はその奈落の底に何人の亡骸を横たえているのか。深さもしれない暗穴から、世にもおぞましい瘴気が立ち上ってくるような気がした。
永遠に続くかのような茫然自失からいち早く覚醒したのは、以外にも美津さんだった。
「細萱さん」
呼びかけた瞬間、美津さんの白皙の頬を涙が一筋伝った。
本人の言ったことが真実であれば、余命幾ばくもないとはいえ、自らの命と引き換えに残された栞梛家の家族と緋剣村を因習から解放しようとした成隆氏。その自己犠牲の精神に、美津さんも深く感じ入っているのだろう。二十年以上にわたる献身に対して、どんな思いが彼女の胸中で渦巻いているのか。
それから美津さんは、縞模様の袖に包まれた両手を身体の前で揃えて、細萱警部補の方に真っ直ぐ差し出した。
思わぬ行動に虚を突かれ、意外にも迷いの色を浮かべる警部補。しばらく黙考した後、彼はいつもの冷厳さを取り戻し、諭すような口調で言った。
「罪を負うべき人間は、すでに命をもってその罪を贖っとる。これ以上、罰せられるべき人間がおるとは思わんのじゃが……」
細萱警部補はゆっくりと首を振りつつ、美津さんから舞依・結依姉妹の方に視線を投げた。
(そういえば原塚巡査が言ってたな。細萱警部補はもうじき定年退職を迎えるとか)
長年にわたって心残りとなっていた連続失踪事件の真相が明らかになった今、すべてを不問にして警察官から身を引こうというのだろうか。
法律に詳しいわけでもない俺には、美津さんが三人の男の死に関して、どういう罪に問われるのかはよくわからない。少なくとも、男たちをこの地下空間に誘い出した時点で、彼らは紫乃巫女によって殺されるだろうという認識が美津さんにはあったはずだから、広く捉えれば共犯ということになるのかもしれないけど。
ただ、唯一の証言者だった成隆氏が亡くなった今となっては、事実関係を証明することもできない。
時を隔てて発生した去年の鴇松氏の一件も、成隆氏の口ぶりでは、どうやら栞梛家の家族は関与していないらしい。本当に事故死だったのだろう。
(いや、むしろ……)
不意に心臓の高鳴りを覚えた。
美津さんの件より問題なのは、舞依と結依による死体遺棄ではないか。
彼女たちを日常的に支配し、追い詰め、挙句の果てにデスペレートな行動に駆り立てた原因がお祖母さんにあるとはいえ、犯した罪自体が帳消しになるわけではない。
俺は恐る恐る細萱警部補の顔を注視した。
しかし、彼の様子にさしたる変化はない。先ほどの自身の言葉どおり、姉妹を弾劾するそぶりもなく、無表情に近い面持ちで淡々とたたずんでいる。
警部補も、年若くして残された家と神社を取り仕切っていかねばならなくなった舞依や結依の今後を案じているということなのだろうか。姉妹に対する一瞥は、彼なりのごく控えめなエールだったのかもしれない。
「あ、あたし……」
細萱警部補の言葉に感応したのか、舞依が何か口にしかけた時だった。
どこかから低い地鳴りのような音が聞こえた。
例の亀裂か?
