コールドゲーム

王子

コールドゲーム

「台風の予報出てたけど、いい天気で良かったねぇ」

 甲子園の生中継を楽しみにしていた妹は、居間のソファにどっかり座ってカップアイスの蓋を開けた。

 兵庫県西宮市の外気温は三十七度、猛暑日だ。クーラーの効いた部屋でアイスを食べながらのんきに「いい天気」だなんて失礼な話ではないか。決勝戦は午後二時開始。一日のうちでもっとも暑い時間帯だ。この炎天下、高校球児達は投げて捕って打って走ってとグラウンドを動き回るわけだ。なぜこんな過酷なイベントが児童虐待だと騒がれもせず中止にもならないのか不思議で仕方がない。

「よくやるよな、たかが野球だろ」

 立ったままコーラの蓋を開けて、喉に刺激を流し込む。

「はぁ?」

 軽蔑の眼差しを向けられた。もう見慣れたものだが、それでも俺の繊細なメンタルには突き刺さる。

「何かに必死に打ち込んだことの無い堕落した人間がよく言うよ。あーやだやだ」

 必死に、ね。

 テレビの中、並んで頭を下げた球児達。俺もほんの数年前までは、彼らほどストイックではないにしろ、そこそこに充実した部活ライフを送っていたのだ。中学から続けていた陸上、専門は走り幅跳び。十分に情熱を傾け、暑い日も寒い日も練習に打ち込んだ。戦績こそ奮わなかったが、必死に打ち込んだと言っていいはずだ。高校を卒業して働き出してからは、走り幅跳びはおろかろくに運動もしなくなり、おかげで引き締まった体は見る影もなくなっていた。

 試合が始まると、妹は俺の存在なんて忘れたようにテレビに釘付けになっている。どちらの高校を応援するでもなく、自分のお気に入りの選手が映ると前のめりになって食い入るように一挙手一投足に黄色い声援を送った。馬鹿馬鹿しい、野球に全てを注ぎ込み他に何もできなそうな男達に、アイドルに送るような熱視線を向けている。届きもしない声援を叫んでいる。元陸上部としては高校球児がどんな走りを見せるのか興味があり、少し観ていくことにした。

 試合は接戦だった。悔しいことに球児達は良い走りをする。もう少し観ていたかったが、間欠的に妹の奇声が上がる度に心臓が跳ね、耳が痛くなってくる。こんな部屋にいたら気がおかしくなりそうだ。自室にこもってゲームでもしよう。


 しばらくコントローラーを握っていたが、ゲームにはいまいち集中できなかった。認めたくはなかったが、決勝戦の行く末が気になっていた。競技は違えどスポーツを通じた真剣勝負というのはどんなものでも面白い。それは陸上から離れたって変わりはしない。

 焼けるような日差しの中で白球を追いかける球児達を見て、何が彼らをそこまで必死にさせるのかさっぱり分からなかった。どうでもいいはずだった。それでも彼ら一人ひとりの真剣な眼差しを、チームメイトの肩を叩いて励まし合う姿を、攻守交替のとき駆け足で持ち場に向かう誠実さを見ていたら、胸がざわついた。あの球場には俺を引き付ける何かがある。

 いてもたってもいられず居間に戻ると、妹は相変わらずテレビにかじりついている。ちょうどスコアボードが表示された。

 堺工科 14 対 2 横手農業

 九回裏、カウントは1ボール、2ストライク、2アウト。全ての塁に走者がいるにしても、秋田の横手農業は絶体絶命だ。こんなオーバーキルな試合をいつまで放送するんだ。あまりにも不憫だ。妹もこの公開処刑には胸を痛めていることだろう。

 いや待て。この点差なら既に。

「なんでまだ試合続いてるんだ。十点以上差がついてるのに」

 規定の点差が開いたら強制的に試合を終了させる、コールドゲーム。高校野球や社会人野球で適用される。高校野球なら十点差が規定ではなかったか。

 妹はサッと振り返って俺の姿を認めると、すぐに前を向き、

「決勝はコールドゲームないから」

 口早に解説した。邪険にされたようで苛立った。真剣に画面を見つめる妹に意地悪を言ってやりたくなった。

「どうせ勝ち目がないなら、とっとと終わらせてやればいいのにな」

 妹は振り向かなかった。ただ一言「最低」と呟いた。シュンとした後ろ姿がどうにも面白くなり、ついでだから豆知識も披露してやろうと思う。

「cold gameなんて粋な名前じゃないか。点差が開きすぎたら試合を凍結してやるなんて、情け深いよな」

 深い溜息を付きながら妹は振り返る。

「馬鹿なの? コールドは『宣告する』のcalledだよ。点差開いたときだけじゃなくて、試合が続けられないときにもコールドゲームになるから。もう試合終わるまで黙ってて」

 今度は俺がシュンとする番だった。洒落のつもりだったのに。

 カキン。

 打球音が響いて、画面を見やる。ボールが高く打ち上がり、ぐんぐんと距離を伸ばしていく。これならホームランだ。四点入ってもまだ点差は大きいが、とりあえずは首の皮一枚つながったというところか。

 伸びろ。まだ試合は終わっていないんだ。たとえ負けたとしたって、一矢報いる姿くらい見せてほしい。

 打球は空を切って突き進み、突然軌道を変えた。失速し、見えない手に捕まったように進行方向とは反対に動き始め、外野のグローブに収まった。

 何が起こったのか分からなかった。観客からどよめきが上がる。実況と解説の声が入った。

「何ということでしょう! ボールはスタンドに飛び込むと思われましたが、勢いを失ってグローブに収まりました! ゲームセットです」

「風ですね、ボールが押し戻されたようです」

「まさに、甲子園球場の魔物といったところでしょうか!」

 妹は押し黙ったまま立ち上がって居間を出ていった。

 俺は突っ立ったまま、マウンドに崩れ落ちて涙を流すピッチャーを眺めた。チームメイトが駆け寄って取り囲む。みんなそれぞれに悔しそうにしながらも、決して悲壮な表情ではなかった。むしろ晴れやかで、達成感に満ちた顔だった。

 ああ、そうか。

 俺は羨ましかったんだ。嫉妬していたんだ。

 彼らの必死さに、ひたむきさに、跳ばなくなった俺にはもう手に入らないものを持っていることに。

 テレビを消すと、観客の歓声も、実況の声も、高らかに歌われる校歌も止んだ。静まり返った居間にしばらく立ち尽くしていると、あのカキンという打球音が何度も耳にこだました。

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