エピローグ(終)

 辺りは季節的にまだ早い雪が、そぼ降っていた。

 ゆっくりと歩みを進める俺の吐く白い息が空気と混ざり合い、この地球の何処かへと消えて行く。


 今の俺の姿を見ても、かつての恩田正男――カピバランZを想い起こす人など、誰もいないであろう。

 背むし男のように曲がった背中。紫色にむくんだ手足。

 何より、この顔だ。

 めくれ上がった鼻に潰れた片目。それに、まるで昔活躍した伝説のコント集団のボスのように、下唇が突き出している。



 あの日――そう、正義の味方『ジャスティス・タイガー』と最後に闘ったあの日、俺は瀕死の重傷を負って組織のアジトに舞い戻った。

 増強手術の甲斐もなく、俺の新必殺技は空しく空を斬ったのである。


「この状態ではもう、怪人としては使えんな……。こいつを生かすには、普通の人間に戻すしか手は無さそうじゃ」


 俺のぼんやりした意識の中、悲痛な表情のマクシミリアン博士が、噛み殺したような声でそう云った。博士の横には、腕をがっしと組んだ岩田総統が手術台のベッドに寝転がった無残な姿の俺を見つめていた。


「済まんが、カピバランZ……。人間に戻すにはひとつだけ条件がある。元の恩田正男には似ても似つかない姿に変えるということなのだが……よいか?」


 総統が重い口を開いてそう云った。

 俺は持てるすべての力を使い、一度だけ首を縦に振った。

 それを見た総統は、


「……では博士、後は頼む」


 と云い残し、ゆっくりと振り返って手術室を出て行った。

 無骨な背中が、寂しげに揺れていた。


 ――あとは、博士こいつの腕だけが心配なんだが。


 俺の心配など他所に、大好きな手術ができるとあって博士の目は輝いていた。


「では、始める」


 麻酔が効き始めたようだ。

 俺の意識が、海の底のように真っ暗い闇の空間へと沈んで行く。

 何故か感じたのは、不思議な心地良さ。心の軽さと云ってもいいが。


 ――再び俺に意識が戻ったのは、手術から三日後のことだった。

 体中に巻かれた包帯が剥ぎ取られ、いよいよ「俺」という人間の、三度目の誕生を目の当たりにすることになった。

 介護班の隊員が俺の顔面から包帯をするすると外していく。

 やがて鏡の前に現れたのは、およそ『恩田正男』だった頃とは似ても似つかない、背むし男とフランケンシュタインを混ぜ合わせたような姿の俺だった。


 ――マクシミリアンの野郎、こういうときだけはしっかり成功しやがって!


