第24話

 再び、地下空間の中を電流のように緊張が走り、そして重苦しい沈黙が澱む。

 原塚巡査も「種受けの儀」という言葉の響きや、この薄暗い聖域に集う当事者の表情から、何やら固く秘されてきた禁忌の匂いを嗅ぎ取っているようだ。少なくとも彼の口調に、興味本位の軽々しさは感じられない。

「原塚さん、それは……」

 成隆氏がため息とともに声を発し、ゆっくりと首を横に振った。それから、俺たち──風早青年を含めて──四人の方にちらりと視線を走らせる。

「こんなところで軽々に話せるようなことじゃ……」

「もう、ええんよ。成さん」

 美津さんが成隆氏の言葉を鋭く遮った。

「今、ここですべてをお話ししましょう。幸か不幸か、舞依も結依も、それから警察の方もおってくださるし……。私はね、穢れをもう全部出し尽くして、祓い清めてから……舞依に後を委ねたいんよ」

 そう語る美津さんの表情には、迷いから覚めたような潔さが感じられた。

 成隆氏は憂いに満ちたまなざしで、美津さんの顔を注視していたが、

「そうか……美津さん、あんたがそう言うんなら仕方ない」

と、深く吐息をつき、しみじみと独語した。

「二十年の間、ずっと秘密を守ってきたのに壊れるのはあっという間じゃ。まあ、そういうもんかもしれん。そもそも守るというても尊いものじゃない。二十年前、いや、それよりもっと前からの前非や宿業じゃ」

 緋劔神社にとっては神聖な儀式であるはずの〈種受けの儀〉を「尊いものじゃない」と断じるあたり、成隆氏がお祖母さんと神社の因習に対して反発感を抱いてきたのは間違いない。彼の沈痛な面持ちの中に、どこか後悔と自嘲の色も窺える。

 ただ……ちょっと引っかかりを感じたのは、美津さんの「舞依も結依も、それから警察の方もおってくださるし……」という台詞。姉妹は後継ぎまたはその候補者の立場だからともかく、〈種受けの儀〉についての告白に警察の存在は関係ないように思うのだが……。


「原塚さん、そして細萱さんも……」

 美津さんはしかし、その二人の警察官にひと声かけて語り始めた。

「種受けの儀というのは、緋劔神社に──栞梛家に、とも言えますが──代々伝えられてきた儀式で、私も、母の紫乃巫女も、祖母の朱鷺とき巫女も、さらにその先代も、後継ぎとなるべき巫女が必ず受けなければならないとされてきました。もっとも、ご存じのように私が神社の跡を取ることはありませんでしたが……」

 感情を押し殺したような硬質な声と表情で、美津さんは語る。柔和で気品に溢れた面立ちが、今は能面のように思われた。ほの暗い地下空間の中で、そこだけ白い。

 そして、白く硬い声がいきなり核心に触れた。

「それは……後継ぎの巫女が、ヤマガミ様から子種を授かる儀式なのです」

 細萱警部補の両の瞳が細くなった。美津さんの言葉の裏を読み取ろうとするかのような目つきだ。

 一方の原塚巡査は、わかったのかわからないのか判別し難い様子で目をしばたいている。

 彼ら、とりわけ原塚巡査にとっては、美津さんの今の言葉だけを手がかりに、その裏に秘められた事実を推察することは難しいのではないか。

 もしかすると、ヤマガミ様から子種を授かるという厳粛な営みを、〈種受けの儀〉においては何らかの象徴的行為で単に代替するものと考えているのかもしれない。ちょうど、神前結婚式における三三九度の盃が、夫婦の契りを結ぶことを意味するように……。

 しかし美津さんは、俺の気がかりを払拭するかのような明快な説明で、彼らの疑問に終止符を打った。

「でも、実体をお持ちでないヤマガミ様から直に子種を授かることなど、もちろんできません。そこで、修行のためにこの村を訪れた宗教家、その中でも霊力がきわめて高いと巫女様が認めた男性に依代を務めていただきます。ヤマガミ様が御降臨なさった依代の男性と一夜限りの契りを結び、その方を通して子種を授かるのです」