いや違う。どこか地の底の広い範囲から岩盤を通して地表に伝わってきたような轟きだった。
次の瞬間、地面が細かく震える感触が下肢に伝わり、次いで地下空間全体が大きく振動して全身が揺さぶられた。
(地震だ)
おととい通夜祭の最中に起きた地震の余震か。
一同は薄暗い周囲を見回し、さらに互いの顔を見交わす。
揺れはいったん収まったかに思えたが、ほっとする間もなく、一層激しい動きをもって地下空間を翻弄し始めた。
「きゃっ!」
舞依が短く叫び声を上げる。
壁面から、そして天井から、細かい砂粒や石つぶて、さらには拳よりも大きな岩の破片までが落下を始めた。
誰かが叫ぶ。
「まずい。ここは危ないぞ!」
「逃げるんじゃ!」
俺の足元で、この異変に腰を浮かせながらも依然ぼんやりとした様子の結依を、風早青年と一緒に強引に引っ張り起こした。
細萱警部補と原塚巡査は美津さんを、翔吾は舞依と梨夏をせきたてるようにして、忌まわしい地下空間を後にした。洞窟の出口──緋籠堂に向かって、振動に足をとられながら、落下物から身を避けながら、駆ける。
皆が緋籠堂の下のあたりまでたどり着いた時には、やや揺れは小さくなっていた。納戸に続く階段は無事だったが、その踏み板の表面も落下した砂埃に覆われている。
結依を引きずるようにして階段を這い上がり、長持を乗り越えて板張りの床に倒れ込んだ瞬間、ひときわ激しい轟音とともに、異変に止めを刺すような衝撃が全身に伝わった。
少し遅れて階段の下から立ち上ってくる土埃と異様な臭気。幸いにもそれきり振動は収まった。
「助かった……」
安堵のため息が洩れ、激しい脱力感が押し寄せる。改めて周りを見ると、全員大した怪我もなく無事のようだった。しかしさすがに皆、血の気の失せた顔に汗をにじませ、肩で息をしている。
「最後の音と揺れ……洞窟の中で落盤が起きたのかも……」
風早青年がまだ動揺の冷めやらない面持ちで言った。
洞窟内で落盤が発生したとすると、この周囲の地盤にも多少の影響はあるはずだが、見た限りでは緋籠堂に特に被害はないようだった。
「ヤマガミ様の御心かもしれません。穢れた洞窟を封印してしまおうという……」
やや落ち着きを取り戻してきた様子で、美津さんが独りごちた。
不謹慎だけど、その時に見た美津さんの、汗ばむ首筋に貼りついた後れ毛が、後々まで目に焼き付いたまま離れなかった。
いや、そんなことより正隆氏の話では、ごく最近はお祖母さんも洞窟の封鎖を望んでいたらしい。その願いは、意外かつ皮肉な形で成就することになった。最後の最後でヤマガミ様が、お祖母さんの偏狭──だけどあまりにも一途な信仰心に報いたのかもしれない。
「今後のことを考えたら……このまま幕を引くんが最善かもしれんのう」
細萱警部補の感謝すべき職務放棄の宣言を、床に座り込んだままぼんやりと聞いていた。
それから三時間後。夕刻が近づいているとはいえ、まだ熱気漂う遠沢駅の改札口前に、俺たち三人と舞依、そして風早青年がたたずんでいた。
見送りに来てくれた舞依の話では、山から降りて二時間ほど自室で休んでも、結依の状態は回復していないらしい。美津さんや舞依の声かけに対しても反応が鈍く、打ちひしがれた様子で半ば床に臥せっているという。
(何かと心労がたまっているはずだし後始末もあるだろうから、一緒に東京に戻るのは無理だよな)
足元がおぼつかない結依に手を貸しながら山を降りる道すがら、そんなことを考えていたが、やはり彼女はしばらく地元で静養したほうがいいようだ。俺にとっては残念だけど。
妹の状態もさることながら、俺の気落ちした様子があからさまだったのだろう。舞依は俺に向かって、
「結依なら大丈夫ですよ。そのうち必ず元気になりますから」
と言い、それから心なしか表情を引き締めて改まった感じで頭を下げた。
「中峰さん、結依のこと、よろしくお願いします」
彼女自身も今回の件で大きなショックを受けているだろうに、このあたりの気丈な振舞いは、さすがに姉というべきか。一見、結依よりも舞依の方が繊細でか弱い印象を受けるのだが、村人たちから称賛を集めているだけのことはあって、芯は強いのかもしれない。
それよりも、舞依が俺を名指しして結依を託してくれたことに、高揚感を覚えると同時に少し気恥ずかしさを感じた。舞依の目から見ても、俺の結依に対する物腰は露骨だったのだろうか。
でも、姉の舞依から公認を得たような形になって嬉しくもあった。
「それじゃ、僕はそろそろ……」