 俺は、己の運命とマクシミリアン博士のたまに成功するへっぽこな改造手術の腕を呪った。



 俺の意識が、現在の俺の中心部分にふわりと帰還した。

 こうしてとぼとぼ歩きながら回想されるのは、辛い思い出ばかりだ。だが、不思議と後悔はない。そんな気がした。

 何故なら――。

 一年前のあの日、俺は昔の自宅で最愛の妻である明子に会うこともでき、直接、お別れが云えたからだ。

 息子に会えなかったことは残念だが、もうすっかり心の整理もついている。いや、ついたはずだ。きっとついている……。

 揺れ動く心境の中、自信を持って云えることがたったひとつだけあった。

 それは、この世から『恩田正男』というひとりの男が消え去った、ということだ。


「……」


 今朝の冷え込みに驚き、急遽、大衆衣料品の店で買った赤いマフラー。

 その費用は、組織から貰った乏しい退職金を当てた。

 早速、首に巻いてみたものの、安物の薄いマフラーは今日の朝からの寒さにはあまり効果は無いようだ。体だけでなく、心も寒いままだった。

 湯気のように立ち昇る吐息に、かき消される街の景色。

 ツンと透き通った昼下がりの空気の中、うっすらと雪の積もった坂道を、俺はゆっくりとでも確実な足取りで登って行く。


 こんな醜い姿になった俺が何故に朝から見知らぬ街を彷徨っているのかと云えばそれは、ある約束を果たすためだった。

 再び、意識が過去へと連れ戻される。



「我が内縁の妻であった本山もとやま百合子ゆりこを捜し出し、このドラゴニアエースの遺品を届けてやって欲しい」


 それは、背むし男と成り果てた俺が、組織を抜け出す時に総統と交わした最後の約束だった。最後の命令――と云ってもいいのではあるが。


「了解しました、総統」


 酷い火傷の跡のようなただれた皮膚の掌を差し出し、俺は総統から手渡された品を受け取った。掌の上に置かれたのは、一枚の薄汚れた免許証と、古ぼけた銀のロケット・ペンダント。これは、カピバランZとしての最後の闘いの時、瀕死の俺が締めていたベルトの隙間にジャスティス・タイガーが無理矢理挟み込んでいったものだった。

 免許証には改造手術を受ける前のドラゴニアAと思われる、本山もとやま和夫かずおという名の、まだ二十歳そこそこの今どきな髪形をした若者の写真が付いている。


「よろしく頼んだぞ、カピバ――いや、恩田君」



 あのとき総統に握りしめられた彼の手の熱さが、右手にまざまざと蘇って来る。


「勿論ですよ、総統――いえ、岩田さん」


 白い吐息に紛れた俺の言葉は、誰の耳に入ることも無く空気に浸み込んでいった。

 右手を薄手の黒いジャケットのポケットに突っ込み、中身を探る。掌に、二つの冷たく殺伐とした感触を感じる。

 あの二つの品は、間違いなく俺の許にある――。

 岩田さんから手渡されたドラゴニアA――いや、本山和夫――の遺品の感触を手に刻みながら、俺は緩い坂道を更に登って行った。



   ☆



 やがて俺の目の前に現れたのは、赤いトタン屋根の小さな木造家屋だった。

 玄関横の、黒ずんだ『かまぼこ板』のような表札を確認してみる。


『本山』


 ――間違いない。

 組織からの離脱から約一年。

 数少ない情報を手繰り寄せ、やっと百合子さんの家を見つけることができたのだ!

 表札横にひっそりと設置された、音符のマークの書かれたプラスチック製の赤い呼び鈴スイッチを押してみる。


「……」


 ――この呼び鈴、鳴ってる?


 そう思うほどに、何の物音も家の中からは聞こえてこなかった。

 扉に手を掛けてみる。

 どうやら、鍵はかかっていないようだ。罪もない老人を金目当ての若者が強盗で襲うような昨今のご時世にしては、かなりの不用心さといえよう。それに、いつ悪の秘密組織がこの家を乗っ取りに来るかもわからないわけであるし……。


 妙なお節介心が芽生えた俺は、「こんなんじゃ危ないですよ」と大声で叫んでやりたい気分になったが、そこは気持ちをぐっと抑えて、ガラガラと建付けの悪い戸を静かに開けて普通に声を掛けてみることにした。