 細萱警部補が大きく息を吸い込む仕草を見せた。しかし、その顔に刷かれた驚きの色はさほど濃いものではない。

 彼は、二十年前の失踪事案の調査に携わって以来、緋劒神社と栞梛家に関わり、その内情をかなり把握しているはず。〈種受けの儀〉という言葉から、その実態をある程度洞察していたのではないだろうか。

 それに比べて、原塚巡査の反応は顕著だった。

 美津さんの台詞をしばらく反芻して、ようやく意味するところを理解したらしい彼は、

「そ、そんなことが……いや、ちょっと……」

 などと、混乱と戸惑いに目を白黒させながら、よくわからないつぶやきを口の中で繰り返している。

 おそらく、俺たちが姉妹から初めて話を聞かされたときと同じような思い──絶望的なまでの時代錯誤と不条理が生き永らえていることへの驚きや、悪しき因習に対する嫌悪、旧弊に縛られてきた姉妹への同情──に翻弄されているのではないか。

「私たちは、それが光栄なことだと、祖母や母から繰り返し教え込まれてきました。神と直接交感するという崇高な営みは巫女しか関与できず、血筋の継承を為しえるのも巫女だけ。種受けの儀式を経て初めて、ヤマガミ様と緋劒神社を祀り奉るべき後継の巫女として認められるのだ、と」

 そこで美津さんは、舞依と結依の方に向き直り、少しくだけた口調で続けた。

「あなたらの名前に充てられている〈依〉の字、婆様が〈依代〉に因んで付けたんよ。ヤマガミ様のお導きによって、立派に巫女を務めることができるようにという願いをこめて……」

 こわばった表情で母親の言葉を受け止める姉妹。しかし、名前の由来にありがたみを感じている様子は、さほど窺えない。

「しかし、当のご本人たちにとっては……そんな理不尽極まりない儀式を強制されるなんて……」

と原塚巡査。栞梛家の女性たち、とりわけ姉妹に対する同情に義憤が加わったような口ぶりだ。

「そう。仰るとおり、いくら美化・神聖化しても儀式の実態は変わりません。巫女様が選んだとはいえ、見も知らぬ男性と関係を結び、その子を自分のお腹に宿す。肉体的・精神的な苦痛は当事者でないと決してわからんでしょう。しかも、その不条理にわずか十九歳で服さなければならないんです。私も二十三年前の秋、初めての儀式を経験しました」

 美津さんはそこで言葉を止め、天を仰いだ。思い出したくない過去が脳裏をよぎるのか、やるせなさを吐き出すように大きく息をつく。

 そして、迷いを振り切るかのごとく毅然とした口調で、

「そして翌年の夏、産まれたのが勇人です」

と言った。

「でも私にとっては、子をなすことができた喜びよりも失望の方が大きかった。なぜといって、男の子じゃ駄目だからです。緋劔神社の後継ぎは、巫女を務めることができる女性でなくてはなりません。私は……わたしは女の子を産まなければならなかったんです!」

