夏男
数時間程前に通った道を、再び自転車で走る。馬鹿か俺は。そりゃ春子に振られるわ。自分で吐いた悪態に、うるせーよと応じつつ、ペダルを漕ぐ足に力を籠める。行き先は母校の中学校だ。裏門近くの見えにくい場所に自転車を止めて、様子を伺う。土曜日だけあって、校内には部活をやってる者しかいないようだった。
俺はこっそりと非常階段を登り、2Fのドアを開けて理科室へと侵入する。
「たぶんこの辺に……あった」
教卓の上に、黒板消しと並んで置かれているスマホを見つけ、ホッと一息つく。改めて理科室を一望すると、太陽の光を受けた教室は、昨夜の幻想的な雰囲気とはまるで違っていた。ひょっとしたら光の加減だけでなく、気分的な物がそう思わせるのかもしれない。目に見えるものは、その時の気持ち次第で姿を変える。
そういえば昔、春子が言っていた。時間というのも不変ではない。変化をするものだと。うろ覚えだが、無茶苦茶早く移動すると、時間の流れが相対的に遅くなるとかなんとか。全ての人間に平等なのは、時間の速さではなくて光の速さだけだとか、そんな話だった。正直言って、俺には意味がよくわからなかったが、時間が相対的だという事だけは納得できた。春子が教えてくれたからだ。
春子と過ごしたあの時間、あの夜の日々。あの1秒の長さは、いつもよりもあっという間に過ぎた。夜明けなんて、すぐに来た。黒板に春子が書いていたなんとか理論で説明されなくても、実感できていた。
その黒板には今、俺が書いたメチャクチャな数式が広がっている。昨日の夜、ムシャクシャして忍び込んで書き散らした適当な計算。春子に会いに行くまでに2か月かけると仮定した場合の、とりとめのない計算。必要な情報のリストアップに、必要な金額とその獲得手段、そして期間。
「場当たり的で、無計画」、春子に言われた言葉を思い出す。「場当たり的な『好き』はいらない」、言い返せなかった言葉を思い出す。そんな事はない。俺はずっと、ずっと考えていた。言えなかっただけだ。そんな思いが爆発して、居ても立っても居られずに家を飛び出し、なぜかこの教室に駆け込んでいた。
それでも気持ちは収まらない。なら、「計画的」な事をやってやろうじゃねえかと、勢いだけで計算の真似事を書きなぐった。だが、書くほどに気持ちは昂ってしまい、俺はそのまま教室を飛び出して、自転車で夜の街を当てもなく彷徨っていた。自分でも呆れるほど場当たり的で、バカな行動だ。
くたくたに疲れて家に帰り、目を覚ました俺は、スマホが無いことに気が付いた。どこまで情けないのか。思わず天を仰いで、そして少し冷静になって現場へ戻ってきたというわけだ。せめてもの救いは、こんなメチャクチャな落書きを、春子には見られなくて済んだ事だけだ。
改めて考えると、忘れ物をして良かったのかもしれない。これを残しておくのは、ちょっと不味い。昨晩の俺は、やっぱりちょっとどうかしていたのだ。
黒板消しを手にした俺は、そこで気が付いた。黒板に、俺以外の誰かが書いた内容が書き加えられていることに。俺は思わず笑ってしまった。
赤いチョークで添削された内容。目的地や、見込距離や金額の訂正、新たなリスト項目の追記、ToDoリスト。間違いない。春子だ。あいつも昨日、ここに来たのだ。
「なんだよ。やっぱり気が合うじゃねーか」
末尾には、1問の設問が付け加えられていた。
―――――――
Q:春子は「黙っていてごめんなさい」「酷いこと言ってごめんなさい」
と思っているものとする。このとき、夏男は春子を許してくれるだろうか?
A:はい / YES
―――――――
設問には、2つの選択肢が添えられていた。
「これは難問だ」
俺はマルを付け、写真を撮ってから消し始めた。きっと俺は、春子に会いに行く。その時には小さな黒板を持って行こう。俺たちにはもう、この中学校の黒板も、高校のホワイトボードも使えない。それはもう、過ぎてしまった。だから、だから新しく、2人で使う黒板を用意するのだ。想い出の黒板ではない、明日の黒板を。そしてあいつに、設問をぶつけてやるのだ。どうせ口では、素直な事を言ってくれないのだから。そういう新しい儀式を作って、一緒に歩いて行くのだ。
文句を言いながら設問を解く春子を想像して、俺は忍び笑いを漏らす。ふと、窓の外を見ると、霞んだ春の空の真ん中に、一筋の飛行機雲が伸びていた。
明日の黒板 吉岡梅 @uomasa
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