「御免下さい……」


 こんな無様な格好になっても、声の本質までは変わっていない。

 暫く待ってはみたものの何のリアクションもないことに業を煮やした俺は、かつての「恩田正男」の声を遠慮なく張り上げて、家人を呼んだ。


「ごめんくださぁーい!」

「……あぁ?」


 ようやく聞こえてきたのは、道端で蛙が踏んづけられたときのような艶の無い皺枯れた老婆の声だった。

 恐らくは、高齢な百合子さんのお母さんなのだろう。

 その声の主が現れるまでの数分間、俺は辛抱強く小さな玄関で待った。


「どちらさん……だい?」


 玄関に現れたのは、俺と同じくらい背中の曲がったお婆さんだった。足を引き摺りながら歩く姿も、俺と似ている。


「私は、岩田いわた一直ひとなおさんという人の友人で、大政おおまさといいます。実は岩田さんに頼まれて、こちらにお邪魔させていただいた次第でして……」

「岩田――だと?」


 岩田という名前を聞いた瞬間だった。

 急に背筋をピンと伸ばしたおばあさんが、こちらを威嚇するように見下ろしたのだ。


「こちらに百合子さんがお住まいだとお聞きしまして……。今日は是非、百合子さんにお会いしたくてこちらに参ったのです」


 それを聞いた老婆は、暫く値踏みするような目で俺を睨みながら突っ立っていた。

 が、やがて「こっちに来な」という感じで、部屋の奥の方に向けて一回、そのしわくちゃな顎をしゃくった。


「ありがとうございます。お邪魔いたします……」


 靴を脱いでおずおずと家に上がり、ぎしぎし軋む板の間の廊下を奥へと進む。

 背中がへの字に曲がった俺がこれまた背中が九の字に折れたお婆さんの後ろに付いたので、まるでフタコブラクダの歩く姿のようになった。

 俺の予想に反して、その老婆に案内されたのは居間ではなく、そこを通り過ぎた仏壇の間だった。


「これが、娘の百合子だよ……」


 本山のお婆さんが指を指すその先にあるもの――それは、仏壇の中央に鎮座する位牌だった。過ぎた歳月を示すかのように、ちょっと色褪せた感じの。


 ――百合子さんは、亡くなっていたのか?


 口をパクパクとさせて言葉にならない言葉を老婆に向けると、彼女はその意味が分かったらしく、黙って小さく頷いた。

 ようやく言葉を取り戻した俺が、お婆さんに云う。


「そ、そうでしたか。彼女、亡くなられていたんですね……大変、失礼いたしました」

「いや」

「でも確か、百合子さんには息子さんがひとりいらっしゃったかと――」

「……」


 老女は益々悲しげな眼をして、黙り込んだ。

 その視線は、百合子さんの位牌の横にあるもうひとつの位牌に向いていた。


「その横にあるのが――百合子の息子、そしてあたしの孫のはじめさ」


 ――ええ、なんだって!?


 俺は一瞬、何をこの婆さんが云い出したのか理解できなかった。

 もしも、『はじめ』が百合子さんのお子さん――つまりは岩田総統の息子なら、俺の持っている遺品は、一体誰の物だというのだろう。

 俺の口が再びパクパクしだして、開いたまま塞がらなくなった。


「今から二十年くらい前のことだ。若い頃、家出同然で実家を出ていった百合子が、突然、生まれたばかりの赤ん坊を連れて帰ってきたんだ……。事情を訊いてみても一向にそれをあたしらに話す気のない百合子は、その赤ん坊に「はじめ」という名前を付け、ひとりで育て始めたんだよ」

「はじめって……もしかして漢数字の『一』ですか?」

「ああ、そうだよ。あたしには詳しいことを云ってはくれんかったけれど、なんでも父親の名前にあやかった名前だとか……」


 ――なるほど。総統の名前、『一直ひとなお』にあやかったんだな。


 俺は、老婆の言葉に素直に頷いた。


「百合子が『とある組織に追われているからどこか静かなところに引っ越したい』と云うものだから、街から離れたこの場所に引っ越してきたんだよ。結局、組織というのが何なのかは最後まで話してくれんかったが、父親の名字が岩田だといことだけは教えてくれた」

「岩田だと云っていたんですね」

「ああ、そうだ」


 俺は、この家が総統との約束を果たすための場所であったこと――それだけは間違いなかったのだと改めて確信した。


「どうして二人は――」

「ああ、そのこと……」


 すると老婆は、自分の奥のそのまた奥に無理矢理押しやった記憶を手繰り寄せるかのような、苦しげな表情で話し出した。


「あれは、はじめが五歳の時だった……。百合子は脳に腫瘍ができたとかで、あっさり――本当にあっさり死んじまったんだよ。それまでの無理が祟ったんだろうね。

 勿論、あたしも残された孫を育てたかったよ。だが、とっくの昔に旦那が『お陀仏』して定職も無かったあたしにゃあ、とてもとても育てる余裕はなかった。だから泣く泣く、役所にお願いして児童養護施設に引き取ってもらったんだ」