 語りながら感情が昂ぶってきたのか、美津さんは語気荒くそう吐き捨てた。と同時に、その切れ長の目から涙がこぼれる。

「私は酷い母親です。勇人は生まれながらにして、自分が望まれてなかったのを知っていたんです。あの子に罪はない。すべては、この家系と私の責任よ」

 小さな岩に腰を下ろしたまま、悩める母親はお腹を抱えるようにうなだれて嗚咽を洩らした。

「勇人、ごめんなさいね。二十一年もの間、あなたを守ることも慈しむこともできんかった。本当にごめんなさい」

 すでに亡き我が子に切々と許しを乞いつつ、耐えられなくなったように両手で顔を覆う。それからしばらくは、悲痛なむせび泣きが地下空間を重苦しくこだまするばかりだった。

 長年にわたって息子に対する罪の意識を背負いながら、それを押し殺して生きていかざるを得なかった母親。

 望まれずに生を受けたことを自覚し、不遇と鬱屈のうちに二十年あまりの短い人生を強制終了させられた息子。

 お互いの苦しみと悲しみは、俺たちのような部外者には到底計り知れるものではない。

 そして、暗澹たる面持ちで母親を見つめる舞依と結依の瞳にも、また涙が滲んでいる。

 しばらく感情のほとばしるままに身を委ねた後、ようやく落ち着きを取り戻した美津さんは、

「見苦しいところをお目にかけて、申し訳ありません」

 と謝りつつ、辛い回想を再開した。

「でも、別の意味での修羅場はその後に訪れました。産後の床上げも終わったある日、種受けの儀の相手──確か林野という人でしたが──彼が再び現れたのです」

(林野? つい最近、その名前を聞いたような……)

「大阪の林野哲弘氏か」

 その優れた記憶力を遺憾なく発揮した風早青年のひと言で、俺の脳裏にも昨日の駐在所での一コマが甦った。

 そうだ。原塚巡査の話に登場した二十数年前の失踪騒ぎにおける最初の一人だ。

 原塚巡査もすでに符合に気づいたらしく、俄然緊張した面持ちで美津さんの告白の続きを待っている。

 失踪疑惑と種受けの儀が、ついに黒いつながりを露わにした瞬間だった。

「忌まわしい儀式から一年あまりが経っていました。修行のために来村した林野さんは、三日間の山籠もりを終えた後、我が家を訪れ、母に直談判したのです。私と結婚させろと。世間を取り繕うための名目にはこだわらないから、とにかく私の事実上の夫として栞梛家に迎え入れろと迫ってきたのです」

 舞依と結依は凍りついたような姿勢で固まっている。言うまでもなく初めて聞く話なのだろう。

 あまり下卑た考えを巡らせたくないのだが、林野氏は美津さんの美貌に惚れ込み、一夜だけの関係で終わらせるのが飽き足らなくなったのに違いない。

 いや、ひょっとすると──口にするのも憚られることだが──お祖母さんは、林野氏に依代を務めてもらう見返りとして、美津さんそのものを差し出したのではないか。

 神聖な儀式なのか我欲の狂宴なのか、もう何が何だかわからなくなってきた。それに加えて、こんな浅ましい連想が次々に浮かんでくることにも嫌悪感が湧く。

「もちろん、母は要求をはねつけました。緋劔神社の巫女が種受けの儀で交感するのは、あくまでヤマガミ様であって、その結果として子種を授かり後継ぎを産むのが私たちの使命なのですから、たとえ宗教者でも世俗の方との結婚などできません。でも、そんな理屈で林野さんの要求を拒み通すことはできませんでした。どうしても拒否するなら、勇人の父親が自分だと世間に喧伝してやると、あの人は脅しをかけてきたのです」

 語り続けたせいで息が上がったのか、美津さんは言葉を切って小さく咳払いをした。それから、呼吸を整えようとするように胸のあたりに軽く手のひらを当てたまま、さらに話を続ける。

「種受けの儀は、緋劔神社の営みにおいて秘中の秘です。長年にわたって続けられてきたので、村人の間では半ば公然の秘密になっていると洩れ聞きますが、神社そして栞梛家として表向きに認めるわけにはまいりません。儀式の意味合いから言って、世俗の人である父親の公認など絶対に許されないのです。この村にとってヤマガミ様の神秘と権威は侵すべからざるもの。でも林野さんは、愚かにもその神威に挑戦してしまったのです」

 落ち着いた語り口ながら、美津さんの声が何やら不穏な響きを帯びてきた。その不調和が地下空間に異様な緊張感をみなぎらせる。

 誰も口を挟む者はいない。挟める雰囲気ではなかった。

「母は言いました。『林野の要求を呑むのはもってのほか。こんな男を迎え入れたら、家と神社がしゃぶり尽くされてしまう』と。宗教家としての力を評価して種受けの儀で依代を担わせながら、ずいぶん手前勝手な理屈とお思いでしょうが、母にしてみれば、秘密の露見を恐れるよりも、堕落した男の血が栞梛家に入ってしまったことへの怒りが遥かに強かったのです。結局、母が下した結論は『男の存在を抹消して血を浄化する』というものでした」