風早青年がリュックサックを背負い上げて軽く頭を下げた。
ここから上りの列車で県都A市まで南下し、新幹線で東京に戻る俺たちとは逆に、彼は一足先の下り列車で反対方向、つまり北に向かうという。
「いろいろお世話になりました。風早さんのおかげで今回の事件も昔のことも真相が明らかになって……本当にありがとうございました」
舞依の謝意に対して、青年は照れくさそうに手を振りながら、
「いや、そんなことは……僕は鴇松の関わりで動いただけですから。これから神社の方も大変でしょうけど、陰ながら応援しています」
「ありがとうございます。その鴇松さんなんですけど……」
舞依は少し口ごもりつつも、
「お墓がどちらにあるか、ご存知ですか?」
「山梨県の韮崎というところです。甲府の近くですが、詳しい場所を口で説明するのはちょっと……」
「あたし、落ち着いたらお墓参りに行きたいんです。そのお墓って……あの……」
「いえ」
言いよどむ舞依の心中を察したらしい青年は、しかしわずかに表情を曇らせて首を振った。
「鴇松の親父さんの墓所は僕も知らないんです。二人は絶縁状態になっていたようだから」
「そうですか……」
少し落胆した様子の舞依だったが、それでも風早青年に重ねて墓参の意志を伝え、青年は自分への連絡用に、とリュックサックから名刺を一枚取り出して舞依に渡した。
「それでは、皆さん、お元気で」
風早青年は改めて別れを告げ、俺たちも笑顔で頭を下げる。
飄々とした足取りで改札口の向こうに去っていく青年の後ろ姿を見送りながら、思った。
(舞依の言うとおり、結局、事件解決の鍵になったのは彼の存在だったよな)
その事件の幕引きに関して、少し補足を記しておきたい。
俺たちにとっては幸いなことに、細萱警部補は自身の言葉を違えることなく、姉妹の罪を不問に付してしまった。ただし、彼女たちの短慮を厳しく戒めることは怠らずに。彼なりの美学を貫いて警察官生活に幕を下ろしたということだろうか。
だから、あの地下空間で起きたことの一切は闇に葬られることになった。
公的に発表されたのは、緋籠堂の地下に小規模な洞窟があり、そこで紫乃巫女が秘密の祭事を行ったり、山霊漿を作ったりしていたという事実と、紫乃巫女事故死の後片付けをしていた正隆・成隆の兄弟と姉妹の兄・勇人が、落盤に巻き込まれて亡くなったという〝事実を装った虚構〟だった。
実際、落盤の規模はかなり大きなもので影響は地表にまで及んでおり、直下に地下空間があったと思われる部分の山肌が長さ十メートル、幅五メートルにわたって、三メートル前後陥没していたのだ。
被害がないように見えた緋籠堂も、付近の地盤の沈下によって基礎が少し傾いてしまったため、立入禁止になったことを、東京に戻った後、俺たちは舞依とのやり取りの中で知った。
栞梛家と緋劔神社の今後については、二人の弟を事故で失った六条清隆宮司が、舞依の後見人的な立場で支えていくことになったという。
もしかしたら、清隆宮司は弟たちの秘密に気づいており、贖罪の気持ちから美津さんと舞依に対して、そういう申し出をしたのかもしれない。いや、それは深読みのし過ぎか。
口さがない村人たちの間で好ましくないうわさが尾を引くことも心配されるが、基本的には村人たちに受けの良い舞依の努力次第で、いずれ払拭できるだろうと思う。
「それじゃ、俺たちも行こうか」
言いながら、翔吾がバッグを肩に担ぐ。
舞依と梨夏が名残惜しそうに女子トークを打ち切ったタイミングで、俺は舞依に向かって言った。
「結依さんによろしく伝えてください。待ってるからって。それに舞依さんも、いろいろ大変だろうけど無理しないように……」
舞依は俺の顔を直視して無言で頷き、さらに翔吾と梨夏に視線を送って丁寧に頭を下げた。
それぞれ舞依と別れの言葉を交わし、背を向けて歩き出した瞬間、うだるような蒸し暑さを感じて思わず顔をしかめた。まだ八月中旬、暦の上では秋だけど、残暑はしばらく続くらしい。
額ににじむ汗を拭きつつ改札口を出たところで、一度ふり返った。
舞依が穏やかな笑みを浮かべて、控えめに手を振る。その姿が結依と重なった。
(あの笑顔を……早く出迎えてやりたいんだ)
手を振って舞依に応えながら、それが現実になるのは、さほど遠い先ではないような予感が、ふと胸をよぎった。
─了─
緋剣村殺人事件 吉永凌希 @gen-yoshinaga
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