10 さようならカピバランZ、の巻


 あの人――私の夫である恩田おんだ正男まさおが突然家に戻らなくなって、早や一年が過ぎようとしている。


 確かに、パッとしないダメ亭主だった。

 何でもかんでも、こっちがリードしてやらないと物事が進まないアホな亭主だった。

 でも、今まで嘘だけはつかなかった――はず。

 性根だけは真っ直ぐだった――はず。


 なのに、どうして何の連絡もないの? いくらなんでも酷すぎない?

 浮気なら浮気でもいいわよ! それならそれで、そのまま油で固めてゴミ箱に叩き込むだけだし。

 まずは、帰ってくることね。話は、それから。

 帰ってきたら、熱湯風呂にアツアツおでんにハリセンパンチの三連発で、決まりだわ。憶えてらっしゃい……


 こんなこと云ってるけど、彼が生きていなければお話にもならないわよね。

 でもね……そう、私にはわかる。あの人は、きっと生きている!

 理由は無いけど、とにかくわかるのよ。彼は絶対に生きている!!


 それに……。

 いつかだったかあの日――帰宅したら、二階の窓が開いていたことがあったわね。

 あの時、あの人はここに来ていたはず。いや……絶対にいたと思う。

 気配はしなかったけれど、彼の「匂い」がしてたから。

 何かの小動物の臭いに混ざった、懐かしい、あの人の匂いが――。

 会社から帰宅した彼のスーツに染みついた臭いで贅沢な昼食をしてないかチェックができる、この私の鼻を舐めてもらったら困るわ!



 だからね、数日前にやって来た妙な男の言い分は全然理解できなかった。

 確か、「岩田」とかいう名前だったかしら……あの、無骨な顔したごっつい体型の五十代くらいの男が、夜になって突然、家にやって来たんだけど――。

 男は、低姿勢だけれどもなんとも云えない「圧力」を感じるオーラを纏っていた。

 玄関で「お宅の旦那さんの件でお話が……」と話を切り出す男を完全には信用できなかったけど、こちらをじっと見据える瞳の奥にある純粋さに免じて、男を居間のテーブルまで案内したわ。でも勿論、背中側にスカートの腰の部分とお腹の間に挟み込むようにして、小型の鉄ハンマーを忍ばせておくことも忘れてはいなかったけどね。

 そんなこと、か弱い女性と幼い子どもの二人きりの家庭なんだから、当然よ。


 私がいつも正男が座っていた椅子を勧めると、岩田は恐縮しながらその席に座り、きょろきょろと部屋を見回しながら話を始めたわ。


「突然お邪魔して、申し訳ありません――。

 私は、恩田君と暫く同じ部屋に住んでいた者で岩田と申します。ああ、彼とは同じ工事現場に住み込みの日雇いで働いていて仲良くなった次第でして……。知り合ったときから、恩田君はいかにも事情ありげでした。過去のことは全く話してくれませんでしたので、家族がいたとは全然知りませんでした。

 実は、今日ここにこうして来れたのは、彼の『遺品』が後になって見つかったからなのですよ。部屋の押し入れの隅に隠してあった免許証を、私が先日見つけました。そこに、こちらの住所が書かれていたのです」

「い、遺品……ですって!?」

「はい」


 私の問いかけに、彼はぐっと首を折って項垂れた。いかにもな悲しげな表情に、多少の胡散臭さを感じる。

 心の何処かでそんなことを考える冷静な部分がありながらも、やはり私はと云えば、混乱の極みだった。なにせいきなり知らない男がやって来て、「工事現場」だの「遺品」だのと予想だにしなかった言葉が出てきたのだから。

 恐らくは怪訝そうな目付きで男を睨みつけてしまった私。

 けれど、そんな敵意に満ちた私の視線にも男はめげなかった。かなりの精神力を持っているのでしょう、私の険しい表情など気にも留めず、男が話を続けたわ。


「一ヶ月くらい前――でしたでしょうか。

 体調を崩した恩田さんは、数日間仕事を休んで入院をしたのです。そのとき、すぐに手術を受けたらしいのですが、すぐに退院した彼は、宿舎に戻ってきました。そして、一時は『すごく体調がいい』とも云ってたんです……。

 けれど、二週間ほど前のことでした。

 勇敢に闘った恩田さんでしたが、残念なことに、彼は突然亡くなってしまったのです。原因は……その病気による発作だったようです」


 男は、一気にそうまくし立てると、クタビレ気味の灰色のスーツからしわくちゃのハンカチを取り出して、額を流れる汗を頻りに拭いた。

 とそのとき、私を包み込んだかぐわしい香り。

 それは、彼が取り出したハンカチから振り撒かれた香りに違いなかった。アイロンの効いていない皺の目立つハンカチに浸み込んでいた香りは、深煎り焙煎のコーヒー豆のそれだった。

 鼻の良い私にはわかる――それが、かなりの高級豆の匂いである、ということが。


 ――貧乏くさい男のハンカチから、こんないい豆の匂いが?