 話がとても嫌な方向に進んでいる。一つの破局に向かって……。

「私自身、物心ついた時から母の決断に対して異を唱えることなどできませんでした。操り人形になりきるしかなかったのです。そして……」

 お祖母さんの仕組んだとおり、林野氏をこの地下空間に誘い出して身体を与え──

 彼が忘我の境地にいるその隙に──

 背後からお祖母さんが棍棒で──

 その頭を力一杯──


 舞依が瞳を大きく見開き、両手で口元を覆った。

 結依は今にも卒倒しそうな面持ちで、唇を細かく震わせている。

 細萱警部補の面に交錯するのは憂いと憤りか。

 口を半開きにしたまま、意味のない嘆声を発している原塚巡査。

 どうやら真相を知っていた様子の成隆氏はうつむいたまましきりに首を振り、正隆氏は対照的に驚きの顔で美津さんと自分の弟、それから茫然と立ち尽くす二人の警察官に代るがわる視線を走らせる。

 そして、口を堅く結んだまま微動だにしない風早青年と、痛ましさを満面にたたえて姉妹を見つめる翔吾と梨夏。

 そのまま地下空間は凍てついた。

 結依と舞依が受けたショックの大きさを思うと、胸が痛む。

 それに……運命の歯車が一つずれていたら、二十年前にお祖母さんが犯した非道と同様の所業を、そのお祖母さんに対して孫娘が為していたかもしれないという、あまりにも皮肉な巡り合わせ。

 緋劔神社と栞梛家を取り巻く業の深さや因縁に、暗澹とした思いを禁じえない。

 緊張に続く虚脱感の中で、美津さんは憑かれたように語りを再開した。

「当時は母も五十代でしたから、相手が壮健な男性とはいえ、無防備でいるところを背後から襲えばひとたまりもありませんでした。事の直後、私は母の指示ですぐに母屋に戻り、母は林野さんの亡骸をあの穴に落として凶行の痕を拭い去ったのです」

 美津さんは嫌悪に彩られた瞳で、薄暗がりの地面に穿たれた暗黒の亀裂を一瞥する。お祖母さんが、死体処理を美津さんに手伝わせなかったのは、さすがに娘の心労を気遣ったということか。

「林野さんのことは最悪の結果を招いてしまいましたが、もう一つ、私の気がかりは勇人のことでした。母の言葉を借りれば『穢れた血を引いた男の子』です。私は生まれたばかりの勇人にまで累が及ぶかと恐れていましたが、母もそこまで無慈悲じゃありませんでした。夜籠りの祈祷で穢れを祓ったとして穏便に事を取り計らったのです」

「穢れた血を引いた男の子」か。穢れを祓ったとはいえ、それはあくまで形式的な気休めで、感情的にすっぱり割り切れたわけではないだろう。勇人さんが栞梛家の中で浮いた存在だったというのも、男子であるということだけでなく「穢れた血」が根深い理由だったのではないか。

「その後しばらくして、林野さんの捜索願が地元の──大阪でしたか──警察に出されたとのことで、赤菜署の方が事情聴取に来られました。そのあたりのことは細萱さんがご存知でしょう」

 唐突に指名を受けた形の細萱警部補は、しばしの沈黙の後にいかめしい顔を崩すことなく、口を開いた。

「林野氏は緋劒講の講員で、修行の間も参集殿に宿泊しておったということじゃったから、こちらに事情を聞きに来るのは当然のこと。もっとも婆様は、彼が修行期間中、参集殿に宿泊しておったことは認めたものの、その後のことは一切知らぬ存ぜぬで押し通しよったわ。白々しくも『また来年もお勤めにいらしてほしいもんじゃが』などと言うとったが……」

 語尾にほんのわずかな冷笑が重なる。お祖母さんに向けたものか、それとも自らの不明に対する自嘲なのか。

 細萱警部補が口を閉じると、美津さんは殊勝な表情を作って彼に向かってそっと一礼した。

 お祖母さんが嘘の供述をしたことに対する謝罪の意味であるように思えた。

「初めての儀式に続く騒動はどうにか落ち着きましたが、私にとっての苦難は終わりません。後継ぎの女子を産むため、心身が癒えた翌年の秋には二度目の儀式に臨まなければならなかったのです」

 二度目の儀式……依代の男性……もしかして次の失踪者?