「そう……だったん……ですか」


 俄かには、老婆の言葉を信じられなかった。

 もしかしたら俺の見間違いだったかもしれないと思い直した俺は、恐る恐るポケットに入った免許証を取り出して、そこに記された名前を再び確かめてみた。

 当り前ながら、何度見直してみたところで免許証の名前は元の「本山和夫」のままだった。


「でもあたしゃな、はじめを……たったひとりの孫を、決して見捨てた訳ではないぞ。その頃、足繁く施設に通ってもいたし、働き先を探して余裕ができれば再度一緒に住むつもりだったし……。

 それが、だ。孫が十歳の時だった。

 生まれつき体の弱かったあの子は、風邪をひどくこじらせてしまって、これまた呆気なく死んじまったんだよ。インフルエンザっていう奴かも知れん。

 この世には神も仏もいないのか? 何であたしばっかり取り残されてしまう?――なんてことを、それこそ毎日毎日、考えておったわ」


 老婆が、ぎゅりりと唇を噛み締めて遠い眼をする。

 かける言葉も見つからない、とはこのことだ。

 とそのとき、俺の脳裏をひとつの閃きが通り過ぎた――。


「もしかして……その施設にはもうひとり、同じくらいの年頃で名字も同じ本山という名の少年が、いませんでしたか?」

「もうひとりの……モトヤマ?」


 お婆さんは、恐らくは錆び付いてしまうほど古い記憶ばかりが詰め込まれたその頭を久々に動かしたのであろう。きいこきいこ、と今にも音を出しそうな感じで、ぎこちなく首を左右に振った。

 数秒後、やっと何かを思い出したらしい、お婆さん。

 暗闇に瞬く電灯のような、やや頼りなくも温かみのある笑みを浮かべたのである。


「ああ、和夫かずおちゃんだね! 確かにいたわ、その名前の子。孫と歳も同じで名字も同じだったから、仲良くしてくれてね。親がいないことも似てたし……」


 ――やっぱり。


「和夫ちゃんは、元気いっぱいの腕白坊主だったよ。けど、孫が亡くなったときは本当に悲しんでくれてね……。『いつか僕が、はじめの夢を叶えてみせる!』とか何とか、云ってくれたんだよ。

 その後、どうしても形見に欲しいとせがまれたもんで、孫が肌身離さず持っていた銀のペンダントを和夫ちゃんに渡したんだ」


 ―― はじめの夢を自分が叶える? それって、もしかして。


 ポケットの奥にあるペンダントを、お婆さんには分からないようギュッと握り締めた。

 ひんやりとしたその感触に、気持ちが落ち着く。

 そして、俺は決心した。これらの遺品は、誰にも渡さずに俺が持ち続けるということを。今日のことは、決して誰にも云わないということを――。


 じっと黙り込む俺を見た本山のお婆さんが、急に声を荒げて云った。


「さあ、わかっただろ。ここに百合子はいない。そして、孫のはじめもいないんだ。辛くて思い出したくもなかったが……。とにかくもう、帰ってくれ!」

「……すみませんでした」


 俺はゆっくりと頷いてお辞儀すると、お暇を願い出て玄関に向かってゆっくり歩き出した。


「もう二度と来ないでくれ!」


 建付けの悪い玄関戸が、俺の目前でピシャリと閉じられた。


 ――これでいいんだよな、ドラゴニアA――いや、はじめクンに成り代わっていつか父親に会うという夢を果たしてくれた、和夫クン!


 どうやって和夫が岩田総統の秘密を知り得たのかは分からない。

 悪の組織としてかなりの問題があるようにも感じるが、とにかく若い身空でその秘密を探り出すことは、相当に骨が折れたことだろう……。


 夕刻を迎え、先程よりもだいぶ冷えてきた屋外。

 そのりんとした冷たさに、俺の傷だらけの背中がジンジンと痛み出した。

 俺は、閉められた戸に向かって深くお辞儀した。お婆さんへのお詫び、そして、二人の死者への弔いのために。


 ――この先の道は誰も知らぬ。知るべくもない。


 俺はくるり反転し、俺が先程残した足跡だけが残る雪の坂道を下り始めた。

 歩みを止める気はない。進まねばならない。

 例えその先が、闇に満ち満ちた場所であったとしても――。


 一条の光、求めて。



 <FIN……May be.>

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俺は改造人間 鈴木りん @rin-suzuki

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