 そのアンバランスさに吹きそうになりつつも、私は彼に真面目に質問した。


「発作ですって? 恩田は――どんな病気だったのかわかりますか?」

「あ、いえ、そのぉ……。私は命には係らない病気――『痔』か何かだと思っていたものですから詳しくは聞いていなかったのです。でもどうやら、心臓の病気だったみたいですよ」

「心臓の病気? 一年前まで、そんなこと全くなかったのに!?」

「いや、えっ、そうでしたか……? それなら、私の聞き間違えかも……ああ、そうだったそうだった。確か、歯の病気だったですよ」

「歯の病気?」

「ええ。ほら、よくマンガに出て来る虫歯菌っているじゃないですか。あの黒い槍を持ったいたずらっ子みたいな虫歯菌。それが、チクチク奥歯をつつくものだから激痛とともに前歯がぐんと伸びてしまい、そのせいで見た目の自信が無くなってしまった恩田君のハートが弱くなり、あちこちの体毛が固く長くなってしまったという――まあ、そういった感じの、世にも珍しい奇病だったらしいです!!」

「は、はあ……。そんな奇妙な病気があるんですねえ」


 私がそう云うと、岩田は眼をぐるぐると回すようにして泳がせた。

 大体、漫画のような虫歯菌とか、歯を突いたらハートが弱くなって歯とか体毛が伸びるとか、いかにも眉唾モノの話じゃないの――。


 ――やっぱり怪しいわね、コイツ。一体、何者なの?


 目の前の岩田と名乗る男の眼をじっと覗き込みながら、私はスカートの腰の部分に挿し込んだハンマーにそっと手を遣った。

 が、その瞬間。

 先ほどからずっとコーヒーの香りのするハンカチで汗を拭っていた彼が、私の疑いの気持ちで満たされた視線と右手の動きに気付き、眼光鋭く、私の眼をきゅるんと見つめ返したのだ。しかし、その眼光は、普通のモノではなかった。


 ――え!? 今、眼が青く光ったような気がするんだけど。


 多分、見間違いではないはずだ。

 私を見つめる岩田の眼が、まるでLED搭載の機械人間サイボーグのように青く、そして怪しく光ったのである。

 それと同時のことだった。

 何故か、それまで抱いていた岩田への不安な気持ちが、空いっぱいに蔓延っていた暗雲が不意に吹きだした強風で消え去っていくかの如く、きれいさっぱり消えていった気がしたのだ。


 ――うーん。まあ、いいか。


 そんな柔らかい気持ちになってしまった私は、どうやら彼とそのまま雑談を続けていたらしかった。一時間ほど、だろうか。

 らしかった――という曖昧な表現になってしまうのは、記憶がないからだ。不思議なことにその時間内、私は彼とどんな話をしていたのかすらもほとんど思い出せなかった。

 と、またこの男の目が青く光ったような気が――。

 そのときから、彼の言葉が私の耳にきちんと入って来るようになった。


「……ということですので、恩田さんのお葬式は、こちらの関係者で済ましておきました。何せ、彼を天涯孤独の身だと思っていたものですからね……。勝手にやってしまって申し訳なかったです、奥さん。でも、ここに彼の眠っている場所の連絡先が書いてあります。もしよろしければ、尋ねてみてやってください」

「はあ……ええ……」


 男が、ジャケットのポケットから一枚の紙きれを私の目の前に差し出した。

 そこにあったのは、彼の筆跡らしい手書き文字だった。その文字が、どこかの共同墓地らしき名前とその住所らしきものを指し示している。

 仕方なく、私は震える手で差し出された紙切れを受け取った。

 と、用件はこれで終ったとばかりに、男が腕時計を見てわざとらしく慌て出す。


「あ、かなり長くお邪魔してしまったようですね。私はこれで、おいとまします」


 そう云って、男が席を立った。

 と、何かを思い出したように、男は持っていた手提げバックからいくつかの品物を取り出した。


「忘れてましたよ、『遺品』をお返しすることを……。妻である、明子さんにね」


 岩田という男は、正男が最近使っていたという「妙に太い革ベルト」と「茶色い獣革の財布」をそっと私に手渡してくれた。


「最近、こんなもの使ってたのか……。それにしてもアイツ、こんな変な趣味だったっけ?」


 私の言葉のどこが気に入らなかったのか、心なし、男は眉間に皺を寄せた。

 渡された財布を開けてみると、財布の中には「あの人」の写真が付いた薄汚れた免許証と、僅か数百円の現金が入っていた。


 ――相変わらず、間抜けな顔をしてるわね。


 写真の中で、こちらを自信なさげに見つめる正男の顔を思いっきり睨んでやる。

 と、その隙を突くように、そそくさと玄関に向かおうとする岩田という中年の男。

 結局、忍者の術のように煙に巻かれたような、そうではないような、不思議な感覚を彼には覚えたままだった。

 と、急に岩田が振り返って、こう云った。


「ああ、それからもう一つ大事なこと、伝えるの忘れてました……。病院に、彼の死亡診断書を書いていただきました。ここの住所を教えときましたので、遅くとも数日内には郵送で届くはずです」

「はあ……そうですか」


 戸惑う素振りの私など気にも留めずに、岩田が再び玄関に向かって歩き出す。

 玄関で深々とお辞儀した岩田は、年齢と比べるとやけに溌剌とした背中をこちらに向けながら、何処いずこにへと消えて行った。

 正直に云えば、「彼は生きている」と確信している私にとっては、そんな『書類』などただのゴミに等しいのだから、有難迷惑な話だ。



 ――あの胡散臭いオッサンの云うことなんて、絶対に信じない!