「静岡の梶谷氏か」

 俺の心の動きを読んでいたかのようなタイミングで、風早青年がつぶやいた。

「母が選んだ相手は、今度は神社と直接のつながりのない、単独の巡礼者の方でした。後から知ったのですが、確かお名前は梶谷さんだったと記憶しています」

 やはり……二十年前の連続失踪疑惑の闇が一つひとつ白日の下に晒されていく。

「ですが、今度は……」

 そこまで、何となく起伏を抑えたような調子で憑かれたように語ってきた美津さんが、不意に表情を歪ませ言葉を詰まらせた。口元が小刻みに震え、発せられるのはあえぎにも似た苦しそうな吐息。

 気遣うように見守る一同の注視の中で、美津さんは自らを落ち着かせるように、みぞおち辺りを両掌で押さえながら、言った。

「今度は……儀式の直後でした。一年前と同じことがまた繰り返されたのです」

 一年前と同じこと。つまり──

 梶谷氏の名前が出た時から、いや、林野氏の惨劇の回想から予想はしていたが、改めて戦慄が背筋を貫く。

 無慈悲に振り下ろされる棍棒。

 頭蓋骨が凹み砕ける鈍い音。

 死に瀕した男のうめき声。

 滲んで流れ出す鮮血──


「いやあああああっ!」

 身を裂かれるような女性の金切り声が、洞窟内に響きわたった。結依だった。

「もういや! そんな話、聞きたくない。いや、いや……だ……」

 激しくかぶりを振りながら、いやいやを繰り返す結依。語尾が急に力を失ったかと思うと、貧血でも起こしたかのようにその身体が平衡を失って揺れた。

「あ、危ない!」

 反射的に抱き止める。結依の身体にしっかりと触れたのは初めてだった。不謹慎だけど、心臓の高鳴りを感じると同時に思った。

(結依って、こんなに華奢な感じだったんだ)

 舞依も、すぐ妹の異変に反応して向こう側から手を添える。そして、二人でぐったりした結依を支えながら、心配そうに腰を浮かせていた美津さんの足元に座らせた。

 冷たい地面にへたり込んだ結依は、衝撃のあまり半ば放心したような面持ちだ。

 美津さんは、うつむき加減の姿勢のまま軽く目を閉じ、口をつぐんでしまった。娘を気遣っているのかもしれない。

 空気に気圧されたように他の人たちも沈黙していたが、やおらそれを破ったのは細萱警部補だった。

「つまり、婆様は梶谷氏を儀式の相手に選んだ時点で、生かしとくつもりはなかったということか。林野氏の時のような後顧の憂いを断つための計画殺人じゃ」

 いかにも警察官らしい冷徹な台詞だ。

 美津さんは薄く目を開いて無言で頷き、足元に座った放心状態の娘を見つめていたが、おもむろに語りを再開した。ただし、結依を刺激しないための配慮か、いっそう声のトーンを落として。

「ヤマガミ様の神性だけを受け継ぎ、堕落した男性の部分を浄化するために犠牲になってもらう、という理屈でした。そのため、母は単独の宗教家で係累の少ない男性を儀式の相手として選んだのです。林野さんの場合は脅されてやむなく……という事情がなくもありませんでしたが、梶谷さんは初めから……そう、細萱さんのおっしゃるように、きわめて利己的で計画的で……忌まわしい行為でした」

 美津さんはいったん言葉を切り、何度目かの深い吐息をついた。端正な面に忍び寄る疲労の影がいよいよ濃くなっている。

「そんな呪わしい所業の罰でしょう。せっかく身ごもった子どもは三ヶ月も経たないうちに流れてしまいました。後継ぎの巫女を産むという儀式の目的はまたしても成就せず、私は三度目の儀式に臨むことを余儀なくされたのです。それから、その次の年……」

「もうええ! もうそこまででええ」

 たまりかねたように成隆氏が遮った。

「美津さん。あんたには辛すぎる。それに……その先はわしもよく知っとるから、わしから話す。これは舞依さんと結依さんにとっても大事なことじゃし……」

 成隆氏に集中する視線の中、逆に彼から唐突に名指しされた姉妹は、その意図を図りかねたように戸惑いの色を浮かべた。

「その頃、まだわしは赤菜町の実家で宮司を継いだ長兄の手伝いをしよって、栞梛の家には入っとらんかった。同じ神社の家系いうことで、栞梛と六条は頻繁に行き来しよったし、美津さんとは子どもの頃から付き合いがあってよう知っとったけど、栞梛の巫女の出生にまつわるとかくの噂は、緋剣村から洩れ伝わって来よったんよ。表立っては誰も口にする者はおらんかったし、〈種受けの儀〉の存在もはっきりと確かめたわけじゃなかったけど、ヤマガミ様に因んだ何かの宗儀があると想像はしておった」

 地下空間の虚空に目を据えて、淡々と語る成隆氏。軽い咳払いの後、なおも回想は続く。

「とにかくわしは、年頃になった美津さんのことが気がかりじゃった。今じゃったら……ストーカーか。そう言われるところかもしれんが、わしは美津さんや紫乃巫女や栞梛家の周辺をいろいろ調べ回って、何とか儀式らしいことが行われる日を突き止めた。それが美津さんにとっては三度目じゃったわけじゃが……」

 成隆氏はいつになく熱っぽい視線を美津さんに向けている。

 そうか。明言は避けているものの、成隆氏は美津さんのことを……。

「確か十一月の初旬じゃったか、問題の日の夕方、わしは用事にかこつけて栞梛の家を訪れた後、山に隠れて母屋を見張りながら紫乃巫女と美津さんの動向を窺っておったんじゃ。

 夜もとっぷりと暮れた頃、白装束姿の美津さんが一人で山に入って行った。当然、後をつけていったわけじゃが、行き先は予想どおり緋籠堂よ。そこでまた隠れて待っておると、しばらく経って紫乃巫女が見知らぬ男を案内するようにして、やはり御堂に入っていった。

 その後かなり長い間、外から様子を窺っておったんじゃが、全く人の気配がせんのよ。不審に思って御堂の中に入って……納戸で蓋の開いた長持の仕掛けを見つけたんじゃ。紫乃巫女も、まさかわしが盗み見しよるなどとは思っておらんから、つい長持の蓋を開けっ放しにしとったんじゃろう」

 そこまで一気に喋った成隆氏は、言葉を切って重く息を吐いた。さっき美津さんに向けられていたその視線は、再び虚空に据えられている。何だか、あえて目をそらしているように思われた。

 一方、うつむき加減のまま微動だにしない美津さんの横顔は、白く硬い。

 そして、次なる破局の予感が急速に地下空間を満たす。

「納戸からこの洞窟に降りて、ここの手前まで来たら人の気配がしたんで、岩の陰から覗いてみたら……」

 成隆氏は顔を苦渋に歪めて声を詰まらせた。

「美津さんと男と……それから紫乃巫女が……」

 さすがに言いよどんで言葉を濁したが、皆まで語られずとも想像できる。男女の場面の後に、過去二回と同様の惨劇が繰り返されたのだろう。

 もはや暗然と黙するほかない。鉛を飲み込みでもしたように胸のあたりが重苦しく、声を発するのも億劫になってきた。

「その男が『時松』と名乗っておったことは後から知った。去年、この山で事故死したのも『鴇松』という青年じゃったし、字は違うけど同じ読みの名前に何か因縁めいたものを感じる。もしかすると関係者なのかもしれん」

 成隆氏は〈時松賢司〉と〈鴇松皓司〉の二人を結びつける情報を入手していないのであろう。

 俺たちは風早青年とアイコンタクトを交わしたが、成隆氏の話の腰を折らないように、口を挟むのは控えておいた。

 そして回想は続く。

 問題は、決定的な場面を成隆氏に目撃されたと知った紫乃巫女の出方だった。その思惑次第では成隆氏自身の身にも危険が及ぶ可能性があったが、結局、彼女が選んだのは穏健策だった。成隆氏を養子扱いで栞梛家入りさせることによって、懐柔を図ったのだ。

「美津さんに対するわしの気持ちを、薄々知られておったのじゃろう」

と成隆氏は言う。

 それを機に彼は、栞梛家と緋劔神社にまつわる闇の部分を否応なく知らされることとなった。

 綿々と受け継がれてきた種受けの儀について、それを因とする過去二度の惨劇について、緋劔神社で秘かに行われている山霊漿を使った洗脳について……。

「世間の感覚からかけ離れた実態に鳥肌が立つ思いじゃたが、こうなった以上は一蓮托生、及ばずながら美津さんを支えていこうと決意した。それに紫乃巫女の暴走にも何とか歯止めをかけんと、秘密が明るみに出たら栞梛家と神社は潰れてしまうと思うたんじゃ、でも……」

 成隆氏の眉根が曇る。

「本人を前にして言うのもなんじゃが、わしが栞梛家に入った頃から、美津さんに気病みの兆候が現れ始めた。そのことに関しては、わしがそばにおってもどうにもならんかった。辛うていたたまれん気持ちじゃったけど、ただ唯一の救いは、時松氏との件が美津さんにとって最後の〈種受けの儀〉になったことよ」

 成隆氏はそこで舞依と結依の方に向き直り、わずかに震えを帯びた声を絞り出した。

「翌年、双子の姉妹を無事出産したからじゃ」

 舞依が大きく目を見張る。

 二十年前から続く忌まわしくも悲しい因縁が、今この場に直結した瞬間だった。

「え、え、それじゃ……わたしたちの父親って……鴇松さんの」

 舞依が今にも卒倒しそうな表情で息を弾ませる一方、結依の反応は鈍い。

 状況を理解しているのかわからないような虚ろなまなざしで、依然として座り込んだまま美津さんと成隆氏に交互に視線を送っている。衝撃の連続に感性が摩滅させられたような印象だ。結依は大丈夫なのか。

 ややあって驚きが鎮まった地下空間に、再び成隆氏の声が響く。

「この二十年あまり、美津さんに寄り添って、栞梛の家と緋劔神社の存続のために生きてきたつもりじゃった。でも、それも……」

 またしても沈鬱なため息。

「終わりじゃ、兄貴。もう終わったんじゃ」

と、成隆氏は妙に力のこもった声色で告げると、正隆氏の顔を見据えた。

「これ以上、業を抱えて生きていくのに疲れたわ。それに、わしはもう永くないけん」

 意味深長な台詞の真意を問い質すように、皆の視線が成隆氏に集中する。

「この年明け頃から体調が思わしくなくての、診てもろうたら……胃癌じゃったわ。永くて余命半年らしい」

 突然の告白に皆が凍りついた。成隆氏が身にまとう影の薄さは、それが原因だったのかもしれない。

「いや、診てもろうたのは六条病院じゃないけん、誤診はなかろう。のう、兄貴」

と、成隆氏は自嘲気味に兄を揶揄した。

「ここでわしらは退場したほうがええ。この村を縛る負の連鎖を断ち切るんじゃ!」

 叫ぶが早いか、成隆氏は目を疑うほどの素早さで正隆氏に飛びかかった。

 あまりにも意外な行動に一同が呆気にとられている中、不意を突かれた正隆氏はよろめき、地面の凹凸に足を取られて尻もちをついた。すぐに身体をひねって起き上がろうとするが、そこへ再び成隆氏が襲いかかり、不安定な姿勢の正隆氏を亀裂に向けて突き飛ばす。

 動物的な叫びとともに正隆氏は亀裂に飲み込まれ、成隆氏はそのままの勢いで自らも闇に身を躍らせた。

「美津さん、すまん!」

のひと言を残して──。

 止める間もなかった。

 正隆氏の絶叫が次第に細くなり、やがて──消えた。

 あとには死のような静寂が降りた。

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