 ここ数日、私はそんなことを考えていた。

 でも、怯えてもいた。本当にそんな書類が届いたらどうしよう、と。

 そして今――。

 玄関のチャイムが鳴ったのだ。インターホンのスイッチを入れると、玄関の向こうで男がこう云った。


「書留郵便……です」


 インターホンから流れたのは、郵便配達員らしき男のしゃがれ声だった。

 背中に冷たい汗が流れ、心臓がばくばくと高鳴る。


 ――ま、まさか本当に死亡診断書が?


 震える足取りで、玄関へと向かった。

 廊下のフローリングの冷たさが、足の裏からずしりと体内に浸み込んでゆく。


「恩田明子さん、ですね?」


 ドアを開けると、足の悪いらしい配達員が右足を引きずるようにして、こちらに向かって進んできた。

 まるで「背むし男」のように大きく曲がった背中。

 配達員が、一通の封筒を私に差し出した。

 その手の甲には、酷い火傷の跡のような傷があちこちにあり、紫色にむくんでいる。余程この人は、苦労を重ねてきたに違いない。どんな苦労かは、想像できないが。


「ええ、そのとおりです」


 配達員が手にした封筒をその手からむしり取ると、サインもせずにそのまま勢いよくびりびり封筒の封を切った。

 中から現れたのは、一枚の紙きれだった。

 温かみなど微塵も感じない、恐ろしくも冷たい文字列の並びが目に飛び込んで来る。


『死亡診断書』


 まさしくそれは、正男の――あの人の――死亡を示す書類だった。

 自然と両目から溢れ出た涙が頬を落下していく。もう一年も家を飛び出したままだったのだから、そういう事も覚悟しておくべきだったのかもしれない。

 でも、俄かには信じられないのは当たり前でしょ!?


「あなた……これは本当なの?」


 むせび泣きが嗚咽おえつに代わり、最後は叫ぶように泣いてしまった。とにかく――泣き続けた。今は、それしかできなかったから。

 私のサインを待つ配達員が、玄関に立ち尽している。

 私は、彼に自分の姿を見られている事実など忘れ、玄関先で崩れ落ちるように倒れてしまった。


「…………」


 それは、配達員が私の背中越しに何か囁いたらしき言葉だった。でも、私の泣き声にかき消されてしまってよく聴こえない。

 彼は遂にサインを諦めてしまったのだろうか。暫くして、玄関のドアがゆっくりと閉まる音がした。

 と同時に私の鼻を突いたのは、懐かしい匂いだった。


 ――え? 小動物臭の混ざったこの匂い……あの人の匂いにそっくりだわ!?


 すぐにドアへと顔を向ける。

 けれど、既に遅かった。先程の配達員の姿は、どこにも見当たらなかったのである。


 ――私の勘違い?


 もう一度、背中越しに聞いた配達員さんの呟きを脳内再生してみる。すると、酷いノイズの中で「……がとう。……なら」と再生されたような気がした。


 ――まさか彼、「ありがとう、さようなら」って云ってたの?


 意味がわからない。どうして郵便配達員にそんなことを云われたのだろう……。

 気が動転して、くらくらする。

 そんなときに鳴った、再びの玄関チャイム。


「大型郵便です」


 今度は先ほどとは比べ物にならないほどの爽やかな男性の声が、ドアの外から聴こえた。すぐにドアノブに手を掛け、ドアを開けてみる。

 私の目前に、その声の爽やかさに相応しい、笑顔の綺麗な制服姿の青年が現れた。


「一日に二度も配達することなんてあるんですか? さっきも来てましたよ」

「いえ、それはおかしいですね。今日はこの地区、一回だけの配達のはずなんですが……」


 私の質問に、その若い配達員の男は首を捻りながらそう答えた。

 その瞬間、私の脳裏に浮かんだ一つの考え。

 私は彼を押し退けて、玄関の外へと飛び出した。


「あなた! あなたなのね!!」


 私の叫び声は、ただ空しく昼の住宅街に反響した。

 最初に現れた足が悪く背中の曲がった配達員の姿は、もうどこにもない。


「すみません、奥さん……サインかハンコをいただけますでしょうか」


 郵便物を抱えたまま茫然と立ち尽くす、若い配達員。

 眉をひそめる近所の人達の目など気にもせず、声が枯れるまで、そして力の続く限り、その場で泣き続けた私なのだった。



 <つづく